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第三節 康保の役勃発
翌年の二月十六日、改元が行われて、天徳五年(961)は応和元年と改められた。この年、かつて平将門、忠政の二代に渡り対立を続けた、経基王が逝去した。経基王は天慶の頃、追捕副使として大乱の鎮圧に功を挙げ、その後も九州に赴任し、治安の保全に努めた。朝廷はその功績に報いるべく、経基王に源の姓を贈った。源経基は清和天皇の孫であった為、後に清和源氏の祖と称された。経基亡き後は嫡男、満仲が長者と成り、父が興した源家を相続した。
その後も各地では、国司が私腹を肥やす為の苛政(かせい)が続いて居た。国司と成れた者は、それまでに有力者へ多くの進物を行って来た故に、その分以上の財を蓄えようと考えるからである。悪徳国司の下、土豪や農民は過酷な搾取に苦しみ続け、これが世を不穏にする原因と成った。土豪が農民の安全を守る代りに、彼等が国に納めるべき税を受け取り、国司と戦(いくさ)を起す事件が、相次いで報告される様に成った。これを受けて帝(みかど)は応和三年(963)、調庸(ちょうよう)雑物の期日内貢進(こうしん)を厳守する様、各国に勅命を発した。
又、天災や疫病、更(さら)には飢饉(ききん)が民衆を苦しめた。斯(か)かる折、空也が口称念仏の布教を展開し、京人の信仰を集めて居た。
閏(うるう)十二月、帝は新たな儀式書の編纂(へんさん)を命じた。弘仁(こうにん)、貞観(じょうがん)、延喜(えんぎ)の先例を踏まえ、行事の規範を書に纏(まと)める事を目的とした。
康保三年(966)、これは「新儀式」として完成を見た。しかし翌康保四年(967)、二十年の長きに渡り親政を続けて来た成明(なりあきら)天皇は、四十二歳にして崩御した。天暦(てんりゃく)の治の終焉(しゅうえん)である。村上天皇の後、皇太子憲平(のりひら)親王が即位した。新帝は故藤原師輔(もろすけ)の外孫である。
若い帝を迎え、政治の中心は再び摂関家へと移って行った。太政官の筆頭には藤原氏長者の実頼が関白に就任し、帝の叔父源高明が、右大臣から左大臣に昇格した。又、新たな右大臣には実頼の弟、藤原師尹(もろただ)が選任された。故人師輔の子、藤原伊尹(これただ)も権大納言に就(つ)いた為、太政官の上位は藤原氏が粗(ほぼ)独占し、勢力を更(さら)に拡大した。
この新体制は、延長五年(927)に撰進された律令の施行細則、「延喜式」を遂に施行させ、藤原氏が故時平の代より続けて来た業を結実させた。
一方、坂東では下野の雄、藤原秀郷の跡目を継いだ藤原千晴(ちはる)が鎮守府将軍等を歴任し、その強大な勢力を保って居た。今は相模権介の任に在り、平忠頼を盟友平繁盛と南北に挟む形と成り、その脅威は益々(ますます)増大して居た。
*
斯(か)かる世上、京では頻繁に早馬が往来して居た。道行く人々は、又何か地方において事件が勃発したのでは、と噂(うわさ)し合った。されど、京には麗(うら)らかな春の陽射しが注(そそ)ぎ、それが緊迫感を打ち消して居るのか、大路の風景は頗(すこぶ)る長閑(のどか)である。
大路脇の一区画は藤原滋望(しげもち)の邸であるが、その庭からはけたたましい、木刀のぶつかり合う音と、怒号の様な掛け声が響いて居た。二人の男が幾度も打ち合い、又別の二人の男が、それを見詰めて居る。打ち合う二人は汗だくと成り、体力を消耗してふらつき始める。やがて互いに動きが止まり、睨(にら)み合ったかと思うと、次の瞬間、同時に渾身の力を以(もっ)て打ち掛かった。木刀が激しくぶつかった後、勢いで二人の体も当たり、その衝撃で二人は違う方向に蹌踉(よろ)めいた。その時、勝負を見届けて居た一人が、大声で告げた。
「それまで。」
打ち合って居た二人はそれを聞いて構えを解き、一方の武士が相手に礼を執る。稽古をして居た二人は、平政房、佐藤純利主従であり、共に逞(たくま)しく成長して居た。見証を務めたのは近藤宗弘であり、その脇に居るのは村岡忠重である。政房は忠重から手拭(てぬぐい)を受け取ると、全身に流れる汗を拭(ぬぐ)った。そして純利と共に、宗弘より反省点等を指摘される。
