第二十節 磐城判官

 陸奥国内において、磐城平家の所領は四郡を占めて居る。とは言っても、菊多郡の大半の土地は院へ、又磐城郡飯野郷や片寄郷も、その多くが石清水八幡宮へ寄進されて居る。その為に、磐城平家及び国家へは、税が入らない。この仕組みは不輸(ふゆ)の権、不入(ふにゅう)の権として、社会的に確立されて居る。もし磐城平家が、強制徴収には及ばなくとも、荘園と呼ばれる寄進地に立ち入るだけで、土地管理者の背後に居る院や石清水八幡宮が、己の既得権益を守る為に、報復に出る事は明白であった。一方で有力豪族は、自らそれ等の有力者に代って、土地を管理する荘官という役に就(つ)けば、国税より少ない税を納めた上で、土地の支配権を得る事が出来た。斯(か)かる世相の中、荘園は急増して行ったが、磐城家当主政氏は、郡司として領内に産業を興し、他方で法定の税を徴収する事で、荘園の拡大を防いで来た。荘園の増加は、有力貴族の私財を肥やすのみで、国家財政の破綻(はたん)に繋(つな)がる物である。延喜二年(902)の醍醐、永観二年(984)の花山両朝の時に、朝廷は荘園整理令を発布したが、何(いず)れも効果は無かった。政氏はそれを憂(うれ)い、国家安寧の為に、出来得る努力をして来たのであった。

 今、政氏の長年に渡る苦闘は、嫡男政道へと引き継がれた。政氏はその苦悩を知る故に、政道の元に、磐城家の中核である村岡家、磐城四家を悉(ことごと)く残し、自身は磐城の土豪から見所の有る者を登用し、新天地である国府へと赴いた。

 前に来た時は、祖父の仇敵平貞盛が国守の座に着いて居た為に、針の筵(むしろ)であった。されど此度は、政氏自身が大掾(だいじょう)の要職に就(つ)いての入府である。その心地は、以前とは比べ様も無い程、晴れ晴れとして居た。

 磐城領四郡の内、最北端の津軽郡も、税収は殆(ほとん)ど無い。これは、朝廷に拠(よ)る支配の歴史が浅く、最北の軍事拠点秋田城を以(もっ)てしても、奥州北方に不気味に割拠する安倍一族の支配より、引き込む事が出来なかったからである。安倍氏は、胆沢(いさわ)郡より北方の広大な地を抑え、その兵力は五万に上るとも言われて居た。それ故に、国府も鎮守府も手が出せない土地と、目されて居たのである。

 しかし、国府の者には頭の痛い安倍氏の存在も、政氏に取っては有利に働いた。磐城平家は津軽を名目上支配して居るが、実際は安倍季良を通じて交易を行い、共栄関係に在った。故に安倍宗家は、支配地を潤(うるお)してくれる磐城家と誼(よしみ)が深まり、以(もっ)て国府における政氏の発言力が強まる、一因と成ったのである。

 又、新国守は先の東国の動乱に恐れを成し、代理の者を遣(つか)わした。国守が遥任(ようにん)した事で、政氏の気兼ねは軽減された。更(さら)にはその赴任が遅れた事で、政氏は守、介不在の期間に国政を代行し、その事務手続等を学ぶ事が出来た。

 雨季が明け、本格的な夏が到来しても、奥羽の他は南方に比べて涼しく、遥かに快適である。斯(か)かる折、新任の国守、介が漸(ようや)く多賀城へ到着した。既(すで)に国政を掌握し、多くの官吏とも繋(つな)がりを築いて居た政氏は、余裕を持って国司を迎える事が出来た。

 国司が赴任して間も無く、政氏は国司に対して、平政道を磐城郡少領に宛(あ)てる旨を願い出た。政氏は慣れぬ留守を預かる政道に、官位の面で支援を施したのである。この請願は直ちに認められ、政道は公職上においても、磐城郡政執行の責任を負ったのであった。

 そして秋の頃、陸奥の地でも各地で黄金(こがね)色の稲穂が頭(こうべ)を垂れ、収穫の時を迎えて居た。やがて刈取りが始まると、国司は自ら都より率いて来た手勢五十騎を伴い、領内の巡視へと出て行った。

