第九節 磐城郡巡察

 二日後、即(すなわ)ち巡察初日の朝は、天候晴朗にして風涼やかであった。東方の丘陵が次第に、漆黒(しっこく)の闇から藍色に移ろいを見せる最中、滝尻館の正門が、軋(きし)む音を立てながら開かれた。そして近藤宗弘が先頭と成り、武者を率いて続々と、館内より出て来る。中軍には政房と村岡忠重、江藤玄篤が居り、後軍は斎藤邦泰と佐藤純利が率いて居た。護衛の武者は頑丈な鎧(よろい)に身を包み、武装して居たが、将は皆帯刀するだけで、平素と変わらぬ恰好(かっこう)であった。政房は、賊に襲撃される可能性が低いとは言えない以上、無駄に家臣を犠牲にしたくはないと考えて居た。仍(よっ)て巡察の途中、近隣の豪族に余計な警戒心を抱かせぬ様、将は甲冑(かっちゅう)を纏(まと)わぬ様に指示したのであった。

 一隊は、釜戸川沿いの道を、北西に進み始めた。この辺りは平地が広がり、既(すで)に収穫を終えた田畑が広がって居る。これを見て、政房は忠重等が何故(なにゆえ)府を滝尻に勧めたか、その一部が理解出来た気がした。

 やがて平坦な地は狭まり、周囲に丘陵地が目立つ様に成って来る。間も無く、初田という地で浜街道に到達した。その南方には釜戸川の水利と街道沿線の便を得て、田部村という邑(ゆう)が形成されて居た。政房は本城滝尻の側に、纏(まと)まった規模の勢力が在る事を知り、その様を脳裏(のうり)に焼き付けて居た。

 政房等はそこから北に折れ、再び移動を開始した。初田村を過ぎれば、浜街道は山間(やまあい)を通る事に成る。僅(わず)かな村落が在る以外は、人家は疎(まば)らであったが、当地随一の規模を誇る街道だけに、人馬の往来は盛んである。

 やがて丘を居り、坂下村まで来ると、目の前には滝尻館の東方にも繋(つな)がる、玉川が横たわって居るのが見える。その時、村岡忠重が政房の隣で語り掛ける。
「殿、北西の山を御覧有れ。」
政房が忠重の指差す方向を見ると、玉川沿いの平地の向こうに、一際(ひときわ)目立つ山が在った。山頂はなだらかにして、北西へ延びる山並の、南端の様である。忠重はその山を、政房に説明する。
「ここ磐城郡には、延喜式内小社が七つ在り、その内の一つが彼(か)の山に鎮座する、温泉(ゆの)神社にござる。彼(か)の山は、その神体山との由(よし)にて、多くの民から信仰を受けて居るそうにござりまする。仍(よっ)て、湯之岳と称しまする。」
「ほう、然様(さよう)であるか。」
政房は山に視線を向けたまま、再び馬を進める。
(成程。この辺りでは一際、雄大ではあるな。)
そう思いながら、玉川に架かる橋を渡って行った。

 その後間も無く、玉川の支流の一つである湯長谷川を渡ると、やがて浜街道はこれ又玉川の支流である湯本川に沿って、北へ延びていた。この辺りまで来ると、徐々に民家が多く成るのが目に付く。政房は疑問に思い、傍らの忠重に尋ねる。
「この辺りも、一大集落を成して居る様であるが、誰ぞ有力な豪族でも居るのか?」
「いえ、この先には三箱(さはこ)村という邑(ゆう)がござる。そこは浜海道から脇道が分岐し、仙道方面へ延びて居りまする故、交通の要衝として栄えて居るのでござりまする。」
忠重の説明を聞き、政房は安堵の溜息を漏らした。斯(か)かる人口と富を一手に掌握する大勢力が、存在しないと判(わか)った為である。もし斯様(かよう)な勢力が存在すれば、政房の郡政掌管の支障と成る怖れが有った。一方で政房の胸中には、近隣との交易拡大政策の片鱗が、浮かび上がりつつあった。即(すなわ)ち、自身が海道、仙道の双方に持つ権限を用い、山海の交流を更に大規模な物とする事である。政房は街道沿いの家並を眺めながら、斯(か)かる構想を錬(ね)って居た。

 程無く、一行は三箱村に到着した。村の南北を浜街道が貫き、西方へは脇道を用い、菊多郡大野郷を経由して、仙道白河郡へ至る、御斎所(ごさいしょ)街道が延びて居る。人馬の往来が盛んな為、道はきちんと整備され、荷駄の移動も容易である。政房はここで、御斎所街道側へ進路を変えた。磐城の延喜式内小社、即(すなわ)ち磐城七社の一つ、湯泉(ゆの)神社の分社が近くに在ると聞き、巡察の成功を祈願したかったのである。

 脇道を進むと、集落の外れは両側に丘がそそり立ち、隘路(あいろ)と成る。神社は隘路の手前、観音山の中腹に在った。鮮やかな黄色を呈する銀杏(いちょう)や、周囲の錦色に染まった木々の中へ身を置くと、何とも幽玄な自然の気の中へ、吸い込まれる様な感じを覚える。

 参詣(さんけい)を終えて再び街道へ下りると、政房は先程から気に掛けて居た異臭の事を、忠重に尋ねた。しかし忠重も存ぜぬ様で、已(や)む無く家臣を遣わし、村人に尋ねさせた。程無く、政房の元へ戻って来た兵は、不可思議そうな顔をして報告する。
「申し上げまする。この辺りには湯の泉が涌き、その中に含まれる薬が、斯(か)かる強い匂(にお)いを放って居るとの事にござりまする。」
「薬湯の泉じゃと?」
忠重も、怪訝(けげん)そうな顔と成って質(ただ)す。
「はっ。その昔、足に傷を負った鶴が、この湯に足を浸して居た所、暫(しばら)くすると傷が癒(い)え、再び飛び去ったのを、村人が見て居たそうにござりまする。それを聞いた者がその湯に浸(つ)かって見ると、尋常ならざる早さで傷が塞(ふさ)がった由(よし)にて、以来怪我や病(やまい)を得た者が、泉に体を浸(ひた)す様に成ったとの事と、聞きましてござりまする。」
「ふむう。」
兵の報告を聞いて、政房と忠重は唸(うな)った。斯様(かよう)な薬湯が有るのであれば、戦(いくさ)の後に何(どれ)だけ助かるであろうと考えたのである。政房は湯場を見て置きたかったが、宗弘が手配した宿までは未だ距離が有ると言うので、渋々先を急ぐ事とした。

 三箱村から浜街道を北上すると、再び狭い山路と成った。やがて街道が大根川(新川)と併走する様に成ると、辺りの景色が次第に広けて来る。一行が小島から大根川(新川)を渡ると、そこと北方の好嶋川に挟まれた処に、広大な平地を見た。平地の中央には小高い丘が有り、その北方からは夏井川に沿って、安積郡へ至る磐城街道が延びていた。この街道の先には、かつて共に戦いし盟友、安積郡丸子郷の黒沢正住が居る。それを思うと、政房は俄(にわか)に心強く感じられた。

 この辺りは飯野郷の邑(ゆう)が拓(ひら)け、飯野平と呼ばれて居た。浜街道や磐城街道の他、夏井川の南を伝って、河口近くの旧郡衙に至り、更(さら)に海岸線を南へ延びる片浜道も、ここに端を発して居る。ふと政房は、隣で忠重が歯噛(はが)みして、悔(くや)しがって居るのに気付いた。
「如何(どう)した、忠重殿。何ぞ悪(あ)しき事でも出来(しゅったい)したのか?」
政房に尋ねられて、忠重ははっと冷静さを取り戻した。
「いや、初めて某(それがし)がここへ来た時の事を、思い起して居たのでござりまする。」
「ほう、如何(いか)なる事が有ったのか?」
穏やかな表情を取り戻したた忠重は、周囲の地勢を指しながら、政房に説明する。
「御覧あれ。ここは浜街道の他、主たる道が四つも発して居りまする。又、平地が多き故に、農地や町が良く発展し、更(さら)には南の大根川(新川)、北の好嶋川、東の夏井川と、三方に天然の堀が在り、守りも堅うござる。故に、飯野平の中央に在る赤目崎物見岡西方の丘陵地に館を築ければ、これぞ正に最も相応(ふさわ)しき府と、思われたのでござる。」
「然様(さよう)であったか。しかしこの辺りは、多くが荘園と成って居る為、候補地から除外せざるを得なかったという訳か?」
「御意(ぎょい)。」
その後暫(しばら)く、政房は付近の地形を見渡して居た。そして、飯野平西南方の高台を、指差して尋ねる。
「あの辺りは荘園か、将又(はたまた)公領か?」
忠重も玄篤も、咄嗟(とっさ)には答えられず、已(や)むなく宗弘を呼んだ。宗弘は地図を見ながら、政房の問いに答える。
「彼(か)の地は高坂村に属し、未だ所領を寄進した者は確認されて居りませぬ。されど、彼(か)の高台の向こうには既(すで)に、大規模な荘園が形成されてござりまする。我等はこれより三坂道を進み、好嶋川に沿って、郡境の三倉館まで赴いて戴きまする。そこが今宵(こよい)の宿にござりまする。」
忠重はふと空を見上げた。既(すで)に申(さる)の刻に入り、陽も大分傾いて来て居る。
「三倉までは何(どれ)程有る?」
「されば、後十里程にござる。」
「十里とな?途中で陽が沈んでしまうわ。」
「しかしこれから向かう先が、郡内において最も山深き処。山賊の類(たぐい)が現れても討ち果せましょうが、豪族が連合して殿の御命を狙う様な事有らば、一大事にござる。故に近隣豪族を下手に刺激せぬ様、幾許(いくばく)かは強行軍にならざるを得ないのでござる。」
「然様(さよう)か。なれば仕方有るまい。」
忠重は一応納得した物の、深い溜息を吐(つ)いた。

