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第十九節 東国の騒擾(そうじょう)
時は流れて永観二年(984)、十五年に渡り帝位に御座した円融天皇が退位し、兄である先代冷泉院の皇子(みこ)師貞(もろさだ)親王が、人皇六十五代天皇に即位した。生母は亡き藤原伊尹(これただ)の娘懐子(かいし)である。これに因(よ)り、天皇の外舅(がいきゅう)と成った伊尹の子、権中納言義懐(よしちか)の発言力が強まり、藤原氏は関白頼忠、義懐、その叔父兼家の三頭体制と成った。筆頭の関白頼忠は、内訌(ないこう)が起る事を嫌い、兼家を右大臣に昇進させた。関白に就任した己へ、妬(ねた)みの鉾先(ほこさき)が向かない様に努めたのである。
しかし二年後、寛和二年(976)六月二十二日の深夜、一大事件が起った。帝(みかど)は寵愛して居た弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)、忯子(しし)を亡くし、気落ちの余り、出家を考える様に成って居た。しかし帝に退位されては、己の発言力を失ってしまう立場の、権中納言義懐に止められ、悶々(もんもん)たる日々を過ごして居た。
この日、右大臣兼家は次子道兼を御所に遣(つか)わし、帝を密かに連れ出した。外では清和源氏の棟梁源満仲が、警固の兵を従えて待機して居た。満仲は家祖経基の長子で、安和(あんな)の変の折には左大臣源高明の謀反を、右大臣藤原師尹(もろただ)に密告した人物である。満仲は藤原摂関家に仕え、着実にその勢力を伸ばして居た。
帝は満仲の護衛を得て、山科(やましな)の元慶寺(がんきょうじ)に入り、そこで出家してしまった。時を同じくして、三種の神器は皇太子懐仁(かねひと)親王の元へ移された。懐仁親王は、兼家の娘詮子(せんし)が生んだ、円融院の皇子である。
斯(か)くして兼家は、僅(わず)か七歳の新帝の外祖父と成り、摂政を拝命するに至った。権中納言義懐は、先帝花山院が出家した事が判(わか)ると、己も髪を落し、頼忠は関白辞任に追いやられた。兼家は朝廷内で、絶対的な権力を獲得した。
同年の春、陸奥国磐城郡の府である住吉館を、村岡忠重が訪れた。政氏は忠重を居間に招き、菊多の情勢等を聞こうとした。
この時忠重は、嫡男を伴って入室して来た。村岡家の長男は、久しく汐谷城に居た為、政氏とは初めての対面であった。忠重に似て立派な体躯(たいく)をして居るが、初めて主君の前に出て、大分緊張して居る様子である。
忠重は主君に挨拶をした後、隣に座る長男を紹介した。
「此(こ)は我が愚息にて、名を五郎と申しまする。」
政氏はそれを聞き、頭に閃(ひらめ)く物が有った。
「ははぁ。さては良文公の御名(おんな)を授けたか?」
「御意(ぎょい)にござり申す。やがては、父の如き将に育って欲しいと願い。」
忠重は頭を掻(か)いて、照れながら答えた。政氏は視線を五郎に移し、和(にこ)やかに尋ねる。
「五郎殿は今年、幾つに成る?」
五郎は、表情を強張(こわば)らせながら答える。
「はっ。十六にござりまする。」
「ほう、もうそれ程に成ったか。」
政氏は再び、忠重を見据えて告げる。
「もう元服の歳ではないか。何故今まで遅らせて居ったのか?」
忠重の表情が、俄(にわか)に翳(かげ)り出した。忠重は少しの間、言葉に詰まって居る様子であったが、やがて腹を決めた様に話し始める。
「実は、我が兄忠頼が烏帽子親(えぼしおや)を務める故、武蔵へ赴く様、催促が参って居るのでござりまする。」
「何と、忠頼殿が?」
意外な事で、政氏は驚きの色を顕(あらわ)にした。忠重の話は続く。
「兄に烏帽子親を務めて貰(もら)っては、殿に対し忠義を欠き申す。故に今まで、のらりくらりと躱(かわ)して来たのでござりまするが。」
確かに五郎の烏帽子親を忠頼が務めれば、五郎は今後、道義上において、忠頼の強い影響下に置かれる事と成る。これでは磐城平家と村岡平家の意向が対立した時、五朗は磐城家に対し、存分に忠義を尽す事が出来なく成る。
これは磐城家から見れば迷惑な話だが、忠頼の目線に置き換えれば、村岡家はその先代が、村岡平家の基礎を築いた功臣である。今は実弟忠重が跡を継いでは居るが、その繋(つな)がりを、より強固なものにする事を望んで居るのであろう。
「故国、大里の村岡郷へ行くが善(よ)かろう。村岡家は当家に取っては大恩が有り、決して対立する事が有っては成らぬ。」
政氏は、忠頼が弟を信ずる心に美徳と羨望(せんぼう)を感じ、これを許可した。忠重は肩の荷が下りた顔で、政氏に礼を申し上げた。
話が決まると、政氏はここへ長男の太郎を呼びに行かせた。やがて太郎が入室すると、村岡家は平伏して迎え、太郎はその脇を通り過ぎ、政氏の傍(そば)に腰を下ろした。政氏は村岡五郎に話し掛ける。
「これが我が子、太郎じゃ。歳は其方(そなた)より五つ下だが、宜しく頼むぞ。」
五朗は素直に返事をすると、太郎に向かい礼を執った。
政氏が庭で遊んで居る様勧めたので、太郎は五郎の手を引き、庭へと連れ出した。政氏と忠重は子等の様子を眺めながら、ふと自身が幼少であった時の事を思い出した。そして忠重が呟(つぶや)く。
「先代忠政公には我が義父重武が仕え、今は某(それがし)が殿に仕えて居り申す。そして将来は、五郎が若君に仕える事と成りましょう。」
「うむ。その頃には奥州に泰平が訪れ、住み良い世と成って居ると善(よ)いのう。」
「真に。」
二人の武士は庭で遊ぶ我が子を見詰め、時の移ろいを感じて居た。
二日後、十余名の供を従え、忠重は五郎と共に、坂東の兄の元へ旅立った。政氏は、留守中に常陸軍の侵攻を受けても、汐谷城を守り抜ける様、後方の滝尻館に近藤純利を配置した。館主滝尻政之には、未だ戦(いくさ)の経験が無かったからである。
一月(ひとつき)近くが経った頃、忠重一行が汐谷城へ無事戻って来た。そして政氏への報告の為、翌日忠重は嫡男と僅(わず)かな護衛を供に、住吉館へと入った。
政氏は村岡家帰還の報を受けて喜び、直ちに居間へ参る様に伝えた。されど忠重は、重大な報せが有る為、重臣達が列席する政庁での面会を請願した。政氏は訝(いぶか)しがりながらも、館に詰める重臣達に政庁へ召集を掛け、自身も政庁へと向かった。
政庁広間に政氏が入った時、そこには未だ忠重と五郎の姿しか無かったが、やがて召集の令を聞いた重臣達が集まり始め、程無く主立った者がその場に揃(そろ)った。
評定を始めるに当たり、先ず政氏が、正面に座す忠重に対し、坂東の様子を尋ねた。
「無事に戻り、何よりであった。見れば、隣に座る五郎は、元服を済ませて来た様子。忠頼殿は甥(おい)の晴れ姿を見て、喜んでおわしたか?」
「はっ。五郎は兄忠頼より一字を賜り、重頼の名を頂戴致しましてござりまする。」
磐城家筆頭重臣の嫡男が成人し、政氏も大いに満足気な様子である。そこへ、忠重が表情を曇(くも)らせながら、言葉を接ぐ。
「今一つ、兄より直(じか)に聞いた一大事を、御一同に報告致したく存じまする。」
それを受けて、政氏の顔も緊張感を帯びた。
「然様(さよう)であったな。申されよ。」
「はっ。」
忠重も緊迫した面持ちと成り、咳(せき)払いを一つした後、粛々と話し始めた。
