第六節 凱旋

 翌日早朝、信夫(しのぶ)勢を先陣に、相馬軍を核とする官軍は、賊軍の後を追って、逢隈(阿武隈)山中へと入って行った。隘路(あいろ)が多く、敵の伏兵を警戒しながらの行軍と成った。案の定、幾度か敵の奇襲を受けたが、怯(ひる)まずに、更(さら)に山奥へと進んで行く。途中、村人から賊の逃走路を聞き出し、遂(つい)には佐戸郷西南方の山城に、賊軍の本隊が立て籠(こも)って居るのを発見した。

 相馬軍は先ず賊の城を包囲すると、平沢益澄と佐藤純利の手勢二百騎を以(もっ)て、佐戸郷の中心村落を制圧し、郷政を朝廷の下に回復させた。一方の賊軍は、最後の兵糧補給地を失い、手元には数日分の兵糧が残るのみである。しかも真夏の猛暑の中、食料の保存すら困難であった。

 斯(か)くして五日後、城の中から大声で叫ぶ者が在った。
「我は城主の、藍沢権太郎広行と申す。貴軍の大将に話がござる。」
見れば、最前列の櫓(やぐら)の上から、藍沢を名乗る武者が叫んで居る。政房は村岡忠重と近藤宗弘を伴い、自軍の最前線へ赴いた。そして藍沢広行に告げる。
「我こそは陸奥国押領使(おうりょうし)、平政房と申す。話とは何か?」
城内から矢を放てば、政房に届き得る距離である。政房の両脇には、武芸に達者な忠重と宗弘が控えて居るが、政房の鼓動は、その強さを増して行く。そして藍沢を名乗る将は、政房を見据えて言う。
「我が一族郎党の命を救って下さるのであらば、今直ぐ城門を開き、降伏致す。如何(いかが)か?」
藍沢軍は孤立無援で、更には兵糧も尽きて居た。一部からは最期の一戦を望む者も有ったが、藍沢広行は無意味に人を死なせる事を、避けたかったのである。

 政房は一族郎党の身柄を、陸奥国司に預ける旨を告げたが、それは藍沢が拒否した。無道なる国司に預けられては、凄惨(せいさん)な運命が待つのみであると言うのである。

 ふと、政房の脇で忠重が囁(ささや)いた。
「かつて平将門公が敗れし折、その傍(そば)に在った一族郎党は、悉(ことごと)くが討ち果され申した。下手に賊に情けを掛けては、朝廷より疑われ、我が身が危うくなるからでござる。殿はそれを承知にござりましょうや?」
その言葉は、政房の心に影を落した。確かに祖父の代は皆討死し、父の代も多くが行方不明と成ってしまった。しかし己の目の前で、斯(か)かる惨事を見たくはないという想いも有る。

 政房は激しく葛藤した。藍沢広行が、平将門と同じ運命を辿(たど)らぬ様に取り計らってやれば、逆に相馬家再興の障害となる怖れが有る。やがて政房は意を決し、藍沢広行に最後の提案を示した。
「藍沢広行殿とその一族は、某(それがし)の手勢を以て京へ御連れ致す。朝廷にて藍沢殿の蜂起の原因を訴えれば、一族が生き延びる可能性も残され申そう。」
しかしその提案に対して、藍沢広行は大声で笑って返した。
「押領使殿、かつて坂上田村麻呂が奥州に遠征し、和議を纏(まと)めて京へ連れて来た蝦夷(えみし)の将阿弖流為(あてるい)は、その後如何(いかが)相成ったか?徒(ただ)斬首に処されてしまっただけじゃ。況(ま)して某(それがし)は敗残の将。我が一族が都へ上がり、国司の罪状を訴えたとて、所詮は阿弖流為と同じ運命であろう。されば我等は陸奥の民として、この陸奥の地で死にとうござる。」
そう言うと、藍沢広行は矢を番(つが)え、櫓(やぐら)の上より放った。矢は政房に向かって一直線に飛び、やがてその二間前の地上に突き刺さった。その時、政房と広行の目が合ったが、互いに万策尽きた、哀しい眼をして居た。

