第二十一節 信夫郡椿舘(つばきのたち)

 陸奥の国政が政氏の手中に収まって以降、その公明正大な政(まつりごと)と、国府の下に精強な軍を嘗管出来た事を以(もっ)て、奥州には平穏な時が続いて居た。

 その頃、都では改元が頻繁に行われた。永延三年(989)は八月八日に永祚(えいそ)元年と改められ、翌永祚二年(990)には、十一月七日に正暦(しょうりゃく)と改元が有った。

 正暦元年(990)に改められる四月(よつき)前の七月二日、摂政藤原兼家が病没し、長男の道隆が三十八歳で、摂政の後任に就(つ)いた。道隆は十五歳の娘定子(ていし)を、十一歳の帝(みかど)の中宮(ちゅうぐう)として入内(じゅだい)させ、勢力の拡大を図った。

 都で太政官の勢力図に変化が生じて居た頃、奥州多賀城にも一騎の早馬が、急を告げるべく駆け込んで来た。早馬は西門を潜(くぐ)ると政庁へ向かい、政氏への目通りを願い出た。使者が政氏の岳父、黒沢正住の家臣と聞き、政氏は直ぐに政庁内の一室で、面会する事とした。

 政氏が使者の前に姿を現した時、使者は未だ呼吸が整わぬ様子で平伏して居た。政氏はゆっくりと座りながら、楽にする様に告げたので、使者は一礼して頭を上げた。政氏は姿勢を正して使者に正対し、尋ねる。
「黒沢の義父上は、御息災か?」
使者は表情を翳(かげ)らせて答える。
「実は、悪(あ)しき病(やまい)を得て、今は病床に臥せっておわしまする。」
「何と、其(そ)は忌々(ゆゆ)しき事じゃ。」
意外な報せに、政氏は驚きの色を隠せなかった。使者は畏(かしこ)まって、政氏に請願する。
「主君正住より、磐城判官様に御願いの儀がござりまする。」
使者が緊迫した顔をして居るので、政氏は穏和に述べて、和(なご)ませ様と努めた。
「黒沢殿は、儂(わし)の願いを御受けに成り、立派に信夫(しのぶ)の地を治めて来られた。その御方の望みとあらば、何なりと聞き入れたく存じ申す。」
しかし、使者は依然として、悲愴な表情のままである。
「実は、薬師(くすし)の見立てに依れば、我が主君の余命は幾許(いくばく)も無し。故に、判官様に郡司の後任を相談致したく、仍(よっ)て御足労ながら、信夫まで御越し願いたく存じまする。」
使者の言を聞き、政氏は腕組みをして、暫(しば)し考え込んでしまった。よくよく考えて見れば、岳父は疾(と)うに隠居の年である。今までそれを顧みる事も無かったが、これは大いなる不孝であると悔やまれる。政氏は朝廷より預かりし信夫の政(まつりごと)を、久しく岳父に委任し続けて来た事を反省した。
(これからは当家の者で、信夫の地を治めて行かねば成らぬ。)
そう考えながら、政氏は使者に回答する。
「承知致した。数日中に仕度を整え、国府を発する故、義父(ちち)上には暫(しば)し御待ち下さる様、御伝え戴きたい。」
「有難き御言葉。されば早速信夫へ立ち戻り、主(あるじ)に報告致したく存じまする。」
使者は再び辞儀をして、政氏の元を去って行った。

 三日の後、政氏は国府の守備を佐藤純明に委(ゆだ)ね、部隊の再編を完了させた上で、江藤玄貞の手勢を率い、街道を南下した。

 名取川を渡ると、名取団の駐屯地に至る。軍団は延暦十一年(792)に辺境を除(のぞ)いて廃され、代りに地方有力者の子弟を健児(こんでい)として配備し、国府や関の守りに宛(あ)てて居た。しかし奥羽の地は依然、異民族の住む辺境の地と見做(みな)され、坂上田村麻呂を派遣した、桓武朝往時の名残(なごり)が見られた。

