第十一節 菊多郡巡察

 康保五年(968)春の、菊多郡巡察における計画立案を任された橘清綱は、その任務の当初から躓(つまず)いて居た。最大の問題は、不入(ふにゅう)の権である。これは荘園領主が、国税徴収者の荘園内への立ち入りを、拒(こば)める権利である。仍(よっ)て、郡主政氏に多くの護衛を付ければ、それを威圧と見た菊多の豪族は、大挙して過剰に郡司を排斥する動きを見せ、それが動乱の引鉄(ひきがね)に成らぬとも限らない。熟慮を重ねた末、清綱は精鋭十騎を護衛に宛(あ)てる事に決めた。出来るだけ近隣勢力を威圧せず、且(か)つ当主政氏を護り得る、ぎりぎりの数であった。

 後刻、清綱の菊多巡察計画は政氏に提示され、その認可を得るに至った。菊多五郷の総面積は、磐城郡のそれよりも大分狭く、仍(よっ)て行程も、以前の巡察よりはかなり短い物であった。此度の巡察には護衛十騎の他、近藤宗久、斎藤邦衡(くにひら)、大村信興、橘清綱が随行する。その間、滝尻館の留守は、汐谷の築城に出向して居ない、村岡家の将に任せる事とした。

 斯(か)くして数日の後、巡察の準備を完了した政氏一行は、早朝日の出の頃、館を後にして行った。先ずは御巡検道を北上し、三箱村(さはこ)へと向かう。脇道より御斎所街道へ至り、菊多郡内最北西端に在る、大野郷を目指す為である。

 三箱村は昨年秋にも通ったが、依然私(きさい)郷の首邑たる賑わいを誇っていた。此度も政氏は、浜街道と御斎所街道の分岐点に在る温泉(ゆの)神社の分社を詣(もう)で、此度の巡察も充分な成果が挙がる事を願った。

 温泉神社を出ると、一行は御斎所街道を西へ向かった。政氏の計画の一つは、磐城で興した産業を以(もっ)て、仙道諸郡との交易を活発にする事である。その為の一環として、海道と仙道を繋(つな)ぐ御斎所街道の様子は、是非とも見て置きたかった。

 三箱村から西へ進むと、両側に丘が切り立った隘路(あいろ)を上り下りしたが、隣の長倉村へ出ると、道は再びなだらかと成った。強(あなが)ち悪路続きではない事が判(わか)り、政氏は大いに安堵した。

 しかし四方何処(いずこ)を見渡しても、小山ばかりである。道が比較的なだらかとはいっても、浜街道程ではない。道を進む内に、政氏は前方に中規模な川を見付けた。
「あの川の名は、何と言うのか?」
政氏に問い掛けられ、傍らの清綱は慌てて地図を取り出し、確認した。やがて、些(いささ)かの驚きを含んだ面持ちと成り、報告する。
「申し上げまする。あは玉川の上流にござりまする。」
「そうか。玉川は湯ノ岳西麓にその端を発して居ったな。」
政氏は思い出した様に述べ、北西方に聳(そび)える湯ノ岳に目をやった。晴天故に、周囲の山々を抑え、一際(ひときわ)雄大さを表して居る様に見える。その威容は、実に政氏をして、在り方の手本であるかの様な感じを覚えさせた。
(私も早く郡内諸豪族を纏(まと)め、かつての高望公、良将公、将門公の様な、一方の雄と成りたき物よ。正に今の忠頼殿の如く。)
政氏の目標は早、坂東四箇国に君臨する、平忠頼を見据えるに至って居た。広大なる所領四郡を完全に制圧し得れば、それも夢ではないと思えた。政氏は神体湯ノ岳に向かい合掌しながら、ふと心底に燻(くす)ぶる野心の火種の勢いが、次第に増して行くのを感じて居た。

 田場坂村の先で玉川を渡ると、愈々(いよいよ)景色は深山(みやま)といった感じに移ろって行く。そこから直ぐ先の瀬峯村で、道は西と南へ分岐して居た。村人に尋ねれば、南の道は蒲津郷を経て、浜街道、更(さら)には滝尻に至る、御斎所街道の東端だと言う。御斎所街道は、湯ノ岳の南麓を玉川に沿って、西へ延びて居る。取り敢(あ)えず白河方面は西であると聞き、その方向へ進路を取った。村の西側に在る釜戸川の上流を渡ると、街道は次第に登り坂と成り、やがて丘陵地の稜線を進む様に成った。周囲には、未だ葉を付けて居ないといえ、多くの木々が茂り、眺望は頗(すこぶ)る悪かった。

