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第十三節 津軽と安倍氏
翌朝、政氏等は再び門前町の外れに集結し、慧日寺を後にして行った。一行は街から西南方へ進み、日橋川を渡った後、程無く越後街道に出た。川を渡った事で政氏等は、耶麻(やま)郡から会津郡へ入り、街道を西進すると、直ぐに倉橋郷に至った。
「会津」(あいづ)という地名が初めて書物に掲載されたのは、和同五年(712)、元明天皇の勅に因(よ)り、太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼(ひえだのあれ)の帝紀、旧辞誦習を得て撰進した、「古事記」(こじき)三巻である。更(さら)に、養老四年(720)に舎人親王等が撰した、海内(かいだい)最古の勅撰正史「日本書記」三十巻に依れば、崇神(すうじん)十年、北陸に大彦命(おおひこのみこと)、東海に武渟川命(たけぬなかわのみこと)、西道に吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波に丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を、四道将軍として派遣したと有る。「古事記」ではこれが三道将軍と成って居り、丹波に派遣された日子坐王(ひこいますおう)の他、高志(こし)道の大毘古命(おおびこのみこと)と、その子で東方十二道に遣(つか)わされた、建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)の記載が有る。大毘古命は越後より東進し、その途上、坂東より奥地に進軍して来た建沼河別命と邂逅(かいこう)し、故にその地を「相津」(あいづ)と名付けたという。
会津盆地は、その中央を阿賀川と称す大川が、南北に走って居る。越後街道は、支流宮川が合流する処で、西岸へ渡る。暫(しばら)く進むと平地が終り、丘陵地と成る。ここで街道は上り下りして、阿賀川支流の只見川に出るが、川幅が広いので、船場より渡河する。川沿いでも、船場の周辺だけは纏(まと)まった平地と村落が在ったが、平地から山中へ入ると、途端に深い自然に包まれる。木々を覆(おお)う深雪(みゆき)や、紺碧(こんぺき)の大河の流れを見て、流石(さすが)は奥羽の大山脈が創り出した自然なりと、政氏は感動を覚えた。
暫(しばら)く街道は山中を進み、漸(ようや)く平地へ下りて来て、人里が見えたかと思うと、再び阿賀川の壮大な流れに出逢った。しかし山水の風景を楽しめたのも束(つか)の間で、街道は再度川を離れ、深山(みやま)へと入って行く。真昼だというのに、薄暗い山道を進んで行くと、やがて石の標(しるべ)が目に留まった。見れば、それには越後国蒲原郡と刻まれて在る。漸(ようや)く陸奥を出て、越後に入った事を悟った政氏は、既(すで)に磐城より四十里を隔(へだ)てた処に居る事を知り、長い旅をして来た物だと感じた。しかし越後の海は依然遠く、目指す津軽の地は、それよりも更(さら)に奥である。そう考えると疲れるばかりであるが、一方で磐城から越後へ出る道を知ったのは、一つの収穫であると、政氏は感じて居た。
阿賀川は越後国に入ると、その名を阿賀野川と変える。磐城家一行は阿賀野川に沿って、街道を北西に進んだ。しかし、街道の整備が遅れて居る為に道は悪く、加えて途中に駅家(うまや)も無い。政氏達は道端の岩に腰掛け、幾度も休息を取りながら、日が暮れる頃、漸(ようや)く北方に海が望める処まで来た。
越後から出羽国秋田城までは、船旅である。政氏は馬に乗り降り進んで来たが、歩兵と荷駄隊は歩き尽(ずくめ)であり、その疲労は極(きわ)みに達して居る様である。もう少しで体を休められる事が判(わか)った一行は、俄(にわか)に元気を取り戻し、阿賀野川河口に向かい、進んで行った。
前方には、朝廷の軍事拠点である渟足柵(ぬたりのき)が見える。清綱の計画に依れば、今夜はあの砦に泊まるという。政氏は疑問を抱き、清綱に尋ねる。
「渟足柵は官軍の砦であろう。何故(なにゆえ)容易に、我が兵五十騎の宿泊許可が下りたのか?」
「はっ。其(そ)は現在越後権守(えちごごんのかみ)に、藤原惟清(これきよ)様が御就(つ)きに成られておわしまする故、その筋に手を打って置いたのでござりまする。」
「何と、惟清様が権守に?」
藤原惟清は忠舒(ただのぶ)の子であり、式家当主滋望の従弟(いとこ)に当たる。政氏に取っては幸運にも、惟清の兄である出羽介利方の協力を得た直後であったので、その口添えに因(よ)り、渟足柵に五十騎を留める事と、秋田城までの船便を手配して貰(もら)う事を、承認してくれたのである。しかし惟清当人は、権守の職務の為、頚城(くびき)郡の国府を離れる事は出来ない。先年従五位下に任官し、式家においては忠文以来の、四位が期待される人物だけに、政氏は一目会って置きたかったが、已(や)むを得なかった。
渟足柵(ぬたりのき)は大化三年(647)、東北地方に勢力を伸ばしつつ在った大和朝廷が、北方蝦夷(えみし)への備えとして築いた砦である。翌年の大化四年(648)には更(さら)に北方へ進出し、磐舟柵(いわふねのき)を築いた。これ等の柵名は、周辺の郡名にも繋(つな)がり、其々(それぞれ)沼垂(ぬたり)郡と岩船(いわふね)郡が置かれて居る。両柵共、朝廷の権威が、出羽北部の秋田城まで及んだ今と成っては、大した兵は駐在して居ない。しかし、天慶二年(939)に秋田城近辺で反乱が勃発した事等に因(よ)り、出羽の後備えとして、未だ廃城には至って居ない。
政氏は渟足柵に到着すると、将より権守(ごんのかみ)所縁(ゆかり)の者として、鄭重な応対を受けた。そして準備された夕餉(ゆうげ)を掻(か)き込むと、宛(あて)がわれた部屋に移って、早々に寝てしまった。政氏は奥羽山脈横断の険しさを、身を以(もっ)て味わった。