 名取を過ぎると、やがて玉前の町に出る。ここは海道、仙道の分岐点であり、町の南方を流れる逢隈(阿武隈)川を渡れば、磐城へ通じる海道と成る。しかし磐城軍は、ここから白石川に沿って西へ進んだ。この街道が仙道である。

 正面に雄大なる蔵王連峰を眺めながら西進すると、間も無く柴田の街に入る。街で暫(しば)し休息を取るが、それはこの後、蔵王東麓の山間(やまあい)を、長い時間を掛けて進まねば成らぬ為である。

 柴田を過ぎた後、暫(しばら)くは白石川に沿って西へ進むが、蔵王の麓(ふもと)で道は南へと折れ、頓(ひたすら)山間(やまあい)を進んで行く。この道は街道として整備されて来ただけに、軍の通行にも思いの外不便は無く、磐城軍はやがて篤借(あつかし)の町に到着した。ここは信夫(しのぶ)郡伊達郷に属し、既(すで)に政氏の所領の内である。

 陽が大分傾いて来て居るのを見た政氏は、ここで将に、宿営の準備を命じた。一方で、黒沢正住の居る椿舘へ使者を送り、明日到着する旨を伝えた。

 翌朝篤借(あつかし)を発った政氏は、次に伊達郷の邑(ゆう)に入った。この地には往古、伊達関(いたちのせき)という、小規模な軍事拠点が置かれた時も有ったが、今ではその面影(おもかげ)は無い。一方で伊達郷の面積、税収は、信夫郡内でも擢(ぬき)ん出て居り、郡政上最も重視しなければ成らぬ処でもあった。普段なれば、じっくりと巡察して置きたい処ではあるが、椿舘の正住の容態が気掛りであったので、政氏は先を急ぐ事とした。

 暫(しばら)く伊達郷内の街道を南下すると、摺上川、八反田川を渡り、やがて松川の先に聳(そび)える信夫山が、次第に良く見える様に成る。これは名称の如く、信夫郡の象徴たる山で、その南麓には、安岐郷の平野が開けて居る。そして政氏が、府と軍事拠点を兼ね備えるべく築いた椿舘は、街から逢隈(阿武隈)川を挟み、東岸に在って街を俯瞰(ふかん)出来る、丘の上に建つ。

 漸(ようや)く椿舘に到着した政氏等を、大手門で出迎えたのは、松川正宗という人物であった。正宗は直ちに政氏を館内へと案内し、黒沢正住の寝所へと通した。

 政氏は、久しく正住とは対面して居なかった。そして、部屋の中央に臥(ふ)す正住の傍らに歩み寄って見下ろした時、政氏は余りの変り様に愕然(がくぜん)とし、力が抜ける様に、その場に座り込んだ。正住は髪が白く、又薄く成り、顔の皺(しわ)は幾重(いくえ)にも深く刻まれて居る。正住とは数年振りの再会であったが、その顔を見ると、恰(あたか)も数十年振りに見えたかの様な錯覚(さっかく)を覚えた。

 政氏が座った音を聞いてか、正住は薄目を開け、政氏の方へ顔を向けて居る。それに気付いた政氏は、座礼を執り、正住に告げる。
「平政氏、只今到着致し申した。義父(ちち)上には、斯(か)かる激務を長期に渡り御任せしたる段、何卒(なにとぞ)御許し下さりませ。」
政氏の悲痛な面持ちを見て、正住は小声にて、「うむ」と答えた。それを聞いた政氏は、幾許(いくばく)かは救われた心地がしたが、正住の苦しむ様を見ると、再び心が痛むのであった。そして、正住の心を少しでも楽にして上げ様と、政氏は更(さら)に言葉を接ぐ。
「本日より、本郡の政(まつりごと)は某(それがし)が執りまする。暫(しば)しはこの地に留まる所存故、妻子をここへ呼ぶ事に致しましょう。」
その言葉を聞いた正住は、娘と孫に会える嬉しさからか、微(かす)かな笑みを浮かべた様に見えた。