 街道はやがて稜線を外れて下って行き、谷間を進み始める。暫(しばら)く進むと、やがて視界が開け始め、前方には川が見えた。政氏が再び傍らの清綱に尋ねると、それは葛野(上遠野)川と称するという。更(さら)に西へ十町程進んだ所で政氏等は、斯(か)かる山間部にしては規模の大きな集落を発見した。
「あれは何という村ぞ?」
「はっ。葛野(かずらの)と称す由(よし)にて、御斎所街道の駅として発展を遂げた村と、聞き及んで居りまする。」
政氏の問いに即座に答えたのは、清綱であった。大野郷の首邑葛野(上遠野)は、菊多郡内における要衝の一つにして、荘園が発達して居ないという魅力も有った。ある程度纏(まと)まった人口を抱えて居る故に、平子氏等の豪族が館を構え、割拠して居る側面も有る。その為政氏は、御斎所街道を以(もっ)て海仙両道を強く結ばせるには、当地豪族を、磐城家の傘下に置く事が重要であると感じた。それは菊多郡の小領、村岡忠重に任せれば大丈夫であるかと考えると、村岡の府はここより遥かに隔(へだ)てた、汐谷の地に置かれる為、下手に兵力を分散させる事は出来ない。やはり佐藤純利の軍を磐城に加え、その威徳を以(もっ)て臣従させねば、御斎所街道は容易に途切れてしまう道の様にも思われた。

 葛野(かずらの)の駅は、葛野(上遠野)川の北岸に沿って、細長く展開している。村の北東の丘に砦を築き、居する豪族も見受けられた。駅の西方まで来ると、葛野(上遠野)川の支流である根本川が合流している。そこで清綱は葛野(上遠野)川沿いの街道を外れ、根本川に沿った道を北上し始めた。
「何処(いずこ)へ行くのか?」
政氏の問いに、清綱が答える。
「本日の宿は、平子殿の館を選んでござりまする。其(そ)はここより北方の、天王と称す処にござりまする。」
宗久は訝(いぶか)しがり、更(さら)に尋ねる。
「その、平子と申す者は何者じゃ。僅(わず)か十騎で斯様(かよう)に山深き処に入り、殿の御身(おんみ)は安全なのか?」
「はっ。某(それがし)が見た所、平子殿が当地に最も強い影響力を持ち、又磐城家に対して、敵対する意向は無き模様と存ずる。仍(よっ)て巡察の宿にするには、最も適せし処と判断致した次第にござりまする。」
供の多くが、深山は山賊も多く、危険ではないかと躊躇(ちゅうちょ)する声を上げたが、それに反して最初に北へ歩を進めたのは、政氏であった。それを見て、他の者もぞろぞろと政氏の後を居って行く。清綱は、政氏が己を信じてくれた事に、感涙の気持であった。他方の政氏は単純に、当地方に勢力を張る豪族に会って見たい、という想いに駆られて居た。

 根本川に沿った道は、次第に標高を上げて行く。ふと振り返ると、南方の低い処に、葛野(かずらの)の村落が見渡せた。しかし道が北西に折れ出すと、途端(とたん)に周囲の木々に遮(さえぎ)られ、眺望は利かなく成る。

 やがて道は根本川から離れ、折松川を渡って入葛野(入遠野)川と併走し始める。麓(ふもと)の葛野村は、街道沿いとは雖(いえど)も、四方を山に囲まれて、随分山奥に在るという観が有った。しかしこの辺りは、それにも増して深山(みやま)の趣(おもむき)が感じられる。