翌朝目を覚ますと、政氏は全身に痛みを感じた。昨日の強行軍に因(よ)り、各処の筋肉が痛みを発して居る様である。しかし、今日は終日船旅である事を考えれば、幾分は気が晴れる。奥羽山脈に朝陽が昇る頃、政氏等は越後の船に乗り、北を目指して出航した。
天気は快晴であったが、風が些(いささ)か強い様に感じられた。波は高く、大型の船と雖(いえど)も、その揺れは大きかった。磐城家の者は殆(ほとん)どが、斎藤軍所属の者であったので、慣れぬ揺れに体調を崩す者も出た。特に政氏は、初めての乗船であった為に、酷(ひど)く酔った。時折海面に嘔吐(おうと)し、海原を眺める心の余裕は無く成って居た。
粗方(あらかた)吐(は)いてしまった後は、屋形の中でぐったりと横たわった。空を見れば、雲の少ない爽(さわ)やかな青色である。少し船酔いに慣れて来ると、政氏はよろよろと起き上って、船外の景色に目を移した。傍らでは清綱が、心配そうに政氏を見て居る。
「殿、大丈夫にござりまするか?」
清綱の声に、政氏は力無く頷(うなず)いて見せた。
「うむ。所で、西の彼方(かなた)に見える大島と、東の海岸に在る大きな砦は何じゃ?」
「西に見えるは、佐渡ケ島にござりまする。」
「ほう、もう大分過ぎたのに、未だ見えるか。」
しかし東の砦は判(わか)らず、清綱は船頭の元へ行って聞き、やがて戻って来た。
「殿、あれは念珠関(ねずがせき)との由(よし)にござりまする。」
念珠関は出羽と越後の国境に在り、往古、越後を出羽の蝦夷(えみし)より守る為に築かれた。海道の奈古曽関(なこそのせき)、仙道の白河関(しらかわのせき)に北陸道の念珠関(ねずがせき)を加え、奥羽三関と称す。これ等の存在が示す様に、奥羽の民は未だ、朝廷に因(よ)る支配の歴史が浅い。朝廷は奥羽統治を完全には達成出来て居らず、依然緊迫した要素を孕(はら)んだ土地であった。その一例が政氏の所領の一つ、津軽郡である。政氏は海辺に築かれた物々しい砦を見て、ふと本領の南端に在る、奈古曽関を彷彿(ほうふつ)とした。
船はやがて酒田津に入港した。ここでは、もう一艘の大型船が、出航の準備をして居る。政氏等は一旦、この湊(みなと)で下船した。共に秋田城へ向かう、出羽介藤原利方と合流する為である。利方は街道沿い、飽海(あくみ)の近くに在る国府から、海辺の出羽柵まで出て来て居た。酒田津とは目と鼻の先である。出羽柵より沖に越後の船を認めた利方は、政氏と合流するべく、柵を発した。
間も無く、利方は酒田津へ姿を現した。政氏はそれに気付くと、家臣を纏(まと)めて、恭(うやうや)しく利方を待つ。利方も政氏の姿を認めると、真っ直ぐに歩み寄って来た。そして、和(にこ)やかに話し掛ける
「初めて御目に懸かる。某(それがし)は大蔵大輔藤原忠舒(ただのぶ)の子、出羽介利方にござる。」
政氏は初対面であったが、利方の晴れ晴れとした表情を見て、安堵感を覚えた。
「某(それがし)は平忠政の子、政氏にござりまする。此度は当家の津軽視察に御助勢を賜(たまわ)り、真に有難く存じ奉(たてまつ)り申す。」
「何の。津軽の平穏は出羽の安寧に繋(つな)がる。津軽は未だ、事実上は蝦夷(えみし)の統治下に等しい。これを政氏殿が、天朝の威風の下に置く事が出来れば、遂(つい)に倭(やまと)の勢力は、本州最北端に達する事と成る。慶賀の極みじゃ。」
確かに、政氏が津軽を巧(うま)く治める事が出来れば、出羽国境北部の緊張は、一気に緩(ゆる)まる。それは出羽国に取って大きな益と成り、もしもそれが叶(かな)うのであれば、政氏と利方の名声は、一気に上がる事が予想された。
先ずは政氏の津軽入りの際、秋田城の軍事的支援が必要であり、その為に政氏は利方と共に、秋田城へ赴かねば成らなかった。出航準備が整うと、利方は船に乗り込む前、政氏に一言声を掛けた。
「儂(わし)は以前、京の忠文公が邸にて、父忠舒に付いて訪問した折、貴殿の父君、忠政殿に会(お)うた事が有る。良く似て居られるのう。」
そう言い残し、利方は出羽の船へ向かって行った。政氏は、利方も父の代から所縁(ゆかり)の有る人物である事を知り、心強く感じられた。
出羽と越後の両船は、共に北を目指した。東の陸を見れば、鳥海山が裾野(すその)を海岸まで延ばし、奥羽有数の壮大さを誇って居る。陽が西の海面に掛かり、朱色の光を放ち始めた頃、政氏等は土崎の津へと入港した。湊(みなと)では、出羽介到着の報せを受けた秋田城より、出迎えの一隊が待って居た。利方と政氏の一行は、秋田城兵の案内を得て、秋田城へ入って行った。
秋田城は天平五年(733)に築かれたが、その当初は柵であった。しかし十余年後の孝謙朝の頃には、国府近辺、最上川流域にも朝廷の支配が及び、天平宝字五年(761)に出羽北方鎮守の要として、城に昇格した。やがて延暦二十二年(803)の坂上田村麻呂遠征に因(よ)り、秋田城周辺も朝廷の支配下に入って行った。文徳朝の頃には、更(さら)に北方の米代川流域にまで勢力を伸ばし、渟代柵(ぬしろのき)を拠点に、兵を駐屯させた。
出羽介利方は城内に入ると、早々に秋田城司(あきたじょうのつかさ)と対面に及び、現在保有する兵力を尋ねた。秋田城司は、未だ郡を置いて間も無い津軽に、貴種である平家の一族が直々(じきじき)に入ると聞き、内陸の贄柵(にえのき)からも兵を動員し、二千の兵と軍船五十艘を掻(か)き集め、有事に備えて居た。利方は、兵や軍船が充分に揃(そろ)って居る事を知って安堵し、詳しい話は明日行う事とした。肝心の磐城家の者達が、長旅で疲れて居たので、ここで数日は休ませる必要が有り、急ぐ事は無かった。