 夕方とも成ると、肌寒い風が吹き付けて来る。既(すで)に秋も深まり、日もかなり短い。政房等は、好嶋の比較的纏(まと)まった村落を眺めながら、北西へ進んで行く。峠を越えて合戸村へ下りて来た頃には、陽はすっかり沈んでしまって居た。空を見上げると、冬の三つ星を観測する事が出来た。山間部に入って来た所為(せい)か、気温も冷え込み始め、愈々(いよいよ)冬の到来が近い事が予感された。辺りは静寂に包まれ、好嶋川の流れの音が、静けさを一層際(きわ)立たせる。

 月が仄(ほの)かに周囲を照らして居た。しかし道が悪く成って来たので、宗弘は兵に命じて、用意して来た松明(たいまつ)に火を灯(とも)し、長蛇の光の列と成って先を急いだ。

 塩見山の北側に位置する長沢峠は大変な悪路で、騎乗して居た者は皆、馬を下りた。鬱蒼(うっそう)とした森の中を過ぎると、漸(ようや)く開けた処に出て、再び月の明かりを浴びる事が出来た。路傍に目をやると、上三坂村と刻まれた、石の標(しるべ)が目に付いた。

 亥(い)の刻、一行は遂(つい)に上三坂北方に在る山城、三倉館に到着した。宗弘は館門に居た衛兵を通して、館主に到着を告げると、館主は直ぐに広間にて、二十余人分の夕餉(ゆうげ)を振舞った。そして将へは部屋割を伝えられ、皆は夕餉を済ませると、直ぐに寝所へ入る事が出来た。未だ政房の威光が殆(ほとん)ど及ばない土地故、政房の寝所には佐藤純利も床(とこ)を並べ、更(さら)に寝ずの番を二人配置した。一方で、宗弘は館主の間を訪れ、旅の必要物資の調達を掛け合ったり、又当地方の様子を、遅くまで尋ねて居た。

 その晩、政房は床(とこ)に入ると、隣に横たわる純利に、そっと囁(ささや)いた。
「日中、飯野平で見た高坂の地は、荘園拡大を防ぐ為の重要な拠点と成り得ると、私は思った。彼(か)の地に館を築き、誰ぞ信用の置ける者を配置せねば成るまい。そして、荘園よりも民の住み易き郡政を布(し)かねば、公領は続々と荘園と化し、当家が持つ磐城、菊多郡司の官職は、有名無実の物と成るであろう。」
暗闇の中で、政房の苦衷を聞いた純利は、心を痛めた。
「殿の御意向とあらば、某(それがし)が身命を擲(なげう)って、その任に当りましょう。」
純利の返答に、政房は暫(しば)し沈黙した。そして、再び静かに口を開く。
「私が今、信を置ける家臣は、先の奥州戦役で将を務め、私を補佐してくれた者。即(すなわ)ち村岡、近藤、佐藤、斎藤、江藤の五氏だけである。この先、巡察を続けて行く内に、要所と思える処が幾つかは見付かるであろう。其方(そなた)は父上の代より仕える臣故、特に重要と思われる処へ、配置する事と成ろう。」
「はっ。某(それがし)の望む所にござりまする。」
行く手に、数多(あまた)の難関が待ち構えて居る事を覚悟した二人は、俄(にわか)に沈黙した。

 政房は、斯(か)かる忠節の臣を遺(のこ)してくれた先代忠政に対し、畏敬の念を覚えつつ、眠りに入って行く。

(やまと)に村が誕生して以来、人間(じんかん)には支配者と、被支配者の区別が発展して行った。しかし組織が国という規模まで拡大すると、支配階層は複雑多様化する。そして、上位の階層の者が己の利益のみを追い求める事に因(よ)り、下位の階層の者多数が甚(はなは)だしい不利益を被(こうむ)る事が、度々生ずる様に成った。多くの者がそれに堪(た)え忍んで来たが、最近では農民が支配者を訴える解文(げぶみ)を、朝廷に提出する事件が起る様に成って来た。斯(か)かる時代、君臣民が共栄の為に努力する事は、真に稀有(けう)であり、天下に取っては細(ささ)やかな幸いであった。この繋(つな)がりはやがて、武家社会の御恩と奉公へゆっくりと発展し、時代が移ろう重要な因子へと結実して行く。

 翌日、政房等は寛(ゆったり)と朝餉(あさげ)を済ませ、辰巳(たつみ)の刻まで三倉館に留まった。護衛の兵に充分な休息を与える一方、宗弘は館主と共に政房以下、主立った将を連れて、辺りの地勢を説明した。

 三倉館は磐城郡の最北西端に位置する故に、再び仙道地方で乱が起れば、磐城郡の最重要拠点と成る。館主は政房等に、安積(あさか)方面に対する防備を説明する一方、有事の際に政房の援軍を得る、約定を交した。

 そしてこの時政房は、三倉館が意外にも交通の要衝である事を知った。三倉は飯野平に繋(つな)がる他、北方へは磐城街道へ合流する間道が在り、南方へは白河郡石川郷辺りで、御斎所(ごさいしょ)街道へ通じる道在り、又西方へは逢隈(阿武隈)山地を抜け、白河郡長田郷を経て、仙道へ至る道が延びて居た。

 三倉地方の豪族を従属させた政房は、陽が高く成った頃、漸(ようや)く三倉の地を出立した。幸い三倉館主が案内を付けてくれたので、一行は安積郡小野郷へ入らず、郡内の山道を通り、磐城街道を目指す事が出来た。

 三倉館の麓(ふもと)には、三坂川という川が流れて居た。案内の者はその川伝いの道を選び、進んで行く。郡境に近い山中ではあるが、三倉周辺は思いの外、沿道に民家が見られる。しかし、途中から人里は目に付かなく成り、深い山中へと突入して行った。

 獣(けもの)道の様な処を、息を切らせながら進んで行くと、やがてより太い川へ、三坂川が合流する地点へと辿(たど)り着いた。そして、地元の者が架けたと思(おぼ)しき簡粗な橋を一人ずつ渡り、程無く再び整った道へ出た。傍らの石標には、宇根尻と刻まれて居る。

 案内の者は、これ以上の案内は不要と考え、政房へ申し出る。
「この道が、磐城街道でござりまする。東へ行けば飯野平へ、西へ向かえば安積郡へ至りまする。この川は夏井川と称し、飯野平の北方を経て、東の大海へ注(そそ)ぎまする。ここから先は街道沿いと成りまする故、某(それがし)はここで引き返したく存じまする。」
「うむ。ここまで来れば、最早道に迷う事も無い。案内役、大儀であった。」
相馬家を代表し、犒(ねぎら)いの言葉を掛けたのは、宗弘であった。
「三倉殿にも、宜しく伝えてくれ。」
「はっ。相馬様御一行も、道中御気を付け下さりまする様。」
そう申し上げると、三倉からの案内人は再び夏井川を渡り、来た道を戻って、森の中へと消えて行った。政房等も隊列を整え、磐城街道を飯野平に向けて、進発し始めた。

