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第七節 磐城への道
陸奥(むつ)への出立が決まると、政房は相馬家の再興が成った事を、母へ報告しに訪れた。帰京してから数日が経って居たが、政房は相馬家へ恩賞が下され、今後の道筋がある程度見えた上で、その旨を母へ伝える積(つも)りであった。
母御前の居間は邸奥に在り、忠頼室の間に近かった為、政房がそこへ立ち入るには、侍女へ取り次がねば成らなかった。しかしこの時、侍女より受けた言葉は、政房を驚愕(きょうがく)せしむる物であった。
「杈椏(またふり)御前様、重篤の病(やまい)にて、御面会は難しいかと存じまする。」
政房は体から力が抜け、へなへなとその場に座り込んでしまった。その様子を気の毒に思った侍女は、政房に暫(しば)し待つ様に告げ、薬師(くすし)の元へ相談しに向かった。少し経って戻ってきた侍女は、静かに政房に伝える。
「御案内致しまする。どうぞ此方(こちら)へ。」
何とか自力で立ち上がる事が出来た政房は、ふらつきながらも侍女の案内を得て、久方振りに会う母の元へと向かった。
母御前の寝所の前に着くと、丁度(ちょうど)薬師(くすし)が退室する所であった。侍女が政房の来訪を伝えると、薬師は政房の前に歩み寄った。そして、厳(いか)つい面持ちで告げる。
「御母堂は脳を病(や)まれ、最早意識がござりませぬ。御命も、後数日かと。」
政房は、薬師(くすし)の眼光に一瞬たじろいだが、直ぐに込み上げて来た怒りの衝動が、それを押し返した。
「何故(なぜ)、もっと早く私を呼ばなんだ!」
政房の怒声を浴び、薬師は黙ったまま畏(かしこ)まってしまったが、その脇から侍女が、恐る恐る政房に申し上げる。
「御方様は、先月より床(とこ)に臥せって居られました。そして先日、政房様が凱旋なされた事を御報せした所、殊(こと)の外喜ばれ、斯(こ)う仰(おお)せになられました。相馬家に取っては、今が大事な時。暫(しばら)くは我が病(やまい)、政房殿には伏せて置く様に、と。」
それを聞き、政房は目に涙を溜めながら、慌(あわ)てて母の寝所へと入って行った。
中では母御前が、静かに床(とこ)に臥せて居た。政房は恐る恐る母御前の傍に歩み寄り、その寝顔を覗(のぞ)き込んだ。頬(ほお)は痩(こ)け、肌の色は青白く成って居る。
「母上、政房は相馬家の再興を、成し遂げましたぞ。」
不意に、政房の口から上擦(うわず)った声が出た。しかし、母御前からの反応は無い。
「母上!」
政房は再び叫んだ。蒲団の中から取った母の手には温もりが有り、それが政房に取っては唯一の幸いであった。
その後、政房は暫(しばら)く母御前の顔を眺め、幼少の頃からの、気丈であった母の記憶を思い起しては、目頭を熱くして居た。食物を取る事の出来ない母の体は、衰えて行く一方であった。
二日後、杈椏(またふり)御前は終(つい)に身罷(みまか)った。臨終の際、政房は母の死を悼(いた)む余り、気の病(やまい)に陥(おちい)った。今日まで政房を突き動かして来た物は、一重に父忠政亡き後、我が身を案じ続けてくれた、母への孝心であった。父が遂げられなかった相馬家再興を目指す事で、亡父や母に報い様と努めて来た。されど此度、漸(ようや)く再興を成し得たというのに、母の顔に笑みは無い。安らかではあるが、その痩(や)せ細った様を見る度に、政房は辛く感じられた。
やがて母御前の葬儀が終り、愈々(いよいよ)相馬家では陸奥四郡の統治に関し、動き始めようとして居た。しかし肝心の当主政房は、魂が抜けたままの様子である。重臣達は柱石が欠けて纏(まと)まりが取れず、悶着(もんちゃく)が起き始めて居た。
その頃御前の葬儀の為に、政房の外祖父近藤忠宗が、忠頼邸に逗留(とうりゅう)して居た。忠宗は政房の様子を危惧(きぐ)し、ある日、遂(つい)に政房の元を訪れた。自室で独り佇(たたず)み、庭を眺める政房に、忠宗が告げる。
「此度の事は、気の毒であったのう。しかし、御事(おこと)が見事に将門公以来の名跡を回復した事で、亡き父母も嘸(さぞ)や、喜んで居よう。」
政房は尚も、俯(うつむ)いたまま惚(ほう)けて居たが、やがて小声で呟(つぶや)いた。
「私は仏門に入り、父母の霊を弔(とむら)いたい。」
それを聞き、忠宗は慌てて政房の肩を掴(つか)んだ。
「何を申す。御事が出家致さば、相馬家は再び潰(つい)え、家臣達を路頭に迷わすのだぞ。それで御事の父母が浮かばれると思うのか?」
政房の声は、更(さら)にか細く成る。
「出陣の前、某(それがし)は母より、相馬の地に伝わる地蔵菩薩を預かり申した。その地蔵菩薩は奥州の戦(いくさ)の最中、某(それがし)の楯と成って敵の矢を受け、その後は逢隈(阿武隈)の山中にて消失してしまい申した。地蔵菩薩を手放した故に、母上は御利益(ごりやく)を失ってしまったのではあるまいか。もしくは、あの地蔵菩薩が身代り地蔵として、某(それがし)の命を救った分、母上の命が削(けず)られてしまったのではあるまいかと。斯様(かよう)に思えて成らぬのでござりまする。」