 矢が政房に放たれたのを見て、村岡忠重は総攻撃の合図を下した。城の四方より鬨(とき)の声が上がり、朦々(もうもう)たる砂塵が城を包み込んだ。

 やがて一時の後、鬨(とき)の声も砂塵も消え去り、山城は再び煌々(こうこう)たる陽の光に照らされた。そして聞こえて来るのは、味方の勝鬨(かちどき)の声であった。

 城の方より、本陣に向かって来る武者が在った。よく見れば、江藤玄篤とその供の者である。埃(ほこり)に塗(まみ)れた玄篤等は、政房の元へ通されると、その前に平伏した。そして、声を震わせながら報告する。
「斎藤殿の軍、見事賊を討ち破り、本丸を落しましてござりまする。又、賊将藍沢広行とその妻子は、本丸にて自害致して居り申した。」
「そうか、御苦労であった。」
政房は無表情のまま馬に跨(またが)ると、手勢を伴って城へと向かった。政房は自ら大将を務め、陸奥四郡に及んだ反乱の平定を、遂(つい)に成し遂げる事が出来た。しかし、不思議と歓喜の気持が涌(わ)いて来ない。此度の戦役においても、多くの血が流されたが、その分奥州の民が報われる事は無いであろう。寧(むし)ろ、国司の悪政に立ち向かった英雄を、失う事と成った。これは、己が平将門の子孫故に起る感情なのかと、政房は自問して居た。

 城へ上ると、藍沢の顔を知る安達郡の者が、自刃した遺骸を検分して居る。そして、藍沢本人に間違い無い事が確認された。政房は、敗軍の将の末路に哀れみを感じ、心の中で冥福を祈った。更(さら)に斎藤邦泰より受けた報告に依ると、城に籠(こも)って居た兵は、僅(わず)かに五十余りであったと聞かされた。確か、仙道から逢隈(阿武隈)山中に退却した時、その兵力は千騎に及んで居た筈(はず)である。とすると、ここへ逃れるまでに、殆(ほとん)どの兵が藍沢を見限った事になる。朝廷が警戒する陸奥の地においても、官軍に敗れた者は、その求心力を一気に失墜し、多くの者に見放される。政房は賊軍に落ちる事の恐ろしさと、真に大将を護ってくれるのは、一部の忠義心篤い従類(じゅうるい)だけであるという事を、まざまざと思い知らされた。

 やがて政房は、諸将を城下の自陣に集め、今後の事を話し合った。先ず、信夫軍はここ佐戸郷に留まり、残党の捜索に当たらせた。又、平沢益澄を安達郷に置き、不測の事態への備えとした。そして相馬軍は斎藤勢、黒沢勢を伴い、白河関(しらかわのせき)まで戻る事と成った。

相馬軍は再び仙道に出て、街道沿いに南下し、白河を目指した。逢隈(阿武隈)川の西方には、勇壮なる奥羽山脈が聳(そび)え立ち、仙道諸郡と耶麻、会津地方を分断する山並の景色が続く。安積(あさか)郡に入って間も無く、政房は行軍を止め、黒沢正住を傍へと呼んだ。