 その時、政氏は政庁で事務処理を行い、国司の行動は少掾(しょうじょう)より報告を受けた。斯(か)かる折、橘清輔が磐城から送られて来た書状を携え、姿を現した。清輔は政氏の机の前に進み出ると、跪(ひざまず)いて書状を差し出し、政氏は筆を置いてそれを受け取った。

 書状を広げて読むと、二つの事が報告されて在った。一つは、高坂館にて隠居して居た斎藤邦泰が、病(やまい)を得て亡くなったが、現当主邦衡が立派に彼(か)の地を治めて居る故、心配御無用との事であった。政氏は功臣を又一人失った事に心を痛め、暫(しばし)し卓上にて、頭を抱えて居た。

 やがて続きを読み始めると、長女花形姫の縁談に就(つ)いて書かれて在った。話は磐城四家の総意であり、汐谷城主村岡忠重の嫡男、重頼へ嫁する事を勧めて居た。思えば、長女は早十七歳と成って居り、政氏は政務に感(かま)けて、娘の事を考えてやる暇(ひま)が無かった事を反省した。

 政氏は、磐城四家の勧めを熟考して見た。確かに娘が村岡家に嫁げば、磐城、村岡両家は、次の代では義兄弟と成り、絆は更(さら)に深まるであろう。又娘自身も、他郡、もしくは他国に嫁ぐよりも、故郷住吉に近く、且(か)つ家来筋に当たる家の方が、幸せに成るであろうと考えられた。

 唯一気掛かりであったのは、政氏自身が村岡重頼という人物に、数える程しか会った事は無く、為人(ひととなり)を見定めて居ないという事であった。しかし忠重の嫡子であり、尚且(か)つ磐城四家の推薦とあらば、問題は無かろうと考えるに至った。

 夕刻と成り、国守と介が、国府へと帰還して来た。それを聞いた政氏は、直ぐ様国守の元へと向かい、許可を得て国守の間へと入った。政氏は国守に拝謁(はいえつ)し、暫(しば)しの間、磐城へ戻る許しを願い出ると、国守は笑顔を湛(たた)え、すんなりと了承した。

 政氏はその場を辞して、自室へと戻る途中、国守の様子を思い起した。帰国を喜ばれた所を見ると、些(いささ)か煙たがれて居るのかと感じて、憂鬱(ゆううつ)に成り掛けた。しかし、磐城の方角に強く輝く星を見付けると、次第に心が和(なご)んで行った。

 五日を費やし、部下である少掾や目(もく)に己の事務を引き継がせた後、政氏は磐城を目指して、多賀城を発った。国府に赴任して未だ半年程であるが、慣れぬ国政事務に忙殺された日々が続いて居た所為(せい)か、国府を離れただけで、心が幾分安らいだ。

 政氏は手勢五十騎と共に海道を南下し、三日後には磐城郡楢葉郷へ到着した。そして翌日、飯野平より鹿島明神方面へ進路を変え、東方より住吉へと入った。

 住吉館へ入城する時、館主代行政道以下、政氏の妻子に加え、佐藤純利と江藤玄篤が迎えに出た。政氏はそれ等の面々の前で馬を下りると、先ず政道に言葉を掛けた。
「留守中御苦労であった。御事(おこと)よりの書状で、郡内に起りし事は大体承知した。」
政道は、静かに頭を下げて答える。
「純利と玄篤が住吉に詰めてくれた御蔭にて、どうにか郡内を無事に治めて居りまする。長友、三沢の両館は、両名の嫡男、佐藤純明(すみあき)と江藤玄貞(くろさだ)に城代を命じてござりまする。」
政氏は顔を顰(しか)めて、純利と玄篤に向かって尋ねる。
「其方(そなた)等の子は、未だ二十にも成って居るまい。館の守りは大丈夫か?」
これには純利が自信を持ち、代表して答える。
「両家共、主力は館に残したままにて。何ぞ大事が起こらば、至急早馬を住吉へ遣(つか)わす様、申し付けて御ござまする。」
「然様(さよう)か。ならば良い。」
そう告げて大手門を潜(くぐ)ろうとした時、花形姫が静かに、父に対し礼を執った。政氏は笑顔で、娘に話し掛ける。
「其方(そなた)も健やかな様で、何よりじゃ。」
娘が笑顔を返して来たので、輿(こし)入れ前なだけに、政氏は安堵を覚えた。