「今月、陸奥守藤原為長様が任期中に、国府において逝去なされ申した。朝廷はこの後任に、平繁盛を宛(あ)てたとの由(よし)にござりまする。」
重臣の席に居た大村信興は、一歩躙(にじ)り寄り、驚愕(きょうがく)した面持ちで尋ねる。
「村岡様、繁盛とはよもや、八年前まで陸奥守を務め、当時虎視眈眈と当家を潰(つぶ)さんと狙って居た、あの貞盛の弟にござりまするか?」
忠重は信興の方を振り返り、確(しか)と頷(うなず)いた。
「然様(さよう)。あの後貞盛は、上方にて逝去したと聞いたが、此度はその弟が、常磐地方の制圧に乗り出して来た様じゃ。」
そして忠重は、再び政氏の方へ向き直り、話を続ける。
「更(さら)にもう一つ。朝廷は繁盛の補佐として、陸奥介に我が兄忠頼を任命して来たのでござりまする。」
政氏はその報せに、驚きを隠す事は出来なかった。
「其(そ)は無茶な。忠頼殿と繁盛は、坂東太郎を挟み、ここ三十年に渡り対立を続けし間柄。両者が朝廷に従い、共に国府に入るとなれば、両軍併せて一万の軍が下向するであろう。その上両軍が開戦に及べば、当家は村岡方に与(くみ)して常陸方と戦わねば成らぬ。下手(へた)をすれば、奥州の大半が戦乱に捲(ま)き込まれ兼ねぬ事態と成るであろう。」
政氏の言葉で、諸将は事態の深刻さを悟り、沈黙してしまった。
その日の評定は、重い空気の中で進められた。先の貞盛の時に用いた、寡兵(かへい)の計を以(もっ)て油断させる策は、怖らく此度は通じぬであろう。仍(よっ)て各自怠(おこた)り無く、持場を堅守する事と決められた。そして万一の時、政氏が両者を調停する為に、有力な伝(つて)を得て置きたいという意見が出された。しかし政氏が公家で唯一顔が利くのは、藤原式家のみである。しかしその式家は、先代滋望(しげもち)亡き後、その子正衡(まさひら)、相親(まさちか)は共に五位に止まり、朝廷における権威を大きく失墜(しっつい)して居た。
磐城家が有効な手立てを模索して居る間にも、平繁盛は二千騎を率い、加えて陸奥守の権威を楯に、磐城郡内を悠々と通過して行った。そして忠頼よりも先に、国府多賀城を抑えてしまったのである。
繁盛が大軍を率いて奥州に下向した為、坂東に残る繁盛方の兵は僅(わず)かと成った。故に一見武蔵の忠頼からすれば、常陸は容易に落ちると思われた。しかし、十二年前の貞盛の時とは事情が異なり、繁盛は下野の藤原千常と誼(よしみ)を深めて居た。千常はその助力を得て、父秀郷の頃の勢力を回復し、鎮守府将軍をも務めて、従五位下に叙せられて居る。又、此度は繁盛の陸奥守就任に伴い、千常の子文脩が、鎮守府将軍に任官した。坂東北部においても、奥州においても、両家連合の体制は磐石であった。唯一、常陸を守る繁盛の子維幹(これもと)は、戦(いくさ)の経験が乏(とぼ)しい。されどここを衝(つ)いたとしても、隣国下野より武勇に秀(ひい)でた藤原千常が介入して来れば、忠頼方の勝利は覚束(おぼつか)無い。
一方で村岡平家は、先代良文亡き後、嫡男忠頼がその跡を継いだ。忠頼自身は、坂東と京を行き来する事が頻繁(ひんぱん)であったので、武蔵の所領は弟忠光に、相模の所領は弟忠通に任せる様に成って居た。忠頼直属の臣は、相馬家の旧領下総に配置され、常陸、上総方面へ、所領拡大の隙(すき)を窺(うかが)って居た。
又、忠頼は武蔵国検非違使(けびいし)に任官して居り、当国の兵権、司法権を掌握して居た。そしてここに至り、大国陸奥の二等官である介に任命され、本来ならば栄転と喜ぶべき所である。しかし此度は、常陸、下野が絡(から)んで居るだけに、下手(へた)に動く事は出来ない。
陸奥守繁盛も、武蔵、相模、下総、更(さら)に常陸南部や上総北部にまで影響力を持つ忠頼を、迂闊(うかつ)に刺激する事は控え、奥州の政(まつりごと)は介不在のまま進められた。一方で繁盛は、陸奥介は朝命に叛(そむ)き、国政を蔑(ないがし)ろにする不逞(ふてい)の輩(やから)であると、朝廷に忠頼を糾弾(きゅうだん)する書状を送った。
この繁盛方の動きを察知した忠頼は、今のまま坂東に留まって居ても、立場は悪化するばかりと考え、遂(つい)には大軍を擁して、奥州へ向かう事を決意した。そして同盟関係に在る磐城政氏にも、戦乱への備えを怠(おこた)らぬ様、通告した。
しかし、然(そ)う斯(こ)うして居る内に、季節は収穫の秋を迎えて居た。暫(しば)しは農民を、兵として駆り出す訳にも行かず、また、収穫を終えるのを待って兵を集めたのでは、奥州の峠は雪に埋もれてしまう。忠頼は領内の農事多忙と、冬将軍の到来を理由に、陸奥国府への赴任を来年に延ばす旨を、陸奥国府へ通達した。
これにて、年内に繁盛方と忠頼方が衝突し、大きな戦乱が引き起される事は回避された。磐城政氏は、当面は国を空けても大丈夫であると判断し、上洛して、両軍の全面衝突を避ける方策を模索し様と考えた。しかし、供と住吉城代の人選には迷った。近藤宗弘と斎藤邦泰の両名が、老齢の為に隠居を申し出たので、宗久と邦衡を各々、豊間と高坂へと戻し、両家の家督を相続させたばかりであった。仍て政氏は、家臣団の若返りを視野に入れ、大村信興の子信澄と、橘清綱の子清輔を供に加えた。二人共未だ、元服を済ませたばかりの若武者である。されど政氏は、京を直(じか)に見せる事で、見聞を広めて貰(もら)おうと考えたのであった。住吉城代には大村信興を充(あ)て、政氏は僅(わず)かな供を引き連れ、上洛の途に着いた。
*
年が明けて寛和三年(987)の正月、政氏等は左京の外れに在る、藤原相親(まさちか)の邸に逗留(とうりゅう)して居た。相親は、政氏が幼少の頃から慣れ親しんで来た人物である。政氏は京に着くと、真っ先にここを訪ねた。
滋望(しげもち)亡き後も、式家の凋落(ちょうらく)は続いて居た。太政官は完全に北家の独占と成り、特に摂政兼家の一派が、高位高官を占めて居た。最早式家は、朝廷内における発言力を完全に喪失し、政氏が頼みとして居た太政官への取り成しも、粗(ほぼ)望み薄な状態であった。
已(や)むなく政氏は、左衛門大尉(さえもんのだいじょう)の官職を用いて、左衛門府の高官に申し出た。しかしその後も朝廷は、何の対応も執らなかった。政氏に随行した橘清輔は、考え得る手を尽して左衛門佐(さえもんのすけ)へ接近し、苦心の末に上層部の意向を聞き出して、主君の元へと報告に戻った。
清輔が相親邸へ戻ると、政氏は家臣や相親と共に、何か良き手立ては無い物かと、思案して居る最中であった。清輔の姿に気付いた大村信澄は、その表情が翳(かげ)って居るのを察し、訝(いぶか)しんで尋ねる。
「おお、清輔殿、今戻られたか。何ぞ新たな報せはござりますかな?」
信澄は明るく迎えようと努めたが、清輔は只黙って頷(うなず)くだけであった。そして政氏と相親の前に進み出て、座礼を執る。
「何ぞ有(お)うたのか?」
政氏の問いに、清輔はゆっくりと口を開く。
「只今、左衛門府の佐(すけ)と接触し、督(かみ)や太政官の意向を探って参り申した。」
「ほう。して、如何(いかが)であった?」
耳寄りな報せに、政氏は身を乗り出して聞き入る。
