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第十八節 祖父の仇敵
明けて天延二年(974)、奥州磐城にも西国に遅れて、春が訪れた。平地には僅(わず)かに雪が残って居るが、満作の花が一足先に咲き誇って居る。その花は残雪の上に舞い、白色の原に幽(かす)かな黄色を加えて居た。漸(ようや)く、黒白二色の世界に色が付き始めた頃、一騎の武者が菊多の国境を越え、村岡忠重の守る汐谷城へと入って行った。
やがて忠重が城門より姿を現し、五騎の供を従えて御巡検道を北に進み、一路住吉館を目指した。又四騎の早馬も、相次いで城を発ち、其々(それぞれ)御巡検道と浜街道を、北方に駆けて行った。
住吉に入った忠重は、早急に政氏へ拝謁(はいえつ)を願い出た。幸い政氏は政庁で、重臣達と小名浜道の整備と、玉川治水に関する評議を行って居たので、忠重はそこへ通された。程無く政庁に、忠重の急な来訪が告げられ、広間は俄(にわか)に騒(ざわ)ついた。されど政氏が、「通せ」と強い口調で命ずると、広間は途端に静まり返った。間も無く、ドスドスと足音を立てて入室し、入口で礼を執る忠重を見て、政氏はきょとんとしながら声を掛けた。
「忠重殿、如何(いかが)なされた。菊多にて、何ぞ一大事が出来(しゅったい)致したか?」
忠重は呼吸を整え、無駄に諸将を動じさせぬ様、沈着と話し始める。
「申し上げまする。先程汐谷城に、我が兄忠頼の使者が、急報を告げに参り申した。故に、至急殿に御伝えするべく、参上致した次第にござりまする。」
「ほう。して、忠頼殿は何と伝えて参られた?」
「はっ。本年、新たに陸奥守に就任せしは、平貞盛なりと。」
住吉館の重臣の多くは、政氏の磐城入封後に仕えた、土豪の者達である。平貞盛に関しては、南に所領を接する常陸の勢力であり、政氏に反抗した勢力が頼みとした人物、程度の認識しか無い。そこで忠重は、これが磐城家に取って如何(いか)程大事なるかを、政氏を始め、重臣達に説明し始めた。
「某(それがし)が未だ生まれる前の延長八年(930)、殿の祖父に在らせられる将門公は、相馬家の所領下総三郡を、相続なされ申した。されど、父君良将公亡き後、その所領を後見人として治めて居た伯父国香等は、将門公御成長の後も所領を返さず、戦(いくさ)と成ったのでござる。承平五年(935)、国香は将門公に因(よ)り討たれたのでござるが、天慶二年(939)に国香の子貞盛が、常陸の藤原維幾(これちか)と共に、将門公に戦(いくさ)を仕掛け申した。将門公がこれを返り討ちにして、常陸国府を攻め落してしまったのが、東国の乱の発端でござった。翌天慶三年(940)、平貞盛は、下野藤原千常の父秀郷と共に将門公を攻め破り、相馬平家はここに一時、滅亡の憂(う)き目に遭(お)うたのでござる。」
政氏は、祖父将門が平貞盛の軍に討たれた事は聞いて居た。されど、貞盛という人物を見た事が無く、父忠政の記憶すら無い為に、仇(かたき)という感情は起らなかった。それを見透かしてか、忠重は更(さら)に話を続ける。
「当家は今、武蔵の村岡平家と同盟を結んで居り申す。その村岡家が、常陸の平貞盛と対立関係に在る以上、当然貞盛は、当家を敵と見做(みな)してござりましょう。又、貞盛が国府多賀城に入れば、常陸を任せて居る弟繁盛と連携して、磐城を南北より挟み討つ事も出来まする。貞盛は三十余年も前に、八千騎を従えた将門公を討った実績がござれば、今漸(ようや)く磐城を統一し得たばかりの当家を討つ力等、充分に備えてござる。」
これを受けて、評議に加わって居た大村信興は、大きく頷(うなず)いた。
「確かに、平貞盛が当家に係る因縁を、快く思うべきも無く。陸奥守の威光を以(もっ)て、当家を潰(つぶ)しに掛かる事は、容易に想像が付き申す。目下、磐城四家に因(よ)り抑え込みし対抗勢力が、その力を盛り返す事が懸念されまする。」
斎藤邦衡は、議場の雰囲気が重く成るの案じ、軽い口調で希望的観測を述べる。
「平貞盛が陸奥守に就任したとは申せども、都の気候に慣れた者に、奥州の寒さは殊(こと)の外応え申す。最早七十を疾(と)うに越えたる老人なれば、遥任(ようにん)致す事も考えられまするな。」
遙任とは、国主が任地へ赴かず、家臣に国政を任せる事である。政氏は皆の意見を一通り聞いたが、やはり強い懸念を抱く者が多かった。それを受けて、政氏は忠重に命じる。
「忠重殿。貞盛が遥任するか否(いな)かは別として、やはり菊多、常陸多珂の国境が物々しければ、徒(いたずら)に陸奥守の気分を害しよう。汐谷城の守備兵を、幾(いく)らか山田郷辺りへ回して置く様に。又、陸奥守が磐城を通過致す時、御事(おこと)には私と共に、陸奥守一行の案内を務めて貰(もら)おう。」
「ははっ、承知仕(つかまつ)り申した。」
そう答えて忠重は、自軍の配置を変えるべく、汐谷へ戻ろうと、立ち上がろうとした。その時、ふと思い出した事を、政氏に申し上げた。
「磐城四家へは、既(すで)に早馬にてこの事態を報せ、殿の御下知を待つ様にと伝えてござりまする。何卒(なにとぞ)、早急に御沙汰を下されまする様、御願い申し上げまする。」
「相解った。」
政氏の返事を聞くと、忠重は一礼して、己の城へと戻って行った。その後ろ姿を見ながら、政氏は腕組みをして首を捻(ひね)った。
やがて住吉館より、磐城四家に通達が成された。内容は、貞盛方の動きが判(わか)るまで、取り敢(あ)えずはこれまで通りの統治を行う様に、との下知であった。
汐谷城主村岡忠重は、貞盛と敵対する忠頼の実弟であるので、政氏と並び、先方が警戒して来る人物であると思われた。仍(よっ)て、陸奥守貞盛との無用な対立を避けるべく、恭順の意を表す必要が有った。その為に、街道を抑える位置に在る汐谷城の兵を、目の届き難い山田郷へと移し、僅(わず)かな兵を率いて政氏と共に、国司を迎える事と成った。
汐谷城兵の移動を終えた忠重は、只政氏からの下知や、兄忠頼からの報を待つ他に、己の配下を常陸へ潜(もぐ)り込ませた。そして、平繁盛の居城、水守(みもり)付近の動向を探ったのである。
一月(ひとつき)後、奥州南部にも桜が咲き、平地では残雪も溶け、すっかり春の装いを呈して居た。斯(か)かる長閑(のどか)な日和(ひより)の下、一騎の早馬が汐谷城へ駆け込んだ。常陸に放った密偵が急ぎ戻ったと聞き、忠重はその者を、直ぐに己の元へと呼んだ。密偵は、未だ呼吸が整わぬ様子であったが、忠重とその重臣が居並ぶ広間へと通され、その入口にて座礼を執ると、息を荒げたまま報告する。
「申し上げまする。陸奥守平貞盛、十日前に筑波郡の水守城に入り、その翌日に新治郡に移って一千の兵を集め、本日早朝に街道を北上し始めましてござりまする。今頃は久慈郡より、多珂郡へ入った辺りかと存じまする。」
「うむ、御苦労であった。下がって休め。」
家臣の一人がそう告げると、密偵は一礼して、広間を辞して行った。
忠重は貞盛進発の報を、直ちに政氏へ送った。その返信は半日後に届けられ、政氏自ら汐谷に入るべく出発した旨が記されて在った。政氏は住吉館を大村信興に任せ、臨時に本拠を滝尻館に遷(うつ)して居た。仍(よっ)て、後一時も有れば、汐谷へ到着する筈(はず)である。
政氏を待つ間忠重は、目下平穏である陸奥に、何故貞盛が一千もの大軍を伴うのかを思慮して見た。しかしそれは如何(どう)考えても、磐城家に対する警戒心としか考えられない。又、常陸には他に、二千を超える兵が待機して居る。貞盛が国府に入って更(さら)に兵を募(つの)れば、五千を超す兵力で、磐城を南北より挟撃する事が出来る。忠重は、一瞬さえも貞盛に隙を見せては成るまいと、強く心に誓った。
