第四節 奥州遠征

 皐月(五月)に入ると春も終わりに近付き、雨天が多い。連日の雨は街道を泥濘(ぬかる)ませ、交通の大きな支障と成る。東山道上野国へ通じる碓氷(うすい)峠にて、百騎ばかりの一隊が、進軍に難儀して居る様であった。旗指物(はたさしもの)は平政房の馬紋と、近藤宗弘の藤紋であった。朝廷から幾許(いくばく)かの軍需物資が支給されて居る間に、宗弘は播磨の手勢百騎を集め、都にて合流を果した。その後、共に上野国(こうずけのくに)へ向かったのである。

 荷車は頻繁に泥濘(ぬかる)みに填(はま)り、その都度押し出すのが大変であった。しかし峠を越えて上州に入った時、雲に切れ間が生じて、そこから射し込む光は、淡い虹を映し出した。将兵達はその神々(こうごう)しい光景に、少しばかり疲れを忘れ、再び上州へ向けて坂を下って行った。

 陸奥国(むつのくに)南部に起きた大規模な反乱は、上野国をも震撼させて居たので、上野国府はすんなり政房軍の駐屯を許可し、又細(ささ)やかな軍需物資を提供してくれた。集結地に定めた上野国府に、最初に到着したのは、政房と宗弘の軍であったが、二日後には村岡勢二百騎が合流して来た。総勢三百と成った軍の士気は揚がり、後は佐藤純利が率いて来る、旧相馬兵の部隊が到着すれば万全であった。国府は戦時も想定して造られた為、数千の軍旅を優に収容出来た。政房は、以前解散した時に集いし一千騎の光景が、瞼(まぶた)に焼き付いて居る。そして、あの頃の再現が待ち遠しかった。

 更(さら)に五日程過ぎたが、純利は未だ現れない。坂東に散り散りに成って居る者達を集めて居るのであるから、仕方無いとは思いつつも、政房の焦燥は次第に募(つの)って行った。

 村岡忠重が到着してから約十日後、多くの者が、これ以上は待って居られぬと言い始めた。政房は、僅(わず)か三百では戦(いくさ)に心許(こころもと)無いので、頻(しき)りに諸将を宥(なだ)め続けた。そして遂(つい)にその日、南方遥かに相馬の旗を掲(かか)げし一隊が、姿を現した。

 政房は漸(ようや)く胸を撫(な)で下ろし、純利の一隊を迎える様に命じた。しかしよくよく見れば、純利が率いる兵は高々二百騎である。五百騎を数えた往時の姿は、見る影も無かった。政房の家臣達も、その少なさに不安を覚えて居た。

 佐藤純利が一隊を率いて入府すると、純利は先ず、政庁前の庭に立つ政房の姿を認め、軍を門の側に留めたまま、政房の元へ駆け寄って跪(ひざまず)いた。政房の傍(かたわ)らに立つ忠重が、驚きと憤怒(ふんぬ)の意を込めて尋ねる。
「貴殿はこれまでの日数を掛けながら、今まで一体何をして居った?僅(わず)か二百騎程しか集めて居らぬではないか。」
忠重の怒声に、純利は体を震わせながら答える。
「坂東諸国では、今や国府に税を納めぬ豪族が多く、彼等は受領(ずりょう)に武力で対抗すべく、相馬の旧臣の多くを雇い入れてござり申す。某(それがし)は旧臣達に、相馬家再興の力と成る様、説得致し申したが、忠臣二百名を集めるのが精一杯でござった。」
確かに坂東各地において、豪族と国守の争いが頻発して居る事は、忠重も知る所であった。故に、武芸に秀でた旧相馬武士が引張り凧(だこ)と成るのは、至極当然の事であろう。それを思うと、忠重は歯噛みするより他に無かった。

 純利が新たに集めて来た二百騎は、半数を純利の指揮下に置き、残り半数を政房の馬廻(うままわり)とした。相馬軍の総勢は併せて五百騎と成ったが、それでも奥州の反乱勢力の比に成らぬ、小勢であった。兎にも角にも、相馬軍はこの小勢を以(もっ)て、反乱の平定を遂行しなければ成らない。しかし、先ずは到着したばかりの兵を休ませる為、もう一日だけ、国府に軍を留め置いた。相馬の将達は今から、厳しき戦(いくさ)に成る事を予感し、顔を強張(こわば)らせて居た。

