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第十二節 仙道信夫郡
暦(こよみ)が弥生(3月)に入り、各地で桜が散り始める頃、山の木々は新緑に萌え、奥州の地にも大分暖かな風が吹く様に成っていた。斯(か)かる折、別の方角から二つの軍勢が、滝尻館を目指して居た。豊間近藤宗弘の隊と、楢葉江藤玄篤の隊であり、共に十騎程の護衛を引き連れ、午(うま)の刻に館へと到着した。宗弘は鳥見野の古社を再建する相談の為、そして玄篤は北方防備の様子を聞く為に、其々(それぞれ)政氏が招いたのであった。
政氏の側近の内、大村信興だけは野田村の治水工事の為、不在であったので、政庁広間には政氏の他、近藤宗弘、斎藤邦衡(くにひら)、橘清綱が列席し、政務に関する合議をして居た。そこへ、到着したばかりの宗弘が入室し、続いて遅れて到着した玄篤も、姿を現した。
主立った者が集い、本格的な合議が始まろうとすると、皆私語を止め、広間は俄(にわか)に静まり返った。そこで、先ず当主政氏が口を開く。
「本日、皆に集まって貰(もら)ったのは、三つの議題に就(つ)いて話を聞かんが為である。先ず第一は、宗弘に鳥見野の古社再建を任せる事にしたのだが、人足(にんそく)の数が足りぬ。近郷の者を徴募するのが手っ取り早いのだが、当地の民は未だ、我が政(まつりごと)に馴染(なじ)んで居らぬ。無理に徴発したり、恩給が少なければ、当然不満は募(つの)ろう。如何(いかが)した物か?」
一同は暫(しば)し沈黙したが、やがて宗弘が策を献ずる。
「畏(おそ)れながら、某(それがし)の所轄は沿岸部にて、他国とは隣接して居りませぬ。豊間館の築城も粗(ほぼ)終わり申した故、我が兵を其方(そちら)へ送っても、問題は無き物と存じまする。」
「うむ。」
政氏は一度頷(うなず)いては見た物の、他の者達を見渡して尋ねる。
「他に意見は?」
しかし、誰も代案を出せる者は居なかった。今、宗弘よりその手勢を借りれば、七浜の開発に大きな支障を来(きた)し、水産業の発展が数年遅れる事が危惧(きぐ)された。一方で、鳥見野の古社再建は神託であり、これを蔑(ないがし)ろにする訳にも行かない。
「では、宗弘の策を採る事と致そう。」
政氏は已(や)むなく、豊間の犠牲を選択した。
そして、政氏は次の議題に移った。
「続いて議論すべきは、本郡における製鉄所の造営に就(つ)いてである。当地に着任して漸(ようや)く気付いたのだが、奥羽の民の文化は、朝廷の支配下に入るのが遅かった為か、大いに遅れを取って居る。特に、農民は未だ木製の道具を用いて居るが、彼等に鉄製の農具を支給してやれれば、本郡の生産高は、大いに向上する物と思われる。その為に、製鉄所建造の案が出されたのだが、その必要性を今我等が議論するよりも、技師に当地を視察して貰(もら)い、その助言を得て見たいと思う。技師は既(すで)に滝尻へ呼び寄せて居るのだが、加えて製鉄の知識を持つ人足を、当地へ連れて来られる者は在るか?」
これに対し、真っ先に口を開いたのは玄篤であった。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。かつて将門公の遺臣であった者の中に、斯(か)かる技能を備えし者達が居り申した。彼等の一族に、先ず社再建の仕事を与えて生活の糧(かて)とし、その間に、技師に調査計画を立てさせては如何(いかが)にござりましょう?」
政氏はそれを聞き、豊間の兵を出さずとも済むという喜びよりも、旧相馬家が斯(か)かる人材を抱えて居た事に、驚きを覚えた。
「そうであったのか。祖父の遺臣が当地の開発を助けてくれるのであれば、斯様(かよう)に心強き事は無い。私は玄篤の意見を採用したいと思うのだが、皆の考えは如何(どう)か?」
玄篤の策は先の議題を含め、二つの問題を同時に解決し得る物であった。更(さら)に相馬所縁(ゆかり)の者が増える事は、磐城家に取って頼もしき事であり、一同は挙(こぞ)って、賛同の意を示すに至った。