 十日程経ち、政氏の命を受けて、三春御前と次郎が椿舘に到着した。長男の政道は、磐城の政(まつりごと)を任せて在るので、動かす事は出来なかった。政氏は、御前と次男に岳父の看病を任せ、己は政庁に入り、信夫郡司として政(まつりごと)の統制に入った。

 正住に郡政を任せて居た時、補佐に当たって居たのは、先日政氏を出迎えた主政松川正宗と、主帳黒沢正廉(まさかど)の二人であった。黒沢正廉は正住の子で、三春御前や滝尻政之の兄に当たる。

 政氏は、先ず信夫郡内の情勢を調査する一方、松川、黒沢両氏の為人(ひととなり)を観察し続けた。一月(ひとつき)が過ぎる頃に政氏が感じた事は、松川正宗は実直にして剛毅さを兼ね備え、郡政を補佐するのみ成らず、司(つかさど)る資質をも持ち合わせて居た事である。しかし、然程(さほど)多くの所領を持たぬが故に、治安上の問題で、強い軍事力を備えた者の、後ろ楯が必要であるとも思われた。そして黒沢正廉は、父に似ず野心家であり、父正住が倒れた今、己の勢力拡大の為に、館内で暗躍して居る所が見受けられた。仍(よっ)て政氏は、郡政に支障を来(きた)す怖れの有る正廉をよく監督し、無用な派閥の形成が成されぬ様に努めた。

 政氏が正住より政務を引き継いだ時、既(すで)に信夫の政(まつりごと)は安定して居た。郡衙の兵は頻繁に領内を巡回し、賊から郡民をよく守った。その成果として、やがて賊は現れなく成った。村々の生産高は年々増加の一途を辿(たど)り、更(さら)には磐城、津軽の交易網にも、重きを成す様に成って居た。領民は富み、郡の米蔵には有事に備え、膨大な量が備蓄されて居た。政氏は、己が長年全力を投じて来た磐城郡よりも、正住が治めた信夫郡の方が、より成果が高いのではと、領民の晴れやかな表情を見る度に感じて居た。

 しかし、二十余年前に藍沢広行の乱が鎮定された頃には、かなり疲弊して居た信夫郡を、斯(こ)うまで豊かにする為には、郡司の身体を犠牲とせねば成らなかった。長年の苦労の跡は、正住の身体に在り在りと顕(あらわ)れていた。そして今病魔に侵され、床(とこ)に臥して居る。それに思いが至ると、政氏の心は酷(ひど)く痛んだ。

 数日後、政氏は椿舘内の政庁で机に向かい、書類を監査して居た。斯(か)かる折、館の者が早足で政氏の元へ現れ、跪(ひざまず)いて報告する。
「少領黒沢正住様が、磐城判官様を御呼びにござりまする。」
政氏は書類から目を離し、その者を見据えて尋ねる。
「義父(ちち)上は、話が出来るまでに回復なされたのか?」
「はっ。御前様と若君の看病に因(よ)る賜(たまもの)と、存じ奉(たてまつ)りまする。」
それを聞いて、政氏は即座に立ち上がり、嬉々とした表情で、正住の寝所へと向かって行った。