翌日より、秋田城内政庁では城司、出羽介利方、津軽郡司政氏等が協議を行い、政氏に随行させる兵力と、有事に備えて国境に配置する部隊を決めた。政氏は五十の手勢の他に、秋田城兵四百五十騎を、護衛に付けて貰(もら)える事と成った。兵五百を伴うは、当然津軽の豪族達に威圧感を与える事と成るが、津軽は未だ朝廷に服属して居るとは言えない為、その方が寧(むし)ろ良いであろうという判断に成った。津軽には安倍一族の安倍季良(あべのすえよし)が、日高見(北上)川上流域に勢力を伸ばす宗家の後押しを得て、津軽最大の勢力と成って居た。
安倍氏は斉明朝四年(658)より、三年の歳月を懸けて、越国(こしのくに)に齶田(あきた)、渟代(ぬしろ)、津軽の三郡を切り開いた、越国守阿倍引田臣(ひけたのおみ)比羅夫(ひらふ)の子孫にして、又宝亀十一年(780)に伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱を鎮定した、出羽国鎮狄(ちんてき)将軍阿部家麻呂の末裔(まつえい)と称して居る。しかし官衙(かんが)の内では、往古神武天皇に敗れて、饒速日命(にぎはやひのみこと)に討たれたという長髄彦(ながすねびこ)の、兄に当たる安日王(あびおう)の末裔と噂(うわさ)されて居る。
秋田城司は、利方と政氏に提言する。
「津軽最大の勢力安倍季良は、単独でも二千近くの兵を集める力を持ち、況(ま)して隣国の宗家は、万の兵力を抱えてござる。ここは少なくとも、季良が宗家と連携する前に津軽の府へ入り、早急に後任人事を済ませるに限り申す。然(さ)も無ければ安倍宗家が介入し、津軽の人事は安倍氏に牛耳られてしまう事でござろう。又これが切っ掛けと成って、奥羽に大乱が起こらぬとも限らぬ。少なくとも季良が本気に成れば、五百騎の護衛が有ると雖(いえど)も、政氏殿を護り切れるか如何(どう)か、判(わか)り申さず。」
政氏は、城司の言葉を確(しか)と噛み締め、返答する。
「某(それがし)は、実を捨てて名を取る積りでござる。」
「ほう?」
城介と利方は前傾して、政氏の言に耳を傾ける。
「某(それがし)は季良なる人物を見定めた上、ともすれば少領に任じて、津軽の郡政を委(まか)せるやも知れませぬ。」
その言葉に城司は驚き、政氏に問い質(ただ)す。
「政氏殿、季良に津軽の郡政を委(ゆだ)ねるという事は、津軽を安倍一族の支配下に置く事に等しく、延(ひ)いては朝威の衰退にも繋(つな)がりましょうぞ。」
「はっ、其(そ)は重々承知の上にござる。されど、津軽郡司の官職を与える事で、季良を安倍一族より引き離し、国司や隣国秋田城の下に組み込む事が出来れば、国家に取って吉かと存じまする。」
利方は膝(ひざ)を叩いて、政氏の策を面白がった。
「成程(なるほど)。郡司の職を餌(えさ)に、季良を安倍一族より釣り上げるという訳か。此(こ)は面白い。」
しかし一方で、城司は依然、訝(いぶか)しんで居る様子である。
「まあ津軽は政氏殿の管轄故、政氏殿に任せる事と致そう。只、安倍一族の結束は、思いの外強うござる。努々(ゆめゆめ)御油断無き様。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
政氏は城司の助言に感謝の意を示し、頭(こうべ)を垂れた。
斯(か)くして、政氏の津軽入りの方針、兵の配置は、悉(ことごと)く決まって行った。そして、燦然(さんぜん)と西の海上に輝く夕陽を見た秋田城の将は、明日は天候上、船出の危険は少なしと断じ、その旨を城司に報告した。これを受けて、政氏は愈々(いよいよ)明日、津軽に出航する事を決めた。
*
翌朝卯(う)の国、奥羽山脈の嶺が朱(あけ)に染まり始めた頃、磐城家と秋田城兵、併せて五百騎が、二十余艘の船団を組んで、土崎の津を出港した。内五艘は兵糧武具等を積んだ大型輸送船だが、他大半の船は小型で、船脚の速い軍船とした。いざという時に、速やかに秋田城へ退却出来る様にである。
船団は土崎を出た後、男鹿半島を大きく回り込んだ。半島付け根に位置する寒風山は、然程(さほど)高い山ではない。されども陸の際に聳(そび)えて居る為、海上からは一層雄大に見える。
やがて半島の北方に出ると、今度は米代川の河口が見えて来た。これが見えると、愈々(いよいよ)国境は近いとの事である。米代川より五里程北方には、白神山地が東西に伸び、出羽と陸奥の境と成っている。これを越えると、そこは政氏が郡司に任ぜられた津軽郡である。白神山地の沖を過ぎる時に政氏は、山並が海岸線近くまで迫って居る為、この辺りは数里に渡って、平地が少ない事に気が付いた。これでは陸路を退却する羽目に陥(おちい)った時、ここに兵が伏せて在れば、容易に退路が断たれてしまうと感じ、背筋が寒く成るのを覚えた。
白神山地の北西部に、比較的目に付く山が見える。それは白神岳と称し、そこはもう陸奥国津軽郡である。船団は艫作(へなし)崎、然して大戸瀬崎を回り、赤石川の河口を東に過ぎた。そこで政氏は、南方に広がる平野に聳(そび)え立つ、独立した高山を認めた。北方奥羽の春は遅い。津軽の地は山だけで無く、平地も依然雪に覆(おお)われて居る。斯(か)かる白銀の風景において、青天にその頂を高く突き出した山の壮麗な姿は、政氏の心に感動を呼び起した。そして己(おの)が所領に、斯様(かよう)に美しき地が在った事を、嬉しく思った。
やがて、一艘の小舟が政氏の船団に近寄って来た。舵(かじ)取りの他に、甲冑(かっちゅう)は纏(まと)って居ないが、帯刀(たいとう)した武士が乗って居たので、船団には俄(にわか)に緊張が走った。自軍の将が、武士に素姓を尋ねた所、津軽郡衙(ぐんが)の迎えであると言う。その武士は、近くに津が在る事を教え、そこに停泊する様勧めた。政氏は、郡衙の使いであると言うので、一応その言葉に従い、船団を津に停めた。
陸に上がった政氏一行の前に、先程の武士が歩み寄って来るのが見える。武士は政氏の前にて跪(ひざまず)き、礼を執った。見れば未だ、随分と年若い。前髪を下ろして居る所を見ると、元服前の少年の様である。