政房の悲愴な様に、遂には忠宗も言葉を失った。そして黙って部屋を後にすると、その足は平忠頼の元へ向かって行った。
その日の夜、政房は忠頼夫妻の夕餉(ゆうげ)に招かれた。忠頼の正室、相馬御前は政房の伯母であり、政房に取っては信田家を除き、唯一相馬家に繋(つな)がる人物である。その伯母と共に夕餉を囲む事で、政房は幾らか気分が晴れた気がした。
やがて夕餉(ゆうげ)が済むと、忠頼は相馬御前を下がらせ、政房と二人限と成って向かい合った。何事かと、政房は直ぐに緊迫した面持ちと成った。一方の忠頼は、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、俯(うつむ)きながら何かを熟考して居る様である。程無く政房に視線を向けると、厳粛な雰囲気の中、話を始めた。
「此(こ)は、秘中の秘故、滅多に外へ漏らしては成らぬ話である。それを肝に銘じて置いて貰(もら)いたい。宜しいかな?」
「はっ。」
忠頼に気圧(けお)されてか、政房は即座に返答した。それを見て忠頼は頷(うなず)き、話を始める。
「実は儂(わし)の室の他に、其方(そなた)には叔母が二人居る。先代良文公以来、常陸国筑波山南麓の寺にて、匿(かくま)って参った。敢(あ)えて貞盛が所領の近くに置いた理由は、貞盛等の盲点を突く為じゃ。そして以後二十七年、未だ貞盛方に覚(さと)られず、匿し続けて居る。」
「何と、私には未だ相馬に繋(つな)がる、血縁の者が有ったのでござりまするか?」
政房は唯々(ただただ)、驚駭(きょうがい)した。平良文が朝賊平将門の実子を悉(ことごと)く匿い得たは、実に信じ難い事であった。それと同時に良文の偉大さ、加えて感謝の念を、政房は改めて覚えた。
政房が沈着さを取り戻した所で、忠頼は更(さら)に話を続ける。
「其方(そなた)の父忠政殿は、この二人の妹御を、大層気に掛けて居った。されども、二人を救えぬままにこの世を去った。嘸(さぞ)や無念で在られたであろう。故にじゃ、此度其方(そなた)の手で、その叔母上達を奥州へ連れて行って貰(もら)いたい。その方が、二人に取っても安全であろうし、又父君の遺志にも沿えると思うのだが、如何(いかが)であろう?」
政房は、暫(しば)し黙りこくってしまった。忠頼からの依頼に、躊躇(ちゅうちょ)して居たのではない。相馬家再興により救われる縁(えにし)の者が、母以外にも居た事が判(わか)った事で、俄(にわか)に希望の光明が、政房の心の中に溢(あふ)れ始めたのである。やがて政房は真顔と成り、忠頼に申し伝える。
「承り申した。叔母上は某(それがし)の手にて、我が陸奥の所領へ御連れ致しまする。」
忠頼は、政房に覇気が戻った事を嬉しく思い、笑顔を呈する。
「この話は、当家と相馬家の存亡に係る一大事。故に実姉たる、我が室さえも知らぬ事じゃ。呉々(くれぐれ)も他言無用ぞ。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
政房が辞儀をして、再び頭を上げた時、二人の顔は溌剌(はつらつ)として居た。
先刻忠頼は忠宗より、政房の気の病(やまい)の相談を持ち掛けられて居た。当主政房を失い。相馬家が崩壊するのを危惧した忠頼は、窮余の策として政房に、村岡家の秘事を明かした。斯(か)くして政房は立ち直り、その心は東国ヘ向かうに至った。
政房の回復を得て、相馬家は陸奥移転に、本格的に着手し始めた。先ずは相馬家の府を定めねば成らず、拝領した四郡の地理情報を調べた。第一に、津軽郡は出羽国秋田城の北方、即(すなわ)ち本州の最北端に位置する。故に都からは最も遠く、又朝廷が支配する歴史の浅さから、治悪の問題等も懸念され、真っ先に却下と成った。次に信夫(しのぶ)郡を見てみると、国府多賀城と白河関の中間に在り、仙道沿いである為に、交通の便は良い。又豪族の中には、先の戦役を共に戦った者が多く、人脈の面では、最も安心出来る処であった。
そして残りの二郡、即(すなわ)ち磐城と菊多の二郡は、南北に海道を以(もっ)て隣接し、纏(まと)まった所領であった。その内菊多郡は、平貞盛の影響下に在る常陸国と接し、軍事的にも重要な地である。しかし領内の殆(ほとん)どは荘園と成って居り、相馬家の権力が遍(あまね)く及ばぬという問題点が有った。荘園とは、律令制で定められた国有地を管理する民人が、有力貴族や寺院へ寄進し、私有地と成った物である。私領故に、朝廷から任命された地方官が、立ち入り、徴税する事は出来ない。特に菊多は、皇族の私領たる荘園が多い様である。斯(か)かる政治的問題を含む地に、府を置くは適切ではないという事と成り、結局菊多郡も却下と成った。