 政氏が正住の元へ通されると、そこには御前と次郎の姿が在った。正住は相変らず床(とこ)に臥せっては居るが、表情は以前に比べ、大分和(やわ)らいで居る様である。

 正住は、庭に見える彼岸(ひがん)花を眺めて居たが、政氏の足音に気付くと、頭を向き直した。政氏が、正住の傍らに座して礼を執ると、正住は顔を綻(ほころ)ばせて話し始める。
「善(よ)くぞ御越し下された。先日は陸(ろく)な挨拶も出来ず、誠に申し訳無い。」
正住のゆっくりで明朗としない言葉を受け、政氏は恐縮して答える。
「いえ、某(それがし)の方こそ、義父(ちち)上に斯様(かよう)な御労苦を掛け続け、御詫びの言葉もござりませぬ。」
「いや。久しく一郡を預かり、国家の為にこの身を捧(ささ)げる事が出来たは、武士として、これに過ぎる誉(ほまれ)はござらぬ。婿(むこ)殿には、真に感謝して居る。今、娘や孫と共に暮す幸いに浴する事も、又婿殿の御蔭と存ずる。」
そう言い終えると、正住は酷(ひど)く噎(む)せ始めた。御前は父の身体を起し、背中を摩(さす)る。程無く正住の咳(せき)は止み、呼吸も穏やかさを取り戻した。正住は苦笑しながら、嗄(しわが)れた声で告げる。
「これは失礼致した。」
政氏は、岳父の体調が未だ充分に回復して居ない事を察し、その場を辞そうとした。
「御疲れの御様子にて、某(それがし)はこれで失礼致したく存じまする。」
政氏が席を立とうとしたので、正住は慌てて制した。
「待たれよ。」
正住が渾身(こんしん)で出した声に政氏は驚き、再び座り直した。それを見た正住は安心した様子で、一つ深い息を吐(つ)くと、再び力の無い声で話し始める。
「実は、婿(むこ)殿に二つの願い事が有るのじゃ。」
「何なりと。」
政氏はさらりと応ずる。正住は暫(しば)し息を整え、やがてか細い声で語り始めた。
「一つは、儂(わし)の後任の事。磐城家の支配を確立する為には、郡司に次郎殿を頂く事が望ましいと存ずる。」
この要請に対し、政氏は苦笑して答える。
「御心遣(づか)いは有難いのでござりまするが、次郎は未だ若輩者。その任には力不足と存じまする。」
「いや、本郡の政(まつりごと)は今や、静謐(せいひつ)を得るに至った。主政の松川正宗を留任させれば、当面大事は起らぬであろう。この機に次郎殿が郡司に就(つ)けば、磐城との繋(つな)がりは一層深まり、又次郎殿に、領主としての経験を積ませる事が出来申す。」
正住の言を受け、政氏はこの地に来て感じた事を思い出した。嶺越(みねこし)や亘理(わたり)郷、小倉郷等を巡察して回ったが、確かに磐城以上に、民の暮しが豊かに思えた。又、正住が推す松川正宗も才覚が有り、且(か)つ信の置ける人物であると、政氏は感じて居た。

 政氏は振り返って、次郎を見据えながら尋ねる。
「御爺(じじ)様は、其方(そち)を後任の郡司に推して居られる。其方にはそれを受ける覚悟が有るか?」
次郎は未だ十四の若者ではあるが、父の鋭い眼光を確(しか)と受け止めて答える。
「兄上は、今の某(それがし)と変わらぬ歳で、父上より本拠磐城郡を任されました。そして今も父上不在の磐城を、無事に治めておわしまする。それを思えば、某(それがし)も磐城家の御為(おんため)に、大役を望む次第にござりまする。」
平伏をしながら、次郎は父に対して真摯(しんし)な眼指を向けて居る。それを受けて政氏は、再び正住の方へ向き直り、穏やかな表情に変わって岳父に告げた。
「仰(おお)せの儀、承知仕(つかまつ)り申した。」
政氏承諾の言葉を聞いた正住は、俄(にわか)に顔を綻(ほころ)ばせた。しかし、直ぐに正住は表情を翳(かげ)らせて、話を接ぐ。
「さて、もう一つの頼み事は、我が子正廉の事にござる。あれは出世願望が強く、本郡に留め置いては、次郎殿の政(まつりごと)の妨(さまた)げと成りましょう。三春に戻そうとしても、一地方豪族に落ちる事を嫌(きろ)うてござる。判官殿の御口添えにて、他国か、もしくは京の官職に就(つ)けてやる事は出来ますまいか?」
正住の懇願(こんがん)を聞いた政氏は、にこりと微笑(ほほえ)んで答える。
「正廉殿は、信夫郡発展の功労者。何故(なにゆえ)粗略な扱いが出来ましょうや。某(それがし)は京の藤原式家、相親(まさちか)殿と親しい故に、先ずはそこから当たって見る事と致しましょう。」
政氏が二つの願いを聞き入れる事を約束したので、正住は漸(ようや)く気が楽に成ったのか、安らいだ表情と成った。
「暫(しば)し御休み下さりませ。」
そう言葉を掛けて政氏は立ち上がると、側に控える御前と次郎に、看病を頼んだ。そして自身はその場を辞し、政庁へと戻って行った。

