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第十七節 磐城制圧
やがて夏の暖気も、北方の寒気に因(よ)り南へ押し出され、心地好い秋の候と成った。この季節、西国では例年、台風の脅威に見舞われる。しかし奥羽の地は、その地理的位置に因(よ)り、上陸したばかりの、強い勢力を誇ったままの台風が直撃する怖れは、先ず無い。東北の利点である。
秋晴れの下、住吉館では、体調もすっかり回復した純利が、弓の鍛錬を行って居た。そしてその庭の脇を、近藤宗久が通り掛かった。
「おお、佐藤様。本日も調子が良い様子にござりますな。」
その声を聞き、純利は汗を拭(ぬぐ)いながら振り返った。
「宗久殿か。いやはや、久しく休んで居った故に、元の体力へ戻すは難儀にござる。」
宗久は、「ははは」と笑って答える。
「いやいや、斯様(かよう)な強弓(ごうきゅう)を引けるのであれば、もう住吉随一の膂力(りょりょく)やも知れませぬ。所で、殿が御召(おめし)にござりまする。直ちに大館(おおだて)本丸へ、お越し下され。」
「おお、では遂(つい)に、儂(わし)に役目を下される時が来たか。」
純利は嬉々とした表情を顕(あらわ)に、衣服を整えて、政氏の元へと向かった。
純利は館主の間へと通され、政氏に拝謁(はいえつ)した。政氏の傍らには、滝尻城主、橘清綱も控えて居る。政氏は純利に、側に参る様に告げると、懐より紙を取り出し、目の前に広げた。
「此(こ)は荒川郷から丸部郷に至る、矢田川流域の地図にて、清綱が描いた物じゃ。」
「はっ。」
純利は応じた後、その地図に目を遣(や)った。
地図の中央には、矢田川が南北に走り、その中央よりやや西側に、三沢館の所在地が描かれて在る。そして、地図の北方には飯野平へ出る道、東南方へは江名浜に、南西方へはここ住吉へ出る道が描かれて在る。又、豪族の所領までも、細かに描き記して在った。
政氏は、純利がその地図に一通り目を通し終えたのを見計らい、口を開いた。
「そこに描かれし地域一円を、其方(そなた)に託す。」
「何と?」
純利は驚駭(きょうがい)した。当地域の人口、税収量は、近藤、江藤、斎藤の三氏に、並ぶ物であったからである。三氏は各々数百の兵を擁して居るが、純利には未だ信夫(しのぶ)より率いて来た、二十騎ばかりの手勢しか持って居ない。
「斯様(かよう)に広大な所領を。誠に有難き事とは存じまするが、某(それがし)の力では治め切れませぬ。」
「其方(そなた)の二十騎では、足りぬと?」
「恥ずかしながら。」
「かつて上総の平良兼殿が、八十騎を率いて、将門公の館に夜討ちを懸けた事が有った。深夜故に、将門公を護る兵は十騎ばかりであったが、それでも果敢に戦った末に良兼殿を敗走させ、その配下を半数も討ち取られたという。祖父の代の相馬兵は、斯様(かよう)に強かったのだが。」
「しかしながら、某(それがし)の手勢には、将門公の如き精強さはござり申さず。」
そう答えると、純利は俯(うつむ)いてしまった。政氏は溜息を吐(つ)き、純利の周りを歩きながら話す。
「昔、坂東にその名を轟(とどろ)かせた相馬兵の生き残りは、今は江藤家に仕えて居る。又、村岡家と斎藤家は、亡き良文公の信頼厚く、軍の精強さも、家中一、二位を争う程であった。近藤家は私の大叔父に当たり、天慶(てんぎょう)の乱より水軍を中心に、軍功を重ねて居る。其方(そなた)は先代より仕える臣であるのに、これから先もこれ等の者より、遅れを取り続けるのか?」