 翌日、相馬軍は上野国府を出発し、仙道を東進した。天候が良ければ、北方に赤城山が望めるのだが、生憎(あいにく)の梅雨空の為、山の裾野(すその)しか見る事が叶(かな)わなかった。渡良瀬川を渡ると、愈々(いよいよ)藤原千晴が支配する下野国であり、三里先はもう、その居城唐沢山である。政房は朝廷を刺激せぬ様、村岡平家の五枚笹の旗を掲(かか)げて来たが、ここからは逆に藤原千晴を刺激せぬ様、相馬家繋ぎ馬紋の旗に差し替えた。漸(ようや)く祖先の紋を記した旗を掲げる事が出来、政房の心は頗(すこぶ)る高揚した。

 相馬軍五百騎は、重苦しい緊張感に包まれながら、唐沢山の麓(ふもと)を街道沿いに通過した。藤原千晴は、四、五千の兵を擁すると言われる強豪である。もし千晴が、政房を平忠頼の尖兵(せんぺい)と見做(みな)して攻めて来たならば、相馬軍は忽(たちま)ちの内に殲滅(せんめつ)させられてしまうであろう。されど、奥州鎮撫(ちんぶ)に向かう官軍が、通行するとの通達が行き届いて居た為、何事も起らずに済んだ。

 相馬軍は梅雨の長雨が続く中、仙道に沿って進んだ。下野国府を経由し、鬼怒川の渡しを越えると、次第に標高が高く成って来る。西方の、ほんの雲の切れ間から、高山の頂(いただき)が見えた。政房が家臣に命じて、地元の農民に彼の山の名を尋ねさせると、那須岳という事が判(わか)った。政房は、自軍が那須野原に達して居た事を悟り、気が引き締まった。那須の先は愈々(いよいよ)白河関であり、その北はもう奥州である。

 白河関は、西は那須甲子連峰、東は八溝山系に挟まれた、狭隘(きょうあい)の地に在る。北方の蝦夷(えみし)から関東を守るには、絶好の要害である。又東方の八溝山(やみぞさん)は、一世紀半も前に金山が発見され、寛平六年(894)まで続けられた遣唐使の費用を潤(うるお)した。八溝の他にも奥州金山の歴史は古く、天平感宝元年(749)に江合川中流域の涌谷において、国内で初めて金が発見された。時の聖武天皇は、大和国東大寺の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)造営に、この金を用いた。歌人大伴家持(おおとものやかもち)はこの報に慶び、「すめろぎの 御代栄えんと 東なる みちのくの山に 黄金花咲く」という詩を詠み、万葉集に収録された。又、奥州は名馬の産地でもある。陸奥国は多大なる富を産出するが故に、最果ての地にも拘(かかわ)らず、律令国家は大国(たいこく)と認定して来た。

 しかし陸奥国には、逆に闇の側面も有る。延暦二十一年(802)、当時大和朝廷に従属して居なかった蝦夷(えみし)に対し、時の桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、遠征させた。しかし、蝦夷方の将阿弖流為(あてるい)、母礼(もれ)は、地の利を活かして田村麻呂を苦しめ、最終的には決着が付かず、講和に至った。田村麻呂は永き平和を築く為、蝦夷の両将を都へ招く事を提案した。田村麻呂の人柄を信頼した両将はこれに応じ、都へと向かったのだが、上方にて処刑されてしまった。それ以降、蝦夷の朝廷に対する不信感は、根強く残って居る。その疑念が政房に向けられる怖れの有る事は、容易に想像が出来た。

 白河関にて、政房の軍は守兵から大いに歓迎された。待望の援軍が、五百騎と雖(いえど)も到着したからである。しかし一方の政房は、白河の守備隊が僅(わず)か二百程しか居らず、何とも心許(こころもと)無い思いに駆られて居た。所が、関守(せきもり)より話を聞いて見れば、賊軍が安積(あさか)軍団を殲滅(せんめつ)させたのを受けて、白河軍団が大軍を率いて北上し、磐瀬郡まで出陣したのだと言う。政房はそれを聞いて些(いささ)か安堵し、続いて関守に、相馬軍駐屯の手配を請(こ)うた。白河関は有事に備え、大軍が配備できる構造と成って居る。よって相馬軍は広い敷地を借り、寛(ゆったり)と休む事が出来た。