「はっ。太政官の一部の有力者は、海内で治安が悪化する昨今、東国に強大な兵力を持つに至った桓武平氏の存在を、危惧(きぐ)なされておわしまする。そこで常陸、村岡の両勢力を衝突させ、共倒れを狙(ねら)って居るとの由(よし)にござりまする。」
政氏はその報に驚愕した。
「何と愚かな。両者が合戦に至れば、関八州のみ成らず、奥州をも捲(ま)き込み、天下を揺るがす大乱と成ろうぞ。奥州の雪が溶ければ、忠頼殿は大軍を率いて多賀城へ向かい、容易に戦(いくさ)へと発展致そう。最早猶予(ゆうよ)は成らぬ。」
話を聞いて居た相親も、半(なか)ば呆(あき)れ顔である。
「繁盛殿と忠頼殿の不和は、都へも聞こえて居る。両者を同国の守と介に任命しては、争乱の種と成るは火を見るより明らか。怖らくは太政官内に留まれた物の、兼家公の専政を苦々しく思う者が仕掛けた事であろう。もし大乱に至らば、兼家公の失政として、摂政の地位を追い落す算段であろう。」
相親の話を聞き、政氏の焦燥感は更(さら)に募(つの)った。
「相親殿、誰ぞ我が意を摂政に伝えて下さる御方は居りますまいか?」
相親は、額を手で押えながら唸(うな)る。
「左右内府は摂政の派閥に属すと雖(いえど)も、斯(か)かる大事を報ずるに足る人物か如何(どう)か。もしやこの中に、此度の黒幕が居るやも知れぬ。又摂政の御子達は、その名門意識から、落魄(おちぶ)れた当家等には目もくれぬ。」
溜息を吐(つ)きながら、相親は考えを巡らせて居たが、良案の糸口は杳然(ようぜん)たる様子であった。
政氏は京で何の手も打てぬまま、時だけが過ぎて行った。取り敢(あ)えず、政氏は武蔵の忠頼に書翰(しょかん)を認(したた)め、此度の陸奥介拝命は、桓武平氏の武力増強を怖れる一部公卿が、繁盛と相討ちと成る様に仕向けた罠(わな)である事を伝えた。その上で、奥州下向を暫(しばら)く思い止まる様勧めた。しかし政氏の知らぬ所で、局面は大きく動いて居たのである。
陸奥守繁盛は、介である忠頼が赴任しない事を理由に、昨年朝廷へ、忠頼の不忠を報告して居た。これを受けて忠頼は、再び繁盛が讒言(ざんげん)に及ばぬ様、領内を通行する者の監視を厳しくして居たのである。斯(か)かる折、忠頼の弟忠光が、領内を西へ向かう官吏を見付け、尋問した所、陸奥守の使者である事が判明した。忠光が家臣に命じて荷を調べさせると、金泥書写の大般若経、一部六百巻を運んで居る事が判(わか)った。比叡山延暦寺へ納めに行く途上であると、使者は告げた。しかし忠光は、斯(か)かる口実を以(もっ)て使者を京へ上らせ、朝廷に当家の讒言(ざんげん)をさせる事も有り得ると考えた。そして家臣に命じ、使者とその従者に暴行を働き、追い返すという事件が発生したのである。この報せを受けた繁盛は、解状(げじょう)を京へ送り、太政官に忠頼の非道を訴えた。
正月の二十五日、相親邸に滞在を続けて居た政氏の元へ、信澄が一大事を告げてきた。信澄は政氏の前に辿(たど)り着いた物の、息が切れて声を出せない。
「何を斯様(かよう)に慌てて居るのじゃ?」
政氏は信澄の様子から、何か一大事が出来(しゅったい)した事を悟り、真顔で信澄を見据えて居る。
漸(ようや)く息が整った信澄は、真剣に政氏を見詰めて報告する。
「昨日、太政官が東海道及び東山道の国司に対し、忠頼様追討の官符を発した由(よし)にござりまする。」
「何と。何故(なにゆえ)斯様(かよう)な事に成ったのか?」
政氏は俄(にわか)に顔色を変えた。よくよく考えて見ても、斯(か)かる事態へと至る道理が無い。信澄も詳しい経緯までを知るには及んで居ない。政氏は些(いささ)か落着きを取り戻して、信澄に告げる。
「只の風評やも知れぬ。暫(しば)しは聞き流そうぞ。」
信澄はその言に頷(うなず)き、漸(ようや)く冷静さを取り戻した。
しかしその日の夕刻、相親が内裏(だいり)より同様の報せを持ち帰った事で、事実である時が決定的と成った。政氏は相親より、忠光濫妨(らんぼう)の話を聞き、漸(ようたく)く得心(よくしん)が行った。そして一つ大きな息を吐(つ)くと、暫(しば)し天を仰(あお)いだ。
やがて政氏は、相親や家臣達を見渡して、静かに告げる。
「東海、東山両道一円で兵を召集すれば、数万の大軍と成ろう。これが先ず、西より村岡領へ攻め入る。更(さら)に北には、兄を安和(あんな)の変で陥(おとしい)れられた怨恨(えんこん)を持つ、藤原千常が五千騎を擁し、東には繁盛の本拠が在る。即(すなわ)ち、忠頼殿は三方より、数万の軍に挟まれ様としておわす。忠頼殿は、その善政に因(よ)り民の信望は厚いと雖(いえど)も、かつて将門公の例を鑑(かんが)みれば、集まる兵は怖らく千騎程であろう。村岡平家は今や、滅亡の淵に在り。村岡家が滅べば、当家は後ろ楯を失い、繁盛の前に屈服せざるを得なく成るであろう。」
政氏の言葉に、一同は暗澹(あんたん)たる顔と成った。
暫(しばら)くの間、沈黙が続いた。やがて、清輔が恐る恐る声を発する。
「畏(おそ)れながら、申し上げたき儀がござりまする。」
政氏は清輔を見据えて返す。
「申せ。」
清輔は、場の空気の重さに堪(た)えながら、話し始める。
「某(それがし)は本日も、摂政に影響力の有る人物との接触を図ろうと、方々を駆け巡って参り申した。そして漸(ようや)く、摂政の御曹司、道長卿に拝謁(はいえつ)が叶(かな)い、殿の話を聞いて見たいとの仰(おお)せにござり申した。」
政氏は藁(わら)にも縋(すが)る思いであったが、道長という人物を全く知らない。故に相親に尋ねる。
「道長卿とは、如何(いか)なる人物にござりましょうや?」
相親は鬚(ひげ)を撫(な)でながら、記憶を辿(たど)りつつ答える。
「儂(わし)も余り面識は無いのだが、摂政の嫡出子の中では、三番目の御子じゃ。歳は未だ二十二と若く、官位も従三位左京大夫と、二人の兄に比べれば、昇進も遅れて居る。」
ふと、相親は一つの逸話(いつわ)を思い出して、話し始めた。
「聞いた話ではあるが、花山天皇の御宇(ぎょう)、帝(みかど)は清涼殿(せいりょうでん)殿上の間にて、夜更(よふ)けに殿上人(でんじょうびと)を集めて怪談に興(きょう)じておわした所、帝は兼家卿の三人の子に肝試しを命じたそうじゃ。長子道隆殿は豊楽院(ぶらくいん)、次子道兼殿は仁寿殿(じじゅうでん)の塗籠(ぬりごめ)、四子道長殿は大極殿(だいごくでん)に其々(それぞれ)行く様に仰(おお)せられ、三人は命に従い、清涼殿を後にしたという。そして道隆殿、道兼殿の二人は途中で逃げ帰って来たのに対し、弟の道長殿は大極殿高御座(たかみくら)脇の柱を削(けず)って持ち帰り、帝にその豪胆さを誉(ほ)められたそうじゃ。」
政氏はその話を聞き、道長に一縷(いちる)の望みを託そうと考えた。
数日後、政氏は道長の招きを得て、摂政邸を訪れた。流石(さすが)に最高権力者の邸だけ有り、他に類を見ない、豪華絢爛(けんらん)にして広大な寝殿造(しんでんづくり)である。政氏は信澄と清輔を従え、門衛に取り成しを請(こ)うた。
間も無く、政氏は道長の間へと通された。その途中で、贅(ぜい)を尽した様式を目にした政氏は、この内の僅(わず)かな財でも、奥州の民に分配されれば、多くの民が救われるのにと、感じずには居られなかった。