 入葛野(入遠野)川に沿って北に進むと、川の東岸に比較的纏(まと)まった平地が在り、農地が開拓されて、村が形成されて居た。政氏が、もう平子氏の館も近いなと感じた時、前方から馬で駈けて来る、武士の姿が目に留まった。武士は政氏等一行の前で止まると、大きな声で尋ねる。
「某(それがし)は平子家が家中の者にござる。貴殿等は、郡司政氏様が御一行と御見受け致すが?」
それに対し、清綱が前に進み出て答える。
「然様(さよう)にござる。某(それがし)が先日、郡司御逗留の依頼を致した、橘清綱と申しまする。そして此方(こちら)におわせられる御方が、大領平政氏様にござる。」
平子家の武士は下馬し、政氏に礼を執る。挨拶の後再び騎乗すると、案内役として一行を先導した。

 武士は先達(せんだつ)の傍(かたわ)ら、政氏一行に平子家の由緒を説明し始めた。それに依れば、かつて大野郷は、朝日長者と称す者が治めて居た。されど大同元年(806)、即(すなわ)ち百六十余年前に、有宇近衛中将の家臣平子左近が、これに代わって領主と成った。そして天王という地に和歌嘉城を築き、居城と成した。その後、それまで居た山城国葛野郡に因(ちな)み、左近は葛野(かずらの)という名を郷の村名と成した。やがて左近の末裔の中には、葛野が訛(なま)り、上遠野(かどおの)を姓とする者が現れ、斯(か)く言う先達の武者も、上遠野姓であると言う。

 一行は入葛野(入遠野)川の清流を左手に眺めながら、北上を続ける。前方に聳(そび)える山の名を上遠野氏に聞くと、かつて徳一大師が往生した処故、往生山と称すと言う。麓(ふもと)葛野村東部に在る円通寺も、大同二年(807)三月に、徳一大師が開創に係ったというので、大師の当地における、往古の影響力が窺(うかが)い知れた。政氏は以前、沼ノ内の和尚から聞いた徳一大師入滅の地が、ここ大野郷に在る事を思い出した。

 やがて四条という処で、上遠野氏は入葛野(入遠野)川沿いの道を折れ、天王川沿いの道へと入って行った。途中道の右手に、大同元(806)年六月の創建で素盛鳴尊(すさのおのみこと)を祀(まつ)る、八坂神社が在った。更(さら)に奥へ進むと、立派な館が立って居るのが見える。土民はこれを和歌嘉城と称すという。又、和歌嘉城は、三方を山に囲まれた地勢に在るが、山には其々(それぞれ)、東山、北山、西山という名が付いて居るという。先程通った四条もそうであるが、往古平子左近は、故郷の京師を偲(しの)び、斯(か)かる地名を付した様に、政氏には感じられた。

 館門では、館主自ら出迎えに現れて居た。政氏等は、平子氏に案内された客間に入って寛ぎ、長距離を歩いた疲れを癒(いや)した。やがて一行には、豪勢な夕餉(ゆうげ)が振舞われた。

 それが済んだ後、磐城家の者と平子家の者は、広間にて顔を合わせ、菊多郡政の問題点を話し合った。政氏に取って、最も衝撃であった事は、平子家も近々、有力貴族に所領を寄進し、大野郷を荘園とする事を考えて居た事であった。しかし平子氏は、郡司自ら入葛野(入遠野)の山奥まで視察に来た事で、その熱意を認め、荘園化は暫(しば)し保留する旨を約束してくれた。政氏は一先ず時間稼ぎが出来た事に安堵し、必ずや早期に産業の振興と、交易路の整備を成し遂げねば成らぬと決意した。

 話は、特に拗(こじ)れる事無く進んだ。平子氏がここ数年は、郡政の様子見に回る姿勢を採った為である。平子氏の目には、政氏は未だ若いが、比類無き指導力を備え、又ある程度、政策の方向性が見えて来て居る、と映った。

 話が済むと、平子家からは細(ささ)やかながら、酒が振舞われた。磐城家の者は、適量を胃に染み渡らせた後、明日の旅に備えて床(とこ)に就(つ)いた。

 翌朝、磐城家中は朝餉(あさげ)を掻(か)き込むと、早々に和歌嘉城を出立した。平子氏は館門まで見送りに出て、更(さら)には上遠野(かどおの)氏を案内人として、御斎所街道まで付けてくれた。政氏は平子氏に礼を述べると、一行を率いて館を後にした。