「某(それがし)は津軽郡主政安倍季良が嫡男、毘古丸(ひこまる)と申しまする。郡司様は初めての御赴任と伺(うかが)い、某(それがし)が郡衙まで御案内する様、仰せ付かってござりまする。」
「然様(さよう)か。では案内願おう。」
政氏の言を受けると少年は立ち上がり、供の者が曳(ひ)いて来た馬に飛び乗った。政氏は軍船を停泊させる津に、二百の秋田城兵を残す様に命じた。万一の時、この船を奪われては、津軽を脱出来なく成るからである。
政氏以下三百騎の軍勢は、毘古丸の後に続き、津軽平野を南下して行った。船上より見えた秀麗なる峰も、次第に間近に迫って見える。一行はやがてその山の東麓を過ぎた処、川が二俣に分かれた先の丘の中腹に、広大な館が建って居るのを見付けた。この館は、北と東に流れる川が天然の堀を成し、南方には白神山地が広がって居るので、守りには頗(すこぶ)る適して居る。又直ぐ北側に広がる、豊かな津軽平野に割拠する小豪族にも睨(にら)みが利き、加えて山河の風景も麗(うるわ)しい。正に津軽郡内でも、これ程府に相応(ふさわ)しい処は無いと思われた。
毘古丸が館の正門に着くと、直ちに門衛達は開門した。そして、彼等は礼を執って一行を迎え、政氏も郡司らしく堂々と構えて、館内へ入って行った。
門を潜(くぐ)ると、そこでは十名程の武士が、膝(ひざ)を突いて待機して居た。毘古丸は政氏の傍らで馬を下り、その先頭に跪(ひざまず)く武士に告げる。
「父上、この御方が大領、平政氏様にござりまする。」
武士はそれを聞くと、一旦深く頭を下げた後、名乗り始めた。
「御初に御目に掛かりまする。某(それがし)は安倍季良と申し、先の郡司からは主政職に任ぜられ、本日まで郡政を預って参った者にござりまする。」
安倍季良は、前(さき)の郡政の一等官である大領より、三等官たる主政に任ぜられて居た。しかし大領が赴任せず、又二等官の少領を任じなかった為、事実上郡政は、季良が掌握して居た。
「余が昨年、大領に任官した平政氏じゃ。直ぐの赴任は叶(かな)わなかったが、今まで本郡の政(まつりごと)を代行せし事、真に大儀であった。」
そう述べた後、政氏は季良以下に、礼から直る様告げた。
季良は立ち上がると、先ずは前の郡衙の官吏と、新たに大領に就任した磐城家との顔合せを行うべく、広間へと案内した。途中、季良は一言、政氏の耳に入れて置いた。
「諸豪族も、主立った者は集めてござりまする。」
それを聞き、政氏の顳顬(こめかみ)からは俄(にわか)に、冷汗が流れ始めた。考えて見れば、津軽の海岸には既(すで)に、安倍の迎えの者が来て居り、館には豪族達が集まって居る。磐城家は来訪を告げず、予告無しで来た筈(はず)なのに、既に応接の仕度は整えられて居た。
(これは、秋田城の中にも、安倍の手の者が入って居るな。)
そう感じた政氏は、今目の前を歩く壮齢の武士季良に、恐怖感を抱かざるを得なかった。
政庁広間の上座に着いた政氏の目には、津軽平野の西方に聳(そび)え、一際(ひときわ)目立つ独立峰が望めたので、山の名称を季良に尋ねた。季良は微笑を湛(たた)えて答える。
「あれは、岩木山と申しまする。」
「ほう、今私が本拠とする地と、同じ名であるのう。」
政氏は奇異な事も有る物だなと思いながら、これまでの津軽郡政に就(つ)いて、尋ね始めた。
やがて、話は地勢上の事から、郡衙の機能を掌(つかさど)る、当館の話に移った。この時、橘清綱が当地の地名を尋ねた所、季良は再び微笑を浮かべて答えた。
「この辺りは、相馬村と申しまする。」
それを聞き、俄(にわか)に政氏の視線は鋭く成って、季良に向けられた。季良は、政氏の心中に発した細波(さざなみ)に気付き、言葉を添える。
「畏(おそ)れ乍ら申し上げまする。政氏様は下総相馬平家の御出身にて、昨年、賊徒を鎮定した恩賞として所領を賜り、今は磐城郡を本拠とし、磐城平家を名乗られたと聞き及んでござり申す。我等は斯(か)かる武勇の御方を、郡大領として迎えられし事を慶(よろこ)び、又少しなりとも肖(あやか)れればと思い、本郡の府と、象徴たる霊山に、政氏様所縁(ゆかり)の地名を付けさせて戴いた次第にござりまする。」
これに対して政氏は唯(ただ)一言、「然様(さよう)か」、と答えただけであった。昨年秋に新任された郡司の出自を、僅(わず)か半年の間に、しかも雪に閉ざされた最果ての地にて、季良は既(すで)に調べ終えて居た。この他、一体何処(どこ)まで知り得て居るのかと考えると、政氏はこの安倍季良という人物が、不気味で巨大な存在に思えて来た。しかし、津軽の地に政氏所縁(ゆかり)の名を付けた事は、政氏に対する気遣いであり、季良が政氏を徹底的に排除し様とする意思は、無い様に窺(うかが)えた。只、これは油断を誘う、もしくは懐柔する為の物とも考えられる。そう考えると、政氏は季良に対し、気を緩(ゆる)める事が出来なく成った。
その後数日間、政氏は五十騎の手勢のみを率い、安倍季良の案内を得て、津軽郡の巡察を行った。季良が政氏来訪の情報を、事前に得て居た事から、怖らく安倍宗家も、津軽の情勢を把握して居る事は、容易に推察出来る。下手に季良の意に沿わぬ行動に出れば、安倍宗家が数千の兵を繰り出し、力尽(ちからづく)で阻止して来るかも知れない。そう成れば、三百騎の兵を擁した位では、一溜(ひとたま)りも無い。政氏は無駄に物々しくして、臆病に思われるのを避けるべく、信頼の置ける磐城兵のみを率い、残りは相馬村の館に残して置く事にしたのであった。
津軽の春は、依然白銀の世界である。所領の一つである信夫(しのぶ)郡と比べても、遥かに気温が低く、農耕に由(よ)る収益は、他郡に比べても低い様である。その分、海辺の者は漁に出て、内陸の者は狩猟等を以(もっ)て、生業(なりわい)として居る風(ふう)であった。