 程無く、正住が政房の元に現れると、政房は奥羽山脈を指差して尋ねる。
「黒沢殿、向こうに一際(ひときわ)高い峰が見えるのだが、名は御存じ在るか?」
正住が政房の指す方を見霽(みはる)かすと、直ぐにその尋ねる峰に気が付いた。
「ああ、あれは磐梯山と申す。耶麻郡の独立峰にござる。」
「何と、奥羽山系の一山ではないのか?」
「然様(さよう)。ここからでは奥羽山脈の一部に見えまするが、越後海道に沿って中山の峠を越えれば、それが誇る威容を窺(うかが)う事が出来申す。」
「ほう。富士の如き高嶺(たかね)の様じゃな。神々(こうごう)しさすら感じられる。ここからでも充分、良き眺めじゃ。」
そう言うと、俄(にわか)に政房の表情が暗く成った。そして悲しい面持ちのまま、正住に告げる。
「乱も鎮まり、我等はやがて都へ戻る事と相成り申そう。此度の戦役は、私に取って良い経験と成った。武門の家を再興させる目標を前に、初めて戦を経験する事が出来、又奥州にも、正住殿の如き名将が居る事を知った。」
「斯様(かよう)に御誉(ほ)め戴くと、何やらこそばゆさを覚え申す。」
正住は苦笑した。他方、政房は真顔と成り、尚も話を接ぐ。
「いや、此度は三春の地にて、反攻の足掛りを築く事が出来たのみならず、正住殿は藍沢勢との一戦において、見事な采配を見せてくれ申した。又、三春の邑(ゆう)の治政にも、感服仕(つかまつ)った次第。近隣豪族からは信を得、領民は泰平の中、生き生きと生業(なりわい)に勤(いそ)しんでござった。」
そして政房は一息吐(つ)き、東方逢隈(阿武隈)の山並を見遣(みや)る。
「黒沢勢には多いなる助勢を戴き申した。この事は、朝廷にも報告致し申す。今後は縦(たと)え藍沢の残党が動こうとも、私の手勢にて充分対処出来る故に、黒沢勢はここより三春に御帰り下され。」
それを聞いて、正住は暫(しば)し政房を黙したまま見詰めて居たが、やがてその口を開いた。
「藍沢の残党も、本隊があれ程までに壊滅してしまっては、今後の再起も成りますまい。では御言葉に甘え、我が手勢はこれより、三春へ帰還させて戴きまする。」
そう答えると、正住は政房の方へ右手を差し伸べた。政房はそれに応じ、馬上にてがっちりと握手を交す。そして正住は、微笑を浮かべながらも、何処(どこ)か寂し気な目で、政房に告げる。
「流石(さすが)は相馬武士の棟梁。初陣と聞き及んで居り申したが、見事な武者振りを見せて戴き申した。再び陸奥の地を訪れる事有らば、又見(まみ)えたき者でござる。」
両者は互いに手に力を込め、己の熱い気持を伝え合う。やがてそれが緩むと、正住は政房から離れ、一礼して去って行った。黒沢勢が続々と正住の後を追い始める。政房は、次第に遠ざかる正住の後ろ姿に深く頭を下げ、陸奥の地で思い掛けず支援をしてくれた軍団に、感謝の意を示して居た。

 再び南下を始めた相馬軍は、日没の頃、漸(ようや)く白河関に到着した。ここでは関守や白河郡司等が、宿と宴席を用意してくれて居たので、その夜は白河に軍旅を休める事と成った。白河軍団の将達は、一時は隣郡磐瀬すら危うかった戦況から、僅(わず)かの期間に乱を鎮圧し得た相馬軍の精強さを称(たた)え、手厚い持て成しで迎えてくれた。

 宴(うたげ)の席で、相馬の者も白河の者も共に、漸(ようや)く訪れた平和を楽しんで居る。首座に腰を下ろした政房の元には、続々と白河の有力者達が挨拶(あいさつ)に訪れた。政房は彼等との応対が済むと、酔い醒ましに席を立ち、廊下へと向かった。その途中、賑(にぎ)やかな宴席の中、一人静かに酒を飲んで居る将に目が止まった。同族の信田氏から派遣されて来た、斎藤邦泰である。政房は彼に声を掛け、宴席の外に連れ出した。

 外は月明かりにほんのりと照らされ、木々や建物が、その輪郭を鮮明に顕(あらわ)して居る。政房は縁側に腰掛け、邦泰には隣に座る様勧めた。宴席より聞こえて来る笑い声や笛の音は、然程(さほど)喧騒(けんそう)には聞こえず、寧(むし)ろ政房等が居る場の静寂さを、一層際立(きわだ)たせて居る。