「ではこの件は、玄篤に任せる事としよう。しかし、玄篤は北方警固という任務が有る故、鳥見野社再建の責任者は宗久、製鉄関係の担当は邦衡と致す。各々玄篤と良く連携し、最善を尽す様。又、玉川治水の担当はその間、大村信興に代える事と致す。」
政氏より命を下された一同は、一斉に平伏した。主家が郡司職を拝命して以来、最初の一大事業である。家臣の顔は皆、引き締まって居た。
引き続き、三つ目の議題に入った。最後の議題である。政氏は懐から一通の書状を取り出して、話を始める。
「実は先月、京の藤原滋望(しげもち)様より書状が届いた。中には、滋望様の御従弟(いとこ)に当たられる利方様が、この度出羽介に就任されたと書かれて在る。私はこれぞ、津軽郡へ赴く好機と捉(とら)えたのだが、皆の意見は如何(どう)か?」
それには、先ず近藤宗久が同意を示した。
「確かに、仰せの通りかと存じまする。殿が津軽郡を賜りて早半年、今までは雪に閉ざされて居る為に、致し方ござりませなんだが、この先も殿に乗り込む気配無くば、彼(か)の地は土豪の者達に因(よ)り、政(まつりごと)が私(わたくし)されてしまい申そう。」
しかし、父の宗弘は慎重を促(うなが)す。
「昨今、津軽も今や、安倍一族が勢力を伸ばし居ると聞き及ぶ。安倍氏は万の兵を擁する強豪と聞く。縄張に介入して来た殿を邪魔者と見、威嚇、もしくは殿を亡き者にしようと暗躍し始めるやも知れぬ。」
確かに、大豪族の居る土地を治める事は、生易しい事では無い。地の理、兵力等を考慮すると、安倍氏はかつての平将門をも凌(しの)ぐ勢力と、推測する事も出来る。加えて噂(うわさ)に依れば、今の勢力拡大の一因として、奥羽山脈の奥地に数多(あまた)の金山を持ち、莫大な富を有して居るという。それを考慮し、玄篤が助言をする。
「安倍一族は、その気に成れば秋田城、下手をすれば多賀城をも攻略する力を、秘めてござりまする。仍(よっ)て、殿が力尽(ちからづく)で津軽に君臨しようと成されば、御命の危険が、必ずや生じて参りましょう。故に、殿御自らが斯(か)の地へ御運びに成られた上で、安倍氏の既得権益には触れず、安倍氏の息が掛かった今の実質支配者を、小領に任ずる命を下しまする。更(さら)に当り障(さわ)りの無き地を少々巡視なされれば、津軽郡大領としての威厳は、保たれる物と存じまする。」
しかし、政氏に取ってその意見は、慎重に過ぎる嫌いが有る様に思えた。
「玄篤の言にも一理有る様には思うが、それでは只の傀儡(かいらい)に過ぎぬ。やはり郡衙(ぐんが)の人事を一新させ、大領としての力を見せるべきであると思うのだが。」
政氏の考えに、宗弘が慌てて反対した。
「殿、それは成りませぬ。奥州北部は朝廷に対する忠誠心が低く、往古幾度も討伐されし事の怨念が、未だに燻(くすぶ)ってござりまする。今は朝廷が官職を与える事で、如何(どう)にか和平は保たれて居り申すが、それに手を付けると成れば、天慶(てんぎょう)の乱を上回る規模の大乱が起きる事は、必定にござりまする。」
「むう。」
玄篤と宗弘、両臣より性急な津軽制圧論を諌(いさ)められ、政氏は面白く無かった。しかし、それ等の言を一つ一つ見直して見れば、道理ではあると思う。そして終(つい)には、政氏は両者の言を聞き入れる事とし、今後の方針を皆に告げる。
「ではこれより、北方二郡視察の仕度に、取り掛かる事とする。先ず、近隣勢力にしてかつての盟友、三春の黒沢殿を訪れ、その後純利に任せた信夫(しのぶ)郡へ参る。この時、昨年の乱の火種が残って居らぬ事を確かめる。しかる後、越後より船にて秋田城へ入り、その支援を取り付けた上で、津軽に参る。そこで津軽の人事を定め、多賀城へ回って国司へ挨拶を申し上げて、磐城へ戻ろうと思う。」
大方は、政氏の指針に異議無き事を唱えた。しかし、橘清綱が疑問を呈する。
「畏(おそ)れながら、殿に御尋ねしたき儀がござりまする。殿の留守中、一体誰に、磐城郡政を委(ゆだ)ねるのでござりましょうや?」
不意の質問に、政氏は暫(しば)し、首を捻(ひね)って考えた。やがて考えが纏(まと)まると、思う所を述べる。