稲作の技術は、西国より次第に東国ヘ伝わって行ったが、奥羽でもこの最果ての地では、依然知識も農具も、劣って居るのが現状であった。政氏は広大な津軽平野を望みながら、この地に安全で、より安定して収益が得られる、農耕の技術を上げる事は出来ないかと考え始めた。
*
そして十日程、巡察と思案を重ねた後、政氏は相馬の郡衙(ぐんが)に、郡内諸豪族を招集した。そしてその場で、郡内巡察が完了し、明日津軽を発つ事を表明した。
豪族達は俄(にわか)に騒(ざわ)つき始めた。新たな郡司もやはり、安倍氏を制する事は能(あた)わず、何も出来ぬまま本城に帰るのかと、囁(ささや)き合った。
「静まれ!」
突如、清綱の声が政庁広間に響き渡り、豪族達はそれに気圧(けお)されて、沈黙してしまった。周囲が充分静かに成った所で、政氏は口を開いた。
「前(さきの)主政安倍季良殿。」
政氏に呼ばれ、最前列中央に座して居た季良は返事をし、礼を執った。その仕種(しぐさ)を見届けた上で、政氏は言葉を接ぐ。
「私は他に有する所領、即(すなわ)ち海の磐城、菊多と山の信夫に、確固たる交易網を整備し、又其々(それぞれ)の地理風土に適した産業を振興し、奥州を他国に劣らぬ、豊かな地にしようと考えて居る。季良殿は久しく津軽の郡政を統轄して来られたが、私の考えを如何(どう)思う?」
季良は一瞬、返答に閊(つか)えて居た様であったが、直ぐに考えを纏(まと)め、政氏に言上する。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。某(それがし)は政氏様の所領が、三箇所の飛地と成って居る事から、近隣豪族との諍(いさか)いが起きた折、個々に撃破され易く、故に唯(ただ)一郡のみの領主の方が、力を集中出来る分強し、と考えて居り申した。されど政氏様の、奥州に大交易網を構築される案は、其々(それぞれ)の郡の、他に無き長所を以(もっ)て互いに補い合い、飛地四郡を皆豊かにする物と存じまする。但(ただ)し、奥州が安寧である事が条件でござりまする。」
「確かに。戦乱に因(よ)り交易路が遮断(しゃだん)されては、私の構想は崩れよう。しかし、磐城と信夫の間に在る、白河、安積、安達の仙道三郡には、先の戦役で共に戦った友が多く居る故、南部奥州に斯(か)かる懸念は無い。ここ津軽郡は、如何(いかが)な物であろうか?」
季良は再び思案した。今までの郡司の中には、政氏の如く、政(まつりごと)を真摯(しんし)に行う者が居なかった。季良が考えあぐねて居る脇で、毘古丸がつと口を開いた。
「津軽の地も、今は平穏に御座りまするが、只政氏様の居城とは、距離が隔(へだ)たり過ぎてござりまする。磐手郡厨川柵(くりやがわのき)から津軽までの間は、依然街道や駅家(うまや)は整備されて居らず、又湊(みなと)の規模も小さい為、大量に物資を輸送するのは困難かと存じまする。」
意外な人物から意見が出た為、政氏は些(いささ)か驚いた。未だ元服前の少年が、奥州の情勢を既(すで)に学び、又父に代わって郡司に言上する気概を持って居る事に、政氏は興味を覚えた。そして、毘古丸に重ねて尋ねる。
「では津軽の地が、未だ奥州南部と物資を往き来出来ぬは、仕方の無い事であると?」
「津軽は磐城の地と比べれば、未だ文化は未熟にござりまする故、南方と繋(つな)がり、文化を熟成させる必要は有ろうかと存じまする。津軽の地は、磐城とは異なる海流、気流がござりますれば、磐城には無き珍味の食材がござりまする。その中で、長く保存出来る物に限れば、磐城、信夫へ日高見(北上)川沿いの街道を通じ、纏(まと)まった量を送る事が可能にござりまする。只ここを通るには、宗家の許可が必要にて。されど、政氏様が御望みと在らば、当家よりその旨を、宗家へ通達致しまする。」
毘古丸の案に、今度は政氏が唸(うな)った。傍らで清綱が、政氏に囁(ささや)く。
「殿、斯様(かよう)な案を採れば、交易の利益の一部が安倍宗家へ流れ、益々(ますます)あれを肥らせる事に繋(つな)がりましょうぞ。」
確かに毘古丸の案は、安倍宗家の傘下に居ながらに為て、南方との交易で利が得られるという、津軽安倍家には損の無い話であった。一方の政氏の考えでは、多少の益が安倍一族へ流れるにしても、北端の地津軽との交易路を開いた方が、当地の情勢を得易く成り、望む所であった。
「毘古丸殿の意見に対し、私は賛成なのだが、季良殿は如何(いかが)かな?」
政氏は柔和な表情のまま、毘古丸から季良に視線を移して尋ねた。
「某(それがし)にも異存はござりませぬ。政氏様の御意に従い、宗家へ使者を遣(つか)わす事と致しましょう。」
政氏は頷(うなず)くと、ほっと溜息を吐(つ)いた。
「ふう、これで遥々津軽の地まで遣(や)って来た詮(かい)が有(お)うたわ。」
政氏は安堵の表情を浮かべて、諸豪族を見渡した。皆、政氏と毘古丸の急進的な遣(や)り取りに付いて行けぬ様な、呆気(あっけ)に取られた面持ちをして居る。
ふと、政氏は思い付いた様に話し始めた。
「そうそう、この案を提示してくれた者と、これを実行してくれる者に、褒美を与えて置こう。先ずは毘古丸。」
政氏の指名を受け、毘古丸は直ちに畏(かしこ)まった。
「其方(そなた)には私の偏諱(へんき)を授け、政季(まさすえ)の名を与える。」
「ははっ、有難く頂戴仕(つかまつ)りまする。」
平伏する毘古丸改め政季の隣で、父の季良は冷汗を流して居た。津軽安倍氏の嫡男は代々、宗家の当主が元服の際に烏帽子親(えぼしおや)を務め、鎮荻(ちんてき)将軍安倍宅良の末裔として、良の一字を賜って来た。政氏が毘古丸に偏諱(へんき)を授けた事は、正に安倍宗家と津軽家の、従来よりの繋(つな)がりに、罅(ひび)を入れる行いであったのである。
斯(か)かる事を懸念する季良に、政氏が朗らかに語り掛けた。季良に取って不意の事であったが、辛うじて動揺を隠し、平伏する。