やがて政氏が、斎藤邦衡と黒沢政之以下、僅(わず)かな手勢を率いて汐谷城に到着した。忠重も二人の兵を供に、政氏の一行と合流して、城を出立した。総勢十余騎と成った一行は、街道を南下し、蛭田川の辺(ほとり)にて待機した。そして二人の兵を選び、貞盛が奈古曽関(なこそのせき)東方海沿いの間道を取るか、それとも西方酒井郷方面の本道から来るかを探(さぐ)る為、国境へ遣(つか)わした。
しかし日が暮れても、貞盛の軍勢は姿を現さなかった。仕方が無いので、その場に二人の兵を残し、国境を探りに行った兵が戻って来た時に備えつつ、政氏等は西方に建つ菊多郡衙(ぐんが)跡に入り、夜を明かす事と成った。
*
翌朝卯(う)の刻、国境を探らせて居た兵が、朝靄(あさもや)の立ち籠(こ)める中、旧郡衙邸に飛び込んで来た。
「申し上げまする。常陸勢一千、本道より国境を越えましてござりまする。」
その声を聞き、政氏等は蒲団(ふとん)から跳ね起きた。皆、寝衣(ねまき)に着替えて居なかったので、手間無く出発の準備が整った。一行は馬を駆って急ぎ、浜街道を目指した。
再び蛭田河畔(かはん)に戻って来た頃、朝靄は俄(にわか)に晴れ出した。そして政氏の目に映ったのは、街道を北上して来る大軍の姿であった。政氏は貞盛の心中を量り兼ねて居たが、その脇で忠重が、小声で告げる。
「貞盛はやはり、当家を敵と見做(みな)してござりまする。それ故に斯(か)かる大軍を率い、又当家の領内にて夜を迎える事の無き様、早朝に本郡へ入ったのでござりましょう。」
政氏は、忠重の言葉を噛み締めて返す。
「では、当家に警戒心を持たれたまま多賀城に着かれては、早々に潰(つぶ)しに参るであろうな。」
「然様(さよう)。ここで多少なりとも貞盛の警戒心を緩(ゆる)めて置けば、何(いず)れ当家へ毒手を伸ばすにしても、急(せ)いて仕掛けて来る事は有りますまい。」
政氏は忠重の言に頷(うなず)くと、南を向いて、迫り来る大軍を待ち受けた。
やがて常陸軍の先鋒隊が、政氏等十余名の姿を発見し、馬を駆ってやって来た。政氏一行は道の中央で跨(ひざまず)き、礼を執って迎える。尖兵(せんぺい)は馬上にて尋ねる。
「貴殿等は何者か?」
其を政氏が答える。
「某(それがし)は本郡の大領を務める、平政氏と申しまする。陸奥守様が当地を御通りに成られると聞き、御挨拶と郡内の案内を致したく、この場にて御待ち申し上げて居りました。」
「然様(さよう)でござったか。ではこれより殿に御伝えして参る故、貴殿方は道の端に控えられ、暫(しば)し待たれよ。」
そう告げると、その武者は本隊へ駆け戻って行った。程無く、常陸軍の前衛が政氏等の脇を通り、街道を北上して行った。前衛の数だけでも、菊多の村岡軍に匹敵する規模を誇って居る。道端に控えながら政氏と忠重は、背筋が寒く成るのを覚えた。
その後、常陸の中軍が、政氏の前を通過し始めた。やがて十騎程の将が固まって現れ、その内の一人が号令を掛け、一千騎の行軍を止めた。そして、その三十路(みそじ)程の将が、騎上したまま尋ねる。
「某(それがし)は、常陸国筑波郡水守城主平繁盛が子、兼忠と申す。磐城郡司を務める平政氏殿とは、貴殿の事か?」
「ははっ。」
政氏が畏(かしこ)まって答えると、隊列の中から又一騎、武者が駒を進めて来た。政氏が見上げると、齢(よわい)は疾(と)うに七十を超えて居ると思(おぼ)しき、老人であった。そして老将は、政氏を見据えながら口を開く。
「そうか。其方(そち)が政氏か。確かに何処(どこ)と無う、相馬家の顔をして居るわ。」
老将は馬を止め、海を眺めながら政氏に告げる。
「余が陸奥主貞盛じゃ。存じて居るやも知れぬが、其方(そち)の祖父将門殿とは、幾度も戦った。その頃を思い起こすと、己の身が熟(つくづく)老いたと感じられる。」
貞盛は溜息を吐(つ)くと、再び政氏に視線を向ける。
「聞けば、其方(そち)が我が軍を迎えに出たのは、磐城郡内を案内してくれる為だそうな?儂(わし)は本日中に、標葉(しめは)、行方(なめかた)辺りまで辿(たど)り着きたい故、宜しく頼む。」
「はっ。承知仕(つかまつ)り申した。」
政氏は深く頭を下げると、立ち上がって、後ろに控える家臣に命じて、河畔(かはん)に待機させて居た馬を曳(ひ)いて来させた。その間、貞盛は兼忠に政氏等への対応を任せ、自身は隊の中へと戻って行った。政氏の元に馬が到着し、政氏以下が皆騎乗すると、兼忠は政氏の側に駒を寄せて告げる。
「某(それがし)が前軍の将を仰せ付かった故、付いて参られよ。」
そう言うと、兼忠は五騎の家臣と共に、前軍を目指して駒を走らせる。政氏等もその後に続くべく、手綱を捌(さば)いた。
磐城十余騎は、貞盛軍の先達(せんだつ)を務め、菊多郡を北上して行く。やがて汐谷城の麓(ふもと)まで来たが、監視の兵は疎(まば)らであり、物々しさも感じられず、構造の割には堅牢さを感じない。兼忠は怪訝(けげん)そうな顔をして尋ねる。
「見た所、この地は街道を抑える要衝の地にして、縄張(なわばり)も先ず先ずの出来と見受けられる。されど、駐在する兵の数が少ない様に見えるのだが。」
問いを受けて、忠重が兼忠の側に進み寄る。
「畏(おそ)れ乍ら、某(それがし)は彼(か)の汐谷城主を務める村岡忠重と申し、政氏様より菊多郡の政(まつりごと)を預かりし者にござりまする。本郡はその大半が宮家の荘園にて、当家の支配下に在る地は殆(ほとん)どござりませぬ。入部当初こそ、斯(か)かる城を築いて治政に備え申したが、今では無用の長物にござりまする。」
忠重の説明を聞きながら、兼忠は尚も訝(いぶか)し気な顔をして、城を見上げて居た。
浜街道と御巡検道の分岐点に来た時、政氏は迷わず浜街道へ進路を取った。しかし兼忠は、そこで直ぐ様政氏を呼び止めて尋ねる。
「此方(こちら)にも整備された道が在るが、方向的に見れば、ここを行った方が早いのではないか?」
政氏は馬の向きを変え、兼忠に正対して答える。
「この道は、途中で山の中を通過する為に上り下りが多く、又狭隘(きょうあい)な処も有る故に、些(いささ)か危険を伴い申す。それに比べ、此方(こちら)は浜街道、別称を海道といい、古来より当地方の主要な道として、用いられて参り申した。」
「然様(さよう)であったか。」
兼忠は政氏の説明を聞き、すんなりと承知した様子であった。一隊は汐谷城の西麓を、続々と北上して行く。その先頭に居る政氏と忠重は、安堵の表情を浮かべて居た。もしも御巡検道を通らねば成らなかった場合、開発が進む鳥見野原の製鉄所や、第二の拠点滝尻館といった、貞盛方が南方より攻め寄せて来た場合に、重要な防衛線と成る処を、悉(ことごと)く見られてしまう所であったからである。
その日は天候も良く、陽が西の方に掛かり、夕焼けの色を呈し始めた頃には、郡内最北端の楢葉郷へと達して居た。そして富岡川を渡った先で、政氏は先達(せんだつ)の役目を終えた。兼忠は先鋒隊を止めると、磐城十余騎を連れて中軍の貞盛の元を訪れ、郡境に達し、磐城家が案内役の務めを終えた事を報告した。眼前に平伏する政氏を見下ろしながら、貞盛は淡々と政氏に告げる。
「本日は我が軍の先達を務め、大儀であった。御蔭で、斯様(かよう)に早く標葉(しめは)郡に入る事が叶(かな)い、嬉しく思う。」
政氏は貞盛の言を受けて深々と頭を下げ、別れの言葉を申し上げる。
「当方こそ、多少なりとも陸奥守様の御役に立てましたる段、真に以(もっ)て恭悦(きょうえつ)の至りに存じ奉(たてまつ)りまする。陸奥守様に置かれましては、多賀城までの道程は未だ遠うござりますれば、呉々(くれぐれ)も道中御気を付けの上、無事入府される事を願って居りまする。」
そう述べて政氏が下がると、平貞盛軍一千騎は再び行軍を開始し、磐城郡を去って行った。