 その夜、激しい雷雨と成った。関は高台に在る為、水に困る事は殆(ほとん)ど無かった。それは如何(どう)やら梅雨明けの前触れであったらしく、翌日は一変、灼熱の太陽が照り付け始めた。

 政房等は、急な季節の変化に辟易(へきえき)しながらも、白河関を発って、再び北上を開始した。やがて増水した逢隈川(阿武隈川)を渡河し、磐瀬郡に入った。安積との郡境近く、街道東手の丘に白河軍団の陣を見付けたので、相馬軍は先ず、白河軍団と合流しようとした。

 政房が、忠重と宗弘を従え陣に向かうと、案の定、衛兵に呼び止められた。そこで官符を提示して、援軍に来た旨を告げると、政房等は、将の居る幕舎へと案内された。

 白河軍団は敗走して来た安積軍団と合流し、その数は一千五百程であったが、約半数は負傷して居た。幕営の中では、負傷者が少ない白河軍団の校尉(こうい)を中心に、旅師(りょし)達が今後の戦略を練って居る。そこへ、五百の無傷の援軍が到着したとの報が入り、校尉等は将帥(しょうすい)の政房を快く迎え入れた。

 政房は位も有り、押領使(おうりょうし)にも任じられて居たので、白河軍団の校尉は政房を首座に勧め、その下に、直参の忠重と宗弘が座した。政房は先ず、賊将藍沢広行のこれまでの動向を尋ね、それを安積軍団校尉が答える。
「藍沢権太郎広行なる者は、元来会津郡の一豪族に過ぎず、耶麻郡近くに僅(わず)かな所領を持つのみにござった。されど、ある日突然、農民蜂起の旗頭と成り、その勢いは凄まじく、瞬(またた)く間にして仙道に進出し、安達郡一円を制圧してしまったのでござる。」
「それで、陸奥国府や鎮守府は如何(いかが)なされた?」
宗弘は、固唾(かたず)を呑みながら聞き入って居る。
「国府は、鎮守府と名取団、宮城団から一千騎の軍旅を編成し、信夫郡岑越(みねこし)郷に派遣され申したが、賊軍五百が守る水原川を越えられぬ模様。一方で、二千に膨れ上がりつつ在る賊軍本隊が安積を攻略し、現在ここ磐瀬にて対峙して居る次第にござりまする。」
白河校尉の話を、政房は腕組みしながら聞いて居る。一通りの報告を受けると、政房は諸将を見渡して提案した。
「先日梅雨が明け、愈々(いよいよ)夏季が到来した。このまま手を拱(こまね)き、収穫の秋を迎えてしまっては、莫大な米穀が賊の手に渡り、長期戦の怖れも出て参るという物。よって、今到着したばかりの我が軍勢にて、賊を北へ押し戻し、その勢力の削減を図ろうと思うが、如何(いか)に?」
天慶(てんぎょう)の乱より、既(すで)に二十七年の月日が流れて居たが、かつての相馬軍の、鬼神の如き強さを知る者も多い。彼等は政房に先陣を託した。

 そうと決まると、政房は家臣に下知し、その日の夜は将兵に、充分な休息を取らせた。

 翌朝、相馬軍は案内役として、安積軍団の旅師平沢益澄以下百騎を加え、陸羽街道を北上して行った。やがて釈迦堂川に達した処で、対岸の丘陵地に敵の布陣が確認された。梅雨明け後なので天候も良く、視界も良好である。政房の軍は、釈迦堂川南岸より十町程の処に布陣し、諸将を集めて軍議を召集した。