「近藤、斎藤、江藤、村岡の四氏は、郡境警固の為、動かさぬ方が良いであろう。滝尻の重臣は清綱、信興、宗久、邦衡の四名であるが、宗久と邦衡は、未だ家督を相続せぬ若輩の身じゃ。仍(よっ)て、玉川治水の責任者である大村信興を、磐城郡権小領(ごんのしょうりょう)に任じた上で、滝尻に留め、私の留守を委(まか)せる事とする。但(ただ)し、我が所領を侵す者が現れた時には、村岡忠重を総大将、近藤宗弘を副大将としてこれに当たり、信興は忠重の下に入る様。又、清綱は私の供として、連れて参る。」
権官(ごんかん)とは、正員ではない、権(かり)に任命される役職である。大村信興は、磐城郡司の代行を仰せ付かった。政氏の意見に、その場に居る七名の家臣は、挙(こぞ)って承服の意を示した。
政氏は合議が終ると、ふらりと広間から濡れ縁へと出た。外は春風が吹き、日に日に勢いを増す緑を助けて居る。つと政氏は、玄篤に尋ねた。
「郡内の比較的高き山は、未だ雪を被(かぶ)って居るのかのう?」
「いえ、本郡は陸奥の一部と雖(いえど)も、その気候は奥州随一の温暖さを誇り申す。又、これといった高山を擁さず。故に最早、山嶺に雪を残す処はござりませぬ。」
「然様(さよう)か。では私が信夫、津軽と北上する頃には、この春風も共に付いて来てくれそうじゃな。」
政氏は北西の空に目を移した。空は遥か遠くまで澄み渡り、陽は明るく山野を照らして居る。政氏は未だ踏み入れた事の無い二郡と、久しく会って居ない盟友黒沢正住に、思いを馳(は)せて居た。
*
本格的な春が訪れた頃、秋田城や多賀城と連絡を取り合い、万全を期した政氏は、側近の橘清綱と、警固の兵を五十騎ばかり伴い、御巡検道から浜街道、更(さら)には飯野平より折れて、磐城街道を北上して行った。五十騎の精鋭を付けてくれたのは、途中通過した高坂周辺を拠点とする、斎藤邦泰であった。邦泰の管轄地には、特に不穏な勢力は無く、今は政氏の方にこそ兵が必要であると考え、兵と兵糧を貸してくれたのである。政氏は邦泰の忠義を嬉しく思い、勇気を得て、長旅の端緒に着く事が出来た。
春の夏井川渓谷は、両岸の処々に山桜が咲き誇り、時折舞い降りて来る花弁が、一層情緒を漂(ただよ)わせて居る。ここは昨年の秋にも通ったが、春には春独特の趣が有るのだなと、政氏は感じて居た。前に来た時は、三坂川に沿って、夏井川と合流する宇根尻村へと出て来たので、それより先は未踏の地である。街道は、その後も暫(しば)し夏井川に沿って走り、道が一時支流から逸(そ)れ始めた処で、郡境に達した。
政氏の権力が及ぶのは、ここまでである。辺りを見渡しても、纏(まと)まった村落が殆(ほとん)ど見受けられない山奥であるので、政氏は幾分心細い気持に成った。郡境を越えた先は安積郡小野郷であり、黒沢氏の居城三春館までは、未だ八里程有った。先ず一里程進んだ処の、夏井川の東岸には小野郷の首邑が置かれ、比較的大きな村が形成されて居た。そこから少々北へ進んだ処で、街道は夏井川を離れ、風越峠を登って行く。山道と成って疲れを感じ始めたが、西方に望め高柴山等、初めて見る景色は実に面白く、疲れを幾許(いくばく)か吹き飛ばしてくれた。
やがて磐城街道は、門沢村にて方角を北より北西に曲げ、数多(あまた)の村を通り、丸子郷に延びて居た。途中、北方に片曽根と称す山を望んだ時、その向こうに安積郡の最北東端に位置する、芳賀郷が在ると聞いた。政氏に取って、逢隈(阿武隈)山地の横断は初めての事であったので、斯様(かよう)な山の奥に、郷を形成する人口を抱えて居る事実に、驚かされて居た。
街道は蛇行を続けながら北西へ延び、やがて大滝根川を越える。この先が愈々(いよいよ)黒沢正住の所領である、丸子郷の入口であった。更(さら)に半里程山中を進み、清水と称する村に入った時、政氏は懐かしい想いに駆られた。
(あの丘は、三春逗留の折に陣を布(し)いた処ではないか。そして、あの辺りに母より預かりし、地蔵菩薩が眠って居る。)
政氏は再び三春に来れた物の、地蔵菩薩を探して居る時間は無く、徒(ただ)丘に向かい、合掌するのみであった。その胸中は至極(しごく)無念であり、必死にその感情を抑え様と努めた。