 二日後、椿舘では、次郎の元服の儀が執り行われた。この時政氏は、次郎に政澄の名を与えた。信夫の諸将は、この名が黒沢正住に肖(あやか)る物であると察知した。政氏はこの後、直ちに信夫郡少領の職を、黒沢正住から平政澄に交代する旨を国府に申請し、間も無く、政澄は正式に任官する運びと成った。

 一方で政氏は、今日の藤原相親(まさちか)邸に、書翰(しょかん)と進物(しんもつ)を送った。正住との、もう一つの約束を果す為である。やがて、相親から返書が届いた。それに依れば、式家と日頃親交の深い大江家には男子が無く、婿(むこ)養子を求めて居るとの事であった。大江家は代々五位の官職に就(つ)いて来た家柄であるので、省の輔(すけ)や国の守(かみ)をも望む事が出来る。政氏は早速、正廉を自室へと呼び寄せた。

 程無く、政氏の元に正廉が姿を現すと、政氏は病(やまい)に臥す正住の気持を伝えた上で、藤原相親(まさちか)の書状を渡した。正廉は急な事で、些(いささ)か動揺して居る風(ふう)であったが、真剣な顔付きで、それに目を通して居た。

 やがて正廉は書状を読み終え、政氏に返還した。そして大きく息を吐(つ)くと、苦笑しながら政氏に尋ねる。
「某(それがし)の如き、奥州の辺境に育った者を、大江家は本当に、養子として迎えてくれるのでござりましょうや?」
政氏は正廉の抱く不安を汲(く)み取り、正廉を見詰めながらも、微(かす)かに笑みを湛(たた)えて答える。
「朝廷人事は今や、摂政藤原道隆公の一存にて、半(なか)ば決して居る様じゃ。仍(よっ)て大江家と雖(いえど)も、何時(いつ)摂関家に見限られ、没落の憂(う)き目に遭(あ)うか分からぬ。正廉殿は歴(れっき)とした我が義兄。貴殿を養子に迎えれば、大江家は磐城家六千騎という後ろ楯を得る事と成る。」
「成程(なるほど)。」
政氏の説を聞き、正廉は納得して頷(うなず)く。
「では大江家には、謹(つつし)んで御受けする旨を御伝えして宜しいか?」
政氏の問いに、正廉は嬉しそうに答える。
「はっ。宜しく御願い申し上げまする。」
それを聞いて、政氏は安堵した。
「では追って沙汰が有る故、吉報を待たれよ。」
正廉は深く頭を下げ、感謝の気持ちを申し上げた。そして嬉々として、政氏の元を辞して行った。

 暫(しばら)くして、大江家の養子縁組の話が正式に纏(まと)まった。正廉は出立の日、父正住と郡主政氏に、長年の恩顧の礼を述べると、十名余の家臣を伴い、京へ向けて椿舘を発って行った。政氏等は館内西側、物見櫓(やぐら)の在る弁天山より、一行を見送った。正廉は頻繁に周囲を見渡し、故郷逢隈(阿武隈)の風景を、脳裏(のうり)に焼き付けて居る様であった。