 政房は将(まさ)に雲井に掛かろうとして居る月を眺め、邦泰は只黙って、その隣に座って居た。月を見ながら政房はふと、邦泰に話し掛けた。
「貴殿の軍は強いのう。斯様(かよう)な軍団を擁して居れば、伯父上の家は安泰で御座ろう。」
邦泰はそれに対し、そっと首を振った。
「いや、今の信田家は、如何(いか)なる精強な軍を擁していようとも、平将門公の嫡流故に、未だ恩赦を受けざる身にござる。されば、何時(いつ)その素姓が露顕して潰(つぶ)されるか分からぬ、危うい立場に置かれて居るのでござりまする。」
「そうであったのか。」
政房は、己を支援してくれた信田家も又、未だ苦境に在る事を知り、表情を翳(かげ)らせた。やがて、邦泰に顔を向けて尋ねる。
「明日、我が軍は仙道に沿って下野(しもつけ)に入る。その後坂東にて軍団を解き、一部の者と共に上落する積りじゃ。ここ白河からは、南東の久慈川に沿って、常陸へ通ずる路も有る。貴軍の活躍振りは、私が朝廷へ報告致す故、貴殿は明日、常陸へ戻られるか?」
信田家に伸(の)し掛かる軍費を、少しでも案じての言葉であったが、一方で政房は、勇将斎藤邦泰との別れを惜しんで居た。それに対して邦泰は、恭(うやうや)しく座り直し、謹(つつし)んだ態度で政房に言上する。
「某(それがし)の率いし手勢は明日、仰せの通り、常陸へ帰しまする。しかし、某(それがし)と数名の側近だけは、都まで同道の御許しを願いたく存じまする。」
政房は意外そうな顔を呈した。
「ほう、其(そ)は何故(なにゆえ)か?」
「忠頼様よりの御下知にござりまする。此度の戦役にて相馬家が乱を平定し得れば、政房様に従い上洛し、相馬家に恩賞として所領が戴ける様、工作せよとの仰せにござりまする。」
「何と、忠頼様が。」
この時、政房は村岡平家忠頼の後ろ楯を、心強く感じた。陸奥に大乱が起きた際、朝廷には充分な討伐軍を編成する余力が無く、已(や)むなく賊将将門直系の孫、政房を押領使に登用するに至った。斯(か)くして、乱は平定された。これにて相馬家は将門の後、忠政が藤原純友征討に功を挙げ、今再び政房が藍沢広行征討に成功し、二代に渡り国家の安寧に寄与した事に成る。この功に加え、村岡家の力添えが有れば、相馬家への所領下賜の可能性は、濃厚な物に思えて来た。かつて平良文の助力では、藤原氏長者忠平を動かす事は能(あた)わなかったが、今の摂関家は師輔(もろすけ)亡き後、強力な指導者が現れて居ない。今の忠頼の力なれば、朝議が動く可能性は高いであろう。政房は先が開けた様に感じ、微(かす)かに顔が綻(ほころ)んだ。邦泰は斯(か)かる政房の表情を見て、俄(にわか)に顔を背(そむ)けた様であった。

 月夜の宴(うたげ)は遅くまで及び、人々が平和を謳歌する声が響いて居る。政房は溌剌(はつらつ)とした顔で立ち上がると、邦泰を連れて、再び宴席へと戻って行った。その途次、政房は不意に振り返り、邦泰に告げた。
「貴殿とは、ここで別れずに済んで良かった。共に戦いし時は頼もしく、又一族所縁(ゆかり)の者故な。」
そう言うと、政房は再びすたすたと、宴(うたげ)の場へと戻って行く。一方で邦泰は、月明かりを浴びながら、独り佇(たたず)んで居た。

 翌朝、相馬軍は白河を出立し、二月(ふたつき)振りに坂東の地を踏んだ。奥州白河郡の南に位置する下野国は、政房の宗主である平忠頼と対立する、藤原千晴の影響下に在る。以前出陣の砌(みぎり)には、警戒しながら過ぎた物であったが、陸奥押領使として賊徒征伐の大功を挙げし今は、堂々たる威風にて、軍旅を進めて行く。

 政房は先ず、武蔵国大里郡に在る、忠頼の館を訪れた。迎えに出たのは、弟の忠光であった。その口から、忠頼は奥州の乱平定の報を受けると、直ぐ様都に上って行った事が報された。相馬軍はここで大半の兵役を解き、僅(わず)か五十騎と成って、再び西進を開始した。

 時は既(すで)に、七月の中旬と成って居た。夏の暑さは大分失われ、時折涼やかな秋風が感じられる日も有った。又、湿気の不快感も軽減され、厚い鎧(よろい)を身に纏(まと)った武者達は、皆快さ気である。これは偏(ひとえ)に、気候(だけ)に因(よ)る物ではなく、勝戦の後である為であるのかも知れない。