三春の城下を見ると、農民達は田畑の耕作に精を出し、行商人と思(おぼ)しき者達も、賊に襲われる不安無く、領内を安心して通行して居る様子である。思えば、安積(あさか)郡内の山中には未だ幾許(いくばく)かの残雪が在ったが、丸子郷を通る街道は雪が除(よ)けられ、整備が行き届いて居た。斯(か)かる事も、領内発展には必要であると感じ、政氏は正住に対して抱く、畏敬の念を強めて居た。
その日、政氏等は平沢館に泊まり、黒沢家より手厚い持て成しを受けた。正住は、昨年の思い出話をしたかった様であるが、共に戦った磐城家の重臣は、今回は一人も伴われて居らず、正住は些(いささ)か落胆した様子である。
政氏は、久しく丸子郷を治めて来た正住に対し、治国の方策を尋ねた。正住の答えは唯(ただ)、「公正」であった。政(まつりごと)は領民に対し、公正な益が見込まれる事を行い、富の奪い合いを避けるべし。さすれば、有能なる者が力を存分に発揮出来、社会が上手く回ると言うのである。最後に正住は、山中の小豪族の言にて、郡政に君臨する御方に申し上げるべき事ではないと、断りを入れた。されど政氏は、正住の秘めたる政治力を、より大きな舞台で試して見たい、と感じて居た。
正住は政氏の父程の年齢で、老壮の境に在る。故に漲(みなぎ)る気力と、成熟した思考を備え、話を交えれば、魅力溢(あふ)れる人柄である。政氏は、斯(か)かる人物が隣郡に居てくれた事を、嬉しく思った。
翌朝、政氏は気分良く目を覚まし、ふと昨夜の楽しき一時を思い起した。ここを辞し難き念が生じたが、それは心の底へ仕舞い込んだ。卯(う)の刻、北方の八島川辺りから蒸気が発し、仄(ほの)かに朝霞(あさがすみ)が立つ中、磐城方は出立の仕度を整え、前軍より平沢館を後にして行く。
後陣に居た政氏は、愈々(いよいよ)出発の時を迎えると、出迎えに現れた正住に別れを告げた時、胸中に秘めて居た言葉が出てしまった。
「より多くの民を救う御気持は、御持ちにござりまするか?」
突然の質問であったので、正住は少々困惑した表情を呈した。されども、直ぐに表情を引き締め、確(しか)と頷(うなず)いた。政氏は、その応えに嬉しさを覚え、正住に深く一礼した。そして、後陣を率いて正住の元を去り、三春の山城を下って行った。
磐城街道は平沢館より、更(さら)に西方へ延びて居る。城下からは終始川伝いと成り、未だ残雪の目立つ、逢隈(阿武隈)西部へと入って行く。海仙両道を東西に分割する広大な山地を抜けて、山を下って来ると、そこには雄大な逢隈(阿武隈)川が、道を遮(さえぎ)って居る。磐城家は船場にて渡河し、西岸に至った。そして半里程西へ進むと、人通りも有り、良く整備された大道(だいどう)へ出た。
そこが昨年戦役の折、確かに通った場所であると、政氏は記憶して居た。思い起して見れば、藍沢広行を征討した帰途、黒沢正住と別れた場所であった。政氏は、苦戦の末に勝利を収める事が出来た往時を偲(しの)びつつ、仙道を北上して行った。
海道の別称に浜街道が有る様に、仙道は又の名を陸羽街道といった。共に陸奥国府多賀城に至る主要道である。海道は海と逢隈(阿武隈)山地の間を通り、奈古曽関(なこそのせき)を経て常陸へ至るが、一方の仙道は、逢隈(阿武隈)山地と奥羽山脈の間を通り、白河関(しらかわのせき)を経て下野へ至る。故に多賀城南部において、南北の交通は活発であるが、東西は逢隈(阿武隈)山地に遮(さえぎ)られる為に、道の整備が遅れて治安も悪かったので、交易をする者の姿は乏(とぼ)しく感じられた。
仙道を北上し続けた政氏等は、やがて五百川へ到着した。昨年大敗を喫した、苦い思い出の有る地である。川を渡った先には、以前は敗走を強(し)いられた為に気付かなかったが、耶麻郡、会津郡を経て越後国に至る、越後街道が西へ延びて居た。西の方を見ると、奥羽山脈は未だ多くが雪を被(かぶ)り、純白に輝いて居た。
やがて磐城家一行は、安積郡へと足を踏み入れた。昨年の乱が鎮定された地であり、その戦(いくさ)に加わりし者に取っては、感慨深い地でもある。政氏がこの度伴った側近の橘清綱は、彼(か)の戦(いくさ)を知らないが、護衛に当たる兵達は、斎藤邦泰の下で戦った者達故に、皆思う所の有る顔をして居る。