 入葛野(入遠野)川の辺(ほとり)に在る四条まで戻ると、川に沿って道が南北に分岐して居る。目指す街道は南方に在るのだが、政氏はふと疑問に思い、上遠野氏に尋ねた。
「ここより北へ行けば、何が在るのか?」
「はっ。ここより半里程にて郷の北端、入定(にゅうじょう)という処に至りまする。そこから先は人里も見当たらぬ山奥に入り、山中の何処(いずこ)かには、かつて徳一大師が刻まれし延命地蔵を安置する、千体仏堂が在るとの事にござりまする。又、入定の地名は、大師入滅に因(よ)る物と伝わって居りまする。」
「ほう、斯(か)かる高僧が、この地で入定されておわしたか。」
政氏は静かに北方の山に向かい、手を合わせた。

 政氏等一行は、再び街道を目指して南下を始めた。しかし折松川を渡った先で、上遠野氏は東へ折れず、入葛野(入遠野)川に沿った道を選んだ。
「我等は東の道を登って参ったのだが。」
清綱が、不安に感じてそう告げるも、上遠野氏は駒を止めずに、笑顔で答える。
「そう思い、もう片方の間道を御案内致す。」
一行は上遠野氏の言を信じ、その後に続いた。

 道は俄(にわか)に細く成り、岸壁と川の間の、狭い処を通る様に成った。しかし、傾斜がきつくはなかったのが幸いで、下馬する必要は無く、政氏は馬上にて、爽(さわ)やかな清流の織り成す、絶佳(ぜっか)な景色を堪能(たんのう)する事が出来た。

 更(さら)に下って、清道川が入葛野(入遠野)川に合流する辺りに、数個の村が在るのが見えた。その周辺のみ、僅(わず)かな平地が認められるが、その先は再び、人家が疎(まば)らと成り、道も細く成った。

 周囲の山河が創り出した大自然を眺めながら、政氏はふと上遠野氏に尋ねる。
「この辺りは、賊の類(たぐい)は出没せぬのか?」
上遠野氏は平静として答える。
「この道だけでは無く、御斎所街道を含む当家の縄張に出没せし賊は、随処に巡回して居る兵に因(よ)り、速やかに討ち果してござりまする。さすれば、賊も恐れをなして現れなく成り、街道は通交が盛んと成って、駅付近の村も潤いまする。」
「然様(さよう)か。其(そ)は見事でござる。」
そう答えると、政氏は再び黙り込んでしまった。

 当時、不法な重税に因(よ)り、田畑を放棄して野盗に身を落す、元来は善良な者が多かった。治安の悪化は政(まつりごと)の問題として取り上げられる物の、その原因が悪政に因(よ)るのであれば、武力に拠(よ)る賊徒の鎮定は下策であり、政(まつりごと)の改変こそが根本からの解決策であると、政氏は考えた。未だ平忠頼の下にて坂東に居た折、国司の暴政に堪(た)え兼ねて、村を棄てる者の姿を、政氏は数多く見て来た。あの姿を、討ち果された賊に重ねると、俄(にわか)に胸が痛むのを感じた。

 上遠野(かどおの)氏が案内する道は、やがて東西に延びる山道に行き当たった。 「これが御斎所(ごさいしょ)街道にござりまする。左に行けば磐城郡私(きさい)郷、右へ行けば白河郡石川郷へ至りまする。」 上遠野氏は説明を終えると、左側へと折れて行った。政氏等もそれに続いて、御斎所街道を東進する。ふと、街道南側の崖の下を見下ろすと、山中にしては中々の幅を持つ、河原を伴う川が見えた。聞けば、それは鮫川の中流域であり、川の源流は、白河郡石川郷の奥地に在るという。言われて見れば、政氏は菊多郡余部郷の辺りで、大河を渡ったのを思い出した。それが菊多郡最大の川、鮫川の下流であった。