 政氏は半年振りに館の自室に入り、暫(しば)し休んだ後、三春御前と花形姫を召した。やがて、御前と姫が共に政氏の間へ姿を現し、政氏に促(うなが)されて中へと入った。

 先ず政氏が二人に、村岡家との縁談の話が、家中で持ち上がって居る事を告げた所、御前は、純利、玄篤両名より既(すで)に話を受け、姫にも伝えて居た事を告げた。それを聞いて政氏は、視線を花形姫に移して尋ねる。
「其方(そなた)はこの話を聞き、如何(どう)思う?」
姫は父に向かいつつも、目を伏せて答える。
「私は幼い頃よりこの住吉にて、父上が幾度も、御家滅亡の危機を乗り越えて来る様を見て参りました。その度に、村岡家が父上をよく盛り立ててくれた事は、存じて居りまする。私が村岡家に嫁ぐ事で、父上や弟の御為(おんため)と成るのであれば、幸いと心得まする。」
花形姫は幼き時分、父は郡主である身ながら、何故日々泥に塗(まみ)れて館へ戻って来るのか、解らなかった。館の隅(すみ)で育ち、父より下の地位に在る者が挨拶に来訪するのを見ると、多くの者は綺麗な身形(みなり)をして居たからである。やがて郡内統一の戦(いくさ)が始まり、館内に武装した兵の姿が目立ち始め、その慌(あわただ)しい出入りが有ると、館内にも緊張が走り、姫自身も脅(おび)えて過ごした記憶が残る。数多の苦難を乗り越えて、郡民の幸(こう)を願い続けた父を見て育った故に、姫自身も郡民の安寧を望む様に成って居た。そして、父が最も信を置く磐城四家から、村岡家との縁談が有った時、皆の為に成るならばと、覚悟を決めて居たのである。

 政氏は娘の顔に、一寸の翳(かげ)りすら無い事に気が付いた。そして優しく告げる。
「村岡忠重殿は、かつてその身を挺(てい)して先代を護りし忠臣にして、家臣の中では最も武士の気概に溢(あふ)れる人物じゃ。その嫡男なれば、必ずや間違いの無い人物であろう。」
「はい。」
花形姫は神妙に頷(うなず)いた。三春御前も娘の様子を見て、安心して居る様子である。

 御前と姫が下がった後、政氏は純利と玄篤を呼び、村岡重頼の元へ娘を嫁がせる事を、正式に許可する旨を告げた。そして二人に、婚儀の段取りを命じた。

 翌日、将氏は僅(わず)かな護衛の兵を伴い、斎藤邦衡の守る高坂の館へと向かった。途中、政氏が大村信興と共に、長年治水事業に悪戦苦闘して来た野田村へと入った。野田は、今年は水害には見舞われなかったが、その代りに旱魃(かんばつ)が襲った。玉川の水量は増減が激しく、これを如何(どう)にかして安定させる事が必要である。されど、洪水が発生する度に作業は遅れ、未だ完成の見込みは無い。しかし作業を諦めずに行って来た為、僅(わず)かずつではあるが、野田村の収穫高は伸びつつ在った。一部の家臣からは、成果の少ない玉川治水は、財政上の大いなる負担であり、無能な責任者として、大村信興の解任を求める声が上がって居る。しかし政氏自身、信興と共にこれに当たった体験を以(もっ)て、政道には、斯様(かよう)な意見は誤りであると諭(さと)して置いた。

 村内を見ると、罅(ひび)割れた土地の中にも、処々稲を刈り取った跡が見受けられる。政氏は、郡内で最も災害が多発するこの地が、早く豊壌の土地に生まれ変わる事を願った。

 政氏一行は三箱(さはこ)にて浜街道に至り、これを北上して傾城(けいじょう)、堀坂(ほっさか)の山道を抜けた。万一常陸軍に汐谷、滝尻を落とされた時は、ここが郡北部を守る防衛線と成る。そしてこの隘路(あいろ)を過ぎると、愈々(いよいよ)斎藤氏が治める、飯野郷の南端に至る。