安達郡入野郷を過ぎると、愈々(いよいよ)任地の信夫(しのぶ)郡に入る。信夫郡は小倉(おぐら)、亘理(わたり)、鍫山(くわやま)、静戸(しずりへ)、伊達(だて)、安岐(あき)、嶺越(みねこし)、駅家(うまや)の八郷から成る。特に伊達郷は郡内北東部に在り、多賀城に最も近く、最大の面積と農作物の生産高を誇って居た。かつての戦友が、信夫に多く居る事は心強かったが、政氏は新領主としての着任である。仍(よっ)て、新たな政策に着手しようとすれば、保守的な古豪と対立する怖れが有る。しかも信夫は、磐城から遥かに隔(へだ)てた処に在り、又隣郡にも友好的な勢力が居ない為、兵力を背景に、豪族達に対して強く出る事が難しい。政氏は佐藤純利を小領として郡政を委せた物の、嘸(さぞ)や難儀して居るのではないかと案じた。
佐藤純利は着任後、古来より仙道の駅として発展した嶺越(みねこし)の地に館を構え、拠点として居た。この地は逢隈(阿武隈)川の西岸で、北の摺上川と南の松川を天然の堀とし、信夫山の麓(ふもと)に在って、風光明媚にして、且(か)つ交通の便も良い処であった。
信夫郡亘理郷の東方、即(すなわ)ち信夫山より逢隈(阿武隈)川を渡った先に在る山口村には、一つの伝承が残る。貞観の昔、嵯峨天皇の皇子(みこ)である陸奥国按察使(あぜち)、源融(とおる)がこの地で道に迷い、村長の元へ身を寄せた折、長者の娘虎姫と、恋仲に成った。やがて融は再開を約して都へ戻り、虎女は約束の成就を願い、村の文知摺(もちずり)観音に百日詣の願を掛けた。そして満願の日に観音様より、文知摺の石を磨き上げれば、愛しき人との再会が叶(かな)うとの御告げが有り、娘は日々、石を磨き続けた。やがて娘は心身共に窶(やつ)れ果て、明日をも知れぬ病(やまい)に臥した時、京の融より、虎女に宛てた文が届けられた。それには、一首の歌が認(したた)められて在った。
陸奥(みちのく)の 忍ぶ文知摺(もちずり) 誰故に 乱れ染めにし 我なら泣くに
この歌は、「古今和歌集」に収録された。尚、信夫(しのぶ)は昔より養蚕(ようさん)が盛んで、乱れ染めという技法が施された絹織物、「信夫文知摺」は、宮中にも献上された。
政氏が嶺越館に到着した時、辺りは既(すで)に薄暗く成り始め、館の者は篝火(かがりび)を焚(た)く仕度を始めて居た。政氏等はそれを横目に大手門へ赴き、清綱が馬を下りて、門衛に主君の到着を告げた。大手門は直ぐに開かれ、一行は館内へと案内されて行った。
磐城の主立った将は、広間に通された。先ずは館主純利が挨拶をする為である。広間に入ると、純利は既(すで)に座礼を執りながら、控えて居た。政氏が上座に座り、従臣達も清綱を筆頭として腰を下ろすと、下座より純利から挨拶が有った。
「御久しゅうござりまする。本日は遠路御運び下さり、御疲れにござりましょう。」
政氏は純利の顔を凝視する。しかし、既(すで)に陽が没して居る為、はっきりと窺(うかが)い見る事が出来ない。
「うむ、久し振りじゃ。して、信夫の政は巧(うま)く行って居るのか?」
「はっ。全力を以(もっ)て努めて居りまする故、今の所は無事に治まってござりまする。」
「そうか。それなら上々じゃ。本日は疲れた故、話は明日じっくりとしたい。先ずは将兵達が良く休める様、早々に手配してやってくれ。」
「はっ、畏(かしこ)まり申した。では先ず殿より、寝所へ御案内仕(つかまつ)る。」
しかし政氏は、手を伸ばしてそれを制し、広間から濡れ縁へと出て、夜空を眺めた。陽は没したと雖(いえど)も、未だ仄(ほの)かな残照が有り、空を藍色に留めて居る。そしてその藍色の中からは、一等星が輝きを見せ始めて居た。
「もう少し、ここで天を眺めて居たい。他の者から、寝所へ案内してやってくれ。」
政氏の命を受け、家臣たちは次々と館の者に案内され、広間を後にして行った。やがて広間には、政氏と純利だけが残った。そして館の者が、政氏を案内すべく広間に現れたが、純利は己が致す故無用と告げ、その者を先に休ませた。