それを見届けて政氏等は馬に跨(またが)り、楢葉館を目指して引き返し始めた。政氏は江藤玄篤に、主力を率いて長友館へ移る様に命じて居た。長友館は街道より外れた、仁井田川中流域の丘に築かれて在るので、此度貞盛の目には届いて居ない。その代り、今夜の宿に予定している楢葉館には、僅か十騎程の兵しか配備されて居なかった。
楢葉館への帰途、斎藤邦衡は不安気な表情を浮かべて呟いた。
「此度は態(わざ)と貞盛方に、当方の兵力不足の観を植え付けたが、貞盛方は油断するのでは無く、逆に手薄と見て、食指(しょくし)が動くのではあるまいか?」
その声が耳に入った忠重は、邦衡を呼び寄せ、馬上にて諭(さと)す。
「良いか?貞盛はかつて、将門公を幾度も逆賊に仕立て上げ様とし、遂(つい)には計略を以(もっ)て将門公を討つに至った。今、我等が貞盛方と対立致さば、当家も又、国守に刃向かう逆賊とされてしまうであろう。これより四年間、我等は国家の体制上、貞盛の下に組み込まれる。貞盛はこの間、その地位を利用して、当家を潰(つぶ)しに来る積(つも)りであったであろう。されど、当家を然程労せずして潰せる勢力であると思わせて置けば、近日中に全力を挙げて、攻め寄せて来る事は有るまい。」
政氏は忠重の意見に頷(うなず)いて、両者に告げる。
「当家に取って最悪の事態は、貞盛が陸奥守の名の下、当家を朝敵に仕立て上げ、陸奥国府軍、更(さら)には鎮守府の軍を率いて、攻め来(きた)る事じゃ。斯(こ)う成れば、かつての将門公率いし相馬八千騎を擁せども、怖らく勝ち目は有るまい。我等は頓(ひたすら)に貞盛を油断させ、陸奥守の任期が終るのを堪(た)え忍ぶのみじゃ。」
その言葉に、忠重も邦衡も、緊迫した面持ちで応じた。
政氏は内心、斯(か)かる事態を迎える前に、磐城を平定して置く事が叶(かな)ったのは、実に不幸中の幸いであると感じて居た。ふと、藍色が深まって行く宵(よい)の空を見上げると、一等星がちらほら、光を放ち始めて居る。次第に多くの星が満天を輝かせつつ在るのを、政氏は楽しみつつ眺めて居たが、突如、その表情は凍り付いた。北方に、争乱の兆しが顕(あらわ)れて居たのである。しかし、それは天下を揺るがす程の物ではない。政氏は多少安心はした物の、暫(しばら)く胸騒ぎが止まなかった。
*
翌天延三年(975)、磐城家には一大慶事が齎(もたら)された。政氏の室、三春御前が男子を出産したのである。後継ぎの誕生に、政氏は大層喜んだ。そしてその子に嫡子の意を込めて、太郎と命名した。住吉館中が慶賀に沸き、報せを受けた村岡忠重や磐城四家も、次々と住吉を訪れた。
久方振りに、磐城家の重臣が住吉に揃(そろ)った。重臣達は忠重を先頭に、四家がその後に続き、大館(おおだて)の政庁広間にて、政氏に拝謁(はいえつ)した。
外は春の陽気であり、暖かな風が吹き込んで来る。又、仄(ほの)かな陽射しが心地好い。斯(か)かる爽(さわ)やかな気候の中、忠重は大声で祝辞を述べる。
「御目出度(おめでとう)ござりまする。」
それに倣(なら)い、後方の重臣達も声を揃(そろ)えて申し上げた。重臣達の声は皆重厚であり、腹にずっしりと響く。政氏は、磐城開拓で苦楽を共にする重臣達の健在振りを見て、頼もしさを覚えた。郡内各地の統治を任せて居る重臣達が、一堂に揃う事は、年賀の行事等を除(のぞ)けば、久しく無い事である。政氏は久々に集まった、心置きの無い家臣達との話を楽しんだ。
やがて話題は、郡内の情勢に移った。気に懸かったのは、随所で野盗の動きが活発に成って居る事であった。ここ数年は大した凶作も無く、又民への救済活動をも行って居る為、多くの民が食えずに、身を貶(おと)したとは考え難かった。しかし四家の話を聞くと、郡内の野盗の数は数百に上る模様である。政氏は首を捻(ひね)りながら呟(つぶや)く。
「他所の野盗の一団が、磐城を比較的豊かと見て、移り住んで参ったか?」
他の者達も、その辺りかと頷(うなず)いて居た。しかし無辜(むこ)の民を襲う野盗を、野放しにして置く訳には行かない。政氏は、重臣達に言い渡した。
「郡内に野盗共を、のさばらせて置く事は成らぬ。各自管轄地内の見回りを強化し、野盗の塒(ねぐら)を見付け、領内より一掃する様。」
「ははっ。」
忠重と磐城四家は、一斉に平伏した。
そして話題は、再び若君誕生の事へと戻り、広間の雰囲気は和(なご)やかな物と成って行った。かつて郡内に割拠して居た、政氏に抗(あらが)う豪族達を悉(ことごと)く降した今、野盗等は脅威には映らなかった。
やがて忠重や磐城四家は、各々の居城へと戻って行った。その後、政氏は大村信興を中心とする近習と、昼は領内を巡って新田開発の為に鍬(くわ)を振い、夜は館にて開発の計画を練った。玉川治水の完成には、この先未だ数十年を要すると見込まれた。故に、水害が発生しても被害を受け難く、更(さら)に灌漑(かんがい)用水を備えた新たな地を開発し、出来得る限り、洪水の被害を軽減しようとしたのである。しかし新田開発計画は、旱魃(かんばつ)の対策には成らない。未だに、大規模治水工事無くして、完全な災害対策は見出せずに居た。
政氏は、領内開発には何が必要なのかを見極めるべく、頻繁(ひんぱん)に彼方此方(あちこち)を見て回った。その日は釜戸川沿いの平地で、未だ開墾されて居ない土地を調査すべく、滝尻館より上流方面へと、足を伸ばした。釜戸川流域は、両岸に広大な山林を擁して居る故に、林業を生業(なりわい)として居る者が多い。この未開発の地を水田とした場合、二千石に及ぶ収穫が見込まれる事が判(わか)った。この地域の開発に力を注げば、滝尻の米蔵は大いに潤(うるお)う。政氏は御斎所街道の瀬峯という村で周囲の山河を眺めながら、その胸中には希望が膨らみつつ在った。
その刹那、政氏の右頬(ほお)に一陣の風が走った。驚いて振り返ると、直ぐ隣に居た家臣二人の体に、矢が刺さって居る。一人は足を射貫(いぬ)かれて座り込み、もう一人は胸を射貫かれ、そのまま倒れた。政氏は驚いて、矢が飛んで来た森の方を振り返ると同時に、第二の矢が放たれた。
政氏は左腿(もも)に矢を受け、その場に倒れ込んだ。それを見た大村信興は、慌てて政氏を背負い、供の武士十余名に向かって叫ぶ。
「退(ひ)けっ。背後の森に身を隠せ!」
信興の声を聞き、家臣達は急ぎ森の中へと駆け込んだが、その間に放たれた第三の矢に因(よ)り、三名が背後に矢を受けて倒れた。
何とか森の中へと逃げ込めた政氏等であったが、矢が飛来して来た方を見ると、賊の一団が川を渡り、続々と此方(こちら)へ押し寄せて来る。その数は百にも上る、大規模な野盗団であった。
「最早これまでか。」
政氏がそう呟(つぶや)いたのを聞いた信興は、慌てて家臣の一人に、政氏を担(かつ)いで逃げる様指示した。
その時、野盗団の側面より無数の矢が襲い、十名程がばたばたと倒れた。矢は街道側より飛来して居り、その方向を見ると、五枚笹紋の旗を掲(かか)げた、村岡軍五十騎の姿が在った。村岡軍は、不意を衝かれて動揺する野盗団に突撃を開始し、瞬(またた)く間に蹴散らした。
粗方(あらかた)賊を撃滅した事を確認すると、信興は村岡軍に手を振った。村岡軍はその場にて停止し、将と護衛の十騎ばかりが、信興の方へ駆け寄って来る。よく見れば、村岡軍の将は当主忠重であった。忠重は信興の前で馬を下り、歩み寄って告げる。
「昨日、家臣の一人が、当地方に賊の一団が潜入したと報せて参ったので、山田郷に留め置いて居た手勢に、見回りをさせて居たのだが。大事は無かったか?」
信興は、興奮した様子で答える。
「殿が、足を射貫(いぬ)かれて、傷を負っておわしまする。」
「何じゃと?」
忠重は驚いて、森の中へ踏み入ると、腿(もも)に矢が刺さった姿の政氏を見付けた。
「おお、何とした事じゃ。」
忠重の顔を見た政氏は、力無く笑う。
「忠重殿か。よくぞ我が窮地を救ってくれた。礼を申す。」