 斥候の報せに依れば、対岸の賊は先遣の約三百騎であり、本隊の千五百騎は近々安積を発し、南下を開始するとの事であった。近藤宗弘が先ず、平沢益澄に尋ねる。
「敵はこれまでの僅(わず)かな期間に、二郡を制圧するという猛攻を見せて居り申すが、その強さの秘訣は一体、何処(いぞこ)に有るのでござろうか?」
益澄は首を捻(ひね)り、無念そうな面持ちで語り始める。
「賊軍には別段、訓練が成されて居る訳でもなく、将への忠誠心が高い訳でもござり申さず。唯(ただ)、国司の苛政(かせい)に激しく憤(いきどお)り、又我等官軍の士気が低いが為に、斯様(かよう)な大事に発展してしまったのでござる。」
それを聞いて、純利は安心した表情を浮かべる。
「されば、所詮は烏合(うごう)の衆。我等が精兵にて、賊の先遣など一気に蹴散らし、度肝を抜いてやりましょうぞ。」
政房も同じ考えであったが、一応相馬軍の主力である、村岡忠重にも意見を求めた。忠重は闘志を内に秘めたまま、静かに答える。
「我が軍を戦(いくさ)に慣れさせる、良き機会と存じまする。又、殿と純利は未だ、戦の指揮を執った経験がござらぬ故、此度の合戦にて、確(しか)と学ばれよ。」
その言葉に、初陣の政房と純利は真顔で頷(うなず)き、引き続いて作戦の立案に入った。平沢益澄の索敵に依れば、賊は官軍弱しと侮(あなど)り、眼前の三百騎は他勢力との連携無しに、布陣して居るとの事であった。

 作戦は、忠重が中心と成って練り上げられた。目的は敵勢力の殲滅(せんめつ)の他にも、政房や純利に、実戦の経験を積ませる事も含まれて居た。作戦が纏(まと)まると、相馬軍は釈迦堂川を渡り、軍を鶴翼に展開させた。数の多さを活かして、敵を包み込む陣形である。一方の賊軍も丘を下り、魚鱗懸(がか)りにて、相馬軍の中核に突入して来た。数では劣るが、一塊(ひとかたまり)と成った軍勢が相手の本陣を崩し、指揮系統を崩壊させる策である。

 斯(か)くして、釈迦堂川北岸において、合戦の火蓋(ひぶた)は切られた。賊軍は怒涛の勢いで、相馬本陣に突撃して来る。本陣では、中央に政房が待ち構え、その周りを、純利が新たに集めて来た内の百騎が守って居る。そして、政房の脇には忠重が立ち、前方は村岡勢二百騎が固めた。政房は己の首を狙いに来る軍勢に戦慄(せんりつ)し、陣扇(じんせん)を持つ手が、わなわなと震え出した。忠重はそれに気付き、落ち着いた様子で、政房に告げる。
「殿の手に在る陣扇は、かつて歴戦の勇将平良文公より、御先代忠政公に伝えられし物。忠政公は初陣にして、軍を率いる胆力を身に付けられ申したぞ。」
忠重の言葉で政房は意を強くし、辛うじて手の震えを止める事が出来た。しかし眼前に繰り広げられる地獄の恐怖からは、逃れる事は叶(かな)わない。政房は機を見逃さず、巧みな指揮を執れる大将を目指すべく、確(しか)と眼を見開いて、恐怖心と戦いながらも、必死で兵法を学ぼうとして居た。

 又、政房は脇に台を置き、そこに母より渡された、相馬の地蔵菩薩を据えて居た。加えて腰には、祖父将門伝来の小太刀が在り、上を見れば、相馬の繋ぎ馬紋がはためいて居る。伝え聞く祖父の武勇をそれ等から感じ、何時(いつ)しか政房の腹は据わって居た。

 前方では、賊軍三百騎が、前衛の村岡勢二百騎を崩せず、予想外の展開から、徐々に陣形の乱れが生じて来た。忠重はそれに気付くと、政房に顔を向けて呟(つぶや)いた。
「頃合にござるな。」
その声にはっとした政房は、直ぐ様陣扇を前軍に向け、それを受けて本陣の法螺貝(ほらがい)が一斉に鳴り響いた。

 突如、左翼の近藤勢百騎と、右翼の佐藤勢百騎が、賊軍を背後より包囲する形に動き始めた。賊軍は、三方より一斉攻撃を受けて大混乱を来(きた)し、相次いで逃走し始めた。相馬軍は機を逃さず追撃に移り、賊軍の先遣部隊は、その大半が死傷した。政房は緒戦を、大勝利で飾る事が出来たのである。