それを聞き、純利ははっと気が付いた。信夫の政(まつりごと)は当初、大波、大和田両氏の助力に拠(よ)る所が大きかった物の、自身のやり方で、遂(つい)には在任中に一度も乱は起きず、更(さら)には二十騎の忠臣を得る事が出来た。次第に自信が漲(みなぎ)って来た表情を湛(たた)える純利を見て、政氏は言葉を接ぐ。
「其方(そなた)が信夫(しのぶ)にて成し得た事を、今又彼(か)の地において成す事が叶(かな)えば、其方(そなた)は当家の要とも成る事が出来よう。その時こそ、磐城は更(さら)なる発展を遂げられる。」
純利は政氏を見詰め、静かに口を開く。
「今、殿の御存念が、多少なりとも解った気が致しまする。現今住吉で殿が頼みとする磐城勢の将は、大村殿と橘殿のみ。そこで某(それがし)が、郡内中央において、地元磐城の兵を束(たば)ねる将と成って見せまする。」
その言葉を聞き、政氏は漸(ようや)く安堵の表情を浮かべて頷(うなず)いた。そして純利は地図を畳(たた)んで懐に収めると、立ち上がって政氏に申し上げる。
「今日まで充分な休養を戴いた分、これを成し遂げて、些(いささ)かは報いたく存じまする。」
そう述べると、純利は清綱に三沢までの案内を頼み、政氏の元を辞して行った。
やがて、出発の準備を整えた佐藤家二十騎と、その家族は、案内役の清綱を先頭に、住吉館より進発して行った。純利は、彼(か)の地の制圧に失敗したならば、総勢討死の悲壮な覚悟を抱いて居た。しかし政氏は、密かに住吉警固の為に常駐する兵を増やし、又斎藤邦泰にも、三箱(さはこ)へ兵を置かせて居た。三沢は、南北を山に挟まれた地に在る。ここに万一の事有らば、住吉より矢田川沿いに、三沢東部へ出兵する手筈(てはず)である。又三箱よりは、水野谷を抜けると、直ぐに三沢西部へ達する間道が在る。純利の覚悟のみに頼るのではなく、政氏は大事な臣を失う事の無き様、万全の態勢を布(し)いて居た。
純利は矢田川沿いの道を北上しながら、彼方此方(あちこち)で、黄金(こがね)色に輝く稲田を眺めて居た。この様子だと、本年は先ず先ずの収穫量が見込まれる。しかし、斯(か)かる富を求めて、豪族達は争いに明け暮れる。豊穣の地を任されるという事は、栄誉である一方、この様な問題と数多く対峙せねば成らない。しかし純利は、此度己に託されし使命を完遂する事で、主家の本郡制圧が完了すると思う度に、武者震いがするのであった。
*
明けて天禄三年(972)、住吉館は慶びに沸(わ)いた。三春御前が姫を出産したのである。第一子の誕生を、政氏は殊(こと)の外喜んだ。政氏は政務の間を見ては、我が子の顔を見に、御前の間を訪れた。そしてある日、政氏は御前の弟、小滝丸を伴い、御前の居住する対屋(たいのや)へと足を運んだ。
政氏等が御前の元へ赴くと、赤児(あかご)は母に抱かれながら、眠って居た。御前は政氏の来訪を聞くと、入口の方へ向き直り、礼を執って待った。政氏等は直ぐに現れて、御前の前に腰を下ろした。政氏が御前に頭を上げる様告げ、ゆっくりと御前が礼から直ると、抱かれた赤児の顔が、良く見える様に成った。
この長女を、政氏は花形姫と名付けた。政氏は御前より姫を受け取り、その寝顔を覗(のぞ)き込んだ。そしてその愛らしさに、浮世の苦労を忘れる心地であった。やがて政氏は、小滝丸の方へ体を向けて告げる。
「此(こ)は其方(そなた)の姪(めい)じゃ。宜しく頼むぞ。」
「ははっ。」
小滝丸は赤児を抱く政氏に平伏した。政氏は小滝丸に笑みを見せて頷(うなず)くと、次に御前の方へ向き直る。
「小滝丸も、早叔父と成った。」
「然様(さよう)にござりますね。未だ元服もせぬ童(わらべ)だというのに。」