政氏の顔には汗が噴き出し、激痛に堪(た)えて居る様子が見て取れた。
「矢を抜きまする故、暫(しば)しの我慢を。」
政氏が歯を食い縛りながら無言で頷(うなず)いたのを見て、忠重は矢が貫通して居る箇所の袴(はかま)を破った。患部を見ると、矢は腿(もも)の端を貫いて居る。
「これは良うござった。骨に異常は無い様でござる。」
そう言うと、忠重は力を込めて矢を引っこ抜いた。政氏の表情が苦痛に歪(ゆが)む。忠重は急いで、傷口を布できつく縛(しば)り、止血を施した。
忠重は政氏を背負い、家臣と共にゆっくりと馬へ乗せた。忠重が共に騎乗し、政氏の体を支える。そして急ぎ、隊を滝尻館まで引き揚げさせた。帰途、忠重は政氏の体を抱えながら、ふと初陣の頃を思い出した。先代忠政は、西海の戦(いくさ)で負った傷がその体を衰弱させ、やがては若い命を奪って行った。忠重は政氏を見詰めながら、あの時の覆轍(ふくてつ)、繰り返すまじと誓った。
滝尻館に到着した政氏は、急ぎ薬師(くすし)の手当を受けた。幸い傷は浅く、暫(しば)し安静にして居れば、歩行に支障は無く成るとの事である。それを聞いた家臣一同は、ほっと胸を撫(な)で下ろした。
政(まつりごと)は再び村岡忠重が、滝尻館に在って代行する様、政氏は忠重と近習達に言い渡した。忠重以下はその旨承服の意を示すと、礼を執って政氏の寝所を後にした。そして政庁広間へ入り、今後の方針を議論する事と成った。
忠重が、此度賊の襲撃を受けた際の、味方の犠牲を確認すると、五人が重軽傷、二人が死亡した事が報告された。皆政氏によく仕えた家臣であったので、重臣達は心を痛め、暫(しば)し広間には沈黙が続いた。
やがて最初に口を開いたのは、襲撃の場に居合せた、大村信興であった。
「身形(みなり)は確かに野盗の様であったのだが、一体何故に、一目で武士と判(わか)る我等を襲って参ったのか?」
それに対して、斎藤邦衡が腕組みをしながら答える。
「考え得る事は二つ。一つは身分が有る故に、高貴な物を身に付けて居ると見られた事。もう一つは、政氏様を快く思わぬ者が、ならず者を傭(やと)い、暗殺を企(くわだ)てたる事。」
多くの者が、その言に頷(うなず)いた。そして近藤宗久が、思う所を述べる。
「最近、郡内に野盗が蔓延(はびこ)り出したとは聞いて居たが、郡司様が襲われる様では、放置出来ぬ忌々(ゆゆ)しき事態かと存ずる。斯(か)く成る上は、住吉、滝尻、村岡家、磐城四家の総力を挙げて、賊を撃滅する他はござらぬ。」
政氏負傷を聞いて、内心憤(いきどお)りを感じて居た家臣達に、この言葉はその心を奮(ふる)い起たせた。
「異議無し。」
皆は強い口調で挙(こぞ)って唱え、忠重の裁可を待つ。
忠重には、一つの懸念が有った。磐城で大規模な兵力を動かす事に因(よ)り、陸奥国府を刺激してしまう事である。治安の悪化を理由に、国司貞盛は良くて軍政への介入、下手(へた)をすれば、政氏の所領召し上げへ動く怖れが有った。忠重は、不用意に動いて裏目に出る事を避ける為、諸将へ申し渡す。
「此度野盗の群れと一合戦仕(つかまつ)ったが、彼奴(あやつ)等は兵法を知らず、結束も弱く、刀の使い方も成って居らぬ者達ばかりであった。殿は不意を衝かれて不幸な目に遭(あ)われたが、備え有れば恐るるに足りぬ。皆には管轄の区域を確と見回って欲しいが、斯(か)かる農繁期に農民を駆り出せば、殿の人望に傷が付こう。皆、各自の手勢のみにて、賊を打ち滅ぼす様。」
「ははっ。」
重臣達は忠重の意見に賛同し、広間を後にして行った。忠重はその場に独り残り、不安気な面持ちで座り続けて居た。何か、嫌な胸騒ぎがして居たのである。
*
十日後、磐城郡境楢葉郷に、平兼忠率いる五百の軍勢が現れ、街道を南下しつつ在ると、江藤玄篤より滝尻へ報せが入った。忠重は館の者に、騒がぬ様指示を下し、泰然と国府軍の到着を待った。
やがて国府軍の軍使が滝尻に到着すると、忠重は城門を開いて、国府軍を迎えた。大手門の入口にて、忠重以下の重臣達が礼を執って控えて居た所へ、間も無く兼忠が、数人の供を連れて現れた。そして忠重の前に歩み寄って来たので、忠重は穏やかな顔で一礼する。
「ようこそ御越し下され申した。さあ、奥へ御上がり下され。」
兼忠等は無愛想に「うむ」と答えると、忠重の後に付いて、ずかずかと上がり込んで来た。
忠重は兼忠を広間ヘ通すと、下座に控えて礼を執った。兼忠は上座にどかりと座り、その側近達も、手前に並んで腰を下ろす。
皆が座り終えたのを見て、忠重はすっと頭を上げ、粛々とした様子で兼忠に尋ねる。
「此度の突然なる御来訪、何ぞ一大事でも出来(しゅったい)致しましたか?」
しかし、兼忠は黙ったまま辺りを見渡し、忠重に問う。
「郡司、平政氏殿の姿が見えぬが。」
「ははっ、先日足に御怪我を成され、今は別室にて治療に当たってござりまする。」
「ほう。然様(さよう)であったか。」
兼忠は俄(にわか)に険しい面持ちと成り、忠重を見据える。
「実は先日、本郡の者が国府に現れ、磐城郡内に賊が跋扈(ばっこ)して、困り居るとの報せが有った。陸奥守様が、郡司は如何(いかが)して居るかと尋ねられると、賊を成敗する力も無く、逆にその襲撃を受けて負傷し、動けぬ有様との事。陸奥守様は甚(はなは)だ御懸念遊ばされ、様子を調べるべく某(それがし)を遣(つか)わされたのじゃ。」
忠重は内心、やはり陰謀であったかと思ったが、表情を変えずに答える。
「当家もここ一か月、賊の出没が頻繁(ひんぱん)なる報告を受けてござり申した。故に家臣には軍備を整えさせ、領内の見回りを強化して来たのでござりまする。しかし、本郡は広大にして山地が多く、賊の潜(ひそ)み易き処は多うござりまする。仍て、もう少し時を頂戴すれば、必ずや賊奴(め)を一掃して御覧に入れまする。」
しかし、忠重の言葉に兼忠は首を振る。
「いや、某(それがし)が五百騎も率いてここに来た事だけでも、陸奥守様の御心痛如何(いか)許(ばか)りか、察せられるであろう。某(それがし)は本郡の治安回復を確認するまでは、多賀城へ帰る事は出来ぬ。陸奥守様の兵を本郡に配備し、指揮は儂(わし)が執る。第一、郡司が負傷して動けぬ様では話に成らぬ。」
忠重はそれを聞いて絶句した。兼忠の言う通りにされては、磐城郡の要衝は悉(ことごと)く抑えられ、機密も全て、貞盛方に露見してしまうであろう。しかし忠重には、断るべき言葉が見付からなかった。
その時、廊下より足音が近付いて来るのが聞こえた。見れば政氏が、橘清綱に支えられながら、跛(びっこ)を引いて歩いて来る。その後ろには、黒沢政之も従って居た。
忠重が礼を執る前を、政氏等がゆっくりと進み、そして兼忠の前に腰を下ろした。政氏は一礼すると、柔らかな物腰にて話し始める。
「この度は出迎えも致さず、真に申し訳無く存じまする。」
「否々(いやいや)。その御身体では、無理をなさらぬ方が良い。今、御重臣の村岡殿と話をして居ったのだが、某(それがし)が貴殿に代って、賊従鎮圧の指揮を執る事と成り申した。御承知置き戴きたい。」
兼忠の言葉に、政氏は眉(まゆ)一つ動かさずに話を接ぐ。
「其(そ)は有難き御高配。政氏、礼を申し上げまする。只、急に陸奥守様の大軍が配置されれば、磐城の者は何か大事が出来(しゅったい)したのではと、要らぬ動揺を招きましょう。ここは一先ず軍勢を滝尻に留め置き、某(それがし)が陸奥守様に、郡内の情勢を御報告申し上げたく存じまする。その上で、陸奥守様が尚も国府軍の派遣が必要であると思(おぼ)し召されるのであれば、某(それがし)が郡内豪族に事の推移を説明し、要らぬいざこざが起らぬ様、手配致したく存じまする。」
兼忠は少し考え込んだが、磐城方には僅(わず)かな時間稼ぎにしか成らぬと判断し、政氏の申し出を受け容(い)れた。