「季良には今後、正式に津軽の政(まつりごと)を託す事とする。即(すなわ)ち、津軽郡少領に任ずる。主政と主帳の人事は任せる故、思い切り腕を揮(ふる)われよ。」
歴代の郡司は安倍氏の勢力拡大を恐れ、これを三等官以下の、低い官職に就(つ)けて来た。それを、政氏は遂(つい)に二等官の地位を与え、安倍氏に律令体制に沿う権力を与えたのである。政氏は真に力を有する者が官職を兼ね備えることで、郡政がより滑らかに行われる事を期待したのであった。
季良の少領就任を受けて、その傘下に在る豪族達は一斉に沸(わ)き立ち、祝福の声を上げた。しかし季良は、それを制して静めた後、政氏に確認する。
「政氏様より信任を得られ、無上の喜びに存じ奉(たてまつ)りまする。されど我等安倍一族は、国衙(こくが)に久しく疎(うと)まれて居り、怖らく政氏様の推薦状は通らぬ物と存じまする。それでは政氏様御身(おんみ)の為に成らぬと案じられまする故、ここに御辞退申し上げる次第にござりまする。」
そう述べると、季良は深々と頭を下げた。しかし政氏は、平然とした顔で、季良に告げる。
「斯(か)かる懸念は無用じゃ。ここを発った後、私は一度多賀城に立ち寄る。奥羽の官吏には知る者も多い故、何とか国司の認可を得る事は出来よう。貴殿は、本郡の政(まつりごと)を第一に考えてくれ。」
「はっ、承知仕(つかまつ)り申した。」
季良が漸(ようや)く承服の意を示すと、政氏は笑顔を湛(たた)えて言葉を接ぐ。
「祝着じゃ。序(つい)でと言えば何だが、出立前に私が烏帽子親(えぼしおや)と成り、政季の元服式を執り行う事と致そう。」
それを、季良父子がすんなりと受け容(い)れたので、早速準備が行われる事と成った。此度、津軽安倍家嫡男の烏帽子親を、宗家ではなく郡司が務める事と成り、形式上、安倍一族内主従関係の絆は、郡司に因(よ)り弱められる事と成る。されど津軽安倍氏は、郡司から名実共に、郡政を託される事と成った。実は内々に安倍宗家からは、郡司との折衝の折、名を捨て実を取れれば良しという指示を、季良は受けて居た。嫡男元服の儀で形式上、政季の主君は政氏と成る。しかし季良が津軽の実権を得られた事で、今後も宗家との関係を保てれば、何の問題も無かった。一方、政氏が形式上津軽安倍家の主君と成る。それだけで、倭(やまと)の津軽支配に取っては大きな一歩と成り、多少の影響力を当地に残すという成果を挙げられた。政氏が名を取り、季良が実を取る事で、両者の関係は巧く繋(つな)がったのである。
その日の夕刻より、政季の元服式が厳かに執り行われた。前髪が落され、烏帽子(えぼし)を被(かぶ)せられた政季に、政氏は大小の刀を授けた。山城の名工が鍛えた業物(わざもの)である。恭(うやうや)しく拝領する政季に、政氏は綻(ほころ)び顔で告げる。
「中々凛々(りり)しき若武者振りぞ。父である季良殿も、嘸(さぞ)かし鼻が高かろう。」
政氏より誉めの言葉に与(あずか)り、政季と、政氏の傍らに座る父季良は、静かに平服した。政氏は政季を見据え、言葉を掛ける。
「私が其方(そなた)に授けた政の字は、我が一族に伝わりし一字じゃ。其方が津軽安倍家を継ぐ頃には、磐城一族の如く、心を許して交流出来る様、互いの誼(よしみ)がより深まって居る事を望む物である。」
「はっ、某(それがし)も同じ想いにござりまする。」
政季は純粋な目で、政氏を見詰め返す。政氏は政季に盃を取らせながら、この目が何時(いつ)までも濁らぬ事を願った。
*
津軽より陸路多賀城を目指すのであれば、東方は八甲田山系が雪に閉ざされる為、陸奥湾伝いに八甲田の東へ出て、三本木原を南下して、馬淵川沿いに山中に入り、その後日高見(北上)川上流の磐手郡に出なければ成らない。しかし弥生(3月)の候と雖(いえど)も、この辺りは未だ厳冬の中に在り、雪の峠を越える事は、容易ではない。かつて村岡平家良文が出羽の乱を鎮定した後も、卯月(4月)までは奥州に足留めされた。
政氏が多賀城へ向かうと聞いた安倍季良は、その為に大船一艘を、鰺ヶ沢の津に用意した。湊(みなと)まで政氏一行を見送りに出た季良は、政氏に言上する。
「津軽が抱える水夫(かこ)等は、奥羽近海を熟知してござり申す。必ずや無事に政氏様を、塩竈(しおがま)の浦まで御送り致す事でござりましょう。」
「うむ、それは助かる。では季良殿の好意に甘える事と致そう。」
「万一天候悪化の折は、近くの入江に停泊出来る様、津軽船は安倍宗家より許可を得てござりまする。仍(よっ)て、他国の船よりは安全かと存じまする。」
政氏は頷(うなず)き、礼を述べると、秋田城の将を呼んだ。そして秋田水軍の護衛の任を解き、速やかに帰城する様申し付けた。加えて一言、政氏は秋田城司に言伝(ことづ)てを頼んだ。
「出羽介藤原利方様に御伝え願いたい。津軽巡察は思いの外、上首尾であったと。」
将は確(しか)と承った旨を述べ、自軍の統率へと戻って行った。
政氏が天を仰ぐと、大空には疎(まば)らに雲が漂(ただよ)う物の、広く青天と成って居た。水夫(かこ)達の経験からも、数日は時化(しけ)が無さそうであると判断され、予定通りの出立と決した。
政氏の側に、不安気な顔をした橘清綱が歩み寄る。
「殿、やはり津軽の船に乗るは危のうござりまする。某(それがし)は季良殿の申し出を遠慮し、出羽の船を借りるが安全と心得まする。」
確かに、津軽の者に大将の身を安心して任せられる程、支配の歴史は長くはないし、交流も深いとは言えない。しかし政氏は、季良が己を故意に害する事は、先ず無いと確信して居た。初めて、津軽の土豪を郡の二等官に抜擢し、より豊かな南方三郡との交易を計画する人物を排除しても、何の益も無いと思った故である。だのに、無下に好意を退けては、無駄に信を失うのみと断じ、政氏は季良の申し出を受ける事としたのである。
