第十五節 住吉館落成

 昨年、武力に因(よ)って粗(ほぼ)磐城全土の豪族を服従させた政氏には、一つの決意が有った。それは、郡政上最大の難問である、玉川の治水を成就させる事である。玉川流域に在る野田村は、最も頻繁に水害が発生する地であり、先ずはこの地の民を救済する事が必要であると考えられた。今は家臣の大村信興に任せて居るが、何(いず)れは郡司である自身が当地に本拠を構え、陣頭指揮を執る事で、村民に少しでも、政(まつりごと)から見放されて居ないという安堵感を与えられるのではと、政氏は考えて居た。

 政氏が本拠の移転を考えたのには、もう一つ理由が有った。現在居城として居る滝尻館は、封地に入ったばかりの頃、土豪の反乱に備え、菊多から常陸へ逃れられる様、郡内でも南西の端に築かれた。その後、重臣達を郡内の各地に配置し、今では諸豪族に、その武威を示すに至ったと思われる。しかし、渋々政氏の軍門に降った豪族達の中には、裏で政氏の目の届かない、矢田川流域の豪族との連繋を深め、反撃の機を窺(うかが)う動きが有るとの報せを受けて居た。確かに矢田川流域は、重臣達の管轄区域の境界であり、唯一の盲点であった。滝尻近辺の豪族は、既(すで)に政氏の直参と成った者も多く、治安に問題は無く成って居た。そこで政氏は、より郡内中央部へ本拠を移す事に因(よ)り、豪族達への睨(にら)みを強化させ、加えて各地に配置した重臣達との、連携を深めようと図ったのである。

 玉川と矢田川が合流する辺りを、入念に視察した政氏は、やがて住吉明神の北方に聳(そび)える丘に着目した。この丘は東西の大小二つに分かれ、南面は絶壁と成って居る。南隣には新義真言宗智山派にして、磐城郡北方、仁井田川中流域に在る薬王寺の末、住吉山金剛寺、別称遍照院が在った。政氏はこの地を拠点にすれば、神仏の加護を得て治水作業を行え、又、矢田川流域の豪族達に睨(にら)みを利かせる事が出来ると考えた。

 政氏が住吉の丘に館の建設を命じた頃、江藤玄篤の手勢が、滝尻館へ姿を現した。政氏は本拠の移転を、重臣達にも相談して置きたいと考えて居たので、玄篤の来訪は正に、時宜(じぎ)を得た物に感じられた。