やがて、供の二人は別室にて待つ様に告げられ、政氏一人が道長と対面する事に成った。政氏が到着した時には、既(すで)に道長が待って居り、政氏は部屋に入るなり、平伏した。道長は穏やかに告げる。
「火急の用と聞いた。そこでは遠い。もそっと近(ちこ)う。」
「はっ。」
政氏は道長の方へ躙(にじ)り寄り、再び礼を執った。政氏が頭を上げると、道長が言葉を掛ける。
「其方(そち)の手の者が、東国の一大事を告げに参った。其方(そち)より、今日に至る経緯(いきさつ)を、詳しく聞かせてくれぬか?私は未だ若輩にて、太政官における発言力は持たぬが、摂政である父上に申し上げる事は出来る。」
政氏は表情を強張(こわば)らせながらも、語気の強さに配慮しつつ言上する。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。事の発端は、延喜年間醍醐帝の御宇(ぎょう)、我が三代前の家祖平良将が、歳若くして没した事に始まりまする。」
道長は、慮外である様な面持ちである。
「ほう、此(こ)は又、随分と遡(さかのぼ)るのじゃな。」
「はっ。その後、良将の兄弟はその遺領を狙い、遺児将門と戦(いくさ)を繰り返し申した。」
「うむ。承平天慶の乱じゃな。しかしそれは、将門が藤原秀郷、平貞盛等に討たれ、終結した筈(はず)じゃが。」
「然(さ)に非(あら)ず。朝廷は祖父将門の所領を、貞盛ではなく、丁度(ちょうど)その頃に出羽の反乱を鎮定した平良文に、恩賞として下賜したのでござりまする。貞盛は官位の昇格は有った物の、永年狙って居た土地が良文公の所領となり、妬(ねた)みが生じ申した。そしてそれは次代の忠頼殿へと引き継がれ、密かに両者の対立は昂(こう)じて参ったのでござりまする。」
「成程(なるほど)。今の陸奥守繁盛は貞盛の弟にして、これ又永年、忠頼に敵愾(てきがい)心を燃やして居ったという訳か。」
「御意(ぎょい)。但(ただ)し、某(それがし)が左京大夫様に言上致したき事は、斯(か)かる対立を利用し、摂政を陥(おとしい)れんとする動きが、有る事にござりまする。」
政氏の言に、道長の顔は俄(にわか)に緊迫の色を呈し始めた。
「何と?もそっと詳しゅう話せ。」
「はっ。実は両者の対立は、一部公卿の間では知られる所にござり申した。そして、繁盛、忠頼両者が、共に坂東の地で勢力の拡大を続ける事は、何(いず)れ将門の乱の二の舞を起す恐れ有り。仍(よっ)て、今の内に両者を戦わせ、共倒れにさせ様とする案が出て参ったのでござりまする。」
「うむ。確かに対立する二人を、同国の守と介に任じては、やがては戦(いくさ)に発展するであろう。」
「然様(さよう)。現に繁盛は陸奥、常陸で兵を集め、又同盟関係に在る藤原千常も戦(いくさ)に備え、国境を固めてござり申す。これに対して忠頼も、国境の警備を厳重にせざるを得ず、故に此度、陸奥守の使者を追い返す事態へと至ったのでござりまする。」
「して、其方(そち)が申す陰謀とは、東国で大乱が起きた事を父上の失政と成し、辞任に追い込むという事か?ならば懸念に及ばず。既(すで)に忠頼追討の官符が発せられ、一気に忠頼の軍を潰(つぶ)してしまえば、事は仕舞(しまい)じゃ。」
道長は微(かす)かな笑みを浮かべて返すが、政氏は淡々としながら、尚も話を続ける。
「確か官兵は東海道、東山道より集めるとの事。しかしこの辺りは、久しく国司が悪政を布(し)き、民は窮乏の極みに喘(あえ)いで居りまする。斯(か)かる兵が、先代良文公以来無敗の村岡軍を、容易に討ち破れるとは思われませぬ。寧(むし)ろ戦(いくさ)は長期化致しましょう。さすれば、かつて天慶の乱の折に、確固たる地位を築いておわした貞信公ならいざ知らず。摂政と成って未だ日の浅い兼家様には、その地位を取って代ろうとする者の魔手が、伸びて参りましょう。」
道長はそれを聞いて、唸(うな)り始めた。
「ううむ。私は戦(いくさ)の事はよく解らぬが。ともかく、此度は戦(いくさ)を回避した方が父上の、延いては国家の御為(おんため)と成る様じゃのう。」
「仰(おお)せの通りにござりまする。」
そう答えて平伏する政氏を、道長はじっと見詰め続けた。
暫(しば)しの沈黙の後、道長は更(さら)に真剣な顔付きと成り、政氏に告げる。
「私から父上に、此度の戦(いくさ)は今暫(しばら)く思い止まる様、言上する事と致そう。他に何か、申して置きたき事が有れば、申すが良い。」
「さすれば、」
そして、政氏は胸中で練り続けて居た、東国安寧へと至る段階を、順を追って具(つぶさ)に説明し始めた。この策が必ずや摂政の耳に届き、実現の為に動いて欲しいと、切に願いつつ。
実はこの時、道長は父兼家から勘気を蒙(こうむ)って居た。為来(しきた)りに従わずに人を捕縛し、それが世間に広まるという失態を、犯したばかりであったのである。政氏の朋友相親も、それは噂(うわさ)に聞いて居た。されど、他に伝(つて)が見当たらぬ以上、政氏の意気を挫(くじ)かぬ様、伝えずに居たのであった。結果、道長は功を挙げる機会が得られる事と成った。そして、失地回復に動き出すのである。
*
数日の後、朝廷は東山道、東海道諸国に対し、軍を国内に留め置き、暫(しば)し待機する様に通達した。政氏はこの報せを左衛門府より入手すると、急ぎ忠頼に使者を遣(つか)わした。最新の朝廷の動きを伝え、坂東西部に配備して居た兵を、下野、常陸国境に回せる事を報せたのである。
その後、東国は暫(しば)し膠着(こうちゃく)状態が続いた。その間、四月五日に改元が行われ、寛和三年(987)は永延元年と改められた。そして局面が動いたのは、秋の気配が漂(ただよ)い始めた八月九日であった。朝廷は、村岡忠頼に叛意(ほんい)無しとして、東山道、東海道諸国に軍を解く様命じたのである。忠頼を謀叛人として追討を命じた官符は、ここに至って取り消しと成った。
朝敵の汚名を雪(そそ)げた事で、忠頼には更(さら)に多くの豪族が味方と成り、陸奥守繁盛の本拠常陸の国境には、新たな増援部隊が到着した。繁盛は、村岡、磐城両軍が国境を窺(うかが)い、更(さら)には内海(霞ケ浦)の信田氏も筑波郡境に兵を進めて来たという報せを受け、最早下野の支援だけでは常陸を守れぬと判断した。そして五十騎ばかりの手勢を率いて仙道を進み、京を目指したのである。
京に入る手前で、繁盛は比叡山延暦寺に立ち寄り、朝廷への働き掛けを依頼した。しかる後の十一月八日、繁盛は検非違使(けびいし)庁を訪れ、坂東における忠頼、忠光兄弟の暴虐振りを説明し、官符の再発令を求めた。
十二月、摂政家では一つの慶事が有った。左大臣源雅信の娘倫子(りんし)が、四男道長の元へ嫁いで来たのである。道長は雅信から土御門(つちみかど)殿を譲り受け、そこへ移り住んだ。
一方、朝廷では東国の混乱を収束させる為に、人事の変更を行った。繁盛と忠頼を其々(それぞれ)陸奥守、介より解任し、後任には別の者を宛(あ)てる事と決した。
年が明け、永延二年(988)正月の五日、延暦寺が忠頼追討を求める旨を朝廷に奏上した。それを受け、朝廷は京に滞在する繁盛に使者を遣(つか)わし、沙汰を待つ様に告げた。繁盛はこれを謹(つつし)んで受け、暫(しば)し朝廷の動向を静観する事とした。