 相馬氏の一行は、やがて都に到着した。久方振りの都は、出立前と変わらぬ賑(にぎ)やかさを見せていたが、奥州の反乱を見事に鎮圧した将軍の凱旋を、歓迎する様子は感じられなかった。多くの市民は、各々の仕事に追われて居る様である。所詮は都より、数百里も隔(へだ)てた僻地(へきち)で起った事であり、都人が案ずるには及ばぬ物かと思いながら、一隊は一路、京の平忠頼邸へと向かって行った。

 邸の前では当主忠頼直々に、相馬家を迎えに出て居た。政房は下馬すると、忠頼の前へ歩み出て、跪(ひざまず)こうとした。その時忠頼も政房の元へ進み寄って、肩を軽く叩いて、穏やかな笑顔を見せる。
「御苦労であった。奥州での活躍は、既(すで)に耳に届いて居る。流石(さすが)は相馬武士よ。」
政房は幾分恐縮しながらも、微笑を湛(たた)えて返す。
「いえ、此度の勝利は忠頼様の助力の賜(たまもの)にて、某(それがし)は初陣故に、家臣の意見を聞くだけで精一杯にござり申した。」
「ふふ、相変わらず謙虚じゃのう。まあ此度の戦功は、相馬家再興を可能にする物と、儂(わし)は考えて居る。明日は検非違使(けびいし)庁に赴いて、賊の首級を届ける事と成るが、その後暫(しば)し吟味をした後、朝廷より恩賞の下賜が有る筈(はず)じゃ。まあその間の工作は当家に任せ、其方(そなた)は緩(ゆる)りと、戦(いくさ)の疲れを癒(いや)すが良かろう。」
「ははっ、宜しゅうお願い申し上げまする。」
政房が鄭重に返答すると、忠頼は相馬家を邸内へ誘い、諸将には休息の手配を施した。

 その日の夜は、忠頼が相馬家戦勝祝賀の宴(うたげ)を催し、邸内は大いに賑わった。諸将は戦(いくさ)や長旅の憂(う)さを存分に晴らし、随所より笑い声が起って居る。政房の席は忠頼の隣に用意され、忠頼から幾度も酒を注(つ)がれた。そして政房は、己が奥州にて見て来た地理や風土を語って土産話としたが、己の事や戦(いくさ)の話は殆(ほとん)どしなかった。朝廷を戦(おのの)かせた陸奥の反乱を、仮にも僅(わず)か二月で完全に平定し得た事は、当然忠頼の関心事であろう。されど、忠頼が政房の将としての才を大いに認めた場合、政房の台頭を恐れる気持が起り、相馬家の下総三郡を回復させる支援を、打ち切るも事も考えられる。優秀なる将が下総三郡を得れば、坂東の地において、平忠頼と平貞盛、藤原千晴の軍事的均衡を崩す、第四の勢力として割拠する怖れが有る為である。斯(か)かる懸念が有った故に、政房は忠頼の前で、戦(いくさ)と家臣団の統制に疲れた凡将の様に振舞い、やがて酒と長旅の疲労から、横になって寝入ってしまった。

 翌日、平政房は村岡忠重と斎藤邦泰を伴い、検非違使(けびいし)庁へ赴いた。そこで賊首藍沢広行の首級が検分され、更(さら)に陸奥にて起った事の、仔細の報告を行った。この時政房は、安積郡丸子郷平沢館主黒沢正住の功績をも伝え、かつての恩に報いた。一通りの報告が成されると、政房等は官吏より、邸に戻って待機する様命ぜられた。恩賞に関しては、追って沙汰が有るとの事である。