 少し進むと、街道沿いに集落を発見した。政房は改めて、郡内の至る処に人々の暮しが有ることに気付かされた。やがて、道端に「椚立村」と刻まれた標(しるべ)を見掛けた。村人はこの地方を、川前と呼んで居る。確かに、夏井川清流の前に在る。猟師の話に依れば、ここより北方の更(さら)に山深き処に、山楢葉と呼ばれる地方が有るという。且(か)つ、そこさえも郡内と聞き及び、政房は改めて、磐城郡の奥の深さに驚かされた。

 一行が東南へ進んで行くと、川辺にはごつごつとした岩場が目立つ様に成って来た。そこに生えて居る木々は、晩秋の冷風に当たり、見事な錦の紋様を織り成して居る。籠場(かごば)という処で、怒濤の如き激しさで流れ落ちる滝を見付けたので、政房はそこで皆に休息を命じた。政房は街道脇、断崖に出っ張った岩に腰を下ろし、周囲の景色に目をやった。渓流、滝、紅葉が調和し、正に風光絶佳の境に居る心地がした。

 政房が広大な領内を、日数を掛けて巡察して居る間、郡政は前の主政、主帳を留任させ、委任して居た。故に、豪族から見れば郡司は今、時と金を費(ついや)して居るだけで、何の益も無い存在であろう。しかしこの時、政房の脳裏(のうり)には、通って来た村々の軍事、内政上の利点、あるいは問題点が密かに纏(まと)められて居た。又、頼みとする譜代の重臣達も、直(じか)に郡内の様子を見て回って居る。政房はこれが、来年以降の郡政に役立つと、堅く信じて居た。

 夏井川の渓谷を過ぎると、やがて川幅は徐々に広がり、再び村落が、疎(まば)らに見える様に成った。そして上平村の辺りで、街道はその向きを東南から南へ変える。ふと西方を見ると、南方が急峻で頂の尖(とが)った、目を引く山が確認された。昨日は夕暮時で目に留まらなかったが、閼伽井嶽(あかいだけ)と称すと聞いた。又、後方を振り返ると、北方の山並の中に、二つ岩山が出っ張って居るのが見える。聞けば、これも二ツ箭山(ふたつやさん)という名が付いて居るとの事である。

 郡内北部、山河の景色を眺めながら駒を進める政房の元へ、隊の前方から宗弘が駆け寄り、報告をする。
「殿、この辺りが飯野平の北方に位置する、小高郷にござりまする。当郷は砦を持つ豪族が多く、彼等は兵を以(もっ)て、街道を遮断する力を持って居り申す。」
「ほう、其(そ)は物騒な事じゃ。」
「しかし、逆に誼(よしみ)を深めて置けば、交通の面においては少なくとも、意義が有る物と存じまする。小高郷には木村氏、小川氏、根本氏、草野氏といった豪族が割拠して居り申すが、今宵(こよい)は最も街道寄りに館を構える木村殿の館へ、宿の手配をしてござりまする。」
「それでは、他の豪族達に角が立たぬか?」
「はっ。故にこれより磐城七社の一つ、二俣神社に参詣致しまする。当社は小高郷の信仰厚き水神なれば、行程上の訳を申せば、他の豪族達も館の所在地から、文句は申せませぬ。」
「然様(さよう)か。ではそうする事に致そう。」
政房は何処(どこ)か引っ掛かる所が有ったが、事前調査を任せた宗弘を信じ、その計画に沿う事とした。

 街道から少々西側、夏井川の方へ向かうと、僅(わず)かに盛り上がった地に、二俣神社は在った。夏井川は、その別称を二俣川という。二俣神社は、夏井川の水神を祀(まつ)って居る。参拝の前後、政房は境内より、周囲に目をやった。川辺には平地が広がり、それは農地として利用されて居る事に気付く。そしてその収穫量を慮(おもんばか)ると、この地の豪族の力は、決して侮(あなど)れないと感じた。

 その日、政房一行は小高郷の豪族、木村氏の館に泊まった。日没前に館に入る事が出来た為、前日よりは大分、時間的に余裕が有る。夕餉(ゆうげ)には、郷内で採れた山の珍味が並び、皆舌鼓を打って食べて居た。

 食事が済むと、相馬、木村両家の代表が集まり、小高郷における問題を話し合った。所領の境界を巡る豪族間のいざこざ等は、何処(どこ)にでも有る事だが、忌々(ゆゆ)しき問題は、郷域が北方の山中へ五里も延びて居り、遠隔地は行政上、豪族の支配すら及ばぬ空白地と成って居る事であった。又同様の事は、磐城郡最北端の楢葉郷においても、言える事であると聞いた。楢葉郷の中心は、浜街道に沿って、木戸川と富岡川の間に在るとの事だが、川前地方で聞いた山楢葉とは、楢葉郷に属すと雖(いえど)も、これ又山中に五里は隔(へだ)つという。故にこれ等奥山に点在する民を、悉(ことごと)く郡司の支配下に置くのは難しく、歴代郡司は半ば、山神領として来たそうである。平安京や坂東の平野で育った政房に取って、斯(か)かる話は、奥州の自然の険しさを感じさせる物であった。加えて高々郷内の距離で五里という長さが用いられる事に、政房は磐城郡の徒(ただ)ならぬ広さを感じた。そして磐城郡司が治める広さは、伊豆や安房の国守を凌(しの)ぐのではないか、とも思われた。

 一通り豪族の申したき事を聞き終えると、政房は寝所に用意された間へと向かった。随行するのは江藤玄篤である。その夜、政房は叔母如蔵尼(にょぞうに)の事を、玄篤に尋ね様とも思ったが、斯(か)かる気の許せぬ地で話すのは危険であると判断し、床(とこ)に入ると直ぐに寝入ってしまった。その傍で、玄篤と二名の兵は一晩中、主君の警固を続けて居た。

 昨日は早めに木村家館へ入る事が出来たので、政房達は卯(う)の刻には朝餉(あさげ)を取り、陽が昇り始めた頃には館を出発して行った。目指すは磐城街道に沿い、再び飯野平である。

 政房は、朝陽に照らされる閼伽井嶽を眺めて居る内に、次第に人家が目立つ様に成ってきた事に気付いた。磐城街道の終点が近い事を感じながら、この要地を抑える事が出来ない事を思うと、無性に悔(くや)しさが募(つの)る。

 飯野平で再び浜街道に出ると、一行はそれに沿って北東へ進んだ。再度夏井川を渡ると、街道はその北岸を東へと延びる。この辺りからは漸(ようや)く、片依(かたよせ)郷の領域であるという。周囲の景色を見渡すと、街道は夏井川と、北方の丘陵地との粗(ほぼ)中央を走り、街道の両脇は、広大な水田地帯と成って居る。しかも条里制に則(のっと)って、農地が綺麗に区画されて居た。しかしこの辺りにも、既(すで)に好嶋庄(よしまのしょう)という私領が広がりつつ在る。故に、郡衙の収入に多大な影響を与える重要な土地であると、政房は心に留め置いた。

 更(さら)に浜街道を進むと、次に玉造郷に入った。東方を見れば、次第に海岸線が近付いて来るのに気付く。仁井田川を越えると、愈々(いよいよ)漁村はその規模を増して来る。そして、境川周辺には田富、太夫坂の二村が在り、これ等は当地方を代表する邑(ゆう)にまで、発展を遂げて居た。政房は平安京に生まれ、武蔵国大里郡にて育った。共に海から隔(へだ)たり、故に漁といえば、川で行う物しか知らなかった。しかし、ここでは漁船が多数沖に出て、勇壮な漁を行って居る。政房はその光景に新鮮味を覚えるも、一方で己には未だ、率先して漁業の発展に寄与する知識も、経験も無い事を悟った。されど幸いにして、家臣の近藤宗弘は瀬戸内水軍の出身である。海の事に精通して居る故に、宗弘には海辺の館を与え、海事全般を任せ様と考えた。只、今は未だ、その場所を特定するには至って居ない。

 太夫坂村の先は、険しい山路と成って居た。辺りに木々が茂って居る為、視界も利かない。政房は、海が見えなく成ったのを残念に思いながら、この悪路を登って行った。

 やがて道は下りと成り、波立(はったち)という処で、再び海辺に出た。振り返って見れば、今来た山路の側の海岸は、岩壁と成って居た。そしてその直ぐ近くには、そり立った岩が小島を成し、明媚(めいび)な眺望と成って居る。

 ここより先、浜街道はその名の通り、頓(ひたすら)海岸線を通る。やがて大久川河口に至り、白田郷に入る。ここにも、纏(まと)まった漁村が形成されて居た。この辺りは、平地が街道沿いに僅(わず)かしか無い。街道の西方には丘陵地が広がる為、ここは山海の珍味に富む、豊かな村であった。政房は久之浜と称す浜辺を横目に、更(さら)に北へと進んで行く。しかしその先には、再び険しい山路が続いて居た。