その月、太政官でも新たに、人事の変更が有った。摂政兼家の長氏道隆が三十六歳で権大納言に昇進し、次子道兼も二十八歳で権中納言に就任した。更(さら)に四子道長は、二十三歳にして兄道兼に並ぶ、権中納言を拝命した。政氏はこの人事を聞き、事は村岡平家有利に運びつつ在ると、安堵の表情を浮かべた。
やがて朝廷より、繁盛の元へ使者が訪れた。その口上に依ると、朝廷は繁盛が忠頼の手の者に、比叡山への大般若経の搬送を妨害された事実は認める物の、忠頼への処罰は行われないとの事であり、更(さら)には陸奥守、介の交代が命じられた。それを聞いた繁盛は憤慨(ふんがい)し、使者に食い下がろうとした。使者は、繁盛が将門の乱で功を挙げたにも拘(かかわ)らず、恩賞に在り付けなかった事を、未だ根に持って居るとの通報が、延暦寺の僧より有った事を告げた。朝廷内に、繁盛に対する疑惑が生じて居るのであれば、最早詮(せん)無き事と、繁盛は朝命を受ける旨を申し上げた。又使者からは、陸奥守に代わる官職の任命が告げられようとしたが、気力を喪失した繁盛は、高齢を理由にそれを断り、散位(さんに)と成った。使者はそれを受け、以後、此度の件に関する参内(さんだい)は許されぬ事を通知し、繁盛の邸を後にした。
一方坂東にも、朝廷の使者が遣(つか)わされた。使者は繁盛の子平維幹(これもと)、平忠頼、藤原千常の三者に、陸奥守、介の解任を伝え、勅命を以て軍を退(ひ)く様に命じた。そして先ず、繁盛支援の為に国境へ兵を押し出して居た藤原千常が、出兵の名目が失われたとして、唐沢山へと帰って行った。続いて平忠頼が、陸奥介に代わる官職を使者に保証され、又先年朝敵とされ掛けただけに、すんなりと軍を武州村岡へと引き揚げさせた。最後に残った平維幹は、首将繁盛が地位を失った事を聞き、軍の士気が下がりつつ在る事を悟って居た。そして村岡軍の撤兵を見届けると、自軍も勅命に従い、常陸水守(みもり)へと撤収した。
斯(か)くして、坂東から奥州に架けて数万の兵が睨(にら)み合い、大乱が勃発の危機を回避する事が出来た。一月(ひとつき)の後、坂東の平穏を確認した朝廷は、平忠頼の元へ使者を遣(つか)わした。そして先の約束通り、忠頼を上総介に任命したのである。前に任官して居た陸奥介は、大国の二等官であった。そして此度の上総介は、実質上は大国の一等官である。忠頼は官職の昇格を果し、常陸平家よりも優位と成った。大国上総は上国の常陸よりも、律令体制下では格が上だからである。
一方、京の政氏の元にも、坂東が危機を脱したとの報せが入り、磐城平家の者は皆安堵の表情を浮かべて居た。そして政氏は、京における己の役目が終った事を悟り、家臣達に陸奥へ帰る仕度を命じた。橘清輔、大村信澄等の若手を起用して当たった大仕事であったが、情勢は宗主村岡平家有利に推移して事が治まり、皆満足気な様子である。政氏は帰国前に、長らく世話に成った藤原相親にも礼を述べて置こうと、相親の間へと向かって行った。
その途中、廊下の向こうより、相親が早足で此方(こちら)に向かって来るのが見えた。表情も些(いささ)か強張(こわば)って居る様子である。政氏は怪訝(けげん)に思い、歩く速度をやや遅めた。一方で相親は、政氏の姿を認めると、更(さら)に早足と成って近付いて来る。やがて政氏の前に着くと、相親は息を荒げたまま、話し掛ける。
「政氏殿、今し方、朝廷より我等に御召(おめし)が有った。」
政氏は急な話に、きょとんと目を見開いた。
「某(それがし)にも、でござるか?」
「其方(そなた)は此度、東国の危機を救った第一の功労者ではないか。必ずや恩賞の沙汰であろう。」
俄(にわか)に相親の表情が和(やわ)らいだ。政氏は半信半疑のまま自室へと戻り、束帯(そくたい)へと着替えた。そして相親やその従者等と共に、内裏(だいり)へと向かって行った。
禁中へ入った二人は、一室へと通され、そこで暫(しば)し待たされた。やがて二人の前に姿を現したのは、権中納言道長であった。直ちに平伏する二人に対し、道長は共の者が箱より取り出した書翰(しょかん)を受け取り、声高に読み始める。
「朝命である。陸奥四郡の大領平政氏、右の者、此度坂東における大乱勃発の危機を逸(いち)早く朝廷に伝え、仍て乱を未然に防ぐ事が叶(かな)った。斯(か)かる功を鑑(かんが)み、恩賞として陸奥国大掾(だいじょう)に任ずる。陸奥の国政を扶(たす)け、彼(か)の地に安寧を齎(もたら)す様努めよ。」
大掾は、国府三等官の筆頭である。政氏は陸奥国内を本拠とし、多くの人脈も有る為に、他国より派遣される守や介よりも、国政に大きな影響力を持つ事が可能と成った。政氏は道長に対し、恭(うやうや)しく礼を申し上げた。
道長は政氏を見詰めながら頷(うなず)くと、次にその視線を相親に移して告げる。
「藤原相親、平政氏と朝廷との間をよく取り持ち、朝政に大いなる寄与有り。仍(よっ)て従四位下大膳大夫に任ずる物なり。」
この時、相親は祖父忠文以来の四位に叙され、式家の中では最高位と成った。相親も深い感謝の念を示すと、道長は二人に任官書を渡し、部屋を後にして行った。
やがて静かに内裏を退出した二人は、邸に戻る途中も、呆然(ぼうぜん)としたままであった。然(しか)し邸に戻り、家臣に伝えると、藤原式家、磐城平家、両家中共に大いに慶び、その日の夜は磐城平家の送別に加え、両家の昇進を祝う宴(うたげ)が、盛大に催される運びとなった。思えば、坂東より奥州へ波及し兼ねぬ大乱に因(よ)り、磐城滅亡の危機を打破すべく、政氏自ら及んだ上洛であった。そして今、敵対勢力である平繁盛は、陸奥守の地位を失い、一方で磐城平家のみならず、味方である村岡平家、藤原式家も栄達に至った。政氏に取っては最良の形で、事を収束する方向へ、事が収まる結果と成った。そう思うと政氏は、杯を持つ己の手が、次第に震えて来るのを感じた。
その日の宴(うたげ)には、藤原式家に所縁(ゆかり)の有る者や、在京の村岡平家家臣もが出席し、大いに賑(にぎ)わった。橘清輔や大村信澄等は、初めての大仕事を成し遂げた嬉しさで、次々と杯を重ねて居る。一方政氏自身の元には、陸奥大掾任官を祝い、続々と祝杯を交しに人がやって来た。その中には近藤家の家臣も居たので、政氏は祖父忠宗とは随分と御無沙汰であった為、祖父の様子を尋ねた。すると、近藤忠宗は先年、病(やまい)を得て亡くなった事を報された。政氏は一通り挨拶を済ませると、宴席を立って外へと向かった。
庭に出て空を眺めると、幽(かす)かに雲が掛かっては居るが、眩(まばゆ)い程の月光の他、幾つかの星が煌々(こうこう)と光を放って居る。政氏は、祖父忠宗の事を思い起して居た。かつて父忠政初陣の折に、瀬戸内海で多数の海賊団を撃破した、剛の者と聞く。その後は、忠政の家臣と成った弟の宗弘を、陰ながら支援し、今日の近藤宗弘を主力とする、磐城水軍結成に繋(つな)がる功労者であった。更(さら)には幼少の頃、母と共に京の藤原滋望邸に居た時、良くかわいがって貰(もら)った事を思い出すと、自ずと涙が流れ落ちるのであった。
暫(しば)し夜空を観賞して居た政氏は、やがて東方に凶兆が現れて居る事に気が付いた。
(坂東で再び、何かが起こったのか?)