漸(ようや)く、半年振りに二人だけの時を得た。政氏は視線を、天より純利に移す。
「大分窶(やつ)れた様じゃのう。磐城は未だ、共に戦って来た者達で支え合えるが、其方(そなた)には未だ、信の置ける側近は居らぬであろう。」
「御恥ずかしき限りにござりまする。」
「主政と主張に就(つ)けてやった大波や大和田は、頼りに成らぬのか?」
「はっ。信夫(しのぶ)には大豪族が多数居りますれば、彼等が連合して郡政に口出しして来た時、我等には太刀打ち致す術(すべ)がござりませぬ。」
「確かに、彼奴(あやつ)等が連合して兵を起し、其方(そなた)が虜(とりこ)にされる様な事が有らば、一大事じゃ。ここから磐城へ援軍を要請しても、到着までに四、五日は掛かろう。その間、この館では迚(とて)も持ち堪(こた)えられぬ。」
「某(それがし)は、今まで本郡の府たる役目を果して来た嶺越(みねこし)を拠点に、郡の開発を推進致す積(つも)りでござりましたが。」
「嶺越を中心とする着想は良いとしても、斯様(かよう)に守りの弱き館に居ては、豪族共に侮(あなど)られ、却(かえ)って郡政の支障と成るであろう。明日、私と共に、府とするに相応(ふさわ)しき場所を、探しに行くとしよう。」
「畏(おそ)れ入り奉(たてまつ)りまする。」
「では、明日は嶺越周辺を見て回る故、今日はもう休みたい。寝所まで、案内してくれ。」
「ははっ。」
直ぐに立ち上がる純利に、政氏は更(さら)に言葉を加えた。
「其方(そなた)には、何(いず)れ磐城に戻って来て貰(もら)う積りじゃ。磐城にもう一箇所、固めねば成らぬ処が有る。其方が領主としての力量を付け、その間私が、其方の後任として、信夫郡司に相応しき者を見定めるまで、後三年は掛かろう。それまで、この地で励んでくれ。」
久しく信夫の地にて、苦戦を強(し)いられて来た純利に取って、その言葉は大いに心を潤(うるお)す物であった。純利は目頭を熱くしながら、政氏を寝所へと案内して行く。廊下を歩きながら、涙が溢(あふ)れぬ様に、天を見上げた純利の目に映った物は、満天の星空であった。
*
翌日辰(たつ)の刻、朝餉(あさげ)を済ませると、政氏は供の橘清綱、信夫郡小領佐藤純利、主政大波朝信、主帳大和田要人を率いて、嶺越周辺の地勢を視察すべく、館を発った。信夫郡を巡察しながらも、政氏の胸中ではやはり、府は古来より駅として発展して来た、嶺越周辺が望ましいと考えて居たので、郡内一円を巡る気は毛頭無かった。只、逢隈(阿武隈)川、荒川の織り成す地の理を得、出来得れば山城が望ましいと考えて居た。
政氏等は先ず、館の南方に聳(そび)える信夫山へと登り、嶺越の平野を見下ろした。頂より四方を眺めながら政氏は、ここに城を築いては如何(どう)かと考えた。北の松川、東の逢隈(阿武隈)川、南の荒川が、三方を堀と成す。然し一方で、西は吾妻山系の麓(ふもと)まで、広く開けて居た。これでは西方で渡河されてしまえば、一気に信夫山を包囲される危険が有る。政氏は他に良い地勢は無い物かと、再び周辺の景色を眺め始めた。
ふと、政氏は目を止めて尋ねた。
「あの、逢隈(阿武隈)川と荒川が合流する処の、東側に在る山は何ぞ?」
傍らに立つ、大波朝信が答える。
「あれは、椿(つばき)山と称す小山にござりまする。守りには適して居り申すが、大雨が降れば逢隈(阿武隈)の川は忽(たちま)ち増水し、嶺越とは寸断されてしまいまする。」
「ほう。椿山と申すか。」
椿山は、東西に三つの峰が連なって居る。中央の椿山が最も高く、西の峰は弁天山、東は福見山と称す。確かに大波朝信が言上する様に、主要街道との間を逢隈(阿武隈)川が遮断して居る。しかし川の流れが穏やかならば、船場より容易に、嶺越との間を往来する事は可能である。
政氏は家臣達を従えて、次に弁天山へ登って見た。そこからは眼下に仙道や安岐郷の諸邑が身下ろせる。加えて、逢隈川東方は丘陵地帯である。山中から敵が攻め登って来ても、川岸伝いに攻められても、大軍が一度に押し寄せる事は不可能であった。それ処か、ここを攻める敵の陣形は、如何(どう)しても細く成らざるを得ず、それを寸断し、撃退する事が容易である。