 政房は改めて自軍の強さを実感し、そしてこの軍団を己に遺してくれた父忠政、更(さら)には平良文に、感謝の念を抱いた。

 再び軍が纏(まと)められると、主立った将が政房の元に集結した。そして先ず宗弘が、今後の方針を切り出す。
「敵は潰走し、最早近くに戦える勢力は居りませぬ。このまま北上を致しまするか?」
それに対し、忠重は慎重さを求めた。
「いや、この炎天下の戦(いくさ)で、我が軍の疲労も激しい。一先ず休息を取らせる方が宜しかろう。」
政房は決断を下す前に、地理に明るい益澄の考えを尋ねた。暫(しば)し益澄は、何かを思い詰めて居る様であったが、やがてその思う所を話し始めた。
「此度、賊は初めて大敗を喫し申した。怖らくかなりの動揺が走って居る事でござろう。貴軍の被害と残存勢力を鑑(かんが)みるに、ここは一気に押し出し、五百川以南の敵勢力を駆逐すべきと存ずる。安積郡を奪回出来れば、後は安達郡のみ。慎重に事を運んでも、六月中には全域の平定が出来申そう。今こそ、攻めの時と存ずる。」
益澄の意見を、一同は再び検討した。確かに、今の戦(いくさ)における相馬軍の被害は、軽微に過ぎない。そしてもしも、朝廷の大いなる懸案であるこの反乱を、政房が早期に平定する事が出来たならば、恩賞も弾まれる事が予想される。ともすれば、祖先の地である下総三郡を回復し、一気に将門の代に失わせし勢力を、回復出来るやも知れぬ。斯様(かよう)な考えが、諸将の脳裏(のうり)を過(よぎ)った。

 斯(か)くして、相馬軍は北上を始めた。安積郡に入った後も大した抵抗は無く、笹原川までは難無く進出する事が出来た。しかし、その北方には安積郡の府たる安積郷が在り、賊軍は当地域を防衛する為に、五百を超える兵を駐屯させて居た。政房は日没が迫った事も有り、笹原川の南方に陣を布(し)き、猛暑の中を行軍して来た兵を休ませた。西方より下って来た将卒に取って幸いであったのは、奥州の夏の夜が、思いの外涼しかった事である。相馬軍の精鋭は見張りを除き、涼風に吹かれながら充分に休む事が出来た。

 翌朝、未だ靄(もや)が立ち籠(こ)める中、相馬軍は静かに笹原川を渡り、賊軍の陣へ突入した。卯(う)の刻に掛って居たので、敵方も多くが目を覚まして居る様であったが、不意を突かれた様子で、俄(にわか)に混乱を来(きた)した。

 混乱は恐怖を生み、賊軍の小隊は次々と持ち場を捨てて逃走し始め、やがて傾(なだ)れを打って潰走と成った。賊軍は相馬軍と粗(ほぼ)同数の軍勢を擁し、陣容を整えて居たが、相馬軍の朝駆けに因(よ)り、容易(たやす)く敗走した。
(賊軍とは何と脆(もろ)いのか。又、それに相次いで敗れた官軍は、何をして居たのか?)
政房の胸中には、賊を侮(あなど)る気持と、官軍の腑甲斐(ふがい)無さを憤(いきどお)る心が芽生(めば)えて居た。

 相馬軍は安積郷を制圧し、後続の安積軍団が中心と成って、郡政の秩序回復に努め始めた。ここで政房は、無案内な土地故に、尚も平沢益澄には従軍を依頼した。本人も、又所属の安積軍団も、快くこれを了承してくれた。益澄は二十騎ばかりの兵を伴い、政房の手勢と合流した。

 政房は安積郷にて三日ばかり休息を取り、安積、白河の両軍団から、武具や兵糧等の軍需物資の補給を受けた。そして軍備を充実させた後、更(さら)に北上を開始した。

 安積郡北部において賊軍の反攻は無く、相馬軍は遂(つい)に安達郡境付近の、五百川に到着した。ここで政房は渡河の前に、見晴らしの良い高倉の丘に布陣したが、やはり敵も此方(こちら)の動きを察知し、五百川の北岸に陣を構えて居た。

 この時、政房は如何(どう)も腑に落ちない事が有ったので、本陣で軍議を開き、諸将に尋ね様と考えて居た。安積郷から敵の奇襲を受けぬ様、慎重に行軍して来た為、既(すで)に酉(とり)の刻に入って居る。陽は中山峠に掛かり、兵は篝火(かがりび)を焚(た)き始めて居た。