政氏は、任官の喜びが瞬(またた)く間に消え去り、何やら悪い予感がして、胸が騒(ざわ)つくのを禁じ得なかった。
*
翌日、政氏は京を発った。既(すで)に暦(こよみ)は弥生(三月)に入り、方々では桜が盛りを見せて居る。東海道は雪融けも早く、季節はすっかりと春の様相を呈して居た。
旅は順調であり、磐城家一行は半月の後には平忠頼の弟、忠通の所領である、相模国鎌倉郡へと到着した。ここからは、忠通が直々(じきじき)に手勢を率いて政氏の護衛を務めてくれて、共に忠頼の居る、下総国相馬郡へと向かった。
相馬御厨(みくりや)の近くの、村岡平家配下の屋敷に、忠頼は滞在して居た。政氏等がその屋敷に到着した時、忠頼自らが迎えに出て居るのが見えた。政氏は忠頼の前に進むと、頭を下げて挨拶をする。
「御久しゅうござりまする。この度上総介への御任官、誠に祝着(しゅうちゃく)の極みと存じ奉(たてまつ)りまする。」
政氏の言葉が終ると同時に、忠頼はその手を取り、真顔で見詰める。
「全ては政氏殿の御蔭ぞ。当家は朝敵より一転、斯(か)かる栄誉に与(あずか)る事が出来た。政氏殿は百万騎にも勝る、頼もしき盟友じゃ。」
忠頼は上機嫌の態で、政氏を屋敷内へと誘う。
「儂(わし)は今、任地上総へ向かう途中故、大した持て成しも出来ぬが。陸奥大掾(だいじょう)殿には、心許(ばか)りとは申せ、礼がしたくてのう。」
政氏は忠頼の好意を嬉しく思い、その後に付いて行った。
屋敷に入ると、三人の若者が並んで座り、礼を執って迎えて居る。皆元服を済ませたばかりの、十代の若武者の様である。忠頼から命を受け、年長者より順に挨拶が有った。三人は何(いず)れも忠頼の子ではあるが、生母が正室である政氏の伯母ではない為に、政氏との血縁は薄い。長男は将常(まさつね)、次男は忠常(ただつね)、三男は頼尊(よりたか)と名乗った。政氏は三人に対し、穏やかに告げる。
「儂(わし)にも、御曹司方と歳の近い子が、二人居る。将来は御身(おんみ)方の時代と成ろうが、末永く両家は、手を携えて居て欲しい物じゃ。」
政氏の言葉を受け、三兄弟は座礼を以(もっ)て、承知の意を表す。そして、長子将常が一族を代表し、政氏を中へと案内した。
やがて、忠頼の上総介、政氏の陸奥大掾任官を祝う宴(うたげ)が、細(ささ)やかながら催された。政氏の席は忠頼の隣に用意され、最早傘下の豪族としてではなく、村岡平家と対等の扱いである。磐城平家の家臣達は、その遇し方に感激し、宴席を通じて磐城、村岡両平家の者は、心から誼(よしみ)を深めて居る様子であった。
その日、政氏は忠頼と同じ屋敷に泊まる事と成った。ここ相馬郡は、政氏の祖先の地であるが、将門の乱の後は平良文の所領と成り、今では相続した忠頼の所領である。宴(うたげ)が酣(たけなわ)を過ぎた頃、忠頼は上総赴任の仕度の為に、政氏に別れを告げて席を立った。代わって長子将常が、父の代行役に当たる事と成った。
やがて将常は、酒が回ると、政氏に愚痴(ぐち)を溢(こぼ)した。
「父上は三人の兄弟の中で、二人の弟には偏諱(へんき)を授けた物の、某(それがし)のみ、賜る事が出来ませなんだ。父上は某(それがし)の事を、疎(うと)んで在すのでござりましょうや?」
将常の言葉を背後で聞いて居た村岡平家の者は、慌てて脇から、言葉に注意を促そうとした。しかし政氏は、微笑を湛(たた)えて将常に告げる。
「将常殿の将の字は、かつて相馬平家が用いし物にござる。初代良将公、二代将門公、共に内政、兵法に優(すぐ)れ、その人望は坂東のみ成らず、京師にも及んで居ったそうな。忠頼様は斯(か)かる先人に肖(あやか)かり、将常殿の成長を願ったのでござりましょう。」
政氏の言葉に、将常は戸惑って居る様子であった。そこで政氏は、更(さら)にもう一言付け加えた。
「将常殿の一文字は、某(それがし)の名の政に通ずる。これも一つの縁にて、今後とも宜しゅう願いたき物でござる。」
将常も漸(ようや)く笑顔と成り、空に成った政氏の杯に酒を注(そそ)いだ。
翌朝は出立なので、宴(うたげ)は亥(い)の刻には終った。磐城平家は祖先の地相馬にてゆっくりと体を休め、翌日辰(たつ)の刻には朝餉(あさげ)を済ませ、出発の仕度を整え終えて居た。
その時、五十騎ばかりの一隊が、政氏の居る屋敷へと向かって来るのが見えた。軍勢の旗印をよく見ると、月星紋である。それに気付いた将常が、政氏の元へ駆け寄って来て告げる。
「あれは我が弟、忠常の手勢にござる。」
それを聞き、政氏は安堵の表情を浮かべて呟(つぶや)いた。
「よもや、常陸を抜ける際の護衛ではあるまいか?」
政氏の京における活動は、磐城、村岡家に益を齎(もたら)した物の、常陸の平家一族から見れば、深い恨みを買う結果と成った。故に常陸国内を通行中に、何時(いつ)襲撃を受けるか、判(わか)った物ではない。磐城家の者は出立に際し、皆緊張した面持ちである。
やがて、屋敷前で軍勢は停止し、その中より忠常が、大門の方へ進み出て来た。そして馬を下りると、屋敷の中へと入り、政氏の前へ歩み出て申し上げる。
「父忠頼より、命を帯びて罷(まか)り越し申した。我が手勢を以(もっ)て、政氏殿を御護り致し申す。」
政氏は慌てて忠常に答える。
「御気持は誠に有難く存じまする。されど、この先の繁盛が支配域は、軍を伴えば、却(かえ)って危うく成り申す。忠頼様の御配慮は我が胸中に留め置き、我等少人数にて、海道を突破致しまする。」
「実を申しますれば、磐城殿の家臣、近藤宗久殿が、常陸国鹿島郡の浦まで、船にて迎えに来てござる。某(それがし)はそこまで御送りするだけにござりまする。」
「何と、宗久が?」
政氏は、村岡家の手際(てぎわ)の良さに驚いた。そして磐城家家臣達は、繁盛の所領を通らずに済む事に、ほっと胸を撫(な)で下ろした。
磐城家は、忠常の護衛を得て直ちに出発し、利根川を渡り、常陸国信太郡へ入った。そこから更(さら)に東へと進み、やがて内海(霞ケ浦)に突き出た岬へ至った。そこには一艘の船が待機し、十余名の水夫(かこ)と兵を従えた将が待って居た。忠常は馬上より、その将に政氏の到着を告げ、将は承知の意を示した。
忠常は手勢の内、信の置ける兵二十騎を船に乗せ、その後磐城家の者にも船へ移る様に促した。そして、船に乗り込もうとする政氏の前へ歩み寄る。
「某(それがし)はこれより、上総の父上の元へ戻りまする。ここからは、信田文国が政氏殿の案内を務めまするが、この者は祖父良文公以来の家臣にて、何卒(なにとぞ)御安心の程を。」
「然様(さよう)でござるか。いや、忠常殿には色々と御世話に成り申した。忠頼様には、御高配に政氏が感謝して居ったと、御伝え下され。」
「承知致し申した。政氏殿の無事な航海を、願って居りまする。」
そう言うと、忠常は配下の兵を纏(まと)め、颯爽(さっそう)と西の彼方(かなた)へ去って行った。やがて、政氏等も信田家の者に促されて船へと乗り込み、全員が搭乗した後、東方を目指して出航して行った。
春の内海(霞ケ浦)は、実に長閑(のどか)であった。漁舟が幾つか浮び、投網(とあみ)で漁をして居る。ある舟では、白魚(しらうお)が大量に採れて居る様子であった。
内海(霞ケ浦)は良き漁場である。利根川河口より鹿島灘近海まで足を伸ばせば、鰻(うなぎ)、鯔(ぼら)、鱸(すずき)、更(さら)には鮟鱇(あんこう)等、様々な海の幸の宝庫と成っている。政氏は、水辺の風景を眺めて心を和(なご)ませながら、京を出立する前に天文に顕(あらわ)れて居た凶兆は、己の見間違いであると思う様に成った。