残るは磐城郡であり、この地は菊多の直ぐ北隣に在る。この地に府を置いても、忠頼が期待する、平繁盛への背後からの睨(にら)みと成り得る。されどこの地に詳(くわ)しい者が、相馬家にも村岡家にも居らず、政房は已(や)むなく村岡忠重、近藤宗弘、斎藤邦泰を、彼(か)の地へ先遣として送り、その報告を待つ事とした。
そして一月(ひとつき)が過ぎた。寒露とも成ると、木々も大分紅葉して来る。晴天の下、京の大路小路は今日も、長閑(のどか)に時を刻んで居た。斯(か)かる左京の一角、藤原式家滋望邸内にて、政房は独り縁側に座り、庭の草木や、空に浮かぶ雲を眺めて居た。
そこへ、滋望の子、相親(まさちか)が姿を現した。
「政房殿、未だ陸奥より、報告は来て居らぬ様じゃな。」
「相親殿か。」
政房は相親に隣へ座る様促(うなが)し、相親もその勧めを受けた。そしてゆっくりと腰を下ろすと、先程の政房の様に、空を眺めながら、語り掛ける。
「陸奥は雪国と聞く。そろそろ出立せねば、任地へ赴くは越年し、雪融けを待ってからに成ってしまうぞ。」
政房はそれに頷き、溜息を吐(つ)く。
「うむ。私は今年中に下向したいと思うのでござるが。」
「まあ、貴殿が行かずとも、郡政は判官職の主政(しゅせい)が居るので、代行してくれよう。又、既(すで)に御家中の者が赴いて居られる故、大きな問題は起るまいて。」
相親は、政房が初めて政(まつりごと)に着手するのを前に、過度に緊張して居る物と感じて、それを解(ほぐ)してやろうと、助言に来たのであった。政房に取って相親は、兄の様に相談に応じてくれる、心強き人物であった。されどこの時、政房の焦燥(しょうそう)の原因は別の所に在った。平良文の庇護の下に生き存らえたという、二人の叔母の存在である。政房は、早く二人を安住の地へ移してやりたいという思いの他に、在りし日の、相馬家の姿を知りたいと思って居た。かつては関八州を制圧した猛将、平将門の為人(ひととなり)を、間近に接する事が出来た人物から、直(じか)に尋ねたかったのである。
数日後、遂(つい)に村岡忠重より、政房の元へ書状が届いた。政房は、京に残った佐藤純利と江藤玄篤を呼び、三人が揃(そろ)った所で、居間で書状を開いた。
それに依ると、忠重等は磐城郡内にて、府に相応しいと思(おぼ)しき処を見付け、早々に館の着工に入ったとの事であった。政房が陸奥の地に着く頃には、防塁も完成して居るので、何時(いつ)赴いても大丈夫であるという。又、書状には地図も付されて居り、忠頼公の助言も得られれば万全なり、と書かれて在る。地図を見ると、忠重が定めた場所は海道より海寄りで、玉川の河口近く、滝尻という地であった。
斯(か)かる提言を受け、政房が可否に悩んで居るのを察した純利は、穏やかな顔で具申する。
「某(それがし)はここで宜しいかと存じまする。磐城郡内と雖(いえど)も、菊多郡、常陸国に近く、これ等の地へ睨(にら)みを利かせる事が出来まする。又、万一北方にて反乱が起き、館が落ちる事が有ったにせよ、奈古曽関(なこそのせき)へ逃れ、再起を図る事が叶(かな)い申す。」
しかしその意見に対して、玄篤は怪訝(けげん)そうな顔を呈した。
「余りに安全だけを求め、その眼を郡の南方のみに偏(かたよ)らせては、郡政に支障を来(きた)しましょう。況(ま)してや殿は、他に信夫、津軽の郡政を預る御身(おんみ)なれば、府が中央から外れ過ぎるのも、如何(いかが)な物かと存ずる。」
純利が府の安全性を重視する一方、玄篤は治政その物を根幹と考える。政房は考えあぐねた末、やはり平忠頼の助言を得ようと、地図を持って席を立った。
忠頼が地図に目を通した後、その見事さに唸(うな)った様子であった。そして政房に告げる。
「御覧あれ。この地は南面の釜戸川と東の玉川が天然の堀と成り、北方は丘陵地にて、大軍が一挙に押し寄せる事は出来ぬ。平城とはいえ、その守りは堅固な物と成ろう。加えて西には海道が走り、東には御巡検路が延びて居る。交通の便も申し分無い。」
政房はそれを聞き、大いに安堵を覚えた。しかし、忠頼は目付きを俄(にわか)に険しくして、話を続ける。
「だが、其方(そなた)が十里も北方の郡境まで、目が届かぬ様で在らば、其方(そなた)を侮(あなど)り、郡政を乱す者が必ず現れよう。故に、郡内の要所に信の置ける者を配置し、目を光らせねば成らぬ。それは宜しいかな?」
「信の置ける者…」
政房ははっとして、忠頼を見詰めた。所領を賜った事で、政房はその広大な土地を治めねば成らないが、その上で当然、組織の統率力が必要と成って来る。しかし譜代の家臣が少ない政房には、組織作りの段階が、既(すで)に難問であった。悩む政房に対して忠頼は、微笑を浮かべて諭(さと)す。