 やがて正廉一行の姿が、丘の向こうに見えなく成ると、見送りの者は次々と、己の部署へと戻って行った。政氏も自室へと戻ると、筆を取って書状を認(したた)め、家臣に命じて、磐城郡住吉館へと送った。

 その書状は、住吉に在って平政道の補佐に当たって居た、佐藤純利に宛(あ)てて送られた物であった。純利は出生年が定かではないが、齢(よわい)六十辺りであろう。政氏はこの老将に、最後の頼みを認(したた)めた。それは即(すなわ)ち、平政澄を補佐する為、正廉の後任として、信夫郡主帳の職に就(つ)いて欲しいという願いである。かつて郡の二等官である少領を務めた純利に、今四等官の主帳を頼む事は、政氏には躊躇(ためら)いが有った。しかし、次子政澄を信夫郡司に据えた物の、周囲に誰も見知った者が居らぬというのは、酷である。故に、信夫に人脈を持つ純利が、政澄の支えと成ってくれれば安心であり、政氏は苦渋の決断で、これを認(したた)めたのであった。

 純利は長年磐城家に仕え、無二の忠臣である。受け取った書状の文面から、政氏の胸中を察した。読み終えた後、書状を懐に納め、直ぐに大舘の政道の元を訪ねた。政道に拝謁(はいえつ)した純利は、政氏より届けられた書状を政道に見せた上で、信夫へ赴く事を願い出た。政道は老練の将を手放す事を惜しんだが、父のたっての頼みとあらば、許可する他は無かった。

 翌日、三沢館に戻った純利は、信夫に骨を埋める積りで荷を纏(まと)め、僅(わず)かな従者と共に三沢を出発した。二日を費やして逢隈(阿武隈)山地の峠を越え、信夫に至った純利の一行を、椿舘の物見の兵が発見し、それは直ちに政氏の元へと伝えられた。政氏は大いに喜び、館の守備兵を伴って、門前まで迎えに出た。

 純利勢が館に近付くと、政氏も駒を進めた。そして二人の距離が一間まで近付いた時、両者は同時に馬を止めた。それと同時に、先ず政氏から言葉を掛ける。
「善(よ)くぞ来てくれた。これで信夫の治政は盤石と成り、儂(わし)も安心して国府へ戻る事が出来る。」
純利も、多くの皺(しわ)が刻まれた顔を、綻(ほころ)ばせて答える。
「過分の御言葉、痛み入りまする。某(それがし)、信夫に骨を埋める覚悟で罷(まか)り越し申した。」
政氏は、純利の行いを遖(あっぱれ)なりと誉(ほ)め称(たた)え、鄭重に館内へと迎えた。

 途中、門の脇に政澄の姿を認めた純利は、馬を下りて礼を執った。
「この度は、信夫郡司への御就任、誠に御目出度(おめでと)うござりまする。」
政澄は、純利の手を取って答える。
「私は未だ、政(まつりごと)も兵法も未熟なる身。三沢の爺(じい)が来てくれて、安堵致した。これからも私に、将として必要たる事を御教示下され。」
「ははっ。この老骨が、先代忠政公に御仕えして以来学んで参った事を、喜んで政澄様に御伝え致しましょう。」
二人は共に微笑(ほほえ)み合い、そして政澄が純利を、館内へと誘(いざな)った。

 その日政氏は、純利の赴任を感謝する意を込めて、急拵(きゅうごしらえ)ではあるが、宴(うたげ)を催した。冒頭で、政氏は先ず純利に、磐城の情勢を尋ねたり、信夫の事を頼んだりした。その後は政澄、松川正宗、純利の三人で親交を深めたり、郡政の指針を話し合ったりして居た。郡の現状を最もよく把握して居るのは正宗だが、この地が磐城平家領と成った当初から、今日に至るまでの推移を能く知るのは、純利である。この二人が居れば、政澄でも信夫は無事に治まるであろうと考え、政氏は何時(いつ)の間にか、宴席より姿を消して居た。