「いや。小滝丸は学問も、武芸の腕も、既(すで)にそこ等の大人には引けを取らぬ。歳も相応と成って来た故、そろそろ元服させたいと思うのだが、其方(そなた)は如何(どう)思う?」
御前は政氏より赤児を受け取りながら、静かに答える。
「殿が、小滝丸をそこまで評価して下さるのであれば、私に異存はござりませぬ。唯々(ただただ)、我が弟を宜しく御導き下さります事を、御願い致す次第にござりまする。」
御前の真剣な眼指を受け、政氏は確(しか)と頷(うなず)いた。そして小滝丸に申し渡す。
「明日、其方(そなた)の元服式を執り行う。烏帽子親(えぼしおや)は黒沢殿に代り、私が行おう。確(しか)と身を清めて置く様。尚、この件は既(すで)に黒沢殿より了承を得て居る。」
「確(しか)と、承知致しました。」
小滝丸は政氏に対し、深々と頭を下げた。
小滝丸は黒沢正住の子である為、政氏はその元服の願書を、信夫の正住へ送り、既(すで)に政氏に、烏帽子親(えぼしおや)を頼む旨の返信を得て居た。正住から見れば、次子の小滝丸に家を継がせる事は出来ないので、磐城家にて元服させ、彼(か)の地にて、立身の望みを築いてやりたかったのである。
斯(か)くして翌日、小滝丸の元服式が住吉館において、厳かに執り行われた。成人した小滝丸に、政氏は己の一字を与え、政之の名を送った。又、金山において鍛えられし業物(わざもの)一振を与え、今後益々(ますます)武芸に精進する様、申し付けた。政氏は将来、黒沢政之に親類として、磐城家を支えてくれる事を期待した。
磐城家に慶事が続く一方、京の朝廷では、最大の権力を持つ摂政藤原伊尹(これただ)が、十一月一日に薨去(こうきょ)した。これを受けて、弟である中納言兼道と、大納言兼家がその後任を巡り争った。この政争は、二人の亡き姉、安子皇太后が、生前帝(みかど)に書き遺(のこ)して居た文に因(よ)り、決着に至った。それには、兄弟仲良く、関白は兄弟の順に拠(よ)るべき物、と書かれて在った。この文が明るみに出た事に因(よ)り、帝は藤原兼道を関白に任命した。この事件は、兼通、兼家兄弟の間に、深い溝を作る結果と成った。又巷間(こうかん)では、伊尹(これただ)の死は、先の安和(あんな)の変の折に失脚した、源高明(たかあきら)の生き霊(りょう)に因(よ)る物と囁(ささや)かれた。
*
年が明けて天禄四年(973)。陸奥国磐城郡では、前年三沢館に入った佐藤純利が、本格的に矢田川流域制圧へ、動き始めて居た。当初は佐藤勢が、僅(わず)か二十騎ばかりの小勢であるが故に侮(あなど)りを受け、豪族達は悉(ことごと)くこれに服さなかった。故に純利は、先ず近隣の小豪族を平らげる事を画策し、高坂の斎藤邦泰に、館の守兵として十騎を借り受けた。本拠の備えを得た上で、純利自身は直参二十騎を従えて出陣し、先ずは小豪族を討ち破った。
これを受けて、政氏に従わぬ豪族たちは団結し、三百の兵が矢田川上流東岸の丘の上に鎮座する、鹿島明神に集結した。遂に純利は、政氏に反抗する勢力を、粗方(あらかた)炙(あぶ)り出す事に成功した物の、同時に十倍の兵力を擁する敵と対峙する事態へと、発展してしまったのである。
鹿島明神より三百騎が、三沢館へ向かい南下して居るとの報を受けた純利は、直ちにこれを住吉の政氏と、高坂の斎藤邦泰へ報せるべく、使者を発した。使者を発たせて間も無く、三沢館の東方に、反乱軍が姿を現した。
純利以下三十騎は、館内に布陣を終え、弓を手に敵を待ち受けて居た。やがて敵の先鋒隊が、鬨(とき)の声を上げて突撃を開始すると、佐藤勢は静かに弓を番(つが)えた。そして、射程に入った処で一斉に矢を放ち、十人程が矢に当たって倒れた。引き続き佐藤勢は、二の矢、三の矢を放ち、更(さら)に二十騎ばかりを倒したが、遂に敵が城壁に貼り付いた為、槍や刀に持ち替えて、これに応戦した。