「まあ、それを急に決める事は出来まい。陸奥に着くまでの間に、じっくりと考え、任地にて家臣達と、良く話し合うが善(よ)かろう。」
忠頼の言葉に、政房は些(いささ)か安堵した様子で頷(うなず)いた。そして忠頼は、俄(にわか)に思い出したかの様子で、政房に告げる。
「常陸の事、宜しく頼んだぞ。」
「はっ、必ずや。」
政房は、平伏して答える。二人の顔は、途端に険しく成った。政房の行く手には、陸奥の前に、常陸に身を匿(かく)した、二人の叔母の問題が有ったのである。
*
五日の後、平政房は佐藤純利、江藤玄篤に加え、従類十騎と共に、奥州への出立の準備を整えつつ在った。天候は申し分無く、藤原式家邸内の紅葉も、陽の光に照らされて、眩(まばゆ)いばかりに輝いている。此度の出立に際し、式家家中からは、多くの者が見送りに出て居た。久しく邸内にて、共に暮した相馬家の者が、遥か遠く、奥州の地へ移ってしまう故である。その中には当主滋望(しげもち)や、御曹司正衡(まさひら)、相親(まさちか)の姿も有った。
やがて出発の準備が整うと、政房は滋望の前へ跪(ひざまず)き、これまでの礼を述べる。
「天慶(てんぎょう)の頃、父忠政が先代忠文公より養育を受けて以来、今日に至るまで、式家には過分の御計らいを受けて参りました。申し上げるべき、御礼の言葉も見当たりませぬ。」
政房の言葉を聞く滋望も、又寂し気な様子である。
「うむ。しかし其方(そなた)等二代の功績に因(よ)り、相馬家は見事再興に至った。胸を張って行くが善(よ)い。そして陸奥の民を安んじ給(たも)れ。」
「はっ。」
滋望の言を受け、政房は深く頭を下げ、今まで恩を受けて来た人物に対する、深い感謝の気持を示した。
そして滋望の元を辞した政房は、颯爽(さっそう)と馬に跨(またが)り、列の先頭に出た。愈々(いよいよ)京も暫(しば)しの見納めである。政房が心底にて躊躇(ちゅうちょ)したのを見透(みす)かしてか、純利が背後より声を掛けた。
「殿、いざ参りましょうぞ。」
政房は深く頷(うなず)くと、鐙(あぶみ)を蹴って駒を進めた。その後ろを十余名の家臣達が、続いて進発して行く。
晴れて陸奥四郡の主と成った政房は、今までに無い程に、堂々と構えて居た。父以来の悲願を達成し得た満足感も有るが、父祖伝来の馬紋と九曜紋の旗が、京の大路に翻(ひるがえ)るのを見る度に、身が引き締まる思いであった。相馬家の一行は涼やかな秋風を身に受けながら、羅生門に向かい、朱雀大路を進んで行った。
此度の陸奥下向の際、政房は忠頼の元を訪れなかった。この先、常陸国筑波山麓へ叔母を迎えに行くに当たり、目と鼻の先に居る平繁盛の警戒を、少しでも緩(ゆる)め様という考えの上であった。手勢を十余騎に抑えたのも、その為である。
政房の一行は京師を発すると、頓(ひたすら)東海道を東へと進んだ。そして伊豆国から箱根の険を越え、相模国へ至った。平時ならここより、鎌倉郡の平忠通か、あるいは北上して、武蔵国大里郡の平忠光館を訪れる所であるが、政房は真っ直ぐ下総国へ入った。
常陸との国境を流れる利根川の手前は、祖先の地、相馬郡である。政房がこの地を訪れるのは二度目であり、彼(あれ)から実に七年もの歳月が流れて居た。彼(あ)の時迎えに行った母も、その母から預かった地蔵菩薩も、今は既(すで)に無い。しかし代りに、朝廷より所領を賜り、父母の悲願である相馬家再興は成された。政房はふと時の無常を感じ、感傷に浸(ひた)って居た。
坂東太郎を渡ると、愈々(いよいよ)常陸国河内郡である。この日は天候に恵まれ、独立蜂筑波山を、はっきりと仰ぎ見る事が出来た。彼(か)の山の手前までは、平忠頼の息の掛かった豪族が多く、比較的安全ではある。されど、忠頼の政敵である平貞盛、その実弟繁盛が、今尚筑波山麓に勢力を拡大して居ると聞く。斯(か)かる地に、政房がこれから訪ね様とする、二人の叔母が居るという。
下野国芳賀郡と、常陸国新治郡との国境に高峯という山が在り、そこから発した桜川は、筑波山西麓を流れ、やがて筑波郡と河内郡の境と成って、内海(霞ケ浦)へ注ぐ。その下流域南岸に、松塚という村が在り、そこの東福寺に、かつて将門の二人の姫が預けられたと、政房は忠頼より聞いて居た。政房が家臣達に、東福寺への道を調べて来る様命じたその時、江藤玄篤が政房の前へ進み出た。
「御待ち下され。某(それがし)は還俗(げんぞく)前、東福寺の僧でござり申した。よって、某(それがし)が御案内仕(つかまつ)る。」
「おお、それは助かる。」
一同は、探す手間が省(はぶ)けた事にほっとした。一方で、玄篤が以前東福寺に居た事に、数奇な運命を感じて居た。
やがて東福寺山門に着くと、政房は玄篤だけを伴い、他は山門に待たせて、中へ入って行った。風が吹く度に、境域には葉が舞い降ちた。それを、壮年の住持と思しき男が、掃(は)き集めて居る。玄篤は和尚の前へ歩み寄り、深々と頭(こうべ)を垂れた。訝(いぶか)し気な眼で、和尚は玄篤を見て居たが、程無くはっと気付いた顔をして、声を掛ける。