「良かろう。されば、某(それがし)も御供仕(つかまつ)ろう。出発は、明朝で宜しいか?」
「ははっ。有難き幸せに存じ奉(たてまつ)りまする。」
政氏はそう答えて一礼し、再び清綱に支えられて、広間を後にした。政之は忠重の元へ残ると、国府官吏を各客間に案内するのを手伝った。
やがて上賓の間に案内された兼忠は、独りに成ると不気味な笑みを浮かべた。
「これで、常陸の背後を脅(おびや)かして来た、逆賊の末裔共も仕舞じゃ。」
唇はそう呟(つぶや)いて居るかの如く、動いて居た。
翌日、朝陽が昇ると共に、滝尻館の大手門は開かれた。そして、五十騎余の軍勢が北を目指し、街道に沿って進発して行く。政氏の姿は中軍に在り、橘清綱他、三名の家臣を伴って居た。その前後を固めるのは、平兼忠率いる手勢であった。
忠重や滝尻の家臣達は、主君を不安気な面持ちで見送って居た。行軍の様子は、伴う兵の数の差から見て、小勢の政氏は敗軍の将、もしくは罪人の如くである。磐城家の者の目には、恰(あたか)も当主を質(しち)に取られた様な、不安な観が有った。
主君の軍勢が、玉川西岸の丘の陰に入って見えなく成ると、磐城家の家臣達は不安の様子を拭(ぬぐ)い切れないまま、館内へと戻って行った。忠重も又、最後まで政氏を見送った後、館内へ入った。居間へ戻る途中、人の姿も疎(まば)らと成った廊下で、背後より声を掛けて来る者が在った。
「村岡様、御話がござりまする。」
振り返って見ると、声の主は黒沢政之であった。その真剣な眼指を受けて、忠重は小声で告げる。
「では、儂(わし)の部屋まで付いて参れ。」
「はっ。」
そして二人は、滝尻館内に在る、村岡家に宛(あて)がわれた間へと入って行った。
忠重の間で二人が正対して座ると、忠重は小声だが、政之には届く程度の強さで話し掛けた。
「当館内には、現在四百五十騎に及ぶ国府軍が入って居る。壁に耳有りじゃ。もそっと近う寄れ。」
「では、失礼致しまする。」
忠重の言葉を受けて政之は躙(にじ)り寄り、膝(ひざ)が触れ合う処まで来た。忠重は頷(うなず)き、政之に尋ねる。
「して、儂(わし)に話とは?」
「はっ。昨夜、殿は現今の窮地を打開すべく、一つの策を某(それがし)に御示しに成られ申した。殿が滝尻を離れた後、村岡様にこれを諮(はか)り、今後の対応を決める様にとの、殿の御言葉にござりまする。」
忠重は、政氏自らが策を立てて居た事に、喜びと敬意を覚え、些(いささ)か顔が綻(ほころ)んだ。しかし直ぐに真顔へと戻り、政之に再び尋ねる。
「それで、殿は如何(いか)なる策を御授けに成られたのじゃ?」
「はい。殿が先ず仰(おお)せに成られた事は、此度郡内において頻繁に出没せる賊徒は、怖らく貞盛方の回し者であろうと。」
「うむ。其(そ)は儂(わし)も薄々感付いて居った。只の賊徒にしては、大挙して貧しき村を襲い、又武具兵糧が充実して居る様子等、不審な点が多々有った。此(こ)は貞盛辺りの有力者が、背後に居る物と思って居ったのだが。」
「殿も同様に御感じで在らせられ申した。そして、貞盛が此度の解決策を示してくれたとも、仰せにござりました。」
「何、其(そ)は如何(いか)なる事か?」
政之は周囲に目をやり、人気の無い事を確認すると、そっと忠重に耳打ちした。
政之が、政氏が授けた策を一通り忠重に伝えると、忠重は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、表情が俄(にわか)に険しく成った。そして腕組みをし、暫(しば)し熟考して居たが、やがて政之に尋ねた。
「真に殿や純利には、斯様(かよう)な人脈が有るのか?」
「はい。然様(さよう)に承って居りまする。」
「うむ。だとすれば、この策は有効やも知れぬ。他に良策が思い当たらぬ故、殿の策を採る事と致そう。但(ただ)し、事は急を要する。其方(そなた)、貞盛方に怪しまれぬ様、至急三沢へ行ってくれぬか?他の事は儂(わし)がやろう。」
「はっ、承知仕(つかまつ)り申した。では直ちに出立致しまする。」
「うむ。当家の存亡に係る大事じゃ。頼むぞ。」
政之は座礼を執ると、静かに忠重の元を後にして行った。
やがて政之は、伝令と称して滝尻館を馬にて発し、北東の山間に在る、佐藤純利の守る三沢館へ向かい、駆けて行った。忠重も又、復心を遣(つか)わし、山田郷に配置して居た自軍に、極秘の命を下した。
*
三日後、政氏、兼忠等の一隊は多賀城へ到着した。しかし、政氏は足の矢傷が悪化してしまったので、城内に宿舎を手配して貰(もら)い、直ちにそこへ入った。又、長旅の疲れからか、病(やまい)に侵され、床(とこ)に臥した。
その日の夕刻、国府より薬師(くすし)が遣(つか)わされ、政氏の診察に当たった。薬師は悪化した傷口に膏薬(こうやく)を塗布し、又病(やまい)に対しては、煎薬(せんやく)を処方した。
「当分は安静の事。」
薬師は然う言い残して宿舎を去り、清綱等家臣達も、政氏が良く休める様、隣の間へと移った。政氏は呼吸が荒く、苦しんで居る様子であったが、時折、口元に笑みを湛(たた)えて居た。
幸い政氏の頑強な体躯(たいく)は、五日程で体内の病原菌を駆逐し、床(とこ)上げに至った。政氏は己の健康が回復した事を、清綱に命じて貞盛に報せに行かせた。
やがて戻って来た清綱は、政氏の前に座して礼を執り、報告する。
「只今戻りましてござりまする。陸奥守様は殿の御回復を殊(こと)の外御慶び遊ばし、明日巳(み)の刻に登庁する様に、との仰せにござり申した。」
「うむ。所で、例の物は届いたか。」
「はっ。昨日到着し、当家が国府より御借りした蔵に納めてござりまする。」
「上々じゃ。後は、政之等が上手く行って居るのを願うのみ。」
政氏は滝尻の動きが気に懸かったが、忠重も付いて居るので、大丈夫であろうと信じた。そして、明日の国守貞盛との面会に備え、己の策をもう一度見直した。
翌日、政氏は家臣に荷を運ばせて政庁に入り、途中から清綱のみを伴って、奥へと進んだ。やがて、案内の者に広間へ通され、そこにて待つ様に告げられた。
暫(しば)し待った後、国守が御渡りに成られた事を報せる声が聞こえたので、政氏等は上座に向かい、深く頭を下げた。間も無く貞盛が広間に入り、上座へ腰を下ろした。同時に国府の要職に在る者や、常陸より伴った譜代の臣も、政氏の左右に並んで座る。
先ず国守貞盛が、政氏に言葉を掛けた。
「政氏殿、面(おもて)を上げよ。」
それを受け、政氏はゆっくりと顔を上げる。貞盛は、政氏の顔をまじまじと見詰めながら、言葉を接ぐ。
「どうやら、病(やまい)は癒(い)えた様じゃのう。」
「はっ。その節は薬師(くすし)を御遣(つか)わし下されし事、唯々(ただただ)感謝の念を覚える次第にござりまする。」
「まあ、早々に治癒せし事は重畳(ちょうじょう)。所で、此度其方(そち)を呼び出したるは、磐城郡内の治安の事じゃ。既(すで)に幾人もの豪族が、野盗の出没に手を焼いて居ると、訴え出て居る。中には郡司の無能を告げる者も有り、悩んで居た所にて、兼忠より其方(そち)が国府へ向かって居ると聞き、儂(わし)も話を聞いて置きたいと考えた。」
政氏はそれを聞き、再び頭を下げて畏(かしこ)まった。
「これは、陸奥守様の御心を斯様(かよう)に煩(わずら)わせたる段、某(それがし)、御詫びの言葉もござりませぬ。」
貞盛は、顔を顰(しか)めて言葉を接ぐ。
「儂(わし)は、朝廷より陸奥の安寧を託され、当地へ赴任して参った。しかるに着任早々、斯(か)かる問題が発生したとあっては、儂は朝廷、延(ひ)いては天子様に、顔向けが出来ぬ。」
「はっ。誠に申し訳無き限りと存じ奉(たてまつ)りまする。」
「仍(よっ)て、儂(わし)は陸奥守としての責任の下、其方(そち)が所管の地へ兵を派遣した。此(こ)は、国府が賊の跳梁(ちょうりょう)を許さぬ態度を示す事で、他の者に不埒(ふらち)な考えを起させぬ様に致す為じゃ。」