 街道はやがて大根川に沿う。そして宮川との合流点を過ぎた先、川の北岸に広がる高台に、高坂館は在った。中腹には住吉明神が鎮座し、真言宗薬王寺末の真光院も在る。麓(ふもと)の村々は、今年も豊作であった様子で、邦衡の善政が窺(うかが)われた。

 政氏は、先行して使者を遣(つか)わして居たので、館に近付くと、邦衡直々(じきじき)に五騎の武者を率いて、迎えに現れた。邦衡は政氏の前へ至ると、家臣共々馬を下り、礼を執った。
「本日は大殿を御迎えする運びと相成り、恭悦(きょうえつ)にござりまする。亡き父も嘸(さぞ)や、喜んで居る事と存じまする。」
「うむ。今日は邦泰の仏前に、香を手向(たむ)けに参った。案内してくれ。」
「はっ。」
邦衡は直ちに騎乗して、隊列を整えると、政氏を斎藤家の香華院(こうげいん)まで案内した。

 政氏はやがて、邦泰が埋葬された塚の前に着くと、線香を立てて手を合わせ、邦泰の冥福を祈った。思い起せば康保四年(967)の戦(いくさ)の折、安積(あさか)郡丸子郷に落ち延びた政氏の元へ、斎藤邦泰の援軍が無くば、賊将藍沢広行を討ち果す事も叶(かな)わず、磐城家を興す事も有り得なかった。政氏はかつての邦泰の勇姿を回想する内に、不意に目頭が熱く成るのを覚えた。

 寺院を後にすると、政氏は直ぐ様住吉へ引き返す旨を、邦衡に伝えた。邦衡も、政氏の姫と村岡重頼の婚儀が差し迫って居るのを承知して居るので、無用な引き留めはしない。斎藤家も、婚儀に参列する準備に追われて居た。政氏は高坂を去る際、邦衡に一言告げた。
「斎藤家の治政は見事なり。御事が飯野郷を抑えて居る間は、北西よりの不安は有るまい。」
邦衡は主君より掛けられた讃辞を光栄に思い、恭(うやうや)しく礼を執りながら、政氏を見送った。

 湯本川、玉川と、領内の平穏な様子を眺めながら、政氏等は住吉へ向かって居た。秋が次第に深まって来て居るが、陸奥国内では、磐城近辺は殊(こと)に温暖な気候である。国府近辺や仙道では、紅葉が見頃を過ぎ、愈々(いよいよ)本格的な冬の到来を感じさせて居る。一方で当地は、郡内北部の小高郷を除(のぞ)いては、未だ葉の色付きが完了して居ない処も在る。政氏は側を飛ぶ赤蜻蛉(とんぼ)を見詰めながら、改めて陸奥国内に在って随一の、温暖な地を得る事が出来た幸運を感じて居た。

 やがて、住吉館に到着した早々、大村信興が政氏の元へ、急ぎ駆け付けて来た。政氏はその様子に、徒(ただ)ならぬ物を感じて尋ねる。
「如何(いかが)致した。再び玉川流域にて、災害が生じたか?」
信興は深刻な表情のまま、政氏の前に跪(ひざまず)いて答える。
「申し上げまする。只今、陸奥大目(だいもく)様が国府より、急を報せに御越しでござりまする。」
「何、大目殿が自らとな?直ぐに会いに参る故、案内せよ。」
「ははっ。」
政氏は信興に導かれ、早足で大目の待つ客間へと向かった。