政房は既(すで)に、齢(よわい)二十一と成って居た。そして平忠頼と藤原滋望の推挙に因(よ)り、従六位上左衛門大尉(さえもんのだいじょう)に叙されて居た。これは亡父忠政に並ぶ位であり、相馬家再興の足掛りと成る物であった。政房は日々左衛門府にて処務を行い、宮中警固の一端を成した。しかし検非違使(けびいし)の兼帯は叶(かな)わず、左衛門府内に在る検非違使庁に入る事は出来なかった。検非違使は警察、裁判権を備える要職である。政房もその職務に憧(あこが)れを抱いて居た。
最近政房は、洛外と兵部省から左衛門府に、人の出入りが多い事が気に掛かって居た。されど滋望邸の庭に腰掛け、晴天の下に照らされる躑躅(つつじ)や、辺りを舞う蝶(ちょう)等を眺めて居ると、実に心が和(なご)む。そして、新帝の行幸でも有る所為(せい)であろうと、呑気(のんき)な着想も湧(わ)いて来る。
四人が庭先にて、武術の問答をして居る所へ、大きな足音を立てて、廊下を渡って来る者が在った。よく見ると、当主滋望の子、藤原相親(まさちか)である。滋望には二人の男子が有り、上を正衡(まさひら)、下を相親といった。この相親は政房より一回り年長であったが、相馬家に対して礼を尽し、接してくれる人物であった。普段は大人しいのだが、この時ばかりは大分興奮した様子である。政房は何か特別な事が有ったのだなと思いながらも、何時(いつ)もの笑顔で応対した。
「相親様、如何(いかが)なされました?」
「実は今し方、村岡の忠頼殿が御越しになり、政房殿を御呼びでござる。」
「忠頼の伯父上がでござりまするか?」
政房は三人の家臣を庭に待たせたまま、相親に伴われて、忠頼の待つ客間へと向かった。只忠頼の来訪が有っただけでは、相親が斯様(かよう)に興奮する筈(はず)も無く、政房も家臣達も、これは何か一大事が出来(しゅったい)したなと、勘繰(かんぐ)って居た。
忠頼は四名の重臣を伴い、客間にて政房を待って居る。そしてそこには、滋望の姿も在った。相親と政房が到着すると、滋望の声で、二人は中へと通された。そして、滋望と忠頼が正対して居るその脇に、腰を下ろした。
深く座礼を執る政房に、忠頼は嬉しそうに話し掛ける。
「共に上洛した時以来の再会故、実に七年振りであろうか。久しく見ぬ内に、逞(たくま)しゅう成られた。」
謙虚に返事をする政房の、その眼に映った忠頼の姿は、随分と貫禄が備わって居る様であった。偉大な村岡家始祖良文の跡を継いで十五年。様々な試練を乗り越え続けて来た、武士の威厳が伝わって来る。
忠頼は雑談の中でも、まじまじと政房を観察して居る様であったが、やがて本題を切り出した。
「実は儂(わし)に昨日、関白様より御召(おめし)が有ってのう。その時、一大事を聞かされた。」
それを聞いて政房は、最近の衛門府や兵部省の、異様な慌(あわただ)しさを思い起した。
「よもや、他国にて不穏な動きでも有るのでござりましょうか?」
「流石(さすが)に、衛門府に居れば感付かれるか。しかし、既(すで)に不穏な動きなどという物ではなく、大規模な反乱に発展して居る。」
「何と?」
政房は絶句した。今まで武芸の鍛錬は行って来たと雖(いえど)も、平和な時が突如崩(くず)れた事には、驚愕(きょうがく)を禁じ得なかったのである。忠頼は話を続ける。
「遥か東方の陸奥国において、会津郡の豪族、藍沢権太郎広行なる者が兵を挙げ、耶麻郡を経て、安達郡一円までも制圧したそうな。北方の信夫(しのぶ)郡は鎮守府が何とか防いでは居るが、南方の安積(あさか)郡は賊の猛攻を受け、このままでは白河関(しらかわのせき)すら危ういとか。そこで朝廷は先ず、天慶の乱の功労者であり、鎮守府将軍を経験した事も有る、平貞盛に征東大将軍を依頼したのだが、病(やまい)を理由に辞退されたそうじゃ。」
「何故でしょう?功名を挙げる好機と存じまするが。」