そう告げると、貞盛は傍らの肘掛(ひじかけ)に凭(もた)れ、不気味な笑みを浮かべる。
「儂(わし)の考えに対し、其方(そち)の意見は如何(どう)じゃ?」
政氏は目を伏せながら、畏(かしこ)まって答える。
「はっ。陸奥守様の高き御志、唯々(ただただ)敬服するばかりにござりまする。陸奥守様が磐城の地に斯様(かよう)に御目を掛けて下さる事は、当郡の民に取って、甚(はなは)だ幸いな事にござりまする。されど、陸奥国全土の安泰を考えた時、某(それがし)は磐城派兵に対し、一つの懸念を抱きまする。」
貞盛は訝(いぶかし)し気な顔をして尋ねる。
「それは何か?」
「北部と仙道にござりまする。北方の胆沢(いさわ)鎮守府には二千の兵が配置され、ここはかつて阿弖流為(あてるい)が蝦夷(えみし)の軍団を率い、田村将軍を相手に、一歩も引かずに戦い抜いた地にござりまする。故に、蝦夷の中に国政への不満が募(つの)った時、先ず最初に大規模な蜂起が起るとすれば、この胆沢郡から、日高見(北上)川の上流に在る、広大な盆地を有する磐手郡に架けての地域でござりましょう。又仙道は、先の反乱を鎮定してより未だ八年。この地は伊達関(いたちのせき)を抜かれれば、国府まで要害はござりませぬ。仍(よっ)て、国府軍が磐城に派兵する分、鎮守府の後ろ楯である多賀城は手薄と成り、北部に不心得者を生じさせる原(もと)と成り兼ねませぬ。加えて、我が本領磐城に国府軍が進駐した事が伝われば、伊達関を擁する我がもう一つの所領、信夫(しのぶ)の政(まつりごと)にも動揺が走る物と存じまする。」
貞盛は政氏の話を、半眼(はんがん)で睨(にら)め付けながら聞いて居た。そして淡々とした口調で、政氏に尋ねる。
「詰(つま)りは、儂(わし)が磐城へ兵を送った事で、胆沢や信夫にて反乱が起ると。」
「いえ、斯(か)かる大事に及ぶ事も考えられまする故、先ず一ヶ月の猶予を戴き、某(それがし)の手で郡内の賊を討ち平げとう存じまする。もし、それでも当家の手に余る様であれば、畏(おそ)れながら陸奥守様の御力を、御借し願いたく存じ奉(たてまつ)りまする。」
「ふむ。」
政氏の提案に対し、貞盛は少々思考したが、やがて承諾が成された。
「確かに、其方(そち)が短期間で平定し得る程度の物であらば、態々(わざわざ)国府の兵を送るまでも無いのう。」
「はっ。陸奥守様の御手を煩(わずら)わせる事の無き様、全力にて努めまする。」
貞盛と兼忠の承認が得られ、この先一ヶ月は、国府軍を磐城より撤退させる事と決した。
続いて、政氏の背後に控える橘清綱が、口を開く。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。当家より国府へ献上致したき、粗品がござりまする。」
「ほう。」
献上品は、広間から直ぐの庭に移して置いたと言うので、一同は庭へ出て、それを検分する事とした。
庭へ下りて見ると、箱が五つ置いて在った。その場で待機して居た磐城家の家臣は、貞盛等の姿が見えると、急ぎ箱を開けた。貞盛が覗(のぞ)き込むと、其々(それぞれ)の箱には、拵(こしら)えの無い鉄剣が二十振りずつ納められて在る。そしてよく見ると、何(ど)の剣も形が歪(ゆが)んだ、粗悪な物であった。
貞盛はそれ等を一通り見ると、無興(ぶきょう)な面持ちで、側に控える政氏に尋ねる。
「其方(そち)はこれを、儂(わし)に如何(どう)せよと?」
政氏は些(いささ)か恥じ入る様子で答える。
「我が領内では砂鉄が取れまする故、製鉄を試みたのでござりまするが、良き刀鍛冶が居らぬ為に、斯様(かよう)に粗末な物しか出来ませぬ。しかし、国府の製鉄所なればこれを再び熔(と)かし、良品として、生まれ変わるのではと考え申した。仍(よっ)てこれは、太刀百振りではなく、鉄の献上にござりまする。」
刀を眺めながら、兼忠は呟(つぶや)いた。
「まあ確かに、立派な鉄屑(くず)ではござるな。」
その言葉に、貞盛の家臣達は一斉に笑い出した。その場において、磐城家の者は唯(ただ)苦笑するのみである。
「政氏殿の御心遣(づか)いじゃ。有難く戴く事としようぞ。」
貞盛が笑いながら告げたのを見て、政氏は安堵の表情を浮かべて礼を執った。
「では、某(それがし)は領内の事が気に掛かりまする故、これにて失礼致しまする。」
「うむ。一月で見事治めて見よ。然為れば、国府も出兵に及ばずに済む。」
貞盛は、然程(さほど)期待して居ない様子で答えた。
政氏等が立ち去る時、貞盛の家臣達は未だ、進物(しんもつ)を見ては大声で笑って居た。しかし嘲笑を受けて居る政氏は、口元に微(かす)かな笑みを湛(たた)えて居た。
磐城家が去った後、兼忠は貞盛に向かって、囁(ささや)いた。
「今、磐城領で暴れて居る者達は、当家切っての武勇の者であり、且(か)つ反政氏派の支援も得てござりまする。万が一にも、政氏が一月以内に平定する事は有りますまい。仮に平定し得る情勢に成った時は、又新たに兵を送り込めば良いだけの事。」
「成程(なるほど)。何(ど)の道一月(ひとつき)後には、当家の軍が磐城を制圧出来る訳じゃな。」
貞盛がそう返すと、二人は再び気味悪く、笑い声を上げた。程無く、兼忠は真顔と成って貞盛に告げる。
「磐城政氏は、伯父上の政敵、村岡忠頼に与(くみ)し、当家の本領常陸の背後に割拠する、不穏な輩(やから)。又、かつて伯父上が討ち滅ぼした相馬将門の末裔であり、この先対決は避けられますまい。彼奴(あやつ)が磐城の地を掌握する前に追い落さねば、後々厄介(やっかい)な勢力と成りましょう。又それは同時に、伯父上の奥州進出における、重要な足掛りでもござりまする。」
貞盛もそれに、頷(うなず)いて答える。
「その通りじゃ。先ずは常磐の地を確(しか)と抑えて力を蓄え、何(いず)れ訪れるであろう、忠頼との対決の日に備えねば成らぬ。政氏如きに手間取っては居られぬぞ。」
「ははっ。」
兼忠は承服すると、家臣達に命じて、剣を納めた箱を運び出す様、指示を出した。そして、貞盛は南の空を眺め、遠く武州村岡を本拠とする、宿敵を見詰めて居た。
一方で政氏等は、直ぐに荷を纏(まと)めて、多賀城を出立した。道中、清綱は小声で政氏に尋ねる。
「陸奥守はあれを見て、当家の製鉄所を侮(あなど)ったでありましょうや?」
政氏は清綱を見て頷(うなず)く。
「怖らくはのう。」
貞盛の軍勢が、一時とは言え領内に入った以上、御巡検道沿いに在る製鉄所は、発見された公算が高い。製鉄技術は、武力にも財力にも繋(つな)がる。政氏は態(わざ)と粗悪な製品を貞盛に見せる事で、磐城の製鉄技術を低く印象付け様とした。それに因(よ)り、磐城家に対して抱く脅威を軽減させ、又、税が少なく済む様に考えたのである。
しかし政氏は、この度利用した粗末な技術に対し、不満を抱いて居た。
「不良品の多い今の状況は、必ずや改善せねば成らぬ。」
清綱は政氏の呟(つぶや)きを聞き、些(いささ)か動じて答える。
「はっ。仰せの通りにござりまする。愛宕(あたご)族には、更(さら)なる技術の向上に努めさせましょう。」
政氏は、製鉄所の完成より未だ日が浅く、又熟達した匠(たくみ)の数が少ない事も、承知して居た。それでも、此度張り巡らせた策が、貞盛方に打ち破られれば、政氏は今まで努力し、築き上げて来た物を、悉(ことごと)く奪われてしまう。斯(か)かる懸念が、政氏の胸中に焦燥感を生じさせて居た。とは言え、貞盛の牙城を脱し、雄大な逢隈(阿武隈)川の河口を眺めると、幾らか緊張が解(ほぐ)れ、心が安まる心地がした。
*
政氏が磐城へ帰還し、一ヶ月が過ぎた。この地にも梅雨前線が北上し、雨季が訪れて居た。ここ数日雨が続き、住吉館の傍に咲く紫陽花(あじさい)の上では、蝸牛(かたつむり)が沐浴(もくよく)をして居る。