 迎賓の間に入ると、大目は座礼を執って迎えた。政氏は上座に腰を下ろすと、大目にも楽にする様に勧めた上で尋ねる。
「国府で何ぞ、一大事が出来したか?」
「はっ。守、介の御二方が私兵を繰(く)り出し、近隣の村より略奪を行っておわしまする。」
「馬鹿な。それでは彼(か)の地の者は、土地を有力貴族に寄進し、不輸の権を以(もっ)て、国府への納税を免(まのが)れる方へ走ってしまうではないか。国守たる御方が、何と迂闊(うかつ)な。」
政氏の意見に対し、大目は恐る恐る進言する。
「畏(おそ)れながら、国守が当国において責任を有するのは、僅(わず)かに四年。その後、如何(いか)に税収が減ろうが、それは次の国守の問題にて、任期の内は頓(ひたすら)私財を増やす方が、利が大きいのでござりまする。又、荘園の拡大は国家財政には不利なれど、朝政を左右する太政官の有力公卿に取っては、これ又私財を富ませるには有効にござりまする。仍(よっ)て国守に因(よ)る略奪は、国守と有力貴族、双方に益が有るのでござりまする。」
そう説明すると、大目は目を伏せて、黙ってしまった。政氏は大目を見据える。
「しかし貴殿は、それが天下に取って不幸であると考え、儂(わし)の処へ参られたのであろう?儂も同じ考えじゃ。国守には、儂から再考を願い出る。故に貴殿は、一足先に国府へ戻り、引き続き国政に励まれよ。」
「はっ。何卒(なにとぞ)宜しゅう御頼み申し上げまする。」
大目は一礼した後に、政氏に切に縋(すが)る表情を見せた。そして館の者に誘(いざな)われ、退室して行った。

 部屋に独り残った政氏は、頭を抱えて溜息を吐(つ)いた。
(姫よ、済まぬ。)
心の中で娘に詫びた後、政氏は大村信興と平政道を、そこへ呼んだ。

 やがて、召し出された両名が政氏の元へ姿を現し、平伏した。政氏は疲れた顔を隠せぬまま、二人に告げる。
「今し方、国府の大目が参り、報せが有った。国守が略奪を働いて居ると言うので、儂(わし)は急ぎ国府へ立ち戻り、御諫(いさ)めせねば成らぬ。」
これを受けて、信興が尋ねる。
「姫様の御婚儀の日取りが、迫ってござりまする。又、大殿の御言葉だけで、国守が翻意(ほんい)するとも思えませぬが。」
「うむ。其方(そち)の申す通りじゃ。儂(わし)は姫の婚儀には出られなく成った。故に儂の名代を、政道に頼みたい。」
父に呼ばれた意図を察した政道は、直ぐ様畏(かしこ)まって返答する。
「磐城郡内の事は、某(それがし)に御任せを。父上は陸奥国の為に、存分に御働き下され。」
十代半ばながら、政道は堂々と父に申し上げた。政氏はその様に頼もしさを感じつつも、表情を引き締めたまま、言葉を接ぐ。
「信興が申した通り、儂(わし)の言のみでは、国守方は行いを改めまい。仍(よっ)て此度は、斎藤邦衡、佐藤純明、江藤玄貞、更(さら)には近藤宗久の水軍を、挙(こぞ)って率いて参る。」
それを聞いた信興は、驚いて政氏に確認する。
「磐城四家、悉(ことごと)くの出陣にござりまするか?それでは大殿の軍勢は、二千騎を超えまするぞ。」
「それ位威さねば、動かぬ御方達じゃ。しかし、郡内が手薄と成る為、有事の際には誰が、守将として相応(ふさわ)しいかのう?」
政氏は、政道を見据えながら尋ねた。政道は俯(うつむ)いて、暫(しば)しの間沈黙して居た。やがて意を決し、父を見詰めて答える。
「憚(はばか)りながら、某(それがし)に御申し付け下さりませ。」
「ほう。儂(わし)が四家を率いて出陣致さば、残った者で頼みと成るのは、村岡家位である。それを承知の上で申して居るのか?」
政氏は念を押して尋ね、一方の政道は苦悩の色が見えつつも、真摯(しんし)に答える。
「私は既(すで)に元服を済ませた身。未だ若輩とは雖(いえど)も、余人に守将が任されるので在らば、将来父上の後を継ぐ気概を、喪失し兼ねませぬ。」
政道の必死な眼指を受け、政氏は表情を緩(ゆる)めて頷(うなず)いた。
「御事にそれだけの意思が有れば善(よ)し。では儂(わし)の留守中、総大将を平政道、副大将を村岡忠重と致そう。何か事が起らば、汐谷の忠重殿に相談する様。」
「ははっ。有難き幸せに存じまする。」
政道はこの時、弱冠十二歳にして一軍を率い、藤原純友討伐に功績の有った、祖父忠政の話を思い起して居た。当時祖父が率いし軍は、平良文と藤原忠文から借りた兵であったという。政道は祖父や父の強さに憧(あこが)れ、己も斯(か)く在りたいと思って居た。政氏と信興は、この情熱的な若武者を、温かい目で見詰めて居た。