 鮫川沿いの山道を進むと、やがて根岸の集落に入った。村の南方では、鮫川から葛野(上遠野)川が分岐して居り、葛野(上遠野)川の北岸に沿って、御斎所街道は磐城郡へ延びている。しかし上遠野(かどおの)氏は、村境に架かる橋を渡り、南側の根岸村へと導いた。そこで上遠野氏は馬を止め、政氏の方を振り返る。
「ここより道沿いに東南へ向かえば、山田郷を経て余部郷、河辺郷へ出られまする。これより先は当家の縄張を抜けまする故、案内はここまでで御容赦願いたく存じまする。」
政氏は笑顔を湛(たた)えて、上遠野氏に答える。
「遥々(はるばる)この地まで案内役を務めて貰(もら)い、感謝の言葉もござらぬ。何(いず)れ再び、この地を訪れる事も有ろう。平子殿には宜しく御伝え下され。上遠野殿も、達者でな。」
「はっ。磐城様も、道中御気を付け下さりませ。」
上遠野氏は下馬をして、頭を下げた。そして政氏等の姿が見えなく成るまで、その場に佇(たたず)み見送って居た。

 根岸村からは、道は暫(しばら)く鮫川に沿って延びて居た。この辺りは道の対岸、即(すなわ)ち川の西側に纏(まと)まった平地が在り、周辺の村々を統括する豪族が割拠して居る。

 やがて鮫川は、東方から深山口川が合流して来る処で、大きく西へ湾曲し、その先は次第に山道と成って行く。暫(しばら)く行くと、右手に独立峰が聳(そび)えて居るのが見えた。山の名は、地元の滝村に由来し、滝富士と称するという。滝富士の東麓を進むと、やがて道は山田川と併走し始める。その辺りからは、愈々(いよいよ)山田郷の領域に入る。

 山田郷は、郡衙(ぐんが)が在り海道が貫(つらぬ)く郡内東南部と、御斎所街道が貫く北西部とを繋(つな)ぐ、菊多郡交通の要衝である。今でこそ、政氏が磐城、菊多両郡の郡司である為に、様々な道を選んで進める訳であるが、かつて菊多郡政が、磐城より独立して居た頃は、今政氏等が通って居る道こそが、郡内の端と端を結ぶ、重要な道であった。山田郷の南方、鮫川の対岸には河辺郷が在る。ここからも西方の山中を通れば、御斎所街道に至るのであるが、途中の村名に、旅人(たびと)、荷路夫(にじぶ)等と有る事が示す様に、物資を輸送したり、貴人が通交するには、真に困難な山道であった。

 山田郷の中心は、山田川の中流域に在る。この辺は川の両岸に平地が有り、農作物もそこそこの収穫量が見込める。しかし、荘園には不輸不入の権が有る為、政氏は郡司と雖(いえど)も、そこから税を取れぬばかりでなく、その土地の検注(けんちゅう)を行う事すら出来ない。それを思う度に政氏は、唯々(ただただ)溜息を吐(つ)くのであった。

 辰の口は、山田郷の東南端に位置する。ここから山田川沿いの道を進めば、余部郷内を貫(つらぬ)く浜街道に至る。しかし政氏はここで、山田川を渡って西へ進み、大林村に入った。政氏等の取った道は、山田郷南部の高台の麓(ふもと)に沿って、東西に延びる。道と鮫川の中間は平野と成り、田畑が広がっている。

 少し西へ進んだ処に小さな沢が有り、それを渡ると、小山田村の標(しるべ)が見えた。
(この辺りに、叔母上のおわす東福寺が在るのだな。)
そう思いながら周囲の景色を眺めて居ると、右手の丘の上に、淡(あわ)い桃色の林が見えた。あれは何であろうかと疑問に思い、政氏は家臣を伴い近くの小径(こみち)を登って、桃色の林を目指した。

 近くに来ると、それは山桜の群生である事が判(わか)った。未だ孟春を幾らか過ぎたばかりの頃なので、蕾(つぼみ)が目立つ。これが満開に成った時には、如何(いか)なる光景と成るのか。政氏は春の風雅を感じながら、辺りを少し歩いて見た。

 すると、直ぐに寺院の山門に行き着いた。よく見れば、東福寺と書かれて在るのが目に留まる。政氏は、叔母如蔵尼(にょぞうに)が移りし寺が、ここである事を悟った。会って、暮しに不自由して居ないか、確かめて行きたい気持も起った。されど、未だ恩赦を得て居らぬ身故、却(かえ)って衆人に知れ渡り、禍(わざわい)を招く事が有っては成らぬと考え、門前にてすっと一礼し、去って行った。政氏は、桜の側で休息を取って居る家臣達を纏(まと)めると、丘を下りて、西へと向かった。