 翌朝から、政氏は国府へ戻る為の旅仕度を始めた。長く国府を留守にすると、受領(ずりょう)が再び暴政を始める懸念が有ったからである。政氏は三日で郡政上の引継ぎを済ませると、江藤軍を纏(まと)めて、椿舘を出発した。そして翌日には、早々に多賀城に入る事が出来た。この時、政氏は国府守備軍に残して居た佐藤純明に、父の健在振りと、信夫主帳へ任官させる旨を伝えた。純明も、父の体の頑強さには些(いささ)か呆(あき)れた、等と言って戯(おど)けて居たが、父が健康で在ると聞けば、やはり嬉しい様であった。

 政氏不在の間、純明は磐城判官家代表として、国府に駐在して居た。その間、様々な難題を切り抜けて来た様子で、政氏の目には純明が、一回り逞(たくま)しく成長した様に映(うつ)った。

 到着したその日は、将兵とも体をゆっくりと休ませ、翌朝直ちに、政氏は江藤軍を国府守備隊に配属させた。斯(か)かる兵力を背景に、国府の政(まつりごと)は、再び政氏の手に帰した。政氏は先ず、佐藤純利を正式に信夫主帳に任官させるべく、書類の作成に取り掛かった。

 やがて冬の到来が感じられ始めた頃、政氏の元に一通の書翰(しょかん)が届いた。差し出し人は、大江時廉(おおえのときかど)という人物であった。聞いた事の無い名であるので、政氏は怪(あや)しみながら、中の文面に目を通した。読んで見ると、大江時廉とは、大江家に養子に行った黒沢正廉が、養父より賜(たまわ)った名であるという。書翰(しょかん)には、正式に大江家の者と成った折、従六位下左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任官したとの吉事が記されて在った。かつて、黒沢家の者で六位に昇った者は居ない。これにて、岳父正住も喜んでくれるであろうと、政氏は胸を撫(な)で下ろした。

 時廉の文には続きが有った。そこには、政氏を驚愕(きょうがく)せしめる内容が書かれて在った。来年は、陸奥守の任期が切れる年である。現陸奥守は、磐城大掾(だいじょう)が武力を背景に、国政を専横して居る状況に在ると、太政官に報告して、不安を煽(あお)って居た。朝廷はこれを受けて、翌年後任の陸奥守として、平惟叙(これのぶ)を派遣し、国守の復権に当たらせるとの事であった。平維叙は、故貞盛の長子である。朝廷は、磐城家の南隣に在って、強大な兵力を有する常陸平家に白羽の矢を立て、奥州南部に勢力を拡大する磐城家の勃興を、押し止(とど)め様と目論(もくろ)んだのである。

 平維叙(これのぶ)が陸奥守に就任し、大軍を擁して多賀城に入府した場合、常陸と磐城、永年対立を続けて居る二大勢力がぶつかり合い、下手をすれば、前(さきの)陸奥介繁盛と前陸奥介忠頼の、二の舞と成る怖れが有った。あの時、官職が低かった忠頼が朝賊とされ、東山東海両道に追討軍編成の命が下り、忠頼はあわや、将門の轍(てつ)を踏む所で在った。当時の危機は、政氏の奔走に因(よ)り見事に回避されたが、此度は政氏自身が、最も苦しい立場に置かれる事と成る。

 政氏は机の前に座し、三通の書状を認(したた)め、国府より発送した。三通共、平維叙(これのぶ)陸奥守就任に因(よ)り、警戒を促(うなが)す内容が書かれて在った。その内、信夫郡平政澄に送られた書状では、有事の際、国府の維叙の他、下野の藤原文脩(ふみのぶ)の動行にも、注意を向ける様に喚起(かんき)した。又、別の一通は磐城の平政道に届けられ、呉々(くれぐれ)も慎重に行動する様促(うなが)した。残る一通は、菊多郡汐谷城主村岡忠重宛(あて)で、常陸の情勢を具(つぶさ)に調べ、報告する様命じた物であった。

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