やがて内海(霞ケ浦)の中央近くまで進むと、南に大きな島が見えた。政氏が珍しそうに眺めて居ると、不意に背後より声がした。
「あれは、浮島と申しまする。」
政氏が振り返って見ると、そこには信田家の当主、文国が立って居た。そして笑みを浮かべ、説明をする。
「浮島近海は海産物が豊かで、鰙(わかさぎ)、海老(えび)、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)、鮒(ふな)等が採れまする。他にもたん貝や田螺(たにし)も採れ、又陸では、大根の生産が盛んでござる。海に因(よ)り隔(へだ)てられし島故、近郡とは一味違う、珍味にござりまする。」
「ほう、それは一度食して見たい物じゃ。信田殿は随分と、御詳しゅうござりまするな。」
「いえ、我が所領にござりまする故。」
政氏は暫(しば)しの間、文国より内海(霞ケ浦)の地理を教わった。しかし、互いの出自に触れる事は無く、二人が実の従兄弟(いとこ)に当たるとは、全く気付く由(よし)も無かった。信田家は未だ、相馬家の嫡流である事を隠さなければ、その身が危うかったのである。
およそ半日を経て、信田家の船は、斎藤水軍の停泊する津へと到着した。途中風雨に見舞われたり、海賊と遭遇する事も無い、順調な航海であった。政氏は内海(霞ケ浦)と、彼方(かなた)に遠望出来る筑波山の風光明媚な景色に、浮世(うきよ)の疲れを忘れ、爽快(そうかい)な心地で、鹿島の津へ降り立った。
津には既(すで)に、小船五艘が停泊して居り、陸では近藤宗久が迎えて居た。そして政氏の元へ駆け付けると、懐かしむ顔をして申し上げる。
「京での御活躍、並びに御栄進の事、磐城の地にも聞こえて居りまする。家臣一同、殿の御帰還を待ち侘びてござりまする。」
政氏は宗久に対して深く頷(うなず)くと、振り返って船上の信田文国に向かい、大きな声で別れと礼を告げた。文国は深々と頭を下げて答礼し、間も無く鹿島の津より去って行った。
政氏は暫(しば)し見送った後、自身も宗久の船へと乗り込み、信田家とは逆に、北方を目指して出航した。宗久は繁盛配下である多珂の水軍に備え、船足の速い小船を選んで居た。更(さら)に各々二十名の兵を乗せた船四艘を護衛に付け、万一の襲来に備えた。
船は南風に乗って、見る見る内に鹿島灘を過ぎて行く。海風を受けながら、政氏は宗久に尋ねる。
「儂(わし)の留守中、何か大事は起らなんだか?」
宗久は苦笑して答える。
「はっ。忠頼様と繁盛奴(め)が、下野をも捲(ま)き込んで対峙した折は、流石(さすが)に磐城の全軍が物々しく、要所を固め申した。特に菊多郡は、国境を挟んで繁盛方と対陣し、緊張の極みでござり申した。されど、殿が摂政家を動かし、当方有利にして戦(いくさ)を食い止めし事が、村岡家を通じて磐城に伝わりし時、郡内諸豪族は挙(こぞ)って殿の成された偉業に驚き、且(か)つ賞賛の声も一入(ひとしお)でござり申した。最早郡内には、殿に抗(あらが)う者等居りますまい。」
確かに、戦(いくさ)を未然に防ぐ事が叶(かな)ったのは、幸いであった。帰国した折、領土の荒廃した様を目にすれば、何(どれ)程心を痛めるであろうか。政氏は北方の海を眺めながら、微(かす)かに笑みが溢(こぼ)れた。
宗久は暫(しばら)く沈黙した後、粛然と政氏に報告する。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。豊間館にて、隠居して居た父宗弘、昨年暮れに身罷(みまか)ってござりまする。」
不意な報を受け、政氏は暫(しば)し放心の態(てい)と成った。そして程無く船より身を乗り出すと、激しく嘔吐(おうと)した。やがて戻す物が無く成ると、政氏はその場にへたり込んで呟(つぶや)いた。
「父上が遺(のこ)されし忠臣を、一人失うてしもうたか。」
傍らで話を聞いて居た大村信澄は、力無い声で申し上げる。
「宗弘様は歴戦の勇将。その御方が、繁盛が陸奥守任官の危機に際して隠居を成されたのは、余程御身体が悪かったと見え申す。時を同じくして隠居なされた邦泰様は、御健勝に在らせられれば良いのでござりまするが。」
俄(にわか)に、船中の空気が暗く成り始めた。政氏は口を拭(ぬぐ)うと立ち上がり、皆に笑顔を見せて告げる。
「久しく船に乗って居らなんだ故、酔ってしもうたわ。」
皆は政氏の心中を察するも、苦笑いしか出来なかった。その時、船首側に居た橘清輔が、大声で叫んだ。
「神城(かじろ)の岬が、磐城の地が見えまするぞ!」
それを聞き、皆は北方を見やると、大津岬の右側に、神城郷の岬と丘が見える。船が北上するに従い、小名浜、菊多浦も見えて来た。船が平潟の江の沖を過ぎた時、政氏は再び自分の国に帰還出来た喜びを感じて居た。そしてそれは、共に京の地で辛苦を共にして来た、信澄と清輔も同じであった。
*
陽が暮れて来た。陽光は徐々に逢隈(阿武隈)山系に遮(さえぎ)られ、海面を金茶に染めている。空も大分、藍色を帯びて来た。このまま小名浜に上陸しては、住吉館に着くのは夜更(よふ)けと成ってしまう。政氏は已(や)むなく豊間浜へと向かい、その日は豊間館に入った。
翌朝、政氏一行は宗久に案内され、近くに在る近藤家の香華院へと赴き、宗弘の仏前に線香を供し、冥福を祈った。その後豊間を発ち、本城住吉へと向かった。
漸(ようや)く住吉館に到着した政氏を、妻子が迎えてくれた。政氏は一時だけ心の安らぎを得られたが、それも束(つか)の間、直ぐ様諸豪族に対し、住吉への召集を掛けた。
郡内全ての豪族がこれに応じ、翌日昼下りには、大館の広間は粗(ほぼ)満員の状態と成った。政氏の召集にこれだけ多くの豪族が応じたのは、初めての事である。
豪族達が平伏する前を政氏は進み、上座に着く。最前列には村岡家と磐城四家が座すのだが、その中に近藤宗弘と、斎藤邦泰の姿が見えなく成った事に、政氏は寂しさを感じた。
政氏は先ず諸将に、留守中領内をよく守ってくれた礼を述べた。然(しか)る後に、京での経緯(いくさつ)を話し、繁盛の脅威が完全に去った事を告げ、加えて、自身が陸奥大掾に任命された旨を伝えた。これを聞いて、多くの諸将より響動(どよ)めきが起り、更(さら)には方々より祝いの声が聞こえて来た。政氏は頷(うなず)きながらも、一旦(いったん)それを制し、話を続ける。
「仍(よっ)て儂(わし)は、今後は所領四郡のみ成らず、奥州全土の政(まつりごと)に加わらねば成らぬ。儂(わし)が多賀城へ赴任して居る間、ここ住吉の城代を選任し、本郡の政(まつりごと)を委任する必要が有るのだが。この役目、村岡忠重を措(お)いて他に在るまい?」
政氏の意見を受け、諸将は近くの者と顔を見合わせて居たが、やがて彼方此方(あちこち)より、異議無しの声が上がり始めた。それを受けて政氏は、満足気な表情を浮かべたが、その直後、当の忠重から反論が出た。
「あいや暫(しばら)く。」
政氏は、忠重から待ったの声が掛かった事を意外に感じたが、平静にその意を尋ねる。
「忠重殿、如何(どう)された?」
忠重が声を上げた事には、政氏のみ成らず、諸将も驚かされた。故にその直後は幾人かが騒(ざわ)ついて居たのだが、やがて皆は忠重の言葉を待ち、俄(にわか)に広間は静まり返った。そしてそれを待って居たかの様に、忠重は口を開いた。