 政房は、己の成すべき事は全て成したと、馬上にて胸を張って帰途に着いたが、その後ろに続く忠重は、何やら不安気な顔付きであった。隣で駒を並べる邦泰がそれに気付き、怪訝(けげん)そうに尋ねる。
「村岡殿、如何(いかが)なされた?」
不意に声を掛けられ、忠重は俄(にわか)に驚きの色を顕(あらわ)にしたが、直ぐに冷静さを取り戻して答えた。
「いや、ふと昔の事を思い起して居ったのでござる。天慶四年(941)、瀬戸内海にて藤原純友征討に加わりし先代忠政公も、今日の政房様の如く、戦果を報告された後は、晴れ晴れとした御顔をなさって居られた。」
「成程(なるほど)。されども忠政公への恩賞は、所領ではなく位であった故に、忠政公は嘸(さぞ)や落胆された事でござりましょう。」
「如何(いか)にも。しかしあの時下された恩赦に因(よ)って、今こそ当家は、再興の望みが有るのでござる。斎藤殿、此度は政房様が落胆される事の無き様、力を御貸し下され。」
「承知。」
政房の背後で、二人は真顔で誓約を交して居る。政房は唯々(ただただ)目頭が熱く成るのを抑えながら、一途(いちず)に邸へと向かい、進んで行った。

 やがて十日程が経ち、七月も末日と成ろうとして居る頃、遂(つい)に朝廷よりの使者が、忠頼邸に派遣されて来た。用向きはやはり、先の奥州征伐を指揮し、見事平定に及んだ、平政房に対する恩賞の件であった。政房は直ぐに束帯(そくたい)を用意し、使者が述べた時刻には参内(さんだい)の用意を整え、邸門の前にて、忠頼等の見送りを受けた。

 忠頼は特に表情を表さず、淡々と政房に語る。
「今日まで、儂(わし)も畏(かしこ)き辺りに、出来得るだけの手は打って置いた。故に恩賞が得られぬ事は、先ずは有るまい。しかし、本日如何(いか)なる御沙汰が下されるかは、実の所儂にも分からぬ。仍(よっ)て如何(いか)なる事態と成ろうとも、宮中では決して、心乱れる事の無き様。」
「承知仕りました。これまで当家の為に手を尽して戴き、感謝の言葉もござりませぬ。叶(かな)うならば、相馬の旧領を回復し、より忠頼様の御力に成りとう存じまする。」
忠頼は漸(ようや)く笑顔と成って見送り、政房も又笑顔を返した。政房は馬に飛び乗ると、使者や御供と共に、邸門を出て行った。此度は相馬家の命運を左右する時なので、相馬家重臣は皆、政房の供として、その後に付き従う。邸内では忠頼と邦泰が、暫(しばら)くその姿を見届けて居た。

 政房が禁門に入るのは、出陣の折以来二度目である。故に以前程の緊張は無かったが、これから間も無く、相馬家再興の時が訪れるのではという期待が膨らみ、心は高揚して居た。

 やがて政房一人が奥の間へ通され、暫(しばら)く待つ様申し付けられた。独り久しく待つ内に、政房はやはり、所領を恩賞として戴く事は無理やも知れぬと思え始め、不安が脳裏(のうり)を交錯(こうさく)した。

 そして待つ事半時、公家衆が漸(ようや)く姿を現した。見れば、代表は権大納言藤原伊尹(これただ)である。謁見するのは出陣の前以来であったが、此度は政房に対する侮(あなど)りが消失し、微(かす)かに敬意を持った態度であるかの様に感じられた。

 政房は入室した伊尹に向かい、平伏する。すると伊尹は、穏和な口調で、政房に頭を上げる様に告げた。そして政房の顔を見ると、笑みを湛(たた)えて話し始める。
「この度は大儀であった。実の所、各地で豪族の不平から治安が悪化し、征東軍を編成する余裕の無い時であった。故に貴殿が自ら兵を集め、押領使(おうりょうし)の任を全うしてくれた事は、国家への大きな功績である。」
政房は賞讃の言葉を賜り、嬉しく感じたが、今が相馬家に取って重大な時である事を思い起すと、再び緊張感が心を支配し始めた。政房は静かに返す。
「恭悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じ奉(たてまつ)りまする。此度、僅(わず)かでも朝廷の御役に立つ事が出来た事、真に嬉しき限りと存じまする。」
「うむ。」
伊尹は頷(うなず)くと、携帯して来た書翰(しょかん)を広げ、政房に告げる。
「その方が陸奥を離れた後も、新たに反乱を起せし者は報告されて居らぬ。仍(よっ)て奥州の乱は完全に鎮圧された物と断じ、朝廷は平政房に恩賞を与える。」
「ははっ。」
政房は低頭し、伊尹の言葉を待つ。伊尹は手元の書翰(しょかん)に目をやり、朝命を政房に下した。
「従六位下左衛門大尉(さえもんのだいじょう)平朝臣(あそん)政房、陸奥平定が完遂されし事を以(もっ)て、陸奥国押領使の任を解く。又、その功績多大なりし事を鑑(かんが)み、恩賞として、陸奥国菊多郡、磐城郡、信夫郡、津軽郡の大領に任ずる。よくこれ等の地を治め、国家の安寧に寄与すべき事。」
伊尹の言葉を、政房は平伏したまま聞いて居たが、その心中は激しく動揺して居た。拝領した土地が祖国、下総三郡ではなく、陸奥四郡であったからである。治める郡の数の上では、家祖良将を凌(しの)ぐ故に、政房は一応伊尹に対し、神妙に承る旨を申し上げた。