秋田水軍は隊列を整え、出羽へ向けて出航した。言わば敵地にも等しい、常に危険が伴う北端の地にて、最後まで我が身を護り通してくれた秋田軍に、政氏は感謝の念を覚えて居た。
やがて磐城五十騎を乗せた船も、北に進路を取って出航した。津軽半島の端、有馬浜沖を航行中、政氏は津軽より更(さら)に北方にも、海の向こうに陸が在る事を知った。津軽の船頭に尋ねると、それは渡島(わたりしま)と称し、南端に在る湊(みなと)は、津軽との交易が盛んな故か、津軽津と呼ばれて居るとの事である。
暫(しばら)く進むと、陸奥湾の入口が見えて来た。この湾の最も奥地には、唐床棧道という湊町が在る。安倍氏は、そこを拠点として大陸との交易を行い。巨万の富を得て居るとの噂(うわさ)を、秋田城で聞いた。政氏は、不思議と辺りを航行する船が少ないと感じた。季良より、政氏が海峡を通る事を報された安倍宗家が、規模の大きな交易を行って居る様子を見せまいと、船の出航を差し止めて居るのだなと思われた。
津軽郡は朝廷の支配が及ぶ以前より、津刈と呼ばれて来た。津軽郡の東方には未だ朝威が及ばず、郡が置かれて居ない。当地は土民に因(よ)り、爾薩体(にさつたい)と呼ばれて来た。船は津軽海峡の東部に至り、北に渡島、南に下北半島が見える。下北半島は本州の最深部に在る為、朝廷の支配力は最も弱く、渡島に至っては、支配は全く及んで居ない。政氏は、己が本邦最端に居る事を自覚すると、往古、倭(やまと)の都を遠く離れ、その勢力拡大に貢献した英雄、日本武尊(やまとたけるのみこと)や、磐城郡住吉の入江に寄航した武内宿禰(たけのうちのすくね)、四道将軍等に思いを馳(は)せるのであった。
やがて、陽は西方陸の山並に没して行った。政氏は屋形の隅に横たわり、天上に次第に明らかと成って来る、幾多の星座を眺めた。そして、津軽の地で数日緊張の続く日々を過ごし、それから漸(ようや)く解放された所為(せい)か、何時(いつ)の間にか心地好く、うとうとと寝入って居た。
翌朝目が覚めると、険しい断崖が複雑に入り組んだ、海岸線が見えた。今まで見た事の無い地形であり、政氏は側で艪(ろ)を漕(こ)ぐ水夫(かこ)に尋ねる。
「今、何(ど)の辺りか?」
「へい。もう気仙の辺りかと存じまする。」
政氏が眠っている間、船は閉伊(へい)郡、気仙(けせん)郡と南下して居た。陽は昇ったばかりで、周囲は未だ薄暗い。
国府までは更(さら)に半日を要した。気仙より、桃生(ものう)、牡鹿(おしか)と南下し、漸(ようや)く宮城郡塩竈(しおがま)に入港したのである。塩竈から国府多賀城までは、僅(わず)かに一里の道程(みちのり)である。政氏は海難を免(まのが)れた事に胸を撫(な)で下ろし、津軽の船頭には褒美に銅銭を渡して、再び津軽の海へ還(かえ)させた。磐城五十騎は隊列を整えると、一路多賀城を目指した。
多賀城に入った政氏は、国司への謁見を許され、政庁に入った。多賀城は、一辺が十町近くも有る外郭を擁する、広大な城である。有事の際は、数万の兵を駐屯させる事が出来、蝦夷(えみし)の反乱に備えた構造と成って居る。今では鎮守府が胆沢(いさわ)郡に在り、常駐する兵は二箇所を併せると、二千騎を超えるという。平時でこれだけの兵が常備されて居るが、有事には何程(どれほど)の兵が集まるのか、政氏には想像も付かなかった。
政庁ではすんなりと、国司との対面が叶(かな)った。政氏の郡司就任の折、先発させた村岡忠重が、そつ無く挨拶と進物を済ませて居たらしく、国司の対応は友好的であった。政氏はここで、所領四郡を全て検分し終えた事を報告した。特に、陸奥においても荘園が拡大し、税収の減少が進んで居る事と、陸奥北方では依然朝威が及ばぬ処が在り、安倍一族の不気味な支配が行われて居る事を報告した。国司からは犒(ねぎら)いの言葉を掛けられ、城内に五十人分の宿舎が手配された。礼を申し上げて、政氏は国司の元を辞したが、その胸中はもどかしさに溢(あふ)れて居た。国司は任期の満了が近付いて居た所為(せい)か、危機感を持って聞いて居る様子ではなかったからである。
政庁を退出した政氏は、その後手配された宿舎へと移り、兵の管理は清綱に任せて、独り部屋に横たわった。この日、政氏の心の中には、一つの懸念が生じて居た。それは永く同じ土地に留まる土豪と、四年で任期を終える国司との、政(まつりごと)に対する熱意の差であった。
翌日、政氏は早々に兵を纏(まと)めると、国府多賀城を後にし、街道を南下して行った。政氏は少々、心細い心境であった。国府、頼むに足らず、という気持ちが芽生(めば)えるのを、感じて居た故である。
街道は、名取郡内逢隈(阿武隈)川の手前にて、二路に分かれて居た。西の道は柴田、篤借(あつかし)を経て、信夫(しのぶ)に至る仙道であり、南の道は行方(なめかた)団を経由して、磐城に至る海道である。政氏一行は海道を進み、逢隈(阿武隈)下流の大河を渡った。
その後、一行は亘理(わたり)郡、宇多郡、行方郡、標葉(しめは)郡と進み、夕刻には標葉郡南端の餘戸郷より郡境を越え、磐城郡楢葉郷に入った。富岡川を渡った頃には、日も暮れ様として居たので、政氏はその日の内に滝尻に入るのは諦め、江藤玄篤が守る楢葉館にて、軍を休める事と決めた。そして木戸川を渡る前に、橘清綱を軍使として遣(つか)わし、五十騎の宿の手配を玄篤に命じた。
木戸川を渡って程無く、清綱と共に玄篤が、家臣十騎を率いて、迎えに出て来るのが見えた。玄篤は政氏の前へ進み出ると、馬を下りて跪(ひざまず)く。
「殿、北方二郡の御視察、真に御疲れの事と存じまする。間も無く陽も没しまする故、今宵(こよい)は当館にて、御休み下さりませ。」
「うむ。其方(そなた)に出迎えて貰(もら)い、漸(ようや)く肩の力を抜く事が出来た。此度、斎藤家中五十騎も、楢葉館に入れる事と成るが、宜しく頼む。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