 暫(しばら)く山中を上り下りすると、岸内という村落にて、僅(わず)かに海を望む事が出来たが、その後は再び山中行であった。やがて浅見川を渡った処で、街道は再びなだらかな道と成った。地形の所為(せい)でもあるのか、この辺りには比較的小規模ではあるが、邑(ゆう)が形成されて居るのが窺(うかが)えた。

 その先は、小さな村落がぽつりぽつり見えるだけで、特に大きな勢力を持つ豪族は、居ない様であった。ここで政房が得た情報は、当郷の民は決して豊かでは無いが、街道沿いに在るが故に、他郡との交易に因(よ)って、幾許(いくばく)かの富が得られて居るのとの事であった。政房はこの時、海の磐城、山の信夫(しのぶ)、両郡の交流を活発にさせる事が、領内の発展には欠かせないという事を、再確認した。これが成功すれば、荘園の広がる菊多も、政房の郡政に帰属する動きが出るのでは、という期待も起った。そこで唯一気掛りと成るのは、未だ朝廷支配の歴史が浅く、豪族達の忠誠心も低い、津軽郡であった。しかし今は未だ、磐城地方の事だけで精一杯であり、津軽の事は、留任させた主政等に任せる他は無かった。

 陽が西方の山に掛かり始め、辺りは次第に薄暗く成り始めた。そろそろ本日の巡察を終え、宿に入りたいと政房等が思い始めた頃に、木戸川の下流域に至った。ここから北方の富岡川に至る地域は、平地が多い故に人口も多く、磐城郡最北端、楢葉郷の首邑と成って居た。宗弘は木戸川の川辺で、楢葉郷の説明を軽く述べると、宿まで後半里程である事を告げた。そして再び隊の先頭へと戻り、進み始める。しかしその方向は、意外にも南方であった。
「戻るのか?」
政房の問いに答えたのは、傍らの忠重であった。
「我等は府を滝尻に決めた折、北方にも目を光らせる拠点が必要であると考え、当地にも館を築いて居り申した。今は某(それがし)の配下に守らせて居り申す。今宵(こよい)はそこに御泊り戴きまする。」
「然様(さよう)であったか。」
今夜の宿泊地が直属の館と聞き、政房は幾分気が楽に成った。そして、その館に後々誰を配置するか、考えて置かねば成らぬと思った。

 宗弘の先導で、一行は浜街道の東に在る沼に沿って街道を離れ、沼の直ぐ裏側に在る、小高い丘に築かれた館へと入って行った。館の上部へ登って見れば、確かに見晴らしは良く、木戸川の先に広がる楢葉郷の様子が、一望の下に窺(うかが)える。この辺りより南は、街道も幅が狭(せば)まり、山路と成って居る。故に、仮に賊が北方より攻め寄せたとしても、白田郷以南への侵入を阻(はば)み、又隙(すき)有らば楢葉郷の邑(ゆう)を奪い返すのに、正に絶好の地勢であった。

 その館は、南端と雖(いえど)も楢葉郷内に在り、又郷の鎮撫を目的として居るので、楢葉館と称した。楢葉館に到着した後、政房はゆっくり休む事が出来ると思って居た。しかし、この館の存在を脅威に感じる近隣の豪族達が、政房の来訪を知り、挙(こぞ)って貢物(みつぎもの)を持参し、挨拶に訪れた。政房はこれ等の者を無下にする訳にも行かず、已(や)むなく面会に応じた。

 陸奥国司の御召(おめし)を受け、国府多賀城へ赴かねば成らぬ時、政房はこの地を通る事と成る。故に当地の豪族との不和は、大きな不利益を齎(もたら)し、逆に味方と成るのであれば、北方防備を一層強固な物と出来る。政房は先ず豪族達に、この館に拠(よ)って武力を用い、過重な税を搾取(さくしゅ)する積りが無い事を諭(さと)した。一方で、滝尻に残した精兵の存在を仄(ほの)めかし、郡内の治政を力尽(ちからづく)で妨げる者には、容赦はしないという警告を発した。豪族達は一応恭順の態度を示して、館を後にして行った。政房は彼等の後ろ姿を眺めながら、北方郡境警備に加え、豪族達の迎えを誰に委(ゆだ)ねるか、思案せねば成らなかった。

 次の日、政房等は日の出と共に館を発ち、昨日南端まで見に来た、木戸川を越えた。その先には特に険しい道は無く、街道沿いから砂浜に架けて、多くの民家が建ち並んで居た。確かに、一郷を成すには充分の人口を有し、加えて浜街道が貫通するが故に、通交上でも重きを成して居る。

 政房は浜街道を北上しながら、遠方に望める浜の景色を堪能(たんのう)して居た所、不意に忠重が声を掛けて来た。
「殿、西方の山並も御覧下され。」
言われるままに、政房は顔を西に向けたが、郭公山が目立って聳(そび)えて居る他は、特に目に付く物は無かった。怪訝(けげん)そうな顔をする政房に、忠重は説明を始める。
「我等が今し方越えた川は、井出川と申しまする。そして、この川に沿って北西の山中へ延びて居る道は、数日前に三倉の案内人が申した、山楢葉へ至るそうにござりまする。」
「何と、あの時我等は山楢葉の南方に居たが、あれから転(ぐるり)と回って、東側まで来て居ったのか。」
「山楢葉は、ここより五里は隔(へだ)てた山奥故、此度の巡察では通過致しませぬ。しかし村人の話に依れば、逢隈(阿武隈)山地の中に位置する故、郡内においては一際(ひときわ)涼しき処との事。そこの秋の紅葉は、他では見られぬ見事な色を呈し、村落の中央を流れる木戸川の風景と相俟(ま)って、幽玄枯淡の趣(おもむき)を映し出し居るとの事にござりまする。」
「ほう、それを聞いて見に行けぬとは、至極(しごく)残念じゃ。しかしその様子では、歴代郡司の支配も、強くは及んで居るまい。斯(か)かる山神のおわしそうな処に、物々しく館を立てて統治に当たるは、気が進まぬのう。されば、楢葉館主の下、偶(たま)に様子を見て置けば良いであろう。」
「成程(なるほど)。然様(さよう)にござりまするな。」
政房と忠重が、淡々と話を続けて居る内に、やがて先達(せんだつ)を務める近藤宗弘の隊が、川を手前に停止するのが見えた。

 それは、比較的幅の有る川であった。宗弘の要請を受け、相馬家の一同は、川に平行に並んだ。その中央で対岸を見渡す政房に、傍らの宗弘が語り掛ける。
「これが磐城郡と標葉(しめは)郡の境となる、熊川にござる。即(すなわ)ちこれより対岸から北は、標葉郡餘戸郷と成りまする。もし殿が国府へ赴く時が来(きた)らば、この先を標葉郡、行方(なめかた)郡、宇多郡、亘理(わたり)郡、名取郡、宮城郡と進まねば成りませぬ。」
「うむ、磐城郡だけでも斯様(かよう)に広いと言うに、国府までは更(さら)に六郡を通らねば成らぬのか。」
政房は些(いささ)かげんなりした様子であったが、宗弘は尚も真剣に、話を続ける。
「はっ。陸奥とはそれ程広大な国であり、また朝廷に帰属して日も浅い故、これを治めるは並大抵の事ではござりませぬ。そして、殿が拝領せし津軽郡は、奥州の最北端にござる。よくよく考えて統治なされませ。」
「うむ。それは良く考えて置こう。」
五人の重臣が、政房を真剣に見詰めて居る。政房は彼等に対し、深く頷(うなず)いて見せた。

 相馬勢は熊川の南岸にて、暫(しば)し海風に当たって居たが、やがて隊列を整え、南へ戻って行った。一行は来た道を、一気に玉造郷まで引き返し、赤沼川を越えた先、片依(かたよせ)郷の入口辺りで浜街道を外れ、南へと進路を変えた。その後、六十枚村を抜けた処で夏井川へ出た。宗弘は念の為、泳ぎ達者な者を潜(もぐ)らせ、橋脚(きょうきゃく)の頑強さを確かめさせた。体に綱を巻いたと雖(いえど)も、正に命懸けの作業であった。やがて橋に問題が無いとの報告が有り、一行は静かに橋を渡って行く。政房は橋の上から、夏井川の景色を見渡した。晩秋は草木の勢いが弱まって居り、実に見通しが良く、広々とした風景である。心が爽(さわ)やかに感じる一方、斯様(かよう)に広い川で潜水作業を行った家臣の逞(たくま)しさに、心強さをも覚えて居た。