以上の事を考慮し、政氏はこの地に府を置く事を決意した。そして純利に告げる。
「ここは如何(どう)じゃ?其方(そなた)なれば二百も兵が居れば、近隣の豪族が攻め寄せても、十日は持ち堪(こた)える事が出来よう。」
「はっ。万一の時は殿の援軍が到着するまで、必ずや守り抜いて見せまする。」
続いて政氏は、大波朝信、大和田要人に命ずる。
「大波朝信は椿山の南麓に館を構え、そこに拠(よ)って純利を輔(たす)けるべし。そして大和田要人は嶺越館に残り、駅周辺の治安を守れ。逢隈(阿武隈)川増水時等、純利の判断を仰げぬ時は、其方(そち)の才覚を以(もっ)て政(まつりごと)を執り行う様。又、土豪との対立から、嶺越館が危機に陥った時は、速(すみ)やかに椿山へ移るべし。」
両将は揃(そろ)って、政氏の命に承服した。
斯(か)くして、信夫郡の府は逢隈(阿武隈)川西岸の駅嶺越より、東岸南方の亘理郷椿山へ遷(うつ)る事と成った。政氏は弁天山より、逢隈(阿武隈)川の流れを見下ろしながら、純利に笑みを向ける。
「ここなれば、近隣豪族の圧力に屈せず、己の信ずる政(まつりごと)を行う事が出来よう。」
「はっ。砦が完成致さば、もう郡衙(ぐんが)防衛の懸念は消え失(う)せまする。さすれば、誰憚(はばか)る事無く、郡内産業振興の政策を実行し、又領民より、不法に搾取(さくしゅ)を行う領主を罰する事も出来まする。」
「うむ。其方(そなた)がこの地で政(まつりごと)の実績を挙げ、将来は私の側に移りて、輔佐して貰(もら)わねば成らぬ。呉々(くれぐれ)も無茶をして、身を滅ぼす事の無き様。」
純利は静かに頭を下げる。
「承知仕(つかまつ)り申した。」
政氏は純利の肩を掴(つか)むと、手に力を込めた。やがてその手を放すと、振り返って椿山を下って行く。この時純利は主君から、信頼と期待を強く受けて居るのを感じた。
一行が嶺越へ戻る途次、純利は政氏の傍らで、一つ話をした。
「殿、信夫山の北方、摺上川流域の飯坂村には、往古、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折に発見したと伝わる、湯が涌いてござりまする。長旅の疲れを癒(いや)す為にも、寄って行かれては如何(いかが)にござりましょう?」
「うむ。そうしたいのは山々なれど、これより津軽、多賀城を回って、早く磐城へ戻らねば成らぬ。」
「然様(さよう)にござりまするか。されば致し方ござりませぬ。」
純利の表情に、僅(わず)かに翳(かげ)りが生じた事を、政氏は察した。しかし、その場では何も告げぬまま、嶺越館へと引き揚げて行った。
その日も、政氏は嶺越館に泊まった。手配された部屋にて寛(くつろ)いで居ると、陽は次第に低みへと移ろい、やがて吾妻の山並へと掛かって行く。そして朱色の空の下、巨大な稜線の影が浮かび上がる。その威容を眺めながら、政氏は彼(か)の山の向こうに広がる耶麻、会津の地に、心を馳(は)せて居た。
翌朝、政氏は早々に信夫を発つ事とした。正門まで迎えに出た純利、朝信、要人の三者に対し、政氏は椿山築城の早期実現を、念を押して命じた。又、椿山と嶺越の連繋が疎(おろそ)かに成らぬ様、注意を促(うなが)す。三者は挙(こぞ)って、承服の意を込めて頭を下げた。そして別れ際(ぎわ)、政氏は最後の注意を告げる。
「本郡は当家の所領の内、最も国府に近い。故に信夫郡政の風評は、国司に因(よ)る私の評価に直結する。呉々(くれぐれ)も善政を心懸け、郡内豪族との融和を保つ事。この二つを共に成し遂げられる様、励んでくれ。」
「ははっ。」
信夫は坂東と陸奥国府を繋(つな)ぎ、出羽国置賜郡へも通ずる、南部奥州の要地である。その政(まつりごと)を、信を置く純利に任せ、政氏自身はもう一つの所領にして、奥州最果ての地、津軽を目指す事とした。