 磐城四家へは、直ちに住吉より出陣の命が下された。一方で、五日後に出発の時を迎えた住吉にて、政氏が集めた兵は百騎程であった。その後、鹿島明神で佐藤純明軍、飯野平で斎藤邦衡軍が加わった。そして、浜街道を北上して楢葉郷に至り、ここで江藤玄貞軍、近藤宗久軍と合流した。磐城勢は四家を纏(まと)めた時、二千騎に上る大軍に、膨(ふく)れ上がって居た。

 かつて政氏の祖父将門は、平貞盛、藤原維幾(これちか)連合軍と戦(いくさ)に及んだ折、常陸国府を焼いたが為に、賊将とされてしまった。政氏は斯(か)かる失敗で、再び滅亡の道を辿(たど)る事が無い様、四将には念入りに、慎重なる行動を説(と)いた。又、戦(いくさ)の経験が豊富である近藤勢と斎藤勢を前軍とし、年若い将を頂く佐藤勢と江藤勢は、後陣に配置した。

 政氏は初めてこれ程の大軍を率い、磐城郡を進発した。宗久や邦衡は、以前に政氏の側近として、直々(じきじき)に治政を学んだ。又、亡き先代当主の下で、藍沢氏の乱や磐城郡平定の軍に加わり、多くの経験を積んで来た。故に此度の出陣の折には、近藤宗久を別動隊である水軍の将とし、斎藤邦衡には本隊の副大将を任せた。一方で、経験の浅い斎藤純明と江藤玄貞には、政氏が直(じか)に、将たる為に必要な多くの事を学ばせ、次の政道の時代を支える人材に育て様と考えて居た。

 磐城軍は隊列を整え、威容を誇りながら水陸を北上して行く。磐城では未だ、秋の気配が色濃く残って居たが、逢隈(阿武隈)川を渡った辺りは既(すで)に落葉が目立ち、西方蔵王連峰には雪雲が立ち籠(こ)めて居る。空と海は、灰色に淀(よど)んで居るかの如くであった。

 二日後、磐城軍二千は多賀城の南西五町手前に達し、ここに軍を留めた。見れば、国府は混乱の極みに在る様子で、兵の移動が慌しい。政氏は、江藤玄貞と十騎の武者を率いて、多賀城の外堀の役割を果す砂押川を渡り、南門へ向かった。

 南門では門衛が困惑しながらも、政氏を呼び止めた。政氏は門前で手勢を止めると、穏やかに門衛に告げる。
「某(それがし)は当国の大掾(だいじょう)、平政氏じゃ。あの兵は、国府を賊より守護する為に連れて参った。国府(こう)の殿に御伝えしたき儀が有るのだが、おわされるか?」
門衛は政氏の言葉に安堵したのか、表情を和(やわ)らげて答える。
「国府(こう)の殿は介の殿と共に出払われ、少掾(しょうじょう)と目(もく)の方々しか残っておわしませぬ。」
「然様(さよう)か。されば少掾方に話が有る故、政庁へ入らせて貰(もら)うぞ。」
「ははっ。」
政氏が供を十騎ばかりの小勢にして居た為、門衛は南門を開き、政氏等を中へと通した。

 国府内へ入って見ると、南門を守っている兵が、僅(わず)かに二十余名しか居ない事に気が付いた。
(国府の守備兵は、一体何処(いずこ)へ行って了ったのか?)
そう思いながら、政氏率いる手勢は、広大な城内の中央に位置する、政庁へと向かって行った。