 政氏は玄篤を広間にて、滝尻の家臣と共に迎えようとした。されど、玄篤から人払いの請願が有ったので、それに沿うべく、玄篤を居間へと呼び、家臣達を遠ざけた。

 やがて、館の者に案内されて、玄篤が入って来た。そして意外な事に、尼僧(にそう)を伴って居た。よく見れば、叔母の如蔵尼(にょぞうに)である。政氏は、冷静さを装って案内の者を下がらせ、その足音が充分遠ざかり、聞こえなく成るのを待ってから、口を開いた。
「いやはや、突然の御来訪、肝を冷やしましてござりまする。」
如蔵尼は沈黙したまま、詫びの意を込め得て頭を下げた。そして玄篤が、僅(わず)かに躙(にじ)り出る。
「某(それがし)は此度、如蔵尼様の御意を受け、殿の元へ参上仕(つかまつ)り申した。」
「ほう?」
政氏は何かなと疑問に思い、如蔵尼へ視線を向けた。そして如蔵尼は、静かに話し始める。
「実を申せば、昨年政氏殿が行いし、対抗勢力への出兵後、已(や)むなく従いはした物の、密かに不満を募(つの)らせる者が、片依郷や玉造郷に多数居るとの事。中には、陰で反乱を唱える者まで居ると、江藤殿より聞きました。」
「何と、其(そ)は真にござりまするか?」
政氏は驚いて玄篤へ顔を向け、玄篤も政氏を見詰めながら頷(うなず)いた。見る見る内に、怒りを顕(あらわ)にする政氏を宥(なだ)めるかの如く、如蔵尼は穏やかに話を続ける。
「江藤殿は楢葉と長友、二箇所に館を築き、郡内の安寧に努めて居りまする。今までは郡境警備の為に、楢葉を居城と成て参りました。そして今後は内政に力を注ぐべく、長友へ本拠を移そうと成された矢先、此度の報せを受け、今度は郡境が不穏と成る事が心配されまする。」
政氏は腕組をしながら、頭を捻(ひね)る。
「確かに、陰で不平を抱く輩(やから)は厄介(やっかい)じゃ。叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)すまでは、此方(こちら)から手が出せず、かと申して隙(すき)を作らば、そこへ乗じて来よう。」 「そこでじゃ。江藤殿を楢葉へ置きつつも、白田、玉造地方の様子を把握する手段がござりまする。」
「何と、其(そ)は如何(いか)なる手にござりまするか?」
「はい。私自ら当地へ赴き、僧の身を利用して豪族達の動きを探(さぐ)り、大事に至る前に江藤殿へ御伝え致しまする。」
政氏は、直ぐには如蔵尼の考えを理解する事が出来なかった。如蔵尼は順を追って、その具体的な手段を説明し始める。 「私が今居す東福寺は、真言宗豊山派にして、山城国醍醐寺光台院の末なのですが、長友館の北西十町程の処に、甚光山毘蘆遮那院、別称恵日寺という、醍醐寺報恩院の末寺がござりまする。同じ宗派故に交流も深く、私は住持に頼み、恵日寺に居を移そうかと存じて居りまする。」
其を聞き、政氏の頭に一つ、引っ掛かる物が有った。
「恵日寺とは。確か耶麻郡磐梯山麓にも、音(いん)を同じうした、慧日寺(えにちじ)と称す寺がござりましたが。」
「磐城郡内恵日寺は、弘仁年間に徳一大師が開基なされた寺院なれば、耶麻郡慧日寺とは同じ系統にござりまする。」
「然様(さよう)にござりましたか。」
政氏は改めて、徳一大師が磐城に残した足跡の大きさに感心した。そして、如蔵尼は話を続ける。
「恵日寺は、当地方に多くの末寺を持っておわしますれば、豪族達の動きも、数多く入って来る物と存じまする。そして不穏な動きが見られた時には、直ちに長友へ報せますれば、少なくとも江藤殿が当地へ駆け付けるまで、館を守り抜く事は出来ましょう。」
政氏は、叔母が今でも磐城家の為に尽さんと努めて居る事に、深い感謝の念を覚えた。そして深々と頭を下げて、その謝意を表する。
「有難き幸せにござりまする。叔母上に恵日寺へ御運び戴けるのであれば、北方の守りは一層盤石の物と成りまする。」
如蔵尼も甥(おい)の気持を受け、すっと頭を下げた。

 続いて政氏は玄篤に、本拠を滝尻より住吉へ移す案に就(つ)いて尋ねた。玄篤は暫(しば)し熟考し、答える。
「良き事かと存じまする。唐土(もろこし)に、先ず隗(かい)より始めよという言葉が有るそうにござりまする。此(こ)は、燕国太子が郭隗(かくかい)なる人物を優遇して迎えた所、郭隗以上の人物が続々と集まり、遂(つい)には楽毅(がくき)を得て、燕を復興させたという故事にござり申す。斯(か)くの如く、殿が住吉へ御移りに為られて、見事野田の民を救わば、他の領民達も、もし村が天災に因(よ)り困窮しても、野田の民の様に救って下さる物と、安堵致しましょう。只、滝尻館は誰に任せる御所存に御座りましょうや?」
「うむ。この地は良く治まって居る故、大した兵も必要あるまい。しかしここを分断されれば、汐谷の忠重が孤立する故、信の置ける人物でなければ成らぬ。」
「とは雖(いえど)も、宗久殿や邦衡殿に任せれば、当家と近藤家、斎藤家の均衡が崩れてしまいまする。」
「確かに、それは良く考慮せねば成るまい。宗久と邦衡を外すと成ると、後は信興と清綱か。しかし信興には、玉川の治水という大仕事が有る。やはり、清綱しか居らぬのう。」
「橘殿は滝尻近郷の豪族故、よくこの地を治めましょう。滝尻が安定して居るのであれば、某(それがし)は殿の住吉移転に賛同致しまする。」
「そうか。問題は無いか。」
政氏は玄篤の同意が得られ、愈々(いよいよ)住吉築城の意志が固まった。