「江沙弥(こうさみ)か?」
「はっ。御久しゅうござりまする。」
そうと判(わか)ると、和尚は嬉しそうな表情を浮かべ、玄篤の肩を叩く。
「達者な様じゃのう。見れば、還俗した様子。探し求めて居た人物には、既(すで)に仕(つか)える事が出来た様じゃな。」
「はっ。今は家臣の末席に加えて戴き、江藤玄篤の名を頂戴致し申した。実は、我が君主を今、ここまで御連れしてござりまする。」
玄篤が示す先に、和尚は政房の姿を認めた。和尚が目の前まで歩み寄って来るのを見て、政房は礼を執る。
「某(それがし)は、相馬平家の政房と申しまする。此度、」
和尚は手を上げて政房の言葉を制すると、笑顔を湛(たた)えて告げる。
「私は当山の住持を務める、慧空(けいくう)と申しまする。如蔵尼(にょぞうに)殿を訪ねて参られたのでござりましょう?御案内致しまする。」
そう言うと、慧空和尚は政房に背を向け、すたすたと歩き始めた。和尚も又、叔母達を匿(かくま)う為に、気配りをし続けて来た事を、政房は察した。そして、和尚の後を追って行った。
和尚が向かった先は、境内の片隅に建つ、一棟の草蘆(そうろ)であった。中からは、御経を唱える女性の声が聞こえて来る。所々、壁が朽ちて居るので、中を窺(うかが)う事は出来そうなのであるが、大木の陰で陽が届かず、屋内は大層薄暗い。
「如蔵尼殿、御客人じゃ。」
和尚の声に、読経はぴたりと止んだ。そして、和尚は険しい顔と成り、政房に告げる。
「政房殿の用向きは、村岡殿より既(すで)に伺(うかが)ってございます。叔母御殿と確(しか)と話をされ、安住なる地へ御連れ下され。私は、山門に居られる御家中方の姿が目立つ故、別の場所に案内して置きます。」
和尚は再び山門に向かい、歩いて行った。
恐る恐る政房は、半ば朽ちた簾(すだれ)を潜(くぐ)り、玄篤と共に草蘆の中へと入って行った。中はとても暗く感じられたが、外から洩(も)れ入る光の為に、尼僧が一人、正座をしながら此方(こちら)を向いて居るのが判(わか)った。二人が入口の近くに腰を下ろし、挨拶をしようとした時、尼僧の方が先に、声を掛けて来た。
「御久しゅうござりまする。江沙弥殿。貴方が槍を手に取り、この寺を飛び出して行かれてから、如何程(いかほど)が経ちましょう?」
「はっ。当時、村岡家の下に編成されて居た相馬軍が、解散する直前でありました故、凡(およ)そ七年に成りましょう。」
「然様(さよう)ですか。その御姿を見るに、漸(ようや)く藤原玄茂殿以来の、御家の再興が成った様ですね。」
政房は座りながら静かに、二人の話を聞いて居た。次第に目が慣れて来ると、尼僧が玄篤を見て懐かしそうに、そして嬉々とした表情で話して居るのが判(わか)った。一方、如蔵尼(にょぞうに)の言葉を受けて玄篤は、途端に真顔と成り、粛々と話し始める。
「はっ。されど再興が成されたのは、当家のみに非(あら)ず。如蔵尼様の御父君、将門公の相馬平家も、この度再興が叶(かな)い申した。」
「えっ、其(そ)は真ですか?」
如蔵尼は俄(にわか)に、驚駭(きょうがい)の色を呈した。玄篤は平静に話を続ける。
「先月、相馬家当主平政房公は、陸州賊徒討伐の功に因(よ)り、朝廷より陸奥四郡を賜り申した。我等はこれより、任地奥州へ赴く所にござりまする。」
「平政房殿。」
如蔵尼は首を傾(かし)げる。その時、玄篤の傍に座って居た政房が、初めて見(まみ)える叔母に対して、深く礼を執った。
「平小次郎忠政が嫡男、政房にござりまする。叔母上様を御迎えに参上致しました。」
如蔵尼は更(さら)に驚いた様子で、政房を見詰める。
「貴方は、小次郎兄上の子なのですか?」
「はっ。」
政房は恭(うやうや)しく頭を下げた。
「これより、奥州磐城郡へ向かいまする。是非とも我等と共に、御越し願いたく存じまする。」
政房の申し出に、如蔵尼は深く溜息を吐(つ)いた。
「私はここに来たばかりの頃、泣いて淋しがる妹に、何時(いつ)か小太郎兄上か小次郎兄上が、私達を救い出してくれると、諭(さと)して参りました。今ではその希望を、殆(ほとん)ど失い掛けて居りましたが、よもや小次郎兄上の子が来てくれる等、夢にも思いませんでした。」
その時、如蔵尼の目から一滴(ひとしずく)の涙が流れ落ち、外から洩(も)れ入る微(かす)かな光を受けて、輝いた。
玄篤は二人の姫がここに来たばかりの頃、親や兄と生き別れて、日々泣き暮して居たのを覚えて居た。故に此度の事を、如蔵尼と同じく嬉しく思ったが、ふと如蔵尼の妹御の事を思い出した。
「如蔵尼様、殿が迎えに来られた事、般若寺の如春尼(にょしゅんに)様にも御伝えし、某(それがし)がここまで御連れ致したく存じまするが。」