「畏(おそ)れながら言上仕(つかまつ)る。殿が国府赴任中の住吉御城代には、某(それがし)よりも御嫡男、太郎様が相応(ふさわ)しいかと存じまする。」
政氏はその意見に、顔を顰(しか)めた。
「太郎は未だ十四の未熟者。迚(とて)も一郡を託する事は出来ぬ。」
「成程(なるほど)、一介の将であれば、仰せの通りにござりましょう。されど太郎様は、磐城平家の二代目を継がれる御方にござり申す。殿は国府にて御健在。常陸の繁盛一族は、往時の勢いを失いつつ在り。磐城に斯様(かよう)な安泰なる時期が訪れて居る今こそ、二代目を御育てになる又と無い好機かと存じまする。」
忠重が話を終えた後、暫(しば)し広間には沈黙が続いた。政氏は、忠重の言葉を噛み締めて居た。言われて見れば、かつて無かった泰平の時に、後継者を育てて置くのも悪くはない。又、政氏が国府へ赴くに当たっても、村岡軍を主軸に、滝尻、斎藤、佐藤、近藤家の支援が有れば、最早常陸軍相手にも、引けを取らぬ様にも思える。
政氏が忠重を見ると、真剣な表情のまま、此方(こちら)を見詰め続けて居る。その様を見て、政氏は微(かす)かな笑みを溢(こぼ)した。考えて見れば忠重は、主君と諸豪族の支持を得て、無の問題も無く、磐城郡政を統轄する地位に就(つ)く事が出来た。しかしその地位よりも、磐城の将来を選んだのである。
(真の武士。)
政氏は心の中で、忠重をそう称(たた)えた。
政氏の命を受け、やがて広間に長子太郎が召された。太郎は初めて、郡内諸将が居並ぶ処へ入った為、大分緊張して居る様子である。政氏の前まで来て座礼を執ると、政氏より声が掛けられた。
「今其方(そなた)を呼んだ用件は、儂(わし)が多賀城に居る間の、住吉館主兼磐城郡司代行者選定の儀である。儂(わし)は汐谷城主村岡忠重殿を選んだのだが、その忠重殿が其方(そなた)を推薦した。其方(そなた)は如何(どう)思う?」
太郎が表情を強張(こわば)らせながら後方を振り返ると、忠重は穏やかな笑みを湛(たた)えて、太郎を見詰めて居る。又、その隣では磐城四家が一斉に平伏し、太郎への忠誠を誓って居た。それを受け、他の将も続々と頭を下げる。
その様を見た太郎は唾(つば)を飲み、再び父政氏の方へ向き直って答える。
「諸将の推薦を受けたと在れば、全身全霊を捧(ささ)げ、大役を務めたく存じまする。」
そう言って、太郎は頭(こうべ)を垂れた。
斯(か)くして、政氏留守中の守将は御曹司太郎である事が、磐城家の総意として決定された。翌日、太郎は父政氏を烏帽子親(えぼしおや)に元服し、政道の名を与えられた。その光景に、参列して居た村岡忠重は、思わず涙を流した。かつての相馬家当主将門、忠政、そして磐城家現当主政氏と三代に渡り、父が短命であったが故に、烏帽子親を父に努めて貰(もら)う事は叶(かな)わなかった。将門は外祖父犬養春枝(いぬかいのはるえ)、忠政は大叔父で義父と成った平良文、政氏は良文の子忠頼に頼む仕儀と成ったが、それは同時に相馬家の七十年に及ぶ、辛酸の日々を表して居る。しかし今、政氏は四十三歳にして健在であり、その子政道も十四歳の成人と成った。今の安泰を築くまでに、長年辿(たど)って来た苦難の道程(みちのり)を思い起すと、早還暦を過ぎ、六十一の老将と成って居た忠重は、只々感涙に噎(むせ)ぶのであった。
それから三日間、政氏は多賀城への出立の準備に追われる一方で、長子政道に、郡政に関して教えて置くべき事を、時間の許す限り伝えた。政道は、元服を済ませたばかりの若輩の身で、郡主という大役を任される事と成った。故に、限られた時の中で、父より成るだけ多くの物を学ぼうと努めた。
しかし、三日は瞬(またた)く間に過ぎ、愈々(いよいよ)政氏出立の朝を迎えた。供に選ばれたのは、先の京における功績を認められた、大村信澄と橘清輔、加えて五十騎の手勢である。見送りに大手門まで来てくれたのは、政氏の妻子と村岡家、磐城四家に重臣達と、磐城平家の中核を成す者達が揃(そろ)った。
政氏は先ず、村岡忠重を筆頭とする家臣達に、留守中に城代政道をよく補佐してくれる様に頼み、重臣一同はそれに承服の意を示した。三春御前や花形姫、次郎に政氏が別れを告げて居る間、御供に選ばれた信澄、清輔の父である、大村信興と橘清綱が、最後に念を押して、我が子に訓示をして居た。
やがて政氏は、兵の隊列を整えさせ、出発を命じた。政氏は最後、馬上にて政道に、相対して告げる。
「本郡は、其方(そなた)が生まれる八年も前の康保四年(967)、後ろに居並ぶ功臣達と共に、武力を以(もっ)て勝ち得た土地である。」
そして政氏は、左手に握った太刀を政道の前へ差し出し、言葉を接ぐ。
「これは当時、儂(わし)が佩(は)いて居た物であり、我々が命懸けで、今の地位を築くに至った歴史を知って居る。これを其方(そなた)に与える。功臣より多くを学び、創業より難しと言われる守成を、成し遂(と)げよ。」
政道は父の言葉に対して、神妙に返事をすると、恭(うやうや)しくその刀を押し戴(いただ)いた。政氏は尚も、厳粛な顔付で話を続ける。
「其(そ)は相馬武士の魂じゃ。それを以(もっ)て母や姉弟のみ成らず、磐城郡民を護れ。」
そして馬を返しながら、政氏は最期の言葉を伝えた。
「儂(わし)の国府滞在は、長引くやも知れぬ。以後は郡政において、父を頼る事の無き様。」
「ははっ。必ずや、父上の御志を継いで見せまする。」
政道も幼い頃から、郡民の為に領内開発に励んで来た父を見て育った。政氏はその真摯な眼指を見てを安堵し、隊の中へと戻って行った。
程無く政氏の軍勢は、北へ向けて住吉を進発して行く。北方の空は青く晴れ渡り、春の陽射しが、逢隈(阿武隈)の山並に降り注いで居る。その中を、一羽の雉(きぎす)が飛翔して居た。
片や、南方からは雨季が迫りつつ在った。この年、京に尾張国の農民が大挙して押し掛け、朝廷に対し、国司の不正を訴える解文(げぶみ)を差し出すという騒動が起きた。解文の内容は、国司が不法に高い租税を取り、一部を私財として居る事や、良質の絹を己の元に残し、悪質な物を国へ納めて居る事等、三十一ヶ条に及んで居た。摂政兼家は、尾張国司藤原元命(もとなが)を解任し、その旨を農民達に伝えて帰国させ、事を治めるに至った。兼家は、斯様(かよう)に農民の不満が募(つの)って居る時に、平忠頼追討軍を出陣させて居たならば、徴兵の対象であった尾張の民の反感は、更(さら)に高まって居たやも知れぬと考えた。背筋を寒くなる一方で、あの時に追討軍を出さずに、東国の混乱を無事治めた権中納言道長の献策を、兼家は頼もしく感じ始めて居た。
転んでも徒(ただ)では起きぬとは、この頃に生まれた言葉である。貪欲な国司の代表たる藤原元命が、ある日輿(こし)から落ち、そのまま坂の下まで転げ落ちた所、そこに茸(きのこ)等が生えて居るのを見付け、それ等を収穫した後に、坂を上がって来たという逸話(いつわ)に依る。それ程に、利を貪(むさぼ)る国司が多かった事を物語って居るが、農民に訴えられて解任された元命は当時、既(すで)に四年の任期の内三年を務めて居た。任期を一年残して解任されただけで、他に処罰を受ける事は無かった。その刑の軽さ故に、国司の不正が止む事は無かった。各地で農民は疲弊し、政(まつりごと)は腐敗の一途を辿(たど)って居た。