敵は随処より、館内への侵入を試みて来る為に、佐藤勢はその手薄さ故、次第に兵が分散させられて行く。味方に負傷する者が相次ぎ、佐藤勢の戦力は、時が経る毎(ごと)に衰えて行った。
各地で兵が駈け巡り、館内には砂塵が朦々(もうもう)と立ち籠(こ)めて居る。そして、遂(つい)に大手門が打ち破られ、敵兵は大挙して、館内に突入して来た。幸い、老人や女子供は戦(いくさ)の前に、北方の裏山へ逃す事が出来た。その中には、純利が信夫にて娶(めと)りし妻と、昨年産まれたばかりの嫡男も居た。ここで佐藤勢が全滅しようとも、その末裔は主君政氏が、必ずや守り立ててくれる物と、純利は信じて居た。そして遂には、落城已(や)むなしの覚悟を固め、近くの家臣と共に敵兵の中へ斬り込み、佐藤家最期の意地を見せようとした。
その時、圧倒的優位に在る筈(はず)の敵が、突如として浮足立った。純利は不思議に思い、周囲の様子に神経を研(と)ぎ澄ませると、遠方より、夥(おびただ)しい数の馬蹄の響きが聞こえた。
「援軍じゃ!」
味方の一人が叫んだのを聞き、佐藤勢は奮(ふる)い立った。
次々と逃走を始めた敵を追って、館の外に出た時、純利の目にも、援軍が続々と駆け付けて来るのが見えた。西方水野谷より斎藤勢五百騎、東方米田よりは近藤宗久率いる住吉、豊間連合軍五百騎が、三沢館を囲む反乱軍目掛けて、次々と突撃して居た。突然、一千騎に及ぶ磐城軍の挟撃を受けた反乱軍の隊列は、次々と崩され、やがて潰走を始めた。純利は、傷が浅い僅(わず)かな家臣を率いて騎乗し、援軍と共に追撃に移った。
今まで政氏に反抗して来た豪族達は、この戦(いくさ)で次々と討たれ、生き残った者も所領を捨て、何処(いずこ)かへと落ち延びて行った。戦(いくさ)が終った後、純利は信夫(しのぶ)より率いて来た家臣の、約半数を失った事を知った。純利は家臣の亡骸(なきがら)を、涙ながらに館の外れに埋葬し、三沢の戦(いくさ)は終った。
役目を終えた斎藤邦泰は、佐藤純利と近藤宗久に別れを告げるべく、二人を探した。やがて二人を見付けた邦泰は、一堂に会して、言葉を掛ける。
「此度の勝軍(かちいくさ)を以(もっ)て、磐城全土の制圧が完了せし事、真に以て祝着(しゅうちゃく)でござった。特に佐藤殿の気魄(きはく)の防戦は、鬼神の如くにて、御蔭で我等援軍の姿を見ただけで、既(すで)に敵は戦意を喪失してござった。」
それに続き、宗久も純利を称(たた)える。
「正に、斎藤様の仰(おお)せの通り。三沢館が堪(こら)えてくれた為に、賊は拠(よりどころ)も無く、呆気(あっけ)なく散り散りと成って、逃げてしもうた。此度の軍功第一は、佐藤様にござりましょう。」
しかし、純利は直参の半数を失った衝撃で、半ば放心の態と成って居る。それを気の毒に思った邦泰は、暫(しば)し黙祷(もくとう)し、戦死者の冥福を祈った後に、純利に話し掛けた。
「この戦(いくさ)では、純利殿は信夫(しのぶ)以来の、大事な御家臣を多く失われた御様子にて、掛ける言葉も見付かり申さず。只、今後の管轄地域の統治や、館の修復の為には、今の御手元の人数では不都合が生じ申そう。某(それがし)の手勢の内百騎を御貸し致しまする故、役立てて下され。」
次いで宗久が口を開く。
「斎藤様の御高配、誠に有難く存じまする。実は某(それがし)、政氏様より、勝軍(かちいくさ)の後も兵二百を残して三沢に留まり、矢田川制圧の君命を受けてござりまする。故に、斎藤様の兵に三沢館を守って戴ければ、某(それがし)はこれより、荒川方面まで進軍致したいと存じまする。」