如春尼は、姉の如蔵尼と共に幼き頃、ここ東福寺に預けられて居た。しかし如春尼は、後に筑波山麓の般若寺に移った。そこなら人目に付かず、亡き父や叔父達の御霊(みたま)を、弔(とむら)う事が出来ると考えた故である。
如蔵尼は玄篤に、妹の事を頼んだ。父の旧臣の子であり、又幼き頃、妹と共に、同じ境遇で過ごした間柄であったからである。玄篤は畏(かしこ)まって政房と如蔵尼に申し上げる。
「そうと決まれば、この地に長居は無用にござりまする。御二方は直ちに奥州へ向って下され。般若寺へは、繁盛の所領を通らねば成りませぬ故、某(それがし)一人にて向かいたく存じまする。」
「うむ。宜しく頼む。」
玄篤は政房の言葉を受けると、急いで草蘆を飛び出して行った。それを見て、政房も立ち上がる。
「さあ、参りましょう。」
如蔵尼は頷(うなず)くと、身の回りの僅(わず)かな荷物を持ち、政房と共に山門へと向かった。
政房が如蔵尼を連れて出立する事を、玄篤から聞いた佐藤純利以下の家臣達は、再び山門に集まり、直ぐにも出発出来る様、仕度を整えて居た。やがて山門に到着した政房等の前に、慧空和尚も見送りに、姿を現して居た。和尚は如蔵尼の前へ歩み出ると、一通の文を渡した。
「当山と同宗派の寺が、奥州菊多の地にも在る。何か有れば、そこを訪ねられるが良い。儂(わし)からの紹介状じゃ。」
如蔵尼は丁寧に押し戴くと、寂しさを含んだ笑みを浮かべた。
「永らく、御世話になりました。御恩は終生忘れませぬ。」
「うむ。これから危険を伴う旅と成ろう。呉々(くれぐれ)も気を付け、御身(おんみ)御大切に。」
御尚は別れの名残(なごり)を心の中に抑え、合掌しながら相馬家一行を見送る。如蔵尼が、純利が用意した輿(こし)に乗ると、一行は慌(あわただ)しく出発した。
輿(こし)に揺られながら、如蔵尼は溢(あふ)れ出る涙を抑える事が出来なかった。兄小次郎の子が立派に成長し、実家の再興を成し得た事。加えて、匿(かくま)われた常陸の一寺院にて、独り生涯を終える物と思って居た所、甥(おい)に救い出されて安住の地へ移る事が出来、更(さら)には生き別れた妹とも、再会出来るという。如蔵尼は御仏(みほとけ)の御加護に感謝し、妹如春尼が居ると聞く、筑波の嶺を見上げた。そして、草蘆より持ち出した荷物の内、一尺程の包みを、大事に抱き締めて居た。
*
茨城郡内常陸国府付近は、往年平貞盛の父国香が久しく大掾(だいじょう)を務めて居た故か、貞盛の息が掛かった豪族が多い。如蔵尼が、未だ朝廷より恩赦の出た身ではない為、政房一行の行動は、更(さら)に慎重に成らざるを得なかった。やがて何事も無く那珂川を渡り、続いて久慈川を渡ると、愈々(いよいよ)海道はその名の如く、海の側を走り始める。
暫(しばら)く進み、常陸国最北端に在る多珂郡に入ると、海道は東の浜と西の丘陵地との間の僅かな平地、もしくは、海岸線が絶壁に成って居る処は、内陸の隘路(あいろ)を通過する事と成る。この辺りから東を見れば、果てし無く広がる海と、漁村が目に映る。汐の香りが漂う中、相馬家一行は更(さら)に北を目指し、進んで行った。
常陸北方も海辺は漁村が多く、やがて平潟という漁村に入った。この辺りは海に巌壁がそそり立ち、岩場は荷駄の運搬を不便にして居る。海道はここより西へ折れ、一度内陸を経由する。その後は奈古曽関(なこそのせき)の西麓を進み、菊多郡酒井郷に至るのであるが、政房はふと、村より真北に延びて居る小径が気に掛かった。漁民に尋ねた所、海沿いの難所を越えて、関の東麓の浜に出るという。政房は国境の間道を直(じか)に見て置きたいと考え、街道を外れて小径(こみち)に入った。それは、百段坂という急峻な悪路を越えて、菊多郡に通じて居た。政房は已(や)むなく馬を下り、如蔵尼も輿を下りて、先へと進む。
(もしここが戦場(いくさば)と成り、敵が待ち構えて居たとすれば、突破する事は容易ではあるまい。)
政房が斯様な事を考えながら進んで行くと、程無く突然目の前で、佐藤純利が立ち止まった。そして政房に前方を指差して示す。
「殿、遂(つい)に九面(ここづら)の村が見え申した。ここより先はもう殿の領地、奥州菊多郡にござりまする。」
純利の言葉に、一行はおおと響動(どよ)めきの声を上げた。九面の漁村は入り組んだ岩場に在り、その先には道の西側に丘陵がそり立ち、東側には砂浜が続いて居た。景色は遠く、磐城郡まで見渡す事が出来る。
西の丘の上には奈古曽関(なこそのせき)が在るが、朝廷の支配が遠く、津軽半島や下北半島まで及ぼうとしている昨今、この関に駐屯する軍の規模は、次第に小さな物と成って行った。かつては蝦夷(えみし)より、常陸国を守る為の物であったと聞くが、今では往年の威容は感じられない。