 やがて政庁に到着すると、政氏は馬を下りて、中へ乗り込んで行く。その時、外の騒ぎを聞き付けて、表へ出様として居た少掾と目に遭遇した。二人は政氏の到着を知り、慌てて挨拶をするが、政氏は憤懣(ふんまん)を秘めた表情で尋ねる。
「国府の守りが手薄じゃ。もしも我が軍が賊で在ったならば、今頃多賀城は焼け落ちて居るぞ。」
何時(いつ)に無く語気の荒い政氏に、少掾は恐れ戦(おのの)き、しどろもどろ話し始めた。話を要約すると、受領(ずりょう)は介と共に国衙(こくが)の兵を率い、彼方此方(あちこち)の村へ、税の強制徴収に出掛けて行ったと言う。政氏はこの受領の行動に呆(あき)れ果て、少掾と目に告げる。
「今のままでは、国府の守りが危うい。我が兵を手多賀城に配備致すが、異存は有るまいな?」
政氏の気迫に圧(お)され、少掾と目はそれを承認した。政氏は少掾を南門へ、又玄貞を城の南方に待機する自軍へ遣(つか)わし、磐城軍二千騎を国府へ入城させた。

 政氏は、政庁に最も近い南門に近藤宗久、砂押川に面する西門に斎藤邦衡、丘陵地に在る東門へは佐藤純明を配置し、北方の加瀬沼に面した城壁の守りには、江藤玄貞を宛(あ)てた。自身は政庁に在って政務を取り仕切り、今年の税収の帳簿に目を通したり、国庫の備蓄状況の検査等を行った。

 その日の夕刻、受領(ずりょう)配下の一小隊が南門に到着し、開門を命じた。しかし、守将の近藤宗久が小隊の荷を調べると、莫大(ばくだい)な量の穀物や織物を輸送して居た。宗久はこの小隊を包囲し、税の徴収先を問い質(ただ)した所、やはり不法な取立てを行って居た事が判明した。宗久は、その小隊から武具や防具等を没収して追方し、過剰分の税は、村へ返還させた。

 同様の事は、その日から翌日に架けて、何件も発生した。そして二日後、受領(ずりょう)と介が本体を率い、西門へ帰還して来た。その兵力は凡(およ)そ二百程であるが、半数近くの者は武具を身に纏(まと)って居ない。怖らくは、政氏の軍に追放された者達である。

 受領(ずりょう)は大層立腹した様子で開門を命じ、西門の守将である邦衡は素直に門を開いた。受領(ずりょう)と介が先頭と成って入って来たが、後続の兵は斎藤軍に因(よ)って、入城を阻(はば)まれた。
「無礼者!」
受領は咄嗟(とっさ)に叫んだが、周囲を見渡すと、数百の兵が弓を番(つが)えて、狙いを定めて居る。又百程の騎馬隊が隊列を整え、臨戦態勢に入って居た。これを見て肝を冷した受領は、配下の兵に武器を捨てる様命じた。

 宗久は、五名の兵を受領(ずりょう)と介の護衛に付け、政庁へと送る一方、受領の兵は手勢を以(もっ)て包囲させた。やがて西門の事件を聞き付けた、近藤、佐藤、江藤の三軍は、増援部隊を派遣し、略奪品を押収した上、将兵を捕縛して、獄へ送った。後日、国守の悪事を聞き出し、村へ税の過剰分を返す為である。

 その後間も無く、受領(ずりょう)達は政庁へと到着し、ずかずかと中へ乗り込んで行った。そして、一室で政氏が、少掾や目等と共に、書類の作成をして居るのを見付けると、憤怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)で歩み寄った。