 軍議の席上、話を切り出したのは純利であった。
「いやはや、緒戦以来の連戦連勝。特に村岡勢と近藤勢の強き事よ。」
純利は幸先の良い初陣に、すっかり気を良くして居る。宗弘も微(かす)かに笑みを浮かべては居たが、連勝に浮かれる純利を、軽く窘(たしな)める様に言葉を接いだ。
「いや、信夫(しのぶ)の官軍が、賊の主力を食い止めて居る御蔭やも知れぬ。未だ未だ油断は成らぬぞ。」
しかし、軍議に加わって居た諸将には、顔を綻(ほころ)ばせて居る者が多く、政房はそれを見て更(さら)に不安を募(つの)らせ、己(おの)が懸念を諸将に打ち明ける。
「皆に申して置きたい。唐土(もろこし)ではかつて、楚の項梁が秦の章邯に十五度勝ったが、その為に敵を侮(あなど)り、後日心の隙を突かれて、一度の戦(いくさ)にて討たれたという故事も有る。呉々(くれぐれ)も敵を侮(あなど)るべからず。」
それには、忠重が感心した様子で頷(うなず)いて居た。
「流石(さすが)は殿。初陣ながら、勝利に慢心なされぬ遖(あっぱれ)な御心掛け。純利とは大違いにござりまするな。」
忠重の言葉に、周りの者からは笑いの声が洩(も)れた。純利は恥ずかし気に身を竦(すく)めて居る。そして忠重も真顔と成り、政房に己の意見を述べる。
「されどでござる。我が軍は今や破竹の勢いにて、このまま安達郷を制圧すれば、敵勢力は自ずと崩壊し、早急な平定が成せ申そう。」
「成程(なるほど)、そうなれば朝廷は、必ずや殿を重く賞される筈(はず)。下総三郡の回復も、成せるやも知れませぬな。」
宗弘も、忠重に賛同の意を表した。そしてそれを受け、諸将も大いに沸(わ)き立った。

 重鎮二人の意見が一致し、他の将もこれに従う様子を見せる。よって軍議は、翌朝五百川を越えて、更(さら)に進撃する事と決まった。諸将は明日の戦(いくさ)を前に興奮して居たが、政房だけは惚(ほう)けた様に、篝火(かがりび)の弾ける火の粉を見詰めて居た。その胸中には、言い様の無い不安が燃え盛って居た。

翌朝卯(う)の刻、五百川一帯は霧が立ち籠めて居たが、相馬軍はその視界の悪さを利用して、全軍高倉の丘を下りた。目指すは北岸に在る賊軍の陣である。斥候の報せでは、敵はこの重要な防衛線に、援軍を送る気配も無いとの事である。相馬の将は、既(すで)に賊軍には増援の余裕無しと考え、意気揚々の観が有った。

 相馬軍が渡河を終えた頃、陽が昇るに連れて、霧が晴れ始めた。やがて、相馬軍の眼前に敵陣が見え始める。先鋒を務める村岡軍が、鬨(とき)の声と共に一斉に突撃を懸け、賊軍の前衛を崩し始めた。賊軍は暫(しば)し応戦して居たが、相馬軍第二陣も別方向から突入した為、賊兵は算を乱して逃走を始めた。

 賊軍殲滅(せんめつ)の好機と捉(とら)えた、村岡、近藤両軍は追撃に移り、後陣の佐藤軍と政房本隊は、敵陣跡を接取する。その時、急に辺りの靄(もや)が風に流されるが如く消え去り、視界が晴れた。政房の後陣からも、敵を追撃する味方の姿が窺(うかが)える。

 政房と純利は、味方の勇猛さを頼もしそうに見詰めて居た。しかし突然、兵の一人が慌(あわただ)しく、政房の元に駆け寄って来た。見れば、以前相模国にて見(まみ)えた僧兵である。
「至急、政房様に申し上げたき儀がござりまする。」
純利が慌てて政房の前に立ちはだかり、無礼を窘(たしな)め様としたが、政房は寛容に純利を制し、膝を突いて礼を執る僧兵の前に歩み出た。
「久しいのう。名は何と申したか?」
「江沙弥(こうさみ)にござりまする。この度再び、相馬軍の端に加わって居りまする。」
「して、私に伝えたき事とは?」
政房が見据えると、江沙弥の顔が緊迫し、紅潮して居るのが窺(うかが)えた。
「敵の数が、昨夜より半数以下に減って居りまする。」
「何と?」
政房は俄(にわか)に動揺の色を見せた。江沙弥は尚も報告を続ける。
「我等がここに到着せし折、敵は我が軍と充分に渡り合える威容を誇って居り申した。されど霧の晴れた今、追撃を受けて居る敵兵は精々(せいぜい)三百。」
そう言われて見て、政房は敗走する敵兵に目をやった。確かに、敵兵の数が減って居る事は直ぐに認められ、政房の顔は見る見る内に青ざめた。
「これは、敵に伏兵が有る。直ぐに追撃中止の合図を出せ!」
政房の上擦(うわず)った声を受けて、法螺貝隊は直ちに、攻撃中止の音を放った。