政房が真に怪訝(けげん)な顔をするので、忠頼は諭(さと)す様に述べる。
「確かに、勝ちを得れば名も上がろう。されど、敗れる様な事有らば、今まで築き上げた地位と名声は、一気に失墜してしまう。しかも此度の敵は粗(ほぼ)三郡を制圧し、勢いに乗って居る。更(さら)に奥州は名馬や金を産出する大国。その地の利は賊側にある。」
「成程(なるほど)。先程の某(それがし)の言葉は、迂闊(うかつ)に過ぎ申した。」
素直に反省する政房に、忠頼は好感と度量を感じ、微(かす)かに笑みを含ませて頷(うなず)いた。
「貞盛に断られたので、関白様は藤原秀郷の子、千晴を用いると思いきや、そうではなかった。千晴は、関白と対立する左大臣源高明に接近し居る様にて、此度の人選からは外される事と相成った。」
「では、一体誰に大命が下されたのでござりまするか?」
政房は真剣な眼指を忠頼に向けて尋ねたが、それに答えたのは滋望であった。
「昨日、忠頼殿が関白に召されたは、実は征東大将軍に任ずる為であった。されど忠頼殿は目下、下野の藤原千晴と所領を巡る争いを起して居り、大軍を率いて奥州へ向かう処ではない。そして遂(つい)には、我が叔父忠舒(ただのぶ)殿に、かつて坂東の乱を平定した折に、征東副将軍を務めた経験を買われ、白羽の矢が立ったのだが。大分歳を召して居るので、奥州への遠征は体が持たぬらしい。」
政房はそこまで聞くと、ふと閃(ひらめ)いた様な顔をして、忠頼と滋望を交互に見る。忠頼は斯様(かよう)な政房の仕種(しぐさ)を見て、政房の覚悟を確認すべく尋ねる。
「如何(どう)じゃ。奥州へ行く気は有るか?賊の数は二千を超えると聞くが。」
暫(しばら)く、政房は沈黙した。今が相馬家再興の時なのか、冷静に己や家臣達を分析して見た。家臣は頼みと成る剛の者が揃(そろ)って居るが、肝心の大将に不足は無いのか。正直、政房は不安であった。実戦という物を経験した事が無かった故である。しかし亡き父忠政は、十二歳の初陣で大功を挙げたという事を、忠重や宗弘から聞かされて居た。されば、既(すで)に二十一歳の己が、此度出陣する気概無くば、相馬家を継ぐ資質無しと思えた。政房は静かな物腰にて畏(かしこ)まると、闘志を滲(にじ)ませた顔をしながらも、穏やかに申し上げる。
「畏(おそ)れながら、御願いの儀がござりまする。」
滋望も忠頼も、政房が俄(にわか)に腹を決めた事を悟った。滋望は内心、期待を高めながら問う。
「何じゃ?」
「某(それがし)は相馬軍を召集し、奥州へ出陣致しとうござりまする。忠頼様と忠舒様に置かれましては、朝廷へ某(それがし)を推薦して戴きたく、その為には、滋望様より忠舒様への御口添えを、伏して御願い申し上げまする。」
滋望はそれを快諾したが、忠頼は更(さら)に念を押して尋ねる。
「我が村岡勢は現今、一兵たりとも奥州へ回す余裕は無い。仙道を東進し、下野に入ってしまえば、それ以降は全て、相馬家が独力にて事を成して行かなければ成らぬ。それも承知の上か?」
下野一円は藤原千晴の勢力下に在り、忠頼とは目下抗争中である。故に忠頼が、自軍を政房率いる官軍に加え様なら、下野を通行する事すら難しく成る。よって相馬軍は、白河関を越える前に、孤軍と成る他は無かった。しかし政房は、これこそ相馬家が、村岡家から独立を成し得る一大好機と考え、迷い無く答えた。
「其(そ)は覚悟の上にござりまする。此度の戦役では必ずや軍功を挙げ、相馬家再興を成し、忠頼様や滋望様の御恩に報いたく存じまする。」
政房の決意を聞いて、忠頼も漸(ようや)く納得した。朝廷への働き掛けは、忠頼と滋望に任せる事と成り、政房は客間を後にした。
自室に戻ると、政房は家臣達に対し、奥州で勃発した反乱と、村岡家と藤原式家が、己を征東軍の将に推薦してくれる事を伝えた。純利はそれを聞いて狂喜し、政房に必勝の覚悟を述べた。しかし忠重と宗弘は、尚も淡々とした様子である。純利は彼等の様子を訝(いぶか)しがって、忠重の横に腰を下ろして尋ねる。
「忠重殿は、殿に初陣の機が訪れたというのに、嬉しくは有りませぬのか?」