 その後、政氏は如蔵尼より、小山田周辺の民の様子等を聞き、菊多が平穏である事を知り、安堵した。やがて陽が傾き始めた頃、如蔵尼は玄篤と共に、滝尻の館を辞する旨を伝えた。如蔵尼が政氏の居間を出る時、政氏は再度叔母に頭を下げた。如蔵尼も一度、政氏に正対して辞儀をした後、玄篤に伴われて、政氏の元を去って行った。政氏は当家の為に、危険な地へ赴く叔母に対して、申し訳無さを感じて居た。しかし如蔵尼の胸中には、二度と実家が滅亡に瀕(ひん)する不幸を、味わいたくないという決意が秘められて居た。

 玉川の脅威は、大雨後の洪水だけではなかった。雨量が少ない年は川の水が枯渇し、水稲(すいとう)に大打撃を与えた。溢(あふ)れ易く、涸(か)れ易いのである。この二つの問題を解決するには、玉川の形を大きく変えねば成らない。この事業は何年掛(がかり)で完了するか、見当も付かなかった。

 政氏は水神に、水害の災禍(さいか)が起らぬ様、祈りを捧げるべく、滝尻より東南海辺に在る渚村の、那智権現を詣(もう)でる事にした。政氏は本城滝尻を発すると、鑪(たたら)製鉄が本格的に始動した鳥見野原を通り掛かった。政氏はここで製鉄が順調に進んで居るのを確認し、その後東南方へ流れる渚川に沿って、高台から海岸へと下って行った。

 海岸に出た処が、渚村と称す集落である。この辺りの海岸線は、その殆(ほとん)どが断崖絶壁と成って居り、船を漕(こ)ぎ着けられるのは、渚村の直ぐ側に在る小さな入江と、僅(わず)かな砂浜だけであった。浜が狭い為か、この地は小浜とも呼ばれて居た。

 渚村の入江より、北方の丘を登って行った林の中に、那智権現は閑(しず)かに鎮座して居た。政氏は当社の祭神を、磐城家の守護神として崇(あが)める事で、水神の加護を得、磐城郡政上最大の懸案である玉川治水の成功と、その流域に住む民の幸いを願った。

 

那智神社

 野田村では、依然大村信興が指揮を執り、治水工事と田畑の復旧が急がれて居た。信興は、生活に困窮する民を見ては悲愴感に駆られ、それを原動力として復旧作業に努めて居た。

 そして東隣の住吉では、築城が順調に行われて居た。縄張(なわばり)は、周囲の地理に精通した土豪、橘清綱が務め、秋頃には漸(ようや)く防塁と櫓(やぐら)が粗(ほぼ)完成し、清綱は住吉への移転が可能である旨を、政氏に報告した。

 政氏はその報を受けると、近藤宗久と斎藤邦衡の両将を伴い、期待を膨らませて住吉へと向かった。錦秋の候である。山は錦色に映(は)え、日照を受けた処は、黄金の輝くが如くであり、又陽射しの具合に因(よ)り、趣(おもむき)も変わって行く。途中、野田村では今日も、復旧作業に追われて居るのが見えた。政氏は住吉移転の後、必ずや斯(か)かる惨事が再び起きる事の無い様、本腰を入れて解決へ導く事を決意して居た。

野田村を過ぎると、愈々(いよいよ)住吉は目前である。館を築いた処は、平地の中に二つの丘が突き出た頂であったので、直ぐに目に付いた。大小二つの丘は、比較的なだらかな北面を大手とし、数段の曲輪(くるわ)を経て、高い方の頂が本丸と成って居る。城を築いた者達は、それを大館(おおだて)と呼び、一方の低い丘の方を小館(こだて)と呼んだ。大館と小館は高処で橋が架けられ、互いに補い合える様に成って居り、一方が陥落しても、橋を落せば、もう片方の館で持ち堪(こた)えられるという構造であった。又、度々水害を齎(もたら)す玉川も、西南方の守りを固める、天然の堀として機能して居た。磐城郡内を粗(ほぼ)制圧した政氏に取って、次なる敵は北方ではなく、寧(むし)ろ南方の平繁盛であった。政氏に不平を抱く勢力が、大挙して靡(なび)く動きを見せた時、繁盛は直ぐにでも攻め込んで来るのではないかという怖れが、政氏には有った。政氏が住吉方面へ居城を移そうとする理由の一つは、実に常陸軍侵攻に対する備えでもあったのである。

 政氏等が館の大手に着くと、間も無く清綱が姿を現し、直ぐに守備兵に開門を命じた。門が開かれ、政氏等が中へ入ると、清綱が跪(ひざまず)いて控えて居た。
「御待ち致して居り申した。」
そう申し上げると清綱は立ち上がり、館内の案内を申し出る。政氏は清綱の後に付いて、館内を巡り始めた。

 

住吉舘(玉川城)

 住吉館は山城である故に、敵の侵入を防ぐ為に、上の曲輪(くるわ)へ通じる道は細く、且(か)つ急に造られて居た。大館の本丸に至ると、南面は断崖と成って居るので、足下から遠方まで、眺望は頗(すこぶ)る良かった。西方を望めば、野田の丘の彼方に、湯ノ岳も見える。足下を見れば、南方からも大館、小館の間に、これ又細くて急な道が造られて居た。それは城の構造上、搦手(からめて)であった。南方三町程の処に在る住吉明神は、やはり最も目に付くが、足下搦手門付近に在る寺院が、政氏の気に掛かった。
「あれが遍照院か?」
「はっ。然様(さよう)にござりまする。」
清綱が即座に答えた。政氏は住吉館に移る以上、この隣接する寺院を、軽んずる事は出来なく成るなと感じた。

 政氏は大館本丸にて、己の居住する棟を見て回り、滝尻館よりも簡素な造りと成って居る事を確認した。直ぐ近くに、水害に苦しむ民を大勢抱えている以上、豪奢(ごうしゃ)な館を建てては、民衆の怨嗟(えんさ)が己に向けられ易く成ると、政氏は考えた。政氏は、新城の構造に頗(すこぶ)る満足し、築城に当たった清綱に、犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。

 大館から小館へ移り、城内を隈(くま)無く見て回ったが、見事な防備を誇る堅城であった。しかし、政氏は一つ気に掛かる事が有り、清綱に尋ねる。
「はて、星見の井戸が見当たらぬが、何処(いずこ)に在るのであろうか?」
政氏は滝尻館と同様、妙見菩薩の御加護を得る為に、造成を命じて居た。清綱は、南方を指差して答える。
「館は丘の上に在る為、ここに造る事は能(あた)いませぬ。加えて館の周囲には、道、田畑、寺院が在り、そこへ造る事も叶(かな)わず。故に住吉社の宮司と掛け合い、その境内に造成の許しが得られましたので、社殿の背後に造らせてござりまする。」
「そうであったか。御苦労である。」
政氏はそれで善(よ)しと告げたが、内心は滝尻館の如く、居間の近くに造りたかった。しかし清綱が述べた理由は尤(もっと)もであり、住吉境域も又霊験(れいげん)(あらたか)なりと、承諾する他は無かった。

 政氏は側近達の住居を、館の南、偏照院の東隣に配置した。ここは搦手(からめて)門の周辺であり、根古屋と称された。麓(ふもと)の住居という意である。

 住吉への本拠移転は着々と進み、政氏と近習は、年内に住吉へと移って行った。しかし、希望に満ちた新城へ赴く政氏を待ち受けて居たのは、再び水害に見舞われた、野田村の惨状であった。秋雨(あきさめ)前線の停滞に因(よ)り、水嵩(みずかさ)の増した玉川は、堤(つつみ)の高さにまで達し、遂(つい)にはその水勢に因り、決壊に至ったのであった。不幸にも、秋の収穫を終えて居ない者が多数在った。政氏は家臣に命じて、急ぎ村の北方の高台に、簡易の小屋を建てさせ、家を流された住民が、そこで凌(しの)げる様に指示した。そして、大掛りな救済が必要に成ると感じた政氏は、自ら野田村に入ると共に、治水担当の大村信興を呼び寄せた。やがて、全身泥に塗(まみ)れた信興が現れたが、その体は震えて居た。
「申し訳ござりませぬ。」
そう言って手を突く信興の前へ、政氏は下馬して歩み寄り、抱え起しながら優しく告げる。
「これから、急ぎ民を救わねば成るまい。具体的な策を練(ね)る故、其方(そち)にも住吉へ来て貰(もら)いたい。」
「ははっ。」
信興は力無く立ち上がると、馬に乗って政氏の列に加わった。

 政氏は悲痛な面持ちで、住吉館に入る事と成った。館に入ると、政氏は重臣を召集し、政庁へ真っ直ぐ向かった。そして直ぐ様、評定を開いたのである。議題は、玉川水害罹災(りさい)者の救済策である。政氏は比較的近く、且(か)つ平穏である、高坂の斎藤邦泰と、豊間の近藤宗弘に、食糧と、災害復興の為の人員を支援して貰(もら)う事を提案した。その為、斎藤邦衡と近藤宗久を、使者に立てる事と成った。
「事は急を要する。宜しく頼むぞ。」
政氏の緊迫した表情を受け、又共に被災地を見て来ただけに、邦衡も宗久も、緊張感を共有して答える。そして急ぎ席を立ち、早足で退出して行った。

 二人が出て行った後、広間には沈黙が訪れた。そして、幽(かす)かな音が耳に入って来る。外を見ると、俄(にわか)に雨が降り出して居た。大村信興が呟(つぶや)く。
「長雨に成らぬと良いが。」
他の重臣達は押し黙ったまま、徒(ただ)座すのみである。政氏は沈黙に堪(た)え切れず、口を開いた。
「滝尻館が手薄と成って居る。しかし、斯(か)かる時に、住吉から兵は送れぬ。仍(よっ)て橘清綱を館主に任ずる故、其方(そち)の手勢のみを以(もっ)て、守ってはくれぬか?」
清綱は政氏の方へ体を向け、平伏して答える。
「はっ。承知仕(つかまつ)り申した。」
そしてすっと立ち上がると、直ちに滝尻へ向かい、出立して行った。

 数日後、豊間と高坂より、僅(わず)かながら食糧と人員の支援を得られた政氏は、被災民を野田の丘に移した。そして食糧を施す一方で、野田村の復旧作業を再開させた。

 これと同時に、災害時に加え、軍事上も有意である、道の整備も開始した。これは、小名浜から住吉を経由して、三箱(さはこ)に至る道を均(なら)し、交通の便を良くする事で、豊間の近藤宗弘や、高坂の斎藤邦泰との連携を深める意図が有った。

 斯(か)くして、住吉に移ってから初めての冬が訪れた。野田村では、住吉館からの救済措置に因(よ)り、犠牲者の数は以前より、大幅に減少して居た。しかし依然として、住吉近辺は洪水の危険性を孕(はら)んで居る。郡政上最大の難問は、その解決が見えぬまま、年は暮れて行った。

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