 道は次第に鮫川との距離を縮め、川の辺に達した処は、船場と成って居た。これより先の道は、山深く入ってしまうとの事なので、一行はここから、南岸の富沢村へと渡った。そこからは、鮫川より分岐した四時(しどき)川に沿って南へ進む。やがて半里も行かぬ内に、河辺郷の邑(ゆう)へと達した。

 河辺郷は、街道や主要路から外れて居る為、人の往来は他郷と比べて少ない様である。しかし山河を擁する大自然に囲まれて居る為、林業や漁業を生業(なりわい)とする者が、多く見受けられた。この地は、東南の丘を一つ越えると、郡衙(ぐんが)に至る。仍(よっ)て、菊多府の背後とも言える地であった。

 政氏等は山道を越え、次に郡衙を目指した。そこは酒井郷の中心であり、今まで郡政の核たる役目を果して来た地である。政氏が郡衙へ入ると、政庁では主政と主帳が、新たに菊多少領村岡忠重に政務を引き継ぐ為の、文書を作成して居た。両名の前に歩み寄った政氏は、これまでの労を犒(ねぎら)う言葉を掛けたが、二人の表情は物憂(う)さ気な様子である。それは永年、ここに有った府としての機能が、間も無く余部郷内に落成する予定の、村岡忠重の館に移され様としている為であった。

 政庁を出た政氏は、独りその足で、郡衙の内に在る客間へと向かった。途中回廊で、政氏の到着を知り、駆け付けて来た斎藤邦衡(くにひら)と出会(でくわ)した。邦衡は慌てて、政氏の前に跪(ひざまず)く。

 政氏は声をやや潜(ひそ)めて、邦衡に問う。
「客人は、無事到着されたか?」
「はっ。客間にて逗留されて居りまする。」
「今直ぐ会いに参る。其方(そなた)も同席せよ。」
邦衡は承服の意を示すも、客人が何者であるか知らされて居ない為、何処(どこ)か心に掛かる物が有った。

 やがて客間に、郡司の到着が告げられると、客人は平伏して、政氏を迎えた。衣服は郡衙で支給された物を纏(まと)い、ここでの暮しに不自由は無かった様子である。政氏と邦衡が腰を下ろすと、先ず政氏が、客人に楽にする様に告げ、続いて客人を訝(いぶか)しんで見る邦衡に、紹介を始めた。
「この男はのう、坂東より私が呼び寄せし者で、製鉄の技法を身に付けて居る。其方(そなた)はこの者を滝尻に案内し、本郡における製鉄産業の可能性を吟味せよ。俸禄はこれに記した通り、支払う事。」
政氏が懐より取り出した目録を、邦衡は押し戴き、中を確認する。その顔は程無く、驚きの色を呈した。
「これ程高額を、でござりまするか?」
その額は、凡(およ)そ中級郡衙官吏に相当した。政氏は静かに頷(うなず)く。
「うむ。この男は、確かな筋より紹介されし者じゃ。下総国より参ったと言えば、察せられるであろう。」
瞬時に邦衡は、この男の素姓の詮索が無用である事に感付いた。

 この男を政氏に紹介したのは、如蔵尼(にょぞうに)であった。平将門が討死した後、その重臣の中で磐城まで落ち延びて来て、土着した一族が在った。如蔵尼は彼等の存在を知ると、これと連絡を取り、特別な技能を身に付けた者が居ると知れば、それを政氏に推挙して居たのである。政氏はその中から、鉄の精錬技術を備えた男に目を付け、この度登用する事にしたのである。

 邦衡は製鉄技師と挨拶を交すと、一足先に滝尻へ戻る許可を政氏より得て、技師を伴い、何事も無かったかの様な顔をして、郡衙を去って行った。

 政氏は一息吐(つ)くと政庁へ立ち戻り、主政に一通の書翰(しょかん)を授けた。それには、山田郷東福寺所有の田畑を、加増する旨が記されて在った。政氏は、磐城に在る旧相馬武士の暮しを護り、如蔵尼の元へ置く事で、旧主の役目を果し、且(か)つ磐城平家を陰で支える力に、育って貰(もら)いたいと願った。