奈古曽関(なこそのせき)の北方が愈々(いよいよ)、政房が郡司に任命された菊多郡である。郡名に因(ちな)みて、沿岸部を南北に走る砂浜は、菊多浦と呼ばれて居た。政房は関の北方で再び海道に出て、程無く西へ進路を取った。関の北西には酒井郷が広がり、蛭田川を渡った先の山裾には、郡政の庁舎である、菊多郡衙(ぐんが)が置かれて居たからである。政房は先ず菊多郡大領として郡衙に入り、郡政の様子を掴(つか)んで置こうと考えた。
菊多郡は往古、常陸国多珂郡に属する一郷に過ぎなかった。しかし養老二年(718)の石城国(いわきのくに)設置に伴い、多珂郡から分割され、石城国へ編入された事が、「続日本記」(しょくにほんぎ)に記されて居る。そして神亀三年(726)頃に、石城国は再び陸奥国へ併合され、磐城郡設置と同時に、菊多郷も郡へ昇格した。郡下には五郷、即ち、蛭田川流域の酒井郷、鮫川河口付近の余部郷、その上流に河辺郷、鮫川支流山田川流域に山田郷、鮫川支流葛野(上遠野)川流域に大野郷が在る。菊多五郷はこの度、政房の支配下に入る事と成った。
政房は家臣二人を先に郡衙へ遣(つか)わし、郡司の到着を報せに行かせた。やがて政房が郡衙に到着すると、門前にて出迎えたのは、菊多郡の主政(しゅせい)、主帳(しゅちょう)を従えた、斎藤邦泰であった。政房は漸(ようや)く、陸奥に派遣して居た家臣との合流を果し、安堵の表情を浮かべる。邦泰も主君が無事到着した事で、ほっと息を吐(つ)いた様子であった。
「長旅にて、嘸(さぞ)や御疲れの事でござりましょう。どうぞ此方(こちら)へ。」
そう申し上げると邦泰は、政房を政庁の中へと案内して行った。
政房には郡司の間が用意されて居り、漸(ようや)く独りに成る事が出来た政房は、ごろりと横になり、暫(しば)しの休息を取った。
やがて陽が西に落ち始め、辺りが朱色に染まる頃には、政房の旅の疲れも大分取れて居た。政房は主立った者を広間に集め、菊多郡の様子等を尋ねようとした。
諸官吏が居並ぶ中、先ず報告をしたのは政房の直参、斎藤邦泰であった。
「本日は大領(だいりょう)平政房様が御到着と相成り、誠に目出度(めでた)き仕儀に存じまする。ここ菊多郡衙には、殿の安全を計る為、某(それがし)の二百の手勢を留め置いて居りますれば、今後殿に在らせられましては、警固に関し、御懸念無用と存じ奉(たてまつ)りまする。」
「うむ、大儀である。」
政房は久し振りに己の軍旅を得て、安心した様子である。しかし、邦泰は俄(にわか)に険しき顔付きと成り、話を続ける。
「只、目下郡政に、甚大なる問題が生じて居りまする故、それは主政より、御話し申し上げまする。」
それを受けて、主政は政房に平伏した。主政とは郡政の三等官であり、一等官は政房が拝命した大領である。新たな郡司を目の前にして、主政は緊張の相を呈しながら言上する。
「では某(それがし)より、郡司様に申し上げるべき事がござりまする。」
しかし主政は俯(うつむ)いたまま、中々次の言葉が出て来ない。政房は次第に焦(じ)れ始めた。
「申して見よ。遠慮には及ばぬ。」
政房の言を受け、主政は漸(ようや)くたどたどしい口調で話し始めた。
「畏(おそ)れ乍ら申し上げまする。本郡五郷の内、大半は宮様の荘園と成り、我等が治める土地は、郡内には猫の額程しかござりませぬ。故に本郡財政は破綻(はたん)の兆し有り。恰(あたか)も一郷政の如き貧しさにござりまする。」
菊多の豪族の多くは、皇族に自らの所領を寄進し、皇族より荘官の地位を保証されて居る。そして、官吏が土地の生産高を調べたり、税を徴収するのを拒否して来た。所謂(いわゆる)不輸不入(ふゆふにゅう)の権である。
政房はこの報告を受けて、菊多が平貞盛、繁盛に対する、北の牽制(けんせい)の地と成り得ないのではないかと感じた。又、磐城の地も同様の有様であり、更(さら)に津軽の地には、未だ朝廷の威光が及んで居ないとすれば、真面(まとも)な所領は信夫(しのぶ)一郡のみと成る。そして、信夫外三郡において治政が滞(とどこお)り、再び反乱が勃発する様な事が有れば、政房は所領召し上げの上、更(さら)に何らかの処罰を受ける可能性も否(いな)めない。
斯(か)かる不安は尽きなかったが、政房は先ずこの問題を、打破しなければ成らなかった。この様に荘園が発達した背景には、官吏の悪政から逃れたい領民と、私腹を肥やしたい有力貴族との、利益の一致が有った。政房がこの地で勢力を得たいのならば、荘官と成って貴族と領民の間に入るか、領民に慕(した)われる郡政を行い、公領寄進の流れを止める事をなさねば成らない。しかし後者は、陸奥守に貪欲な人物が就いた時、国守から領民を護ってやる、覚悟と力が必要である。政房は俄(にわか)に、頭部に痛みを感じた。
その夜、政房は床(とこ)に入った後も、主政の報告が頭から離れなかった。又、明日向かう磐城の地も、如何様(いかよう)な処であるのかと、不安の念に駆られて居たのである。村岡忠重、近藤宗弘、斎藤邦泰の三人が推す処故に、大丈夫であるとは思うのだが、募(つの)る不安に因(よ)って、政房は中々寝付く事が出来なかった。