一方、大館本丸の居間で書に目を通して居る政氏の心は、陽光が燦々(さんさん)と降り注ぐ、青天の如くであった。その訳は、ここ一月(ひとつき)の間、大した兵も動員せずに、郡内から賊の報せが無く成った為である。
その代り陸奥国内では、伊具郡や磐井郡にて、賊の一団が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、時には官衙(かんが)にも悪さをするとの話が伝わって居た。磐井郡が危機に陥(おちい)れば、国府と胆沢鎮守府の連携は断たれる。又、賊が伊具郡から東に接する亘理(わたり)郡の浜街道に進出すれば、磐城に進駐させた国府軍や、本領常陸とを繋(つな)ぐ道をも失い兼ねない。国守貞盛は危機感を募(つの)らせ、磐城の兵を亘理へ移し、国府の守りを固めた。
賊は城柵を占拠するでも無く、村に出没して、民から略奪を行う事も無く、唯(ただ)度々官吏、時には官軍の小隊を襲うのみであった。故に大規模な反乱とは見做(みな)されなかったが、国政に不安が渦巻く中、何の手立ても講ぜられぬまま、年は暮れて行った。
翌天延四年(976)、住吉館は長閑(のどか)な春を迎えて居た。国府は賊の出没に翻弄され、あれから全く、貞盛からの使者が途絶えたからである。貞盛方は既(すで)に、磐城制圧の為の余裕を失って居た。
この日、政氏の居間には、村岡忠重、佐藤純利、橘清綱、黒沢政之が召され、五人で談議をして居た。取分け、上座の政氏は機嫌良く、純利に語り掛けて居る。
「この度は皆の働きに因(よ)る御蔭にて、磐城領を貞盛より守る事が出来た。私は津軽安倍氏を通じて、安倍宗家の支援を得、磐井の地に乱を起す事が出来た。しかしこれに加え、純利の信夫(しのぶ)における力を以(もっ)て、伊具の地でも乱を起せた事は大きい。伊具は国府に近く、又海道を遮断し得る地の利が有る。純利、此度の働きは見事であったぞ。」
政氏の犒(ねぎら)いを受け、純利は笑顔で礼を執る。
「有難き御言葉、痛み入りまする。されど、此度家中随一の功績は、村岡家と申せましょう。磐井で暴れて居る者等の殆(ほとん)どは、忠重殿の手勢でござる。これにて鎮守府にも危機感が走り、国府は磐城に構(かま)う暇が無(の)う成り申した。」
話を振られた忠重は、はにかんだ様子である。
「いや、儂(わし)が陸奥北部に兵を送り込めたのは、土豪の黒沢家や、安倍家の助力が有ったなればこそにござる。特に政之は未だ若年ながら、よく磐城、黒沢両家の間を往来してくれ申した。」
政氏はそれを聞き、政之を見て微笑(ほほえ)んだ。
「未だ童(わらべ)だと思って居ったが、もう一人前の働きが出来る程に成長して居ったか。」
恐縮する政之に対し、政氏は言葉を接ぐ。
「滝尻の館は其方(そなた)に与えよう。先ずは清綱に補佐させる故、実際に政(まつりごと)という物を学ぶが良い。」
「身に余る御言葉、恭悦(きょうえつ)の極みに存じ奉(たてまつ)りまする。」
政之は主君に向かい、平伏した。そして、脇から清綱が真顔で声を掛ける。
「政之殿、磐城家の政(まつりごと)は他家と比べ、些(いささ)かきつうござりまするぞ。」
「望む所にござる。」
頭を上げた政之は、清綱を鋭い眼光で見据えて居る。その様を、忠重は称(たた)えた。
「流石(さすが)は黒沢正住殿の御子、早くも気力が漲(みなぎ)ってござる。」
政氏も、政之に粛然と言葉を掛ける。
「滝尻は当家が入部後、初めて府を置いた処であり、二街道が側を通る要衝の地である。又有事の際は、臨機応変に村岡家と連携せねば成らぬ。宜しく頼むぞ。」
「はっ。御任せ下さりませ。」
返事を受けた政氏は深く頷(うなず)き、あどけなさの残る青年の真摯(しんし)な表情に、大いに期待を抱いた。
後日政之は、これまで滝尻館を任されて居た橘清綱に迎えられ、館主として入城した。そして滝尻を姓とし、滝尻政之と名乗った。政氏には兄弟が居らぬ為、義弟が成長し、要地を任すに至った事は、実に頼もしく感じられた。
やがて雨季も明けて、暑い夏が訪れた頃、朝廷より改元の布告が有った。即(すなわ)ち天延四年(976)は、貞元(じょうげん)元年と改められた。
奥州では依然、官衙を襲う賊が、磐城家の支援を得て暴れ回って居た。間も無く収穫の秋を迎える。国守貞盛は、賊に因(よ)り納税が滞(とどこお)り、朝廷より受領(ずりょう)としての力量不足と見做(みな)される事を怖れて居た。仍(よっ)て弟繁盛に、常陸軍の援軍を頼もうかとも考えた。されど、賊が神出鬼没である故に、その数を把握出来て居ない今、もしも族の数が小規模であったならば、下手に騒ぎを大きくするだけであると、二の足を踏んで居た。
ある日、国府に来訪者が在った。代表者は、磐城家が郡司を務める津軽の豪族、安倍季良であった。貞盛は報せを受け、それが磐城家の使者なのか、それとも安倍宗家の使者なのか、将又(はたまた)別の動きなのかを量り兼ねた。しかし面会する価値は有ると見て、季良を政庁へと通した。
貞盛は応接の間に、重臣と国府の官吏を同席させて、会談に及ぶ事とした。やがて家臣等と共に広間に入ると、既(すで)に三名の武士が控えて居た。貞盛は上座に腰を下ろすと、中央に座す季良を見据えた。それと同時に、季良は穏やかな口調で話し始める。
「本日は拝謁(はいえつ)の栄に浴し、恭悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じ奉(たてまつ)りまする。」
貞盛は、表情を緩(ゆる)ませる事無く尋ねる。
「余が陸奥守平貞盛じゃ。本日は何用で参ったか?」
「はっ。この所、奥州では賊が暴れ、国守様も手を焼かれておわされるとの報せが、遠く津軽の地にも届いて参りまする。」
「ほう。して遥々(はるばる)津軽より参り、国府に何をして下される?」
「畏(おそ)れ多き事なれど、某(それがし)、陸奥の平穏の為に、一つの策を献上しに参上仕(つかまつ)った次第。」
「何と?」
季良の話を聞き、貞盛の家臣は俄(にわか)に騒(ざわ)つき出した。それを余所目(よそめ)に、季良は供の者が持参した、一つの箱を貞盛に献上した。一辺一尺余の、桐の箱である。国府の者がそれを貞盛の前に運び、蓋(ふた)を開けると、中には袋が二つ収められて居た。貞盛はその紐(ひも)を解く時、袋にかなりの重さを感じた。袋を開けると、中には砂金がぎっしりと詰まって居た。貞盛は驚いて季良の方を見ると、今度はもう一人の供の者が、書翰(しょかん)を提出する。それを受け取った貞盛が内容を読むと、献上品の目録である事が判(わか)った。高価な奥州産の馬を始め、西国には珍しい品が並んで居る。貞盛は気を良くして眺めて居たが、最後の行を見て表情が曇った。献上者に、左衛門大尉(さえもんのだいじょう)平政氏と書かれて在ったからである。
貞盛は暫(しば)し目録を眺めた後に、視線を季良へ移した。
「此(こ)は、磐城家の意向か?」
季良は、穏和な表情のまま答える。
「はい。磐城政氏様より拝命し、参上致した次第にござりまする。」
「して政氏殿は、儂(わし)に如何(どう)せよと?」
「されば、これ等の品の一部を、関白兼通様に献上なさるが宜しいかと、仰せにござり申した。」
「関白家じゃと?」
「はっ。そして貞盛様を、鎮守府将軍に任じて戴きまする。さすれば、貞盛様は鎮守府二千騎の指揮権を得られ、これを以(もっ)て昨今跋扈(ばっこ)する賊の問題を、陸奥国内の小事として、朝廷を煩(わずら)わせる事無く、処理できる物と存じまする。」
貞盛は、季良の口から政氏の策を聞き、顎(あご)の髭(ひげ)を撫(な)でながら、暫(しば)し黙考した。
やがて、貞盛は傍らの兼忠に諮(はか)る。
「其方(そなた)は政氏の動きを、如何(どう)見る?」