 恩賞の沙汰が済み、藤原伊尹以下の公卿達が退室すると、政房も又放心した様子で、部屋を辞して行った。やがて禁門の近くにて、家臣達と合流を果したが、家臣は皆、政房の様子に怪訝(けげん)さを覚えた。

 暫(しば)し皆、黙ったままであったが、最初に痺(しび)れを切らした佐藤純利が、先ず口火を切って、単刀直入に尋ねる。
「殿、如何(いかが)にござりましたか?」
政房は惚(ほう)けた顔のまま、それに答える。
「うむ。恩賞は陸奥四郡であった。」
一同は一瞬静まり返り、程無く改めて、近藤宗弘が尋ねた。
「陸奥の何処(いずこ)にござりましょうか?」
「うむ、先の戦(いくさ)の折に赴いた、安達郡の北方に在る信夫(しのぶ)郡。黒沢殿の平沢館の東南に在る磐城(いわき)郡。他はキクタとツガルとの事じゃ。」
「はて、キクタとツガルにござりまするか。誰ぞ、彼(か)の地を知る者は居らぬか?」
「某(それがし)は些(いささ)か、聞いた事がござりまする。」
宗弘の疑問に答えたのは、江藤玄篤であった。
「菊多郡は磐城郡と常陸国の狭間(はざま)に在り、奥羽三関の一つ、奈古曽関(なこそのせき)を擁してござりまする。又津軽郡は、出羽国秋田城の更(さら)に北方に位置すると、聞き及んで居りまする。」
それを聞いて、村岡忠重が表情を翳(かげ)らせた。
「成程(なるほど)。磐城と信夫の二郡を殿が支配なされれば、藍沢の残党は殿に敗れたばかり故、再び反乱を起こす気も失せるであろう。しかし、纏(まと)まった所領を与えるのは物騒(ぶっそう)故、荘園が多く、治めるのが困難と聞く菊多郡と、未だ朝廷の力が殆(ほとん)ど及ばぬ最北の地津軽を、これに加えたか。四郡を拝領しては文句も言えず。朝廷も中々、強(したた)かな論功行賞をする物じゃ。」
忠重の分析は、相馬家中の者の心に、暗い翳(かげ)を落した。特に忠重、宗弘、純利の三人からして見れば、先代忠政が瀬戸内海より凱旋して来た折も、相馬家の再興は将来の禍根と朝廷に目され、所領を賜るには至らなかった、往時の悔しさが残って居る。此度再び功を成せども、その恩賞が陸奥の遠隔四郡では、殆(ほとん)ど追放に似た心境であった。しかも、これ等四郡を確(しか)と治めなければ、朝廷より咎(とが)めを受けるは必定である。相馬家中は暗澹(あんたん)たる想いの中、何とかこの状況を好転させる法は無い物かと思案しながら、忠頼の邸へと戻って行った。

 邸へ着くと、政房は先ず忠重を伴い、忠頼の元へ報告に赴いた。忠頼は政房が戻って来るのを、居間で待って居た。そして政房等の姿が見えると、忠頼は苦笑して迎えた。政房と忠重の表情に、翳(かげ)りが窺(うかが)えたからである。