 政氏は郡衙を辞した後、東方の浜街道へ出て、それを北上した。鮫川と渋川に挟まれた、三角洲にて御巡検道へ折れ、渋川を渡った先、上り坂に入る処の左手では、菊多郡の新たな府たる、汐谷城が築かれて居る最中であった。外観では、曲輪(くるわ)は粗(ほぼ)定まり、後は建物の完成を待つのみである。政氏は建設作業中の城郭内へと上り、具(つぶさ)に検分して回った。

 やがて、その姿を認めた村岡忠重が、政氏の元へ、急ぎ駆け付けて来た。
「殿、もう御着きにござりましたか。」
「ああ、何処(いずこ)も荘園だらけで、私の立ち入る処が無い。これでは、奈古曽(なこそ)の古関を常陸との防衛線にして居れば、戦略上大いなる狂いが生じる所であった。」
「確かに。されどここなれば、それを気遣う事無く、守りを固める事が出来まする。御覧あれ。櫓(やぐら)に登れば、東西両道が見下ろせまするぞ。」
そして忠重は、出来たばかりの物見櫓へと案内する。政氏は久方振りに見た忠重が、頗(すこぶ)る元気で在ったので、大いに安心した。南方の脅威である平貞盛から、磐城を守るべき菊多郡小領の役目は、余人を以(もっ)て代え難しと、考えて居たからである。

これまで、依然支配地域とは言えぬ山の奥まで、僅(わず)かな供を従えて巡って居る間、緊張の解ける時は無かった。されど今、磐城軍最強の村岡勢と合流を果し、政氏は漸(ようや)く、張り詰めて居た心が安らいで行くのを感じた。

 物見櫓(やぐら)へ上がった政氏等は、周囲の景色を見渡した。東は竜宮岬から菊多浦全てが眺望出来、又御巡検道が良く見下ろせる。南方には余部郷、酒井郷が広がり、西には遠く河辺郷、山田郷の山並が望め、眼下には浜街道が延びて居る。それを見て宗久は、感嘆の声を漏らした。
「これは凄(すご)い。ここ一城のみで菊多四郷を監視出来る他、御巡検道、浜街道の主要両道を、僅(わず)かな手勢にて封鎖する事が可能じゃ。」
それを、忠重は頷(うなず)きながら聞いて居た。
「然様(さよう)。後は城さえ完成してしまえば、仮に貞盛方が三千騎を以(もっ)て押し出して来ようとも、滝尻の援軍を得て時を稼ぎ、磐城諸侯の軍を編成させれば、敵に磐城の地を踏ませる事は有るまい。」
政氏も城の縄張には満足を覚え、ふと古(いにしえ)唐土(もろこし)の故事を口にした。
「唐詩で杜甫が剣門という詩を詠(よ)み、その険峻さは世に聞こえる所であるが、菊多における汐谷は、正に蜀の剣門であろう。凡(およそ)七百年前、唐土(もろこし)の西南部に割拠した蜀漢帝国は、久しく北隣の魏と戦を続けて居たが、智将姜維が剣門を守って居る間、魏は容易に彼(か)の地を抜く事は能(あた)わなかった。」
それを聞いて居た橘清綱が、横から口を挟む。
「成程(なるほど)。差詰(さしづ)め磐城の剣門を守る村岡様は、磐城の姜維にござりまするな。」
政氏は軽く笑みを浮かべると、再び真顔と成って話を続ける。
「しかし魏将鄧艾が、別働隊を率いて道無き道を西へ進み、陰平郡より傾(なだ)れ込んで、終(つい)には蜀漢の首都成都を陥落させた。蜀皇帝劉禅が降伏の詔書を剣門へ発した為、剣門は敗れずして投降したという。皆はこの故事を如何(どう)思うぞ?」
政氏の問いに、皆は暫(しば)しの間沈黙した。やがて、それに答えたのは忠重であった。
「言われて見れば、磐城の陰平に当たるは、竜宮岬の側に在る渚村やも知れませぬ。この辺りの海岸は、殆(ほとん)どが海からそり立つ断崖と成ってござるが、渚村の辺りだけは浜と成り、水軍の上陸が可能でござる。ここより渚川に沿って北上し、丘を越えれば、御巡検道に至りまする。さすれば滝尻と汐谷は分断され、蜀漢の二の舞と成る怖れがござりまする。」
「それなのじゃ。もし常陸と戦(いくさ)に成らば、彼(か)の地は当家の急所と成り得る。当面戦が起る事は有るまいが、先を見据えれば、何らかの手を打って置かねば成るまい。先ずは民の忠誠心が得られれば、幾分心強いのだが。」
「確かに。では、彼(か)の地では特に、民の怨(うら)みを買う事の無き様、目を光らせて置きまする。」
「うむ。確(しか)と頼むぞ。」
そう告げると、政氏は物見櫓(やぐら)を下りて行く。その後を、他の者も続いて行った。