 橋を渡り終えると、忠重は安堵の表情を浮かべる。
「思った通り、丈夫な橋で助かった。もしここを渡れなければ、飯野平まで戻らざるを得ぬ所じゃ。」
忠重の呟(つぶや)きを聞き、政房もそう成らずに済んだ事で、ほっと胸を撫(な)で下ろした。

 夏井川の南岸に至ると、飯野平より浜街道から分岐した道が、川沿いに走って居る。一行はその道に沿って、東南へ進路を取った。この辺りは海に近く、道は程無く南へ向かう様に成った。ここより、南北数里に渡って砂浜が続く。村の者はこれを舞子浜と呼んで居た。道の東側、舞子浜方面は平地が多く、田畑が広がって居る。一方の西側は、小高い丘陵地帯と成って居た。政房がその丘を眺めて居ると、傍らの忠重が語り掛ける。
「あの辺りはかつて、磐城の郡衙が置かれて居たそうにござり申す。確かにここ、夏井川河口付近は平野を成し、農作物の収穫高が多い処にござる。又北方よりの守りは、夏井川が天然の堀と成り、蝦夷(えみし)軍を寄せ付けませなんだ。」
「確かにのう。朝廷の力が磐城にまで及んだ時、ここは間違い無く、産業、軍事の要衝であったのであろう。」
「この辺りは今も磐城郷の首邑であり、郡内において重きを成す処にござる。では何故我等が、府をここではなく滝尻に推したか、御解りに成られまするか?」
忠重の問いに、政房は少々考えあぐねた。そして、思い浮かんだ事を述べる。
「近隣豪族の圧力か?」
忠重はその答えを聞き、表情を明るくした。
「御明察の通りにござりまする。この辺りは郡衙が置かれただけ有って、北方の片依郷や、西方の荒川郷に至り、有力豪族が多数割拠して居り申す。もし彼等が連合して、郡政に圧力を掛けて来る様な事有らば、それに屈せざるを得ない時も出て参りましょう。故に我等は、殿が心置き無く政務を執れる地として、滝尻を選んだ次第にござりまする。」
それを聞き、政房は忠重に笑顔を見せた。郡政が、豪族達に因(よ)る利益の奪い合いの場に成らぬ為の、良き判断であると思えたからである。

 一行が更(さら)に南下すると、滑津川の手前で、道が西方へも分岐して居た。忠重はここで一旦進むのを止め、再び政房に説明する。
「ここより西へは片浜道の他に脇道が延び、飯野平へ至りまする。そして十町程西へ進んだ処の、北側の丘が旧高久館であり、かつては本郡の、兵部の拠点にござり申した。」
「成程(なるほど)。丘陵地を伝って、郡衙跡に直結して居る。夏井川沿岸の道が制圧されたとしても、この片浜道と脇道が有れば、後方からの支援を得る事も出来るのう。」
「然様(さよう)にござる。同様の利点は滝尻にも有り、東の御巡検道と西の浜街道、片方でも守られれば、孤立する事はござりませぬ。」
政房は確(しか)と頷(うなず)くと、再び一行を前進させた。そして一言、忠重に囁(ささや)く。
「見事な判断である。」
忠重は軽く頭を下げると、再び無言と成って馬を駆った。

 滑津川を越えると、愈々(いよいよ)磐城七浜と呼ばれる、漁業の盛んな地に入る。七浜とは即(すなわ)ち、滑津川の直ぐ南方に在る沼之内浜より南西へ、薄磯浜、豊間浜、江名浜、中之作浜、永崎浜、そして小名浜である。この辺りは、神城(かじろ)郷の東部に当たる。地形は起伏に富み、農地用の土地は少ない。しかし漁業に関しては、近隣漁村には引けを取らぬ規模を誇って居た。

 水軍上がりの近藤宗弘は、この地に目を付けた。七浜の中でも比較的平地が多く、村も発展を途げ、又地理的にも中央に位置して居る豊間を重視し、ここにも小規模な館を築いて居た。故にこの日は、その館へ泊まる手筈(てはず)と成って居た。

 七浜北側の入り口は、沼之内である。そこには地名から窺(うかが)える様に、賢沼(かしこぬま)という沼が在った。平城天皇の御宇に、徳一大師が沼の辺に天光山密蔵院、別称賢沼寺を開創し、南都興福寺より光蔵律師を招聘(しょうへい)して、住持と成したと伝えられる。とすれば、今より百六十年もの昔に、創建されたという事に成る。政房は豊間に向かう途中、その賢沼寺に足を踏み入れた。突然の領主の来訪にも拘(かかわ)らず、住持は礼を以(もっ)て出迎えた。政房は住持に挨拶をし、その案内を得て、寺域を散策した。住持の話に依れば、当院は新義真言宗智山派にして、郡内北部に在る恵日寺の末寺であると言う。政房は沼の辺(ほとり)を歩き、弁天堂を眺めながら、郡内でも外れとも言える漁村に、斯様(かよう)に荘厳な寺院が在る事を知り、驚きを覚えて居た。住持の説明を得て、徳一大師はかつて、陸奥国耶麻郡磐梯山の麓(ふもと)に在る慧日寺(えにちじ)を中心に、奥州南部で布教を行った為、郡内には大師所縁(ゆかり)の寺院が多い事を知った。

 徳一大師は当初、興福寺にて、僧修円の下で法相(ほっそう)、唯識(ゆいしき)を学び、その後は東大寺で華厳(けごん)を修めた。そこでは才識俊秀(しゅんしゅう)当寺に比無し、と謳(うた)われる程であったが、やがて俗化した都市仏教を避け、二十代にして東下した。そして、大同元年(806)に発生した磐梯山の大噴火に因(よ)る、被害の跡が残る耶麻郡に現れ、庵(いおり)を結んで磐梯山清水寺と称し、会津地方を中心とした、布教活動の拠点と成したのである。徳一大師は山岳信仰、観音信仰、薬師信仰、地蔵信仰等の形で民衆へ浸透させ、その門徒の数は、日増しに増大して行った。やがて清水寺は慧日寺(えにちじ)と改称されたが、清水寺の観音信仰は、その後も継続された。時は流れ弘仁八年(817)、倭天台宗の開祖、伝教大師最澄が布教の為、東国へ下った。この時、徳一と最澄の間で教理論争が起った。即(すなわ)ち徳一が説く、人の悟りにはそれぞれ差異が有るという、「五性別格、三乗真実」と、最澄が説く、人は全て悟りに差異が無いとする、「悉有(しつう)仏性、一乗真実」の対立である。結局は結論が出ぬまま、両者は没したが、この論争は天台宗の体系化に寄与した。一方で徳一大師は、著書「真言宗未決文(もん)」を以(もっ)て、倭(やまと)真言宗開祖、弘法大師空海に、密教理論を巡る疑義を示した。空海はそれには答えず、徳一を称(たた)えたという。斯(か)かる最澄、空海との論争の後、徳一大師は奥州耶麻郡に在りながらも、南都法相宗の代表たる、「法相の中主」と敬(うやま)われた。やがて磐梯山の南麓には、慧日寺の大伽藍が築かれ、東国仏教の聖地と成って行った。徳一大師は承和九年(842)に、六十余歳で没したと云う。その廟(びょう)は慧日寺に在るが、菊多郡大野郷北方の入定(にゅうじょう)村往生(おうじょう)山は、徳一大師入滅の地と伝わる。

 政房は、沼に棲(す)む鰻(うなぎ)の影を、目で追って居た。それと同時に、一世紀も昔、当地方の仏教文化に多大な影響を与えた、一人の高僧に纏(まつ)わる話を住持より聞き、往古を偲(しの)んで居た。

 陽が大分傾いて来た頃、政房は賢沼寺を辞して、再び片浜道に沿って南下を始めた。薄磯浜を過ぎた後、塩屋崎岬の辺りで道は内陸に入り、丘陵地を蛇行し始めた。そして半里と行かぬ内に、道は再び海辺の平地に出た。その時、先頭の宗弘が、政房の元へ駆け付ける。
「殿、ここは豊間(とよま)浜の北側にござりまする。豊間館は、浜に点在する漁村を須(すべから)く統治する為に、その中央より西方の、丘の上に築いてござり申す。後十町とござりませぬ。」
「然様(さよう)か。では間も無くか。」
豊間はその中央を、二俣の川が貫いて居る。その分岐点の北西の丘に、館は築かれて居た。大きな川ではないが、周囲は天然の堀に囲まれた形と成る。沼之内や、膝元の豊間には小豪族が居たので、念の為に軍事的な砦としたのであった。