 政氏は、その足音で二人の到着に気付き、その場にて礼を執り、二人を迎えた。
「御帰りなされませ。」
政氏が涼しい顔で言うので、受領(ずりょう)は余計に腹が立ち、怒鳴(どな)り散らした。
「御主、高が大掾の分際(ぶんざい)で、斯様(かよう)な事をして徒(ただ)で済むと思うのか?」
激昂(げっこう)する受領に対し、政氏は依然静かに対峙する。
「はて、某(それがし)に何ぞ手落ちでも?」
「国守に対する数々の無礼、これより朝廷へ報告致す。」
受領の言葉に政氏は軽く笑みを浮かべると、手元に在る書類を眺めながら答える。
「然様(さよう)でござりまするか。実は某(それがし)も、国庫内の蓄えと、帳簿上の貯蓄量との差、加えて国衙(こくが)の兵が民から略奪を働いたという事態を、太政官へ報告致すべく、書翰(しょかん)を認(したた)めて居た所でござった。」
政氏の言葉を受け、受領は平静を装(よそお)って返す。
「ふん。御主は所詮(しょせん)地方の三等官。都に多くの人脈を持つ儂(わし)の前で、その無力さを思い知るが良い。」
受領が政氏を見下ろしながらそう告げた直後、脇から介が、そっと受領の耳元で囁(ささや)いた。
「国府(こう)の殿、この男を甘く見ては成りませぬ。前(さきの)陸奥守、平繁盛殿を更迭(こうてつ)させたのは、陰でこの男が太政官の有力者に掛け合った為と、聞き及んでおりまする。」
「何と、この者には斯様(かよう)な力が有るのか?」
受領の顔が、急に青ざめる。
「はっ。その上平政氏は、所領の磐城、信夫に其々(それぞれ)三千の兵を持ち、更(さら)には八千の兵を擁する上総介平忠頼殿と、旧(ふる)くから同盟関係に在るとの由(よし)にござりまする。又、京では近頃四位に昇進した式家と深く繋(つな)がり、陸奥においては北方の雄、安倍氏とも親しいとの事。」
受領は慌てて介に確認する。
「其(そ)は真か?」
介は苦渋の表情で頷(うなず)く。それを受けて受領は愕然(がくぜん)とするも、政氏には敢(あ)えて強気を装(よそお)って見せる。
「儂(わし)は、暫(しば)し国内を巡察して居ったので疲れた。国政に不備が有れば、其(そ)は受領である儂の責任にて、疲れが癒(い)えた後、よくよく調査する事と致す。」
そう政氏等に言い渡すと、受領と介は逃げる様にして、己の住居へと戻って行った。

 その後暫(しば)しの間、受領(ずりょう)側も政氏側も、目立った動きは無く時が過ぎた。しかし尾張国司藤原元命(もとなが)が、違法な税の取立てをした為に、解任された事が陸奥にも伝わると、受領は政氏に対し、強硬な態度を取る事が出来なく成った。結局は、受領が政氏に屈する事と成り、磐城軍の国府駐留を、先ず正式に認めるに至った。政氏は受領と介の略奪の証拠を手元に留めた上で、受領の手先と成って略奪を働いた将兵を、国衙(こくが)防備の軍より、追放処分と成した。

 受領(ずりょう)は、何時(いつ)政氏が己を処断するか判(わか)らぬ、兢々(きょうきょう)とした日々を過ごし、遂(つい)には体の不調を訴え、政庁に姿を現さなく成った。受領の命を受け、療養の間は介が国政を預かる事と成ったが、最早介も、政庁における発言力を完全に失墜して居た。そして、官吏と民衆双方より多大な支持を得た大掾(だいじょう)平政氏が、実質国政を左右する立場に君臨した。

 この後、政氏は人々から「奥州五十四郡の主」、「磐城判官」(いわきほうがん)と称される様に成った。判官とは三等官の事であり、政氏は陸奥国の三等官である掾(じょう)に任官して居る。政氏は、陸奥国政が己の手の元に纏(まと)まったと判断すると、自領磐城の防備の為、近藤宗久と斎藤邦衡の手勢を帰還させた。そして、年若い将を頂く佐藤家と江藤家の手勢を国府に残し、政氏自ら鍛え上げようと考えた。磐城軍は半数に減る事と成ったが、それでも一千騎を擁して居り、充分有事への備えは成されて居た。

 しかし後日の報告に依(よ)ると、磐城四家総出の出陣は、かなりの出費を伴った事が判(わか)った。磐城郡内には二十年間、僅(わず)かずつではあるが貯えて来た財が有り、又この度は、犠牲者が出る程の戦(いくさ)も起らなかったので、何とか賄(まかな)う事が出来た。政氏はこの時、康保四年(967)の奥州征討の折、平忠頼が如何(いか)に莫大(ばくだい)なる援助をしてくれたのかを悟り、頓(ひたすら)感謝の念が呼び起されるのであった。

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