翌日、政房は政庁広間に官吏を招集し、新たな沙汰が有るまで、一時郡政を主政、主帳の両名に委(ゆだ)ねる旨を告げた。そして自身は、斎藤邦泰とその手勢を率い、村岡忠重の待つ滝尻へと向かった。
政房一行は斎藤勢が加わった為、一気に二百騎の軍勢と成った。先の戦(いくさ)の記憶が未だ新しい故に、政房は精鋭部隊に護られた、安堵感を得る事が出来た。
一行は再び海道へ出た後、北上を開始した。間も無く鮫川という、幅の広い川に出た。これを渡ると、そこは渋川との三角洲と成って居る。海道は渋川に沿って、更(さら)に北へ延びて居た。
邦泰はそこから進路を東へ変え、渋川を渡って東方の丘陵地帯へと案内した。意外にもその道は整備されており、交通は容易である。聞けば、この道は御巡検道と呼ばれ、国司が多賀城へ向かう為に、海道とは別に作らせた物であるという。菊多と磐城の郡境は起伏が大きいが、一里程丘を越えて黒須野村へ辿(たど)り着けば、後はなだらかな道と成った。
政房は、邦泰に案内されるがままにその村を過ぎ、程無く釜戸川へ出た。その辺りは平坦な土地が多く、視界も良く利く。川を手前にして、邦泰は政房の傍へ馬を寄せ、対岸を指差す。
「殿、この川の対岸が滝尻であり、向こうに見える館が、殿の居城と致すべく、築き上げた物にござりまする。」
政房が目を凝(こ)らして、邦泰の指し示す先を見ると、釜戸川を天然の堀とした平城とも言うべき館が見えた。空堀も深く掘られ、城壁も堅固に見える。政房は領民から、臆病者に見られはしないかと懸念を抱いたが、一方で未知なる地故に、堅牢な城に守られるのは安心である。
「中々良き館じゃ。藍沢広行の乱を鎮めてから、未だ日が浅い。陸奥の斯(か)かる不穏な輩(やから)を牽制し、乱の勃発を未然に防ぐのも私の役目。本城はこれ位強固な方が良かろう。」
そう述べると政房は駒を進め、釜戸川を渡って滝尻に入った。
政房等が滝尻館正門に達すると、直ぐに物見櫓(やぐら)より、村岡忠重が下りて来るのが見えた。忠重は政房の元へ駆け寄ると、新たに当地にて召し抱えた兵の手前、恭(うやうや)しく礼を執る。物腰も厳かである。
「遠路、御疲れに成られた事と存じまする。殿の間も既(すで)に出来上がって居りまする故、そこにて緩(ゆる)りと御休み下さりませ。」
「うむ。今まで当地の調査と本城の落成、真に御苦労でござった。所で、江藤玄篤は未だ到着して居らぬか?」
「はっ、昨日夕刻に、到着してござりまする。」
「そうか。して、尼僧を伴っては居らなんだか?」
「いえ。一人にござりましたが、何か?」
「いや、良いのじゃ。」
政房は不吉な予感に心を捉(とら)われたが、平静を装って入城した。忠重も政房に随行する。やがて、後方の輿(こし)から一人の尼僧が下りて来た。忠重は意外な事に驚き、政房に尋ねる。
「殿、あの方は?」
「ああ、我が叔母上、如蔵尼様じゃ。一室用意し、鄭重に御案内してくれ。」
「はっ。」
以前に政房の二人の叔母の事は、亡父良文より聞いて居たので、忠重は直ぐに納得した面持ちと成った。忠重に如蔵尼の応対を任せ、政房は居間へと入り、先着して居た江藤玄篤を呼び寄せた。
程無く、玄篤が政房の元へ姿を現した。政房は、玄篤が一人でここに着いたと聞いて、何ぞ悪(あ)しき報せが有る物と予感して居た。しかしそれを聞く覚悟が固まらず、問い質(ただ)す言葉が中々、口から出て来なかった。
しかし、何(いず)れは如蔵尼に報告せねば成らない。政房の心中を察した玄篤は、苦渋の顔で報告する。
「申し上げまする。某(それがし)は筑波山中にて、般若寺なる寺を探し出し、当山の住持に、叔母君様の消息を御尋ね致し申した。勿論(もちろん)平貞盛に係る者と思われぬ様、配慮してござりまする。」
「して、住持は何と?」
「叔母君様が東福寺を去った頃に、一人の尼僧が般若寺に現れ、寺城の外れに庵(いおり)を結んで、孤独に祖先の霊を弔(とむら)って居たそうにござりまする。されど先年、病(やまい)を得て亡くなり、彼(か)の寺にて葬られたと聞き及び申した。又、遺品が有るとの事故、尼僧の縁者に届けると告げると、それを某(それがし)に託して下さり申した。」
そして玄篤は、古びた布を一枚、政房に差し出した。元は紫色であったと思われるその布は、大半が大分色褪(あ)せて居る。政房はふと、布の端に「安寿」と書かれた、山吹色の刺繍を見付けた。
「これは?」
政房が示す物を認め、玄篤が答える。
「叔母君様は幼き頃、般若寺の時の住持より、その名を戴いたそうにござりまする。そして御成長なされし後は、如春尼様と名乗られたとか。」
「ふむ。」
玄篤から大体の話を聞くと、政房は如春尼の遺品を箱に納め、天慶(てんぎょう)の昔に起きた戦乱の、哀しき犠牲者の冥福を祈った。そして、この事を如蔵尼に伝えなければ成らぬと思うと、余計に頭が痛く成るのであった。