「はっ。怖らくは当家に媚(こ)び、磐城制圧を回避しようとする策かと存じまする。」
「まあ、その様な所であろうな。されど、今は磐城郡よりも、この進物(しんもつ)の方が重要やも知れぬ。これを以(もっ)て関白家の覚えを目出度(めでた)く致さば、後々の栄達に繋(つな)がるやも知れぬ。」
考えた挙句(あげく)、貞盛はその進物を受け取る事とした。季良は、これで任務が果せたと貞盛に礼を述べ、その他持参した進物を国府の蔵に託した。そして空と成った荷駄隊を伴い、再び北方へと帰って行った。
津軽への帰途、家臣の一人が季良に尋ねた。
「此度の進物に因(よ)り、貞盛が関白に目を掛けられる様に成れば、後日磐城家の禍根に成るのではありますまいか?」
季良は軽く笑みを湛(たた)えて答える。
「関白の座は兼通公亡き後、御曹司顕光卿ではなく、弟君兼家卿が就(つ)くと見るのが有力であろう。又系統では、亡き実頼公の御子、頼忠卿が嫡流に当たる。何(いず)れにせよ、顕光卿が氏長者(うじのちょうじゃ)と成らねば、此度の進物の効果は、兼通公の時代で終りと成ろう。」
「成程(なるほど)。磐城家は貞盛殿の残す任期、後二年ばかりを凌(しの)げれば、その後は安泰という訳でござりまするな。」
「うむ。そして先程勧めた通り、貞盛殿が鎮守府将軍を兼任致さば、却(かえ)って胆沢(いさわ)鎮守府の守りに忙殺され、磐城に構(かま)う余裕も無く成ろう。」
「胆沢周辺では、未だ未だ不穏な動きが起るでありましょうから。」
津軽安倍氏の者達は笑い声を上げながら、街道を胆沢方面へと進んで行く。やがてその列は胆沢郡内で街道を外れ、衣川の上流、奥羽山脈の中へと消えて行った。
その後、貞盛は陸奥の兵権を甥(おい)の兼忠に預け、自身は奥州の珍品を積んだ荷駄隊を率い、遠く平安京を目指した。上洛した貞盛は、直ちに関白の邸を訪問し、藤原兼通に貢物(みつぎもの)を献上した。関白兼通は特に、奥州産の砂金と名馬が気に入った様子であった。後日、貞盛は参内し、望み通り、鎮守府将軍を拝命するに至った。貞盛は奥羽最大の兵権をここに獲得し、ほくほく顔で陸奥への帰途に着いた。
しかし、奥州では磐城家が送り込んだ反乱軍の他にも、豪族達が所領を争い、紛争が絶えなかった。それ等は朝廷支配の歴史が浅い北方で頻発(ひんぱつ)し、鎮守府の責任者と成った貞盛は、更(さら)に北方に目を向けねば成らなく成った。貞盛は国府多賀城を離れ、胆沢鎮守府へも度々赴く様に成った。
*
貞元二年(977)、豺狼(さいろう)陸奥守貞盛の魔の手が遠ざかった磐城では、再び内政に力が注がれて居た。治水や主幹道の整備、製鉄技術の向上等、課題は山積して居る。しかし一方、三春御前が磐城家の次子を上げた事で、家臣達は磐城家の安泰を喜んだ。政氏はその子に、次郎の名を与えた。
他方、平安京の関白邸では、当主藤原兼通が重病の床(とこ)に在った。秋も深まり、冬の到来を感じ始める神無月(十月)の頃、関白の実弟、大納言兼家を乗せた牛車(ぎっしゃ)が、兼通の邸に向かいつつ在った。兼通は今まで犬猿の仲であった弟が、見舞に来てくれた物と思い、嬉しさの気持から、邸の者を大門まで迎えに出させた。しかし、兼家の行列は関白邸を素通りし、内裏(だいり)へと針路を変えた。内裏清涼殿におわす帝(みかど)に、兼通亡き後、関白の後任を願い出る途中であったのである。
それを知った兼通は、烈火の如く怒り、病(やまい)を押して宮中へと向かった。そして自身最後の除目(じもく)を行い、関白の座を従兄(いとこ)の頼忠に譲った。兼家は、帝(みかど)の叔父である己ではなく、帝の甥(おい)である頼忠が後任と成った事を憤(いきどお)った。兼通は更(さら)に追討ちとして、兼家が大納言と兼帯して居た、右近衛大将の職から治部卿に落し、その子等の官位も剥奪(はくだつ)された。兼通は除目(じもく)が終ると、担(かつ)がれて自邸へと戻り、一月(ひとつき)後の十一月八日に息を引き取った。
翌貞元三年(978)、平貞盛は四年間の任期を終え、陸奥守を辞して多賀城を後にした。貞盛は先ず、先代以来の所領常陸へ戻るべく、海道を南下し、その途上で磐城郡に入った。入部時に恭(うやうや)しく出迎えてくれた政氏の姿は、そこには無かったが、その代り、磐城郡内の様子を自由に、じっくりと観察した。
村々は何処(いずこ)も落着きを保って居り、賊の類(たぐい)が蔓延(はびこ)ったり、豪族達が兵を繰り出して、争った形跡も無い。青天の下、民は順調に田畑の手入れを行って居た。
貞盛の軍勢は、三箱(さはこ)の南方から御巡検道を進み、やがて滝尻館の脇に差し掛った。館を見ると、旗指物は政氏の馬紋、九曜紋ではなく成って居た。貞盛は、軍の配置に大きな入替えが有った物と考え、今まで得た情報だけでは、磐城軍と事を構えるには、些(いささ)か不足の観を覚えた。
磐城郡を出て菊多郡に入る処、鮫川の河口付近で、御巡検道は再び浜街道と合流する。そしてその合流点の北方の丘に、村岡忠重の守る汐谷城が聳(そび)えて居る。貞盛はその城を見上げた時、言葉を失った。入部したばかりの頃は手薄であった城に、村岡家五枚笹の旗が、無数に靡(なび)いて居たからである。随処に兵が配置され、その数は少なく見積っても、五百騎は居る様に思えた。
貞盛はこの時、磐城家に欺(あざむ)かれ続けて居た事を悟った。磐城家を侮(あなど)ったが故に、磐城制圧を目的として置きながら、陸奥守在任中という好機を逸(いっ)してしまった。ここに来るまでは、常陸の繁盛に任せて置けば事足りると思って居たが、今に到って、それが思い違いである事を悟るも、唯(ただ)歯噛みして悔しがる他は無かった。
陸奥国は律令制で大国、即(すなわ)ち第一等の国と定められた。故に国守に任官する事は難しく、貞盛が再び陸奥守を拝命する可能性は、殆(ほとん)ど無い。この先、貞盛に代わって陸奥守と成り、磐城家を潰(つぶ)す事が出来る人物で、貞盛が真っ先に思い浮んだのは、常陸水守(みもり)城主である、実弟の平繁盛であった。
既(すで)に後任の陸奥守は決まり、先遣の者が赴任して来て居る。仍(よっ)て後四年間、磐城家は安泰である。繁盛を陸奥守にするには、早くて四年後。それが叶(かな)わぬなら、次は八年後である。それだけの時が有れば、政氏の磐城統治は、更(さら)に盤石な物と成ってしまうであろう。
しかし視点を変えて見れば、脅威である勢力は磐城政氏よりも、寧(むし)ろ坂東南部を抑え、五千に及ぶ兵を有する村岡忠頼である。奈古曽関(なこそのせき)を過ぎて常陸に戻った頃、貞盛の目は坂東に向けられて居た。
貞盛が陸奥を去った後、奥州には再び平和が訪れ、磐城家は政氏が率先して、郡内の開発を継続した。やがて小名浜、三箱(さはこ)を結ぶ道が整うと、住吉は浜街道、御巡検道の両道と海とを繋(つな)ぐ要地と成った。又、往来が盛んに成った事で、度々玉川の氾濫(はんらん)に苦しめられて来た野田の民にも、富が齎(もたら)される様に成った。更(さら)には鹿島地方を縦断する道も整備され、飯野平から小名浜、住吉が直結する様に成った。これに因(よ)り、三沢の佐藤純利は、その軍勢を郡内各地に派遣し易く成った他、小高郷、片寄郷方面の山の幸と、神城郷方面の海の幸との物流が増え、郡民の生活も豊かに成った。加えて、製鉄所の技術は年々向上し、次第に良質の鉄器を生産する事が可能と成った。この恩恵は各地に及び、農民は鉄の農具を得て生産高を上げ、兵は良質の武具を装備し、更(さら)には鉄器を他郡へ売り、収入を得る事が出来た。
住吉は磐城郡の中心たる利点を次々と備え、そこを拠点とする政氏の地位は確立された。政氏は、住吉を永く磐城家の本拠とする意を固め、住吉館南麓に在る遍照院を、磐城家の香華院(こうげいん)と定めた。そして、亡き父母の位牌をそこへ移し、寺院の興隆に寄与した。
遍照院