純利が両者に礼を述べると、邦泰は純利の手を取って告げる。
「本日の貴殿の戦(いくさ)振りを拝見し、某(それがし)は感服仕(つかまつ)った。三沢は住吉、三箱(さはこ)、飯野平の中央に位置する要衝故、確(しか)と治めて下され。」
そして邦泰は一礼して、自軍へと戻って行った。その後三沢に一隊を残し、本隊は再び水野谷を抜けて去って行った。
斎藤兵に館の守りを固めて貰(もら)った後、宗久は三百の兵を住吉へ還(かえ)し、二百の豊間兵を以(もっ)て、残党の掃討に出陣しようとした。その時、宗久を純利が呼び止めた。
「待たれよ。某(それがし)も当地方の責任者として、同行仕(つかまつ)る。」
宗久は不安気な面持ちで振り返る。
「佐藤様には今、敵兵への怨(うら)みが募(つの)って居られる様に見受けられ申す。矢田川流域平定後は、仇(かたき)と雖(いえど)も磐城家の臣や民と成る者故に、一時の感情に駆られて采配を揮(ふる)われては、後々に禍根(かこん)を残し兼ねませぬ。佐藤様には館へ留まり、傷の手当をして下され。制圧へは某(それがし)が赴きまする。」
「いや、儂(わし)は政氏様より、当地方の統治を任されし身。むざむざ館内で休んで居る訳には参らぬ。貴殿が不安に思われるのであれば、儂(わし)は副将でも良い。動ける僅(わず)かな手勢を率いて、同行致す。」
純利の熱意に圧(お)され、宗久は純利の要望を受け容(い)れた。
その後、三沢館を進発した近藤、佐藤連合軍は、前に賊軍が集結して居た鹿島明神に陣を布(し)き、此度反乱に及んだ豪族の館を、悉(ことごと)く接取した。そして、反乱に加わらなかった豪族達には、所領を分け与えた。取分け、民の信望の厚い者を取り立て、以後は佐藤純利に臣従する旨の誓約として、名簿(みょうぶ)を提出させた。その中でも文武に優れし者は、純利の直参として、三沢館近辺に屋敷を与える事とした。
鹿島明神周辺の制圧を終えた連合軍は、更に北上し、滑津川流域の佐麻久嶺(さまくみね)神社に到達した。ここを拠点に、荒川郷の豪族に対する信賞必罰を行い、反乱に加わりし者は所領を召し上げた。一方でこれに加わらず、領内の開発に励んだ者には所領を与え、佐藤家の重臣に取り立てた。これ等の処置を終えた時、純利の手勢は二百騎を超えて居た。その大軍を率いて、三沢館へ凱旋したのである。三沢館まで、純利の共をして来た豪族は、純利より所領安堵を約束された。そして、その御恩に報いるべく、館の修復と、三沢村の開発の為に、労力を提供した。
一月(ひとつき)も経つと、純利に因(よ)る矢田川流域の支配体制は確立された。最早支援の必要性無しと感じた近藤宗久は、斎藤家と共に、其々(それぞれ)の館へと軍を退去した。ここに平政氏の磐城支配の構想は、凡(おおよそ)の完成を見た。政氏は、己が担当して居る小名浜と三箱(さはこ)を繋(つな)ぐ道の他に、飯野平と小名浜を、矢田川沿いに結ばせる道を整備させれば、郡内の通交はより便利な物に成ると考えた。そしてその普請(ふしん)を、三沢館の佐藤家に命じた。純利はそれを承服し、新道の整備に着手した。
遂(つい)に政氏の実質支配地は、磐城郡全土に及んだ。しかしこれを成し遂げたのは、専(もっぱ)ら近藤、佐藤、江藤、斎藤の四氏の武功に因(よ)る物である。磐城の諸豪族はこの四家を、畏怖の念を込めて磐城四家と呼んだ。
ともかく、政氏の新政に対する対抗勢力は、完全に力を失った。民衆は政氏主導の下、磐城に平和が続く物と信じた。