 館には近藤家の兵が、二十名程詰めて居たので、その日の夜、一行は皆緩(ゆる)りと、体を休める事が出来た。政房は床(とこ)に就く前、独り部屋から、夜の海を見下ろして居た。月下の水面はその光を反射し、波の形を顕(あらわ)して、輝いている。一方で夜空を見上げると、満天の星空であった。
(もう冬も近いな。)
星の位置を見て、季節の移ろいを感じた政房は、山が雪で閉ざされる前に、重臣達の配置を決めねばと、焦(あせ)りを感じた。しかし、月光に輝く海を眺めながら、潮の薫(かおり)を含んだ微風(そよかぜ)を頬(ほお)に受けると、その焦燥感が、幾分は融解されて行く様に感じた。

 郡内巡察も既に五日目に入り、本日漸(ようや)く磐城郡内の視察は一通り終って、滝尻の館に帰還する予定である。政房は朝餉(あさげ)を済ませると、早々に豊間館の守りを検分し、次いで豊間浜周辺の漁村を見て回った。好天故に、船は既(すで)に沖へ出て居たが、村に残り居る物の様子を見ると、生活への不安は特に感じて居ない様である。政房は兵を三人程村へ送り、生活の具合等を尋ねに行かせた。そして彼等が持ち帰った情報に依ると、豊間漁民は館の建設当初、新たな豪族が進出し、搾取(さくしゅ)を受けるのではないかという不安を、確かに抱いて居た。しかし特にその様な動きは無く、逆に魚介類を買い求めてくれるので、今まで以上に、穀物を食べられる様に成ったのだという。その報せを受けて、政房は安堵した。漁民の信を得られぬ様では、近藤家に臨海部を任せる訳には行かなくなるからである。程無く政房は、家臣と共に片浜道を南下して行った。

 ここ豊間近辺は地勢上、漁を生業(なりわい)とする者が多く、郷土料理も自然と、海の幸が集まる。昨夜は秋刀魚(さんま)鍋に舌鼓を打ったが、秋刀魚は他にも糠漬(ぬかづけ)にしたり、玉葱(たまねぎ)や生姜(しょうが)、味噌を用いて炭火で焼いた、ぽうぽう焼きという料理も有る。冬に成れば鮟鱇(あんこう)の季節であり、どぶ汁、とも酢、とも韲(あ)え等が楽しめる。他にも海胆を北寄(ほっき)貝に詰めて蒸し焼きにした物や、星鮫(ほしざめ)の酢味噌韲(あ)えが有り、晩秋のこの季節には、里芋、人参、大根、玉葱を用いて、味噌で味を付けた鈍甲(どうこう)汁も食べられるという。内陸育ちの政房は、斯(か)かる新鮮な魚介類を食したのは初めてであり、久々に珍味を味わえて、嬉しかった。

 豊間浜の南西に在るのは、江名浜である。ここは南東が海に面して居る他は、周囲を急峻な丘陵地に囲まれて居り、その間の僅(わず)かな平地に、民家が密集して居る。されどこの地は、交通の要衝でもあった。東は片浜道を通じ、海岸沿いに磐城郷へと繋がって居る他、北方へは江名道が有り、神城(かじろ)郷の北を掠(かす)めて蔵持の村を経て、丸部郷へ至る。更(さら)には海岸沿いに西へ延びる道も有り、政房等はこの道を選んで、南西へ進路を取った。江名周辺では、この道だけが海岸の直ぐ側を伝い、通り易かったが、他の道は急な丘を越えて行く為、荷の運搬は容易ではなさそうに思える。政房は、右側のそり立った崖と左側の海を、交互に眺めながら進んで行く。やがて半里と進まぬ内に、中之作浜へ到着した。

 中之作から海岸伝いに竜ヶ崎を過ぎると、次は比較的平地を有する、永崎浜に至った。ここまで六つの浜を見て来たが、何(いず)れも村を脅(おびや)かす最たる物は、大津波であるという。ここ数年は無事に過ごせては居るが、一度押し寄せれば、低地の村落を呑み込み、多くの犠牲者を出して来たと言う。豊間館は高台故に、直接被害を受ける事は無いらしいが、津波発生時には、郡が被災民を何(ど)の様に救済出来るのか。政房はその点を考えながら、永崎浜を過ぎて行った。

 永崎の南西には大きな岬が突き出て居り、これには地名として、三崎という字が当てられて居る。道は三崎へ回り込まず、永崎浜から真西へ延びて居る。神城川を渡るとその先は、北方より三崎へ、南北に連なる丘陵地帯が横たわって居た。この丘を越えると愈々(いよいよ)、七浜の最西端小名浜であり、神城郷随一の邑(ゆう)を形成して居る。小名浜の東端を流れる、小名川まで下りて来た頃には、景色も広けて来た。そして政房は、その眺望に大きな衝撃を受けた。他の六浜とは異なり、二里に達するかと思われる程、広大であったからである。

 小名浜は、その西側に玉川の河口が在り、近海に浮かぶ照島(てるしま)の手前まで続いている。浜の先、西方の海岸線は断崖と成り、その辺りの陸は丘陵地と成っている。その更(さら)に先はもう、菊多郡である。ここで忠重から、地理の説明が有った。小名浜西部の玉川を渡れば、そこはもう滝尻であるという。それを聞いて、政房は驚いた。

 政房等は米野村より浜へ出て、南に広がる大海を望んだ。よく見れば、南西の方角へは菊多浦だけでなく、常陸国多珂郡まで視界に捉(とら)える事が出来る。ふと、政房は有事の際の想定をして見た。
(もし当家に、常陸の平貞盛が攻め込んで参った時、ここより水軍を出して多珂郡に上陸させれば、菊多郡において挟み討ちにする事が出来る。)
勿論(もちろん)、その為には相馬家の水軍が、常陸の平潟、大津両水軍を討ち破らねばならない。配下の中で、水軍に最も熟知するのは近藤宗弘であり、政房の構想では当然、宗弘の七浜への配置が決まって居た。

 陽は未だ高い。ここから真っ直ぐ西へ進めば、半時程で滝尻館へ到着する事が出来るが、政房はもう少し、辺りを視察して見たいと考えた。そして小名浜の漁民が北方に築いた邑(ゆう)、岡小名(おかこな)に立ち寄って見た。小名浜という名称の由来は諸税有り、かつて女浜と呼ばれて居た物が変化したという説や、ここ岡小名の浜という意から付けられた、という説も有る。

 政房等一行は、岡小名西方に在る丘陵の南麓を伝い、その西方へ出て、玉川の支流矢田川を渡った。その先の地名は住吉という。村内に鎮座する延喜式内小社、住吉大明神に由来する。政房はここにも足を運び、今後の郡政が順調に進む事を祈願した。

 本年、即(すなわ)ち康保四年(967)に施行されたばかりの「延喜式」では、各国の神社の中から、大社と小社が定めれらた。陸奥国磐城郡内からは、七社が小社と定められた為、これ等は磐城七社とも称された。即ち二俣神社(下小川)、大国魂神社(菅波)、子鍬倉神社(平)、佐麻久嶺神社(中山)、鹿島神社(上矢田)、温泉神社(湯本)、住吉神社(住吉)の七社である。政房は地図を見ながら、各社の位置を把握した後、ふと二本の街道の開発が頭に閃(ひらめ)いた。先ず一つは今進んで居る小径(こみち)で、小名浜から御巡検道を直結させ、更(さら)に延ばして、三箱において浜街道と合流させる道である。さすれば、山海の交易が一層活性化される事が見込まれる。そしてもう一つは、小名浜から矢田川に沿って、飯野平へ至る小名浜道である。これが整備されれば、鹿島の地に兵部の拠点を置き、郡内の粗(ほぼ)全域に対して騒動が起らぬ様、睨(にら)みを利かせる事が出来る。その様な事を考えながら、政房は社(やしろ)を散策して居た。