 陽は西の方、白河郡の山並に掛かり始めた。政氏等は、忠重が仮の陣屋として居る棟に入り、夕餉(ゆうげ)を取った後、床(とこ)に就(つ)いた。皆、長距離の旅に因(よ)る疲れと、村岡軍に護られた安堵感から、直ぐに眠りに入って行く。政氏は暫(しば)し、渚川流域の防衛に就(つ)いて考えて居たが、やがて微睡(まどろみ)へと落ちて行った。

 翌日、政氏等一行は朝餉(あさげ)を取った後、暫(しば)し体を休めて居た。そして陽が大分高くなった巳(み)の刻、漸(ようや)く築城中の丘を下り、御巡検道に出て、本拠滝尻を目指した。

昼下(さが)りには釜戸川に至り、居城滝尻館に到着した。二日目の早朝に発ったばかりであるというのに、妙に懐かしく感じられる。それだけ此度の巡察は、緊張感を伴った、又考えさせられる事の多い旅であったと言える。

 館へ入ると、政氏は先ず巡察に付き従った者達に、休息を取る様命じた。そして、留守中の警固を務めてくれた村岡家の将卒を、忠重の元へと帰した。

 漸(ようや)く、本拠とする磐城、菊多の地勢等を調査する旅は終った。新たに発見された、多くの課題を思い起す度に、疲労感が政氏の体を襲う。政氏は居間に入って大の字に成ると、うとうととし始めたので、暫(しば)し午睡(ごすい)を取った。

 その後、長旅の疲れを癒(いや)すべく、政氏にこれといった動きは無かった。しかし数日の後、京の藤原滋望(しげもち)より、便りが届けられた。文の冒頭には、新たに郡司と成り、激務に体が蝕(むしば)まれては居ないかと、慰労の言葉が書かれて居た。政氏はふと、以前式家より受けし恩を思い起し、感謝の念を捧(ささ)げた。

 やがて文を読み進めて行く内に、重要な内容が書かれて居る事に気が付いた。滋望の従弟(いとこ)であり、かつて将門の乱の折には、藤原忠文の下にて征東副将軍を務めし忠舒(ただのぶ)が嫡男、藤原利方が、この度出羽介(でわのすけ)に就任したというのである。
(時来たれり。)
政氏はそう直感した。政氏は磐城、菊多に身を置く一方、信夫(しのぶ)には重臣佐藤純利を派遣し、統治を任せて居た。しかし津軽郡は遠く、又朝廷の威光が充分に届いて居ない為、現地に赴くには、多くの危険が伴う。治安の悪さと、豪族達の服属意識の低さ故である。歴代の郡司は、奥州北部に勢力を持つ安倍一族に、実質的な統治権限を与え、野放し同然にして来た。これは、数万騎を擁する安倍氏が反乱を起さぬ様に、手を出さずに居るという話も聞けば、安倍氏が実質的な朝廷からの独立を得る為に、郡司に賄賂を送り、郡政に口出しせぬよう計らって居る、という話も耳にする。少なくとも、端(はな)から現地に乗り込む気概の無い郡司には、賄賂すら送られる事は無い。政氏は、菊多郡には殆(ほとん)ど統治権を有して居ない事実に気付かされた以上、かつて三郡を切り開いた祖先の時代の勢力を得るには、津軽郡を実質的な統治下に置かねば成らぬと、考える様に成って居た。今、藤原滋望に請願すれば、出羽介利方を通じて、秋田城の支援を得られるかも知れない。津軽南隣の、出羽国秋田郡の軍事力を背景とすれば、津軽豪族の、政氏を見る目も変わって来るであろう。そう考えた政氏は、早速(さっそく)滋望宛(あて)の書翰(しょかん)を書き、京へ送った。

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