 不意に合図を受けた先陣は、俄(にわか)に動揺を生じながら、追撃の足を止めた。その時、東方逢隈(阿武隈)川対岸から筏(いかだ)にて、続々と渡河を敢行する軍が現れた。程無く渡河を終えると、その軍は怒濤(どとう)の勢いで、政房の本隊に押し寄せて来た。

 伏兵の数は五百を超える模様で、相馬勢は不意を突かれて浮足立った。村岡、近藤両軍は本隊の危機を悟り、退却を開始したが、今まで遁走(とんそう)して居た敵勢が取って返し始めた為、相馬軍は敵に挟撃される形と成った。

 地の利を得る敵の波状攻撃に因(よ)り、相馬軍は次第に崩れて行く。政房の近くまで敵兵が迫り、恐怖心から政房は、退却を命じ様とした。その時、敵兵との戦いで泥(どろ)(まみ)れと成った江沙弥が、再び政房の元へ、息を切らせながら駆け付け、進言する。
「政房様、ここは退却する他ござりませぬ。」
「うむ。解って居る。」
政房は蒼白と成って答えたが、江沙弥は更(さら)に言葉を接ぐ。
「最早南への退路は断たれ申した。ここは一か八か、東の山中へ御逃げ下され。」
その言葉に、政房は驚駭(きょうがい)の色を示した。
「逢隈(阿武隈)山系に入れ申すか?しかし敵の勢力圏内故に、危険過ぎる。」
「確かに危険ではござりまするが、東方には唯一、殿の勢力を回復出来得る望みがござりまする。」
「其(そ)は何じゃ?。」
政房は藁(わら)にも縋(すが)る想いで、江沙弥に尋ねた。
「はっ。ここより二里半程東の山中に、丸子郷という地がござりまする。そこを治めるは黒沢庄五郎正住なる人物にござりまするが、此度の乱では、賊将藍沢広行に呼応する動きも無く、又中々の人物と聞き及んで居りまする。今は丸子郷への血路を開き、彼(か)の者の協力を得るが上策と心得まする。」
意外な情報に、政房は躊躇(ちゅうちょ)した。辺りを見れば、主力の村岡勢、近藤勢は敵の挟撃を受けて崩れ、自軍も又敵に包囲されつつ在り、直ぐ側まで敵兵が押し寄せて居る。退路である南側にも敵の伏兵が現れ、今や敵の総兵力が相馬軍を凌(しの)いで居る事は、疑い様も無かった。

 突如、政房の背後より、敵が一斉に矢を放った。矢は政房の馬廻(うままわり)に次々と突き刺さり、数名が馬より転落した。幸い純利は肩を掠(かす)めただけで済んだ。その時一本の矢が、政房の背中を目掛けて飛来した。直後、その矢は高い金属音を立てて、地上に落下した。政房は背後の台座に、母より預かりし地蔵菩薩を据えて居た為、それが政房の楯と成ってくれたのである。政房は地蔵菩薩の加護に感謝し、合掌すると、その一尺程の像を懐(ふところ)に抱いた。そして急ぎ退却の命を下し、江沙弥の言を容(い)れて、東方の逢隈(阿武隈)川を目指し、突撃を敢行した。

 相馬軍は一丸と成って敵の包囲を突破し、逢隈(阿武隈)河畔に達する事が出来た。雨季が明け、ここ数日降雨が少なかった為に、川の流れは穏やかであった。そして相馬軍は、中洲が有る処を選び、川幅の狭く成って居る処から渡河を開始した。一部の重傷者は川に流されてしまったが、多くの兵は無事東岸に渡る事が出来た。

 幸運な事に、東岸には既(すで)に敵の伏兵は無かった。ただ、一部の敵勢が川を渡り、追撃に及んで来たが、狭い山道故に、僅(わず)かな兵で食い止める事が出来た。その間に本隊は無事、戦場(いくさば)を離脱した。

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