 住吉大明神は御巡検道に沿って玉川の辺、矢田川が分岐する南富岡の地に鎮座する。摂社に八幡神社を有し、祭神は神功(じんぐう)皇后である。政房はここを辞した後、御巡検道を南下して、滝尻に戻ろうかとも考えた。しかしこの辺りは御膝下(ひざもと)故、もう少し見て回りたいと考え、進路を北に取った。玉川の西岸に沿って進むと、やがて政房の目に、荒れ果てた土地が映った。政房は驚駭(きょうがい)し、隣の忠重に尋ねる。
「あの地は何ぞ?玉川の水が入り、多くの田畑が浸(ひた)って居るのではないか。」
忠重も、その光景には狼狽(ろうばい)を覚えた様である。
「彼所(あそこ)は、野田村の辺りでござる。何故(なにゆえ)我等に、報せが来なかったのか…」
この辺りは川の流れが湾曲し、度々増水した川が氾濫を起す処であった。村人は水害の復旧作業に、粗(ほぼ)毎年の様に追われて居た。故に、他の村よりも余計な労力を割かねば成らず、農作物の収穫高は減少し、村民は皆永きに渡り、貧困に喘(あえ)ぎ続けて来た。歴代の郡司は、この惨状を放置し続けた。仍(よっ)て、村人も郡衙に頼る事を既(しで)に諦(あきら)めて居り、故に滝尻に報告が入らなかったのである。玉川の名称の由来は、その流れの激しき故に、水流が渦(うず)を成し、それが玉の様に見えた事から名付けられたという。

 村に入って見ると、村人達は皆満足な食事が取れて居ないのか、痩(や)せ細り、生気が感じられない。只黙々と、来年の耕作の為に堤(つつみ)を築き直し、整地に当たって居る。政房は己の居城の近くに、斯様(かよう)な地獄が広がって居た事を知り、愕然(がくぜん)とした。そして言葉も出せぬまま、悲痛な面持ちで村を離れ、再び南下して、滝尻館へと戻って行った。

 僅(わず)か五日の旅程であったが、政房に取っては、それ以上に長く感じた郡内巡察であった。政房は南富岡の丘陵地の脇を抜け、己の居城滝尻館が視界に入った時、不意に懐かしさに似た感情が、込み上げて来るのを感じた。館には己を包み、護ってくれる兵力が備わって居る為であろうか。何よりも先ずは、体を休める事が出来るのが嬉しかった。

 滝尻館に到着すると、政房は護衛を務めてくれた二十騎の兵を整列させ、二日の休養を許可し、出仕には及ばぬ旨を告げた。そして重臣達には、一時後に政庁広間へ集まる様に命じた。その後、政房は早足で居間へと向かい、そこで漸(ようや)く独りに成ると、大の字となって横たわった。

 政房は天井を見上げたまま、この五日間に見聞きして来た事を回想した。豪族達の私利に因(よ)る相剋(そうこく)、律令体制の退廃(たいはい)。郡衙、国府の腐敗。天下に小規模な乱が頻発して居るとは聞くが、その原因は貴族政治の堕落に因る、国家体制の無秩序化にあるのではないか、と政房は考えた。しかし己の領内においては、その様な潮流は、断固阻止しなければ成らない。政房は色々と策を巡らせて見たが、不意に脳裏(のうり)に浮かんで来るのは、野田村の荒廃した土地と、疲弊した農民の光景であった。

 暫(しば)しの休息を終え、相馬家重臣が居並ぶ政庁広間に政房は姿を現し、上座にどかりと腰を下ろした。重臣達は座礼から直ると、皆真剣な目を政房に向ける。政房は此度の巡察で、重臣達も思う所が有った事を感じ、気を引き締めて対した。
「五日に渡る巡察を終えたばかりであるというのに、直ぐに諸将を召集せし理由は外でも無い。各々方に担当させる任務を定め、一日も早く我等が手で、郡政を掌握する為である。これより、皆に新たな任務を命ずる。」
重臣達は皆静まり返り、耳にするのは俄(にわか)に強まり出した、風の音のみである。やがて、政房の粛然とした声が広間に響く。
「近藤宗弘。」
「はっ。」
「其方(そなた)には豊間館を任せる。神城、磐城の二郷を確(しか)と治めよ。又、磐城七浜の水産開発は、其方の方針で進めて良い。加えて、常陸の平貞盛を牽制(けんせい)出来る様、水軍を組織せよ。但(ただ)し七浜の内、小名浜のみはその地理的位置と規模から、滝尻との共同管轄と致す。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
宗弘は従順に、政房の命を受け入れる態度を示した。一先ず安堵の息を漏らした政房は、、次に玄篤を見据える。
「江藤玄篤。」
玄篤は政房の方へ向き直り、座礼を執る。
「はっ。」
「其方(そなた)には北の守りを頼みたい。楢葉、白田、玉造、片依の北方四郷を任せる。当地の豪族を纏(まと)めて郡境を固め、夏井川北岸の農地開発に努めよ。怖らくこの辺りが、郡内最大の米所であろう。呉々(くれぐれ)も好嶋庄(よしまのしょう)の拡大には気を付けよ。」
「はっ、必ずや成し遂げて御覧に入れまする。」
政房は頷(うなず)くと、今度は邦泰に視線を向ける。
「斎藤邦泰。」
「はっ。」
「其方(そなた)には飯野郷、小高郷、荒川郷を託す。この辺りは飯野郷を中心に荘園が広がって居るが、これ以上その流れが進まぬ様、食い止めて欲しい。先の巡察の折に見た所、高坂村の高台が、有事の際の防備においても、又荘園を監視するのにも、都合が良かろう。先ずは彼(か)の地に、砦を築くが良い。」
しかし、邦泰は浮かない表情で、政房を見詰め返す。
「畏(おそ)れながら御尋ね致しまする。荘園化が進まぬ様にとの御下地にござりまするが、その為には荘園領主への貢進よりも、民に掛かる税を減免せねば成りませぬ。其(そ)は御許可戴けるのでござりましょうか?」
邦泰に問いには、政房も暫(しば)し答えあぐねた。だが、やがて意を決して申し渡す。
「税の事は国家の大事故、国司の認可が必要である。仍(よっ)て、これに関しては滝尻と協議の上、定める事と致す。私が邦泰に望む事は、税制の他に、民が暮し易き政(まつりごと)を行う事である。被災民への救護態勢、山賊等治安を乱す者の追討、産業開発の助成。諸々(もろもろ)考え得るが、其方が適当であると判断せし事を実行せよ。」
「成程。確(しか)と承り申した。」
邦泰が承服の意を示すのを認めた後、政房は残る二人に与える役目が、本当に適切であるかを、頭の中で再度確認した。その様子を忠重と純利は、黙したまま見て居たが、内心は頗(すこぶ)る緊張して居た。やがて、政房の口が開く。
「村岡忠重殿。」
「はっ。」
忠重は、愈々(いよいよ)己に任務が告げられると思うと、気が引き締まった。一方の純利は、少々緊張が緩(ゆる)んだ様子である。
「貴殿を、菊多郡小領と成す。菊多郡衙に赴き、政(まつりごと)を速やかに掌握せよ。但(ただ)し、平貞盛と奈古曽関(なこそのせき)を境に対峙する事を想定すると、郡衙は今の場所では心許(こころもと)無い。御巡検道の南方は、両側に丘陵が連なる隘路(あいろ)じゃ。その入口西方の丘に城を築けば、御巡検道と浜街道、両道の封鎖が容易と成る。敵が彼(か)の地で足留めされて居る間に、我等は磐城郡内で兵を整え、返り討ちと成す事が出来る。貴殿の役目は第一に、南方の守りであるが、他方で斎藤邦泰と同様、郡内荘園拡大の歯止めも期待して居る。菊多五郷は貴殿に任せる。」
少領とは郡政の二等官であり、時には一等官大領と同じく、郡司と称される大役である。
「ははっ。斯(か)かる大任を仰せ付かり、光栄に存じ奉(たてまつ)りまする。かつて平良文公より学びし治政と、村岡重武公より学びし軍略を以(もっ)て、必ずや郡民を天朝の下に帰属せしめまする。そして貞盛めには、磐城の地を一歩たりとも踏ませませぬ。」
「うむ。」
そして政房の目は最後に、佐藤純利に向けられた。純利は如何(いか)なる重き任務を言い渡されるのか、戸惑い、又期待して居た。
「佐藤純利。」
「はっ。」
「其方(そなた)には頼みとなる従類(じゅうるい)も居らねば、これといった人脈も無い。故に其方には荷が重すぎるのではと、散々迷いはしたのだが。」
そこまで言うと、政房は再び考えあぐねる様子を見せた。その時、純利の胸中には突然、口惜しさが込み上げて来た。
「真に残念至極(しごく)にござりまする。他の御歴々には迷わず指令を下される一方で、某(それがし)には力不足の烙印(らくいん)を押されるとは。某(それがし)は村岡殿、近藤殿と共に、天慶(てんぎょう)の頃より仕えし臣。未だ御先代忠政公より受けし恩に報いる事が能(あた)わざるは、悔しき限りにござりまする。」
純利は悲痛な表情で、声を震わせながら訴えた。政房はそれを受けて、慌てて諭(さと)す。
「いや、私は其方の力と心意気を、軽く見た訳ではない。逆に危険な任務を与え、其方を失う事を恐れて居たのじゃ。」
「されば、御心配は無用に願いたく存じまする。相馬家再興の大事な折に、某(それがし)だけが重責から外れれば、後々までの悔恨と成りましょう。何卒(なにとぞ)殿が迷われておわす任務を、某(それがし)に御申し付け下さりませ。」
政房は純利の鋭い眼光を受け、その意気を受け容(い)れた。そして漸(ようや)く迷いは払拭(ふっしょく)され、晴れ晴れとした顔で純利に告げる。
「では、純利に命ずる。」
政房の声を、純利は厳粛に受け止める。政房はその様を見て、心を引き締めて命ずる。
「佐藤純利を、信夫郡少領と成す。己の才覚で、一郡を恙(つつが)無く治めよ。又、津軽郡少領には前任の安倍季良(あべのすえよし)を留任させる故、その旨を津軽へ通達する事。その後も津軽へ人を遣(つか)わし、当地の内情を探り置く事。」
政房が命を伝え終えると、純利は深く一礼した。
「承知仕(つかまつ)り申した。奥州は冬の到来が早い故、峠が雪に閉ざされぬ内、明後日にはここを発ち、任地へ向かいまする。」
純利の覚悟を決めた顔に、政房は確(しか)と頷(うなず)いて返した。