津軽へ向かうには、羽州最上を経て、庄内平野より海路を採るのが最も速いのであるが、政氏は敢(あ)えて越後へ出る道を選んだ。それは有事の際、即(すなわ)ち常陸の平貞盛と下野の藤原千晴が連合して、磐城と戦(いくさ)に成った場合、当然海仙両道は、両家に因(よ)って封鎖される事が想定される。斯(か)かる事態において、磐城と京師を繋(つな)ぐ道は、会津を経由して、北陸へ出る他は無い。それに備えて、政氏は越後街道を見て置きたかったのである。
政氏率いる一行は、一旦安達郡安達郷まで南下し、そこから西へ分岐して居る越後街道へと入った。越後街道は五百川に沿って、西へ延びて居る。安子ヶ島の村落を過ぎると、湯の沸く小さな集落が在り、ここから愈々(いよいよ)、中山峠の山道へ入る。峠には未だ残雪が高く積(つも)り、耶麻郡が雪国である事を示唆(しさ)して居た。しかし梢(こずえ)は蕾(つぼみ)を付け、春の息吹(いぶき)をも感じさせて居る。二里程山道を歩いた末、漸(ようや)く平坦な地へと下りて来た。更(さら)に半里、幾つかの村々を抜けて行くと、眼前に巨大な湖が広がり始めた。街道は、五百川が湖より発する処にて、湖の北岸に沿い始めた。そこより湖を一望すると、常陸の内海(霞ケ浦)に匹敵する広さを誇るのではないかと、政氏は思った。近くの村人に尋ねれば、それは猪苗代湖と称すという。
小坂山に沿って志田浜に出た途端、政氏の目の前に、全身に白雪を纏(まと)い、周辺の山々より抜きん出て高い、独立峰が出現した。それは青い空と湖面との間に、一際(ひときわ)秀麗に映(は)えて居る。
「これが噂(うわさ)に聞く霊峰、磐梯山か。」
政氏の後ろで、清綱が感嘆の息を漏らしながら呟(つぶや)く。それを聞いて政氏は、仙道より西方山並の彼方(かなた)に見えた山である事を思い出した。
街道は猪苗代湖北岸に沿って続くが、清綱の案内で途中から北上し、磐梯山裾野(すその)を西へ進んだ。周辺には田畑が開拓されて居り、斯(か)かる駅家(うまや)の整備の遅れた処にも、豊穣(ほうじょう)の地が在る事を知った。
軈て道は大谷川に沿い、前方右手に山裾に、大伽藍が見え始めた。
「あれは何ぞ?」
政氏の問いに、清綱が答える。
「彼(か)の寺はかつて、徳一大師が奥州布教の拠点と成した慧日寺(えにちじ)にござりまする。本日は彼所(あそこ)を宿に手配して居りまする。この地方は未だ、駅が良く整備されて居りませぬ故。」
「然様(さよう)か。それにしても、東国仏教の聖地に泊まる事が出来るは、幸いな事じゃ。」
磐城家一行はやがて、門前に形成された街へ到着した。徳一開創以来、東国真言宗の拠点と成った当山は発展を遂げ、門前はそれに伴い、信者達が一箇の町を築くに至って居た。慧日寺周辺の会津盆地は豊かな土地であり、当地が産出する穀物類は、莫大な人口を養い得た。
磐城五十騎はその日、門前町に在る、複数の宿に分かれて泊まる事と成った。政氏は、清綱や十騎の兵と共に、手配された宿に入り、程無く用意された薬石を取った。門前町故に精進物が振舞われたが、長旅で空腹を覚えて居たので、皆頓(ひたすら)掻(か)き込んだ。
食後、政氏は清綱に尋ねた。
「慧日寺の境内には入らぬのか?」
「はっ。殿は欧州四郡の大領職におわしまする故、境内に入れば僧正様や僧都様が、殿を御迎え下される事でござりましょう。そして、法話を受けたり、伽藍を案内して戴けるとは思いまするが、その為に数日を費(つい)やす事と成り、当家が用意した兵糧は、旅の途中にて底を突いてしまいまする。又、途中で先方の御厚意を辞退しては、当家に対する心証を害し兼ねぬと案じた末、ここでは門前の様子を視察するのみと、したのでござりまする。」
それを聞き、政氏は得心した。
「そうじゃのう。当家はこの度、五十騎も従えて旅をして居る。先を急がねば成らぬのう。」
「御意(ぎょい)。」
政氏は、兵糧等の問題を忘れて居た訳ではなかったが、磐城地方にも隠然(いんぜん)たる名望を誇る、徳一大師の拠点が如何様(いかよう)な処か、この目で見て置きたかった。已(や)むなく諦(あきら)める決心は付いたのだが、宿の縁側より北東を望むと、西側が夕陽に因(よ)り朱色に輝く、磐梯山の雄姿が間近に迫り、その麓(ふもと)に広がる大伽藍が、より神聖な物に映(うつ)って見える。その光景に、政氏の決心は再び揺さ振られてしまうのであった。