 政房は先ず、今日まで相馬家を支援してくれた事に対し、忠頼に礼を述べた。そして此度、朝廷から陸奥四郡を拝領した事を報告すると、忠頼は溜息を吐(つ)いて、政房を見詰めた。
「然様(さよう)か。将門殿以来の下総三郡は、戻らなんだか。しかし、陸奥の地を賜りし事は、我が亡父良文公の策に叶(かな)う物ぞ。彼(か)の地は朝廷の支配力が弱く、反乱が起り易い。陸奥にて軍功を重ねれば、朝廷の覚え目出度(めでた)く、祖国の回復だけではなく、勢力の拡大、位官の昇進をも狙えるやも知れぬ。」
忠頼の言葉で、政房の表情は幾分和(やわ)らいだ。そして、政房の後ろから忠重が、意見を述べる。
「熟々(つらつら)(おもん)みるに、相馬家が陸奥国菊多郡を拝領した事で、常陸の平繁盛を、南北に挟む事が可能と相成り申した。これにて兄上も、武蔵の治政がやり易く成るのではありますまいか?」
忠頼は腕組みをして、深く頷(うなず)いた。
「確かにのう。これにて坂東の勢力図は、再び当家に取って優位と成ろう。」
そう言うと、忠頼は嬉々とした表情を浮かべた。それを見て、政房は遂(つい)に腹を決め、その決意を打ち明ける。
「忠頼様、某(それがし)は先ず陸奥に地盤を築き、祖父将門以来失われし家の、再興を果したく存じまする。仍(よっ)て来月には、奥州へ赴きたいと存じまする。」
「うむ。我が父良文の遺言に、今まで誤りは無かった。それに沿って今、奥州に赴かんと致すは、後々必ずや御身の為と成ろう。では儂(わし)からの餞別(せんべつ)を、其方(そなた)に取らそう。」
忠頼は側に控える近習を呼び、小声で何かを伝える。そして近習は、部屋を後にして行った。待って居る間、政房と忠重は密かに、期待を膨らませて居た。

 程無く、近習は忠頼の間へと戻り、その入口で跪(ひざまず)いた。
「御連れ致しました。」
「うむ、通せ。」
忠頼の声を受けて入って来たのは、信田家家臣、斎藤邦泰であった。邦泰は忠頼に勧められて、政房の傍らに腰を下ろすと、政房に正対して座礼を執った。呆然(ぼうぜん)と邦泰を見る政房に対し、忠頼は笑顔を湛(たた)えて告げる。
「奥州四郡を治めるには、今の相馬家では人材が足りぬ。そこで、この斎藤邦泰とその手勢を以(もっ)て、政房殿への餞別(せんべつ)と致す。」
忠頼の言葉が終ると、続いて邦泰が政房に申し上げる。
「政房様に御願いの儀がござりまする。我が斎藤家は、父邦貞の跡を兄邦親が相続し、最早浮島には某(それがし)が腕を振える場は、殆(ほとん)どござりませぬ。願わくば、某(それがし)に活躍の場を御与え下さりませ。」
そして邦泰は、深々と頭を下げた。当惑する政房に、忠頼が言葉を補う。
「浮島の信田家は、未だ恩赦が得られず、表に出られぬ立場に在る。故に斎藤邦親が居れば、充分にこれを補佐出来る。仍(よっ)て、邦泰の願いを聞き入れたとしても、信田家に対し角が立つ事は無い。それは儂(わし)が保証致そう。」
政房は再び、邦泰へ目をやった。そして、その真摯(しんし)な眼指を受け、遂(つい)には承諾に至った。
「奥州の戦役では、斎藤勢の精強なる所を拝見致し、実に頼もしゅう感じられた。邦泰殿が斯(か)かる事情で当家に来られるならば、信田家との橋渡しにも成り、某(それがし)に取っても望む所でござる。」
政房の許しを得ると、邦泰は新たな主君に対し、改めて平伏した。斎藤邦泰が政房に臣従した事で、相馬家が奥州へ伴える将卒の数は、百騎を超える事に成る。平時下においてこれだけの兵員を動員出来るという事は、相馬家が武家として、再興された事を示すに充分であった。それを思うと、政房は胸が熱く成るのを覚え、忠頼に深く礼を述べた。しかし一方で、賜った所領の何(いず)れにも、未だ足を踏み入れた事が無い故に、一抹(いちまつ)の不安も感じて居た。

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