 五人の重臣其々(それぞれ)に任務を与えた後、政房は引き続き己の任務を皆に示した。
「私はここ滝尻館に拠(よ)って、新たな側近を登用し、周辺の三郷、即ち丸部(わにべ)、私(きさい)、蒲津(がまつ)を統治致す。又、先に述べた通り、小名浜は近藤家と連携して治める。就(つ)いては宗弘、邦泰の両名に頼みが有るのだが。」
政房に指名された二人は、何事であろうかという疑問を抱きながらも、主君に正対して畏(かしこ)まった。
「私は新たな側近を登用すると申したが、今日明日に定めて、任用する事は叶(かな)わぬ。仍(よっ)て其方(そなた)等の嫡男、宗久と邦衡(くにひら)を私の元へ置きたいが、如何(どう)か?」
二人は些(いささ)か驚きの色を呈し、互いに目を合わせた。そして、斎藤邦泰が政房に言上する。
「畏(おそ)れながら、我が倅(せがれ)は未だ元服を済ませたばかりの未熟者にて、到底殿の御役に立てるとは思えませぬ。」
「いや、私が今信頼を置ける人物は、其方(そなた)等五名と、その一族だけじゃ。又、二人は私と歳が近い。話もし易いし、豊間の宗弘や高坂の邦泰との連携も、強化されよう。」
政房の答えに、周囲は暫(しば)し沈黙が続いた。そして遂(つい)にそれを打ち破ったのは、村岡忠重であった。
「成程(なるほど)。殿の仰(おお)せも尤(もっと)もじゃ。御両人、御嫡男を殿と共に歩ませては如何(いかが)であろう?若き故に、暫(しば)しは懊悩(おうのう)に苦しむ事も有ろう。されど、我等が陰で滝尻を支える以上は、大事に至る事は無いであろうし、又それを乗り越え成長を遂げる事で、後々には両家に繁栄を齎(もたら)す事と相成ろう。」
忠重の意見を受け、二人は静かに承服の意を示した。

 政房は、近藤、斎藤両名に感謝の言葉を掛けると、再び五氏へ対する話に戻した。
「私は今日まで、曾祖父良将公が興せし御家を大切に想い、発祥の地を以(もっ)て父上に倣(なら)い、当家を相馬平家と称して来た。しかし下総国相馬の地は、今や完全に村岡平家忠頼様の所領と成り、この後私が祖先の地を望んだ所で、忠頼様の御心を害するだけであろう。私は此度の巡察で、磐城の地が下総三郡にも劣らぬ、望みの有る地であると感じた。仍(よっ)て私は、本拠を久しくここ磐城に置く事を決意し、新たに磐城平家と称しようと思う。」
政房の気迫に、皆は言葉を失ったが如く、しんと静まり返った。程無く政房は、笑顔を湛(たた)えて佐藤純利に告げる。
「故に今、私が優先して守る所領は磐城じゃ。仍(よっ)て純利にも、出来るだけ早く磐城郡内へ戻し、要所を固めて欲しいと思って居る。しかし信夫郡政が疎(おろそ)かに成れば、位官の降格と共に、今の所領を失う怖れも有る。それ故に私が新たに人材を見出すまで、純利には信夫郡政を宜しく頼む。」
政房の言葉が終ると、純利は再び平伏する。他四名の重臣達も又、政房の決意に賛同の意を示すべく、純利に倣(なら)って次々と平伏した。

 ここに、磐城平家が興った。平姓の武家の勢力を見れば、相模、武蔵、下総、上総西部の平忠頼、常陸の平貞盛、上総東部の平公雅(きんまさ)、そして陸奥磐城の平政房が在る。家祖高望の上総東下以来、僅(わず)か七十年程で、その子孫達は坂東一円に勢力を拡大したかの様に思える。しかし実の所、平家は二派に分かれて居た。坂東南部を広く勢力下に収め、平公雅や平政房の盟主たる平忠頼。そして下野一円を支配下に置く剛の者、相模権介藤原千晴と同盟関係に在る、平貞盛との対立である。貞盛と千晴が連合すれば、五千を超える兵が集まるであろう。それに比べ、新たな所領を得たばかりの政房には、精々数百の兵を集める力しか無い。故に郡政を充実させ、兵力を増強させる事が不可欠であった。地理的に見れば、平公雅と平忠頼の所領は近接して居るのに対し、平政房だけが北方に孤立して居る為、単独で自領を守らねば成らない理由も有る。特に常陸に在って、実質統治を行う平繁盛から見れば、政房は背後に割拠する、目障(めざわ)りな存在であった。

 二日後、佐藤純利は十騎の兵を伴い、信夫(しのぶ)へ向けて滝尻館を発った。昨日より、風が肌寒く感じられる様に成って来た。冬の到来が、間近に迫って居るのであろう。純利等一行は皆、冬の峠を越えるべく、綿(わた)入れの羽織(はおり)等を着込み、確(しっか)りと防寒対策を施して居る。

 純利はこの時、政房の旧臣の中で唯(ただ)一人、無力である事を感じて居た。家臣団の中で筆頭格に在る村岡忠重は、直属の兵力と、実兄平忠頼という人脈を持って居る。近藤宗弘は藤原式家の傍流であり、配下の水軍は天慶(てんぎょう)の乱から活躍し、政房の信任も厚い。斎藤邦泰は最も新参だが、かつては平良文軍の中核を成した軍勢と、旧主平良文に繋(つな)がる者や、政房の伯父、信田将国といった人脈が有る。当初は一兵卒に過ぎなかった江藤玄篤は、先の戦役で己の才覚を以(もっ)て軍功を重ね、政房の祖父の副将を務めた武将の縁も有って、重臣へと取り立てられた。そして今では将門の旧臣を従え、一廉(ひとかど)の兵力を有するまでに成った。

 一方で今の純利には、兵力も人脈も無く、独り力不足の観が有る。故に政房は、信夫(しのぶ)郡司に加えて、津軽郡司の監視役という大任を与え、純利に兵力と人脈を得る機会を与えた。やがてそれを備えて、磐城の政(まつりごと)に活かして欲しかったのである。

 純利は政房の心遣(づか)いに感謝の念を抱きながら、浜街道を北上して行く。飯野平にて北に折れ、磐城街道を北西に進むと、数日前、政房の郡内巡察に付き従った時に見た二ッ箭山や、夏井川の流れが目に映る。あの時は、皆が揃(そろ)って眺めた物だが、今独り、仙道方向へ馬を進めながら見る景色は、何故(なぜ)か懐古の念を生じさせる。小高郷の邑(ゆう)を抜けて渓流伝いに入って行くと、ほんの数日前は鮮やかな錦色を呈して居た風景は、今では葉が殆(ほとん)ど落ちて居り、冬の物悲しさが顕(あらわ)れ始めて居た。純利は、その景色に己の身上を重ね合わせては、自ずと心が傷(いた)むのを感じた。

 寒風吹き付ける逢隈(阿武隈)の山中であったが、幸い街道は、未だ雪に閉ざされては居なかった。

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