二人は話をする内に、次第に顔が綻(ほころ)んで行った。政氏は、信頼出来る家臣の居る本領へ戻り、一方の玄篤は、未だ統治の歴史が浅い地に在って、そこへ暫(しば)し不在と成って居た主君が、帰還して来たのである。両軍が合流した事で、共に安堵を覚えたのであった。
玄篤は、政氏以下五十騎を楢葉館に迎えると、家臣に命じて宿所を手配した。政氏は玄篤に伴われ、一室にて夕餉(ゆうげ)を共にした。楢葉は山海に挟まれた処に在る為、春に成ると双方の珍味を味わう事が出来る。政氏は浅蜊(あさり)の味噌汁を啜(すす)りながら、満足気な様子である。
「やはり磐城の物は美味(うま)いのう。気候も早、春も終わりといった感じか。暖かい。」
玄篤は一旦、箸(はし)を止めて尋ねる。
「北の地は未だ、雪に閉ざされて居りましたか?」
「うむ。津軽等は、磐城の真冬よりも雪が多かった。あれでは、春の訪れは来月に成りそうじゃ。」
「然様(さよう)にござりまするか。磐城ではもう、桜が盛りにござりまするぞ。」
「ほう。そう言えばここへ至るまでの間、宇多郡から標葉(しめは)郡に架けて、三分から五分程開いた桜を見て参った。そうか、今は磐城が見頃であったか。」
政氏と玄篤は久し振りの再会の為か、その夜は随分と話が勢(はず)んで居た。しかし話題は主に磐城の気候風土や、奥羽北部の土産話に止まり、玄篤から磐城郡内情勢の報告は無かった。玄篤は、疲れて戻って来たばかりの政氏に、余計な気遣いはさせまいと努めて居た。そして政氏は、玄篤が何も言わぬ以上、大した事は起きなかった物と判断し、心置きなく話を楽しむ事が出来た。やがて政氏の身体を、旅の疲れが襲い始めた。政氏は玄篤に案内されて寝所に入り、漸(ようや)くゆっくりと休む事が出来た。
*
翌日、政氏一行が本城滝尻を目指して進発しようとした時、江藤玄篤が滝尻までの護衛を買って出た。訳を聞けば、管轄地において、政氏に報告する事が有るのだと言う。郡内に入れば、最早斯様(かよう)な規模の軍勢は必要無い。政氏は飯野平西方の、大根川(新川)を渡る手前で、斎藤勢五十騎を、斎藤邦泰の高坂館へと帰した。そして自身は、江藤家十騎に護られ、浜街道を南西に進んで行った。
漸(ようや)く滝尻館に到着した政氏は、近藤宗久と斎藤邦衡の出迎えを受け、懐かしい顔に心が和(やわ)らいだ。然(しか)し、大村信興の姿が見えないので尋ねた所、野田村復興作業の、指揮を執りに行って居るとの事である。政氏は已(や)むなく、信興を除(のぞ)いた、滝尻の主たる将を政庁に集め、評定を行う事とした。
今後の郡政の方針を評議する前に、宗久より政氏留守中の、郡内情勢の報告が有った。政氏が滝尻を空けたのは、僅(わず)かに一月(ひとつき)程の間であったので、目立った荘園の拡大や、農民の騒動等は起っていなかった。そして宗久は、それ等に優(まさ)る朗報を、政氏に齎(もたら)した。
「殿の留守中に仰せ付かって居た、鳥見野の社殿修復にござりまするが、先日漸(ようや)く、完成を見るに至り申した。」
政氏はそれを聞き、驚き且(か)つ喜んだ。
「何と、もう落成致したか。人足や木材の調達は、如何様(いかよう)にして行ったのか?」
「はっ。それに就(つ)きましては、江藤様より御説明願いたく存じまする。」
そう答えて、玄篤に対し頭を下げると、玄篤も宗久に軽く礼をして、承知の旨を示した。
「では、某(それがし)より申し上げたく存じまする。」
政氏は頷(うなず)き、早く説明する様に促(うなが)す。玄篤は一礼して、話を始めた。
「実は、社殿再建の為の人足確保に、凡(およ)そ百名を坂東より招きましてござりまする。彼等は建築等の技術を備えてござりますれば、再建は殊(こと)の外速やかに、完了に漕(こ)ぎ着ける事が叶(かな)い申した。」
「うむ。その早さには、私も驚いて居る。して、呼び寄せた百名は今後、如何(どう)処遇する積りか?」
「はい。彼等の中には、製鉄技術を身に付けた者もござり申す。その者が古社再建の折に、殿が任命為された技師の下にて、付近の土地や植生を調査致した所、彼(か)の地が製鉄所建設に適したる処である事が、判明致しましてござりまする。仍(よっ)て、彼等には鳥見野に所領を与え、製鉄作業に当たらせたく存じまする。」
そして玄篤は、一通の報告書を政氏に差し出した。それに依ると、鳥見野の地近辺には、良質の砂鉄を含む地層が在り。又、炭の原料と成る楢(なら)、櫟(くぬぎ)等が群生し、正に製鉄には絶好の地と書かれて在る。政氏は、社殿の建設や製鉄技術をも備えた、この集団の出自に疑問を抱いた。
「彼(か)の者等は、一体何者なのじゃ?」
「彼等は桓武平家が守り本尊、愛宕(あたご)地蔵尊を崇拝せし、愛宕族と呼ばれる衆にござりまする。この者達の祖先の中には、高望公の坂東下向に伴い移り住み、やがて相馬家へ仕えるに至り申した。されど主家滅亡後は、その殆(ほとん)どが常陸大掾(だいじょう)家や村岡家の勢力下に入り、生き永らえて参り申した。彼等の中には鉱山師、製鉄師、鍛造(たんぞう)師等が居り、此度磐城の製鉄産業振興には不可欠な人材と思い、旧主再興を伝えて、招聘(しょうへい)した次第にござりまする。先ずは古社再建にて、彼等の有する腕前を披露致した積りにござりまするが、如何(いかが)にござりましょうや?」
政氏は、腕組をして唸(うな)る。
「うむ、確かに斯様(かよう)に短期間にて、再建を成し遂げたは見事である。されど、私は未だその出来を見ては居らぬ。先ずは出来栄えを見ぬ事には。」
政氏の言葉を受けて、宗久は主君や諸将に、鳥見野社の参詣を提案した。政氏も、己の管内において初めて成した事業故に、早くそれを見てみたいという気持が有った。諸将の同意も得られ、皆で鳥見野へ向かう事と成った。後日、近藤宗久が愛宕(あたご)族へ、郡司参詣の旨を伝えるべく先発し、他の者はその後を追って、滝尻館を発つ事と決まった。