第十四節 鳥見野原

 卯月(うづき)とも成るともう、春から夏へ季節が移ろう自然の変化が、随所に見られる。五月躑躅(さつきつつじ)がその鮮やかな花を咲かせ、そこには数匹の蜂が飛来して居る。田に植えられた苗は背丈を伸ばし、秋の豊穣(ほうじょう)を期待させる。

 政氏一行は御巡検道を南西に進み、丘を登った高台に在る、鳥見野原に出た。社の側まで来ると、以前は鬱蒼(うっそう)と茂って居た樹木がすっきりと伐採され、陽が射し込み、見違える様に明るく成って居た。又、凸凹(でこぼこ)であった道もなだらかに整地され、道幅も確保されて、通行が容易に成って居る。鳥見野社の外側を見ただけでも、政氏は大した物であると感心した。

愛宕神社跡地

 社(やしろ)の前では、宗久が愛宕(あたご)族を集めて控えて居た。政氏は、彼等を横目に社殿の前へ歩み寄り、新たに建てられた物を、まじまじと眺めた。使用された木材の加工といい、組み立ての頑強さといい、彫刻美術の壮麗さといい、非の打ち所が無かった。昨年までの、朽ちて荒れ果てた社(やしろ)の記憶が未だ新しいので、皆もそれを見て、感嘆の息を漏らして居る。

 政氏は愛宕族の前へ進み出て、彼等に犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。その時、彼等の服に同じ紋が付いて居るのに気付き、尋ねて見た。
「其処許(そこもと)等は同じ紋の衣服を纏(まと)って居るが、同族の者であるのか?」
愛宕族の中で長老と思(おぼ)しき者が、その問いに恭(うやうや)しく答える。
「此(こ)は相馬平家が馬紋の他にもう一つ用いた、九曜紋にござりまする。主家滅亡後は、この旗を家の奥へ隠し、旧主を偲(しの)んで参り申した。此度江藤様より、相馬家が再興されたと聞き、我等は当地へ駆け付けるに当たり、相馬家への忠義を示すべく、皆で上衣(うわぎ)の背に縫(ぬ)い付けて参った次第にござりまする。」
政氏は、彼等一同の背に縫われた九曜紋を眺めた。皆古い物で、家の奥に隠し続けて居た布は、所々が虫に食われ、又そうはさせまいと、人目を忍んで陽に晒(さら)す事の有った物は、色が大分褪(あ)せて居る。何(どれ)を見ても、綺麗なまま保存されて居る物は無かったが、政氏はそれに、永く保たれて来た忠誠心を感じ、不意に目頭が熱く成るのを覚えた。

 政氏は再び、愛宕族の前に立って告げる。
「皆が、当家への忠義を忘れずに居てくれた事は、誠に以(もっ)て、無上の喜びである。又、其処許(そこもと)等の築きし社殿も、実に見事である。私は斯(か)かる奉公に報いんが為、其処許(そこもと)等には鳥見野原を、所領として与える。今年は先ず畑を開墾し、農閑期を迎えた後に、製鉄所の造営に当たって欲しい。」
政氏は実の所、直ぐにでも製鉄産業を興したかった。しかし磐城家は、未だ当地を治めて日が浅い故に、蓄えも少ない。郡内豪族の富に手を出せば、争いに発展し兼ねない情勢である為、政氏は彼等に対し、自活の為の所領を与える事しか出来なかった。しかも鳥見野原は、平坦な処が少なく、開墾を行うにしても、非常に労力を要する処である。しかし愛宕族は、政氏の申し出をすんなりと受け容(い)れて、礼を述べた。彼等には製鉄所の操業にさえ漕(こ)ぎ着ければ、豊かな生活を送る事が出来るという、確信が有ったのである。

 政氏は着任後半年にして、領内巡察と家臣の配置、そして鳥見野の廃(すた)れた社(やしろ)の再建と、順調に事を成して来た。そして残る当面の課題の一つ、玉川の治水を任せた大村信興が、水害の復旧に当たって居る野田村へ、視察に赴く事とした。

 野田へ向かう政氏の心は、悒鬱(ゆうつ)であった。他の事は順調に運んだとは雖(いえど)も、治水作業は天地が相手であり、最も難しい課題である。御巡検道を北上して島村へ至ると、対岸の野田村は案の定、水浸(びた)しと成っていた。黙々と作業をする村人達の中に、政氏は信興の姿を認めた。政氏は重臣達を率いて玉川を渡り、信興の前へ姿を現した。

 突如、主君と重臣達の一団が目に入ったので、信興は些(いささ)か驚いた様子であった。そして政氏が近付いて来るのを、平伏して待つ。やがて政氏が信興の前で下馬すると、信興は悲愴な面持ちで言上する。
「申し訳ござりませぬ。殿が御帰還なされたというのに、御迎えに参上致しませず。」
「よいよい。出迎えよりも、其方(そなた)が忠実に任務を熟して居る事の方が嬉しい。」
そう言って政氏は笑みを湛(たた)え、周囲の作業状況に目をやった。
「余り芳(かんば)しくはない様じゃのう。」
「ははっ。この地は玉川が決壊せずとも、小雨ですら水が溜(たま)り易く、排水路を造らねば成らぬと存じまする。されど、果して何(ど)の様に水を逃がせば、豪雨の折にも水害を免(まのが)れる事が出来るか、目下思案中にござりまする。」
政氏は、信興や村民が全身泥塗(どろまみ)れと成り、疲労困憊(こんぱい)と成って居る姿を直視して、酷(ひど)く心が痛んだ。そして信興の労を犒(ねぎら)うべく、政氏は言葉を掛ける。
「其方(そなた)が就(つ)いて居る役目は、怖らく郡内においては、最も難しき物であろう。私も一年や二年で、この普請(ふしん)が終るとは思って居らぬ。後に其方(そなた)と共に、私もこの作業に当たる所存である。しかし私は未だ、郡内を完全に掌握して居らず、本拠滝尻も安泰な処とは言えぬ。今後も暫(しばら)くは足元を固めねば成らぬが、その間、この役目を頼めるのは其方(そなた)しか居らぬ。必要な物資は出来得る限り回す様に致す故、今暫(しばら)く励んで貰(もら)いたい。」
信興は深く頭を下げて、承服の意を示した。そして恐る恐る、政氏に言上する。
「畏(おそ)れながら、言上したき事がござりまする。」
「うむ、遠慮無(の)う申せ。」
信興が話し易い様、政氏は朗らかな顔で返した。しかし、信興の表情は依然暗いままである。
「では、殿に御願いの儀がござり申す。実は野田周辺の民には、既(すで)に飢餓(きが)の兆候が顕(あらわ)れて居りますれば、兵糧百石を、援助願いたく存じまする。」
磐城家は所領を得て未だ半年であり、財と言えば村岡家、近藤家、斎藤家の私財と、奥州下向の際に平忠頼と藤原滋望(しげもち)より賜った、幾許(いくばく)かの銭や兵糧しか無い。百石の捻出(ねんしゅつ)は、兵力維持の上では難しい問題であったが、政氏は滝尻館の者に質素倹約を申し付けた上で、先ずは米穀十石を送る事が出来ると判断した。そして信興に、苦渋の表情を呈して伝える。
「直ぐに百石を送ることは無理だが、先ずは十石。そして、財政を切り詰めた上で穀物を購入し、其方(そなた)に回す事と致そう。今はこれ位しか約束は出来ぬ。」
信興も、郡政全体に支障を与えてまで、野田の貧民への救済を求める事は出来なかった。

 空が夕焼けに染まる頃、政氏と重臣達は、滝尻への帰途に在った。皆、無言のままである。野田村の惨状を目(ま)の当りにして、言葉を失って居たのであった。
ふと、政氏は呟(つぶや)いた。
「野田に百石、送ってやりたいのう。」
家臣達は、その言葉に意を強めた顔をし、黙って頷(うなず)いて居た。

 翌日より、家臣達は食事の品を減らし、古びた衣服をも纏(まと)う様に成った。その分滝尻の蔵には、税収に因(よ)り絹、麻、綿等の蓄えが出来る様に成った。そして滝尻館は、秋までに穀物百石を野田へ送り、郡内最悪の規模と成り掛けて居た飢饉(ききん)を、辛うじて回避する事が出来たのである。

 仍(よっ)て、政氏は館の外に出る時も、粗末な身形(みなり)を衆人に晒(さら)す事と成った。しかし貧しき民は、斯(か)かる領主を蔑(さげす)む事は無く、寧(むし)ろ畏敬の念を抱いて行った。一方で郡内の豪族達は、僅(わず)か一年の間に、多くの民の人望を得るに至った若き領主に対し、一目置かざるを得なかった。一部の者は、政氏の弱き者を救う姿勢に、頼もしさを覚えた。されど一方で、己の威厳が政氏の前に霞(かす)む事を恐れ、密かに常陸の平繁盛に通じ、政氏の凋落(ちょうらく)を望む者も在ったのである。

 年が明け、安和二年(969)と成った。四月に入ると既(すで)に桜も散り終え、愈々(いよいよ)緑の勢いが増して来る。梅雨の前の爽(さわ)やかな晴天が続き、彼方此方(あちこち)の田畠では、農民が耕作に勤しんで居る。一見平和に見える磐城の地も、その影には暗雲が渦巻いて居た。政氏が民の暮し易い政策を実行する一方、今まで民から搾取(さくしゅ)を行い、私腹を肥やして来た豪族達は、その既得権益が失われる事を恐れ、領内の農民に荘園化を命じた。そして自身が荘官と成って、政氏より独立した領土経営を行おうとしたのである。農民達は領主を恐れはしたが、苛政(かせい)を尚一層恐れ、政氏の家臣にその動きを密告した。これを受けた政氏は、このまま放置して置けば、己の成して来た事が無に帰すと、懸念を抱いた。そして村岡忠重、近藤宗弘、江藤玄篤、斎藤邦泰を滝尻館に招集して、評定を開いた。その結果、斯(か)かる貪欲な輩(やから)は、己の為に民を蔑(ないがし)ろにし、延(ひ)いては国家に仇(あだ)なす者として成敗するのが善(よ)い、という意見が多数を占めた。唯(ただ)、村岡忠頼が、隣国平繁盛と郡内の対抗勢力が結び付いた場合の、防衛の策に議論を展開させると、これに関する具体的な良案は出て来ない。結局政氏は、豪族達に因(よ)る私利の為に出された、貧民救済策中止の要望を飲む事を、已(や)むなく了承した。郡内の荘園化は一先ず回避された物の、民から力無しと見做(みな)された政氏は、信望を一気に失う事と成った。

 数日後、政氏は鳥見野原に立って居た。眼前では、巨大な鑪(たたら)が建造されて居る最中である。相馬旧臣の製鉄技師は、播州の鑪建築の匠(たくみ)と所縁(ゆかり)の者であった。故にその者と、政氏の外祖父で播州の豪族、近藤忠宗の伝(つて)で、その匠を招聘(しょうへい)する事が出来た。仍(よっ)て、大規模な鑪を建てる事が可能に成ったのである。

 鑪(たたら)は、古代より倭(やまと)に根付いた製鉄法である。政氏に鑪の操業を命ぜられた愛宕族に取っては、製鉄の成否が一族の命運を左右する。愛宕族は一族の繁栄を願い、鑪から少し離れた、村の敷地に金山地蔵尊を築き、一族が崇拝する愛宕地蔵尊を祀(まつ)った。そして、製鉄業の成功を願ったのである。政氏と技師も金山地蔵尊へ立ち寄り、愛宕族と同様、製鉄が磐城繁栄の助けと成る事を祈った。

金山原

 磐城郡内では製鉄業の他、近藤宗弘が七浜において製塩の規模拡大を図って居た。海道沿いの地形を見ると、磐城は磐城街道、御斉所(ごさいしょ)街道を擁し、仙道の安積(あさか)郡、白河郡と直結している。一方で磐城の北方は、西に逢隈(阿武隈)山地が連なって居る為に、逢隈(阿武隈)川河口辺りまで行かねば、仙道とを繋(つな)ぐ主要道は無い。又、南方常陸国においても、多珂、久慈、那賀の北方三郡は、西方に山地が連なる為、ここも又、仙道への塩の輸送路としては、規模は大きく成り得ない。仍(よっ)て、もしも磐城にて、良質の塩を量産できるのであれば、従来の様に郡民が使用するだけに止まらず、塩が生産出来ない仙道諸郡に売り、富を成す事も叶(かな)うであろう。又、生産量によっては、会津地方まで売れるかも知れない。政氏は鳥見野の製鉄と、七浜の製塩に、磐城発展の望みを託して居た。

 鳥見野の視察と、金山地蔵尊参詣を終えた政氏は、滝尻館への帰途に着いた。やがて館へ到着して見ると、館内には些(いささ)か、騒然とした空気が漂(ただよ)って居る。庭で馬を下りると、屋内より館の留守を任せて居た斎藤邦衡(くにひら)が、血相を変えてやって来るのが見えた。政氏の傍らで近藤宗久が、大声で告げる。
「邦衡、今帰ったぞ!」
しかし邦衡は返事をせず、緊迫した面持ちで政氏の前へ歩み寄り、跪(ひざまず)いて言上する。
「殿、菊多より村岡忠重殿が、御越しにござりまする。」
政氏は館内の様子から見て、忠重が何か重大な報せを伝えに来た事を察し、急ぎ邦衡の案内を得て、忠重の待つ間へと向かった。

 政氏は邦衡、宗久と共に、忠重の元へ姿を現した。早足で上座に着いた政氏は、平伏して部屋の中央に控える忠重に、面(おもて)を上げる様に告げた。忠重はそれを受けて、ゆっくりと頭を上げる。
「御久しゅうござりまする。」
以外にも、忠重は落ち着いた様子であった。政氏は訝(いぶか)しく思い、忠重に尋ねる。
「先程館へ戻って見れば、普段に無い空気が漂って居った。忠重殿が何ぞ、一大事を告げに参った物と思って居たのだが。」
「門衛達が、突如某(それがし)が来訪した為に、一大事が出来(しゅったい)した物と勘繰(かんぐ)ったのでござりましょう。確かにその通りなのでござりまするが。」
「何と?」
政氏はやはり何か有ったなと思いつつ、忠重の顔を見据えた。しかし忠重は、涼しい顔をしたままである。そして、ゆっくりと話し始めた。
「一大事とは申しても、此(こ)は領内の事ではござりませぬ。先刻、兄忠頼より某(それがし)の元へ伝えられた、京にて勃発せし、政変に就(つ)いてでござる。」
「政変じゃと?」
これには政氏だけではなく、側に控える宗久も、顔色を変えた。邦衡も、具体的な話を聞くのは初めてらしく、息を呑んで忠重を見詰めて居る。
「詳しく申せ。」
政氏の言葉に忠重は一揖(いちゆう)し、再び口を開く。
「去る三月二十五日の夜更(よふ)け、京の右大臣藤原師尹(もろただ)公邸に、左馬助(さまのすけ)源満仲殿と前(さきの)武蔵介藤原善時(よしとき)殿の密告がござり申した。内容は左大臣源高明(たかあきら)卿が一昨年前、即(すなわ)ち村上帝崩御の後に、皇位に就(つ)けなかった為平(ためひら)親王に同情し、中務少輔(なかつかさのしょうほ)橘繁延(たちばなのしげのぶ)や、左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)源連(みなもとのつらぬ)と共謀し、謀反を企(たくら)んだとの由(よし)。報せを受けた関白藤原実頼公は、直ちに朝議を召集。権大納言藤原伊尹(これただ)卿は厳罰に処すべしとの意見を示し、源高明公は菅公の前例に倣(なら)い、太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されたとの事にござりまする。又、左大臣の一派と目された、下野の藤原千晴は全権を失い。家督を弟の千常に譲ったとの由にござり申す。」
左大臣源高明は、権力を一族に集中させつつ在った藤原摂関家に取って、最も眼障(めざわ)りな存在であった。藤原氏に因(よ)る太政官独占を防ぐ最後の砦が、遂(つい)に落ちたのである。この政変の後、右大臣藤原師尹は、空位と成った左大臣に昇格し、藤原氏に因る専政体制は確立された。故に人々は、この政変を藤原師尹の陰謀と噂(うわさ)し合った。所謂(いわゆる)「安和(あんな)の変」である。

 一部始終を聞いた宗久は、嬉々とした表情で話す。
「藤原千晴失脚は、当家の大吉なり。後を継いだ千常も、当分の間は国内豪族の統率に追われ、常陸と連合して戦(いくさ)を起す事は能(あた)いますまい。又常陸平家も、有力な同盟勢力の失脚に因(よ)り、村岡平家へも、この磐城家へも、手出しは出来なく成った筈(はず)でござる。」
しかし政氏は、冷静に宗久の発言を制する。
「確かに藤原千晴の追放は、暫(しば)しの間は両勢力の足留めと成る。しかし、新たに当主と成った藤原千常や、その嫡子文脩(ふみのぶ)は、武勇に秀でた人物と聞く。怖らく、下野掌握には然程(さほど)の時を要せず、千晴よりも更(さら)に強大な勢力と成るやも知れぬ。」
政氏の言を聞いて、宗久と邦衡は言葉に詰まってしまったが、忠重は笑みを湛(たた)え、政氏に申し出る。
「では、今が好機にござりまするな。」
政氏は深く頷(うなず)き、憤怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)を呈して告げる。
「うむ。今まで常陸の繁盛を頼みに私に背(そむ)き、私腹を肥やして参った下劣(げれつ)の者共を、今こそ一掃する時じゃ。村岡氏、近藤氏、斎藤氏、江藤氏は直ちに兵を集め、斯(か)かる不届き者を成敗せよ。」
政氏の下地を受け、忠重、宗久、邦衡の三名は、承服の意を示した。そして、忠重は軍を整えるべく汐谷城へ戻り、宗久と邦衡は、三氏に政氏の命を伝える使者を送った。

 村岡忠重は汐谷城へ戻ると、直ぐに兵を集めた。それから四箇小隊を編成し、其々(それぞれ)汐谷城近辺の御巡検道と浜街道、そして常陸国境付近の浜街道酒井郷に配置し、二段構えにて、政氏の対抗勢力が常陸へ使者を送るのを防ぐべく、展開した。そして残る兵を汐谷へ留め、動乱が菊多へ及ぶ事態を防ぎ、又磐城家への後方支援に備えた。

 一方、政氏の命を受けた近藤宗弘、斎藤邦衡、江藤玄篤も、直ちに兵を起した。政氏は宗久、邦衡に戦(いくさ)の経験を積ませるべく、両名を一時親元へと戻した。特に邦衡に取っては、これが初陣である。

 政氏の軍は、搾取(さくしゅ)に因(よ)り疲弊した民の支持を得て、各地で連戦連勝した。今まで対抗して来た豪族達も、その強さに恐れをなし、相次いで降伏を申し出て来た。此度の動乱に因り、磐城郡内では、政氏の軍の精強さが広く知られる所と成った。政氏は郡内豪族の殆(ほとん)どを、その勢力下に置く事に成功したのである。飽(あ)く迄(まで)抗戦した者は、その権力を悉(ことごと)く奪った。

 ここに政氏は、漸(ようや)く民に善政を施す事が出来る様に成った。予(かね)てよりの懸案(けんあん)であった郡内の荘園拡大は、民心を得る事に因(よ)り、解決へ向かう事が出来たのである。

 この年、鳥見野原では大規模な鑪(たたら)が完成し、愈々(いよいよ)操業を開始する運びと成った。一方磐城七浜では、順調に塩の生産が伸びつつ在るとの報告を受けた。これ等は磐城の特産物として、先ずは領内飛地の信夫(しのぶ)や津軽へ出荷する事と成るが、今後も生産量が伸び続ければ、仙道諸郡との交易を行いたいと、政氏は考えて居た。又鉄器を領内に広めれば、領民の暮しも向上し、農産物の増産にも繋(つな)がるのではないかと、期待を膨らませた。

 安和(あんな)の変では、摂関家は為平親王の皇位簒奪(さんだつ)計画を、未然に阻止(そし)したという形に成った。しかしこの年、帝(みかど)は十九歳の若さで退位して冷泉(れいぜい)上皇と成り、皇位は僅(わず)か十歳の守平(もりひら)親王が継承した。又、源高明失脚に因(よ)り左大臣に就任した藤原師尹(もろただ)が、間も無く薨(みまか)った。

 年が明けて安和三年(970)。三月十六日には改元が有り、天禄元年と成った。この年は摂関家の長者である、摂政藤原実頼が七十歳にて薨(みまか)り、清慎公と諡(おくりな)された。その後、摂政の座には実頼の嫡子頼忠ではなく、甥(おい)で亡き弟師輔(もろすけ)の子伊尹(これただ)が就任し、新たな摂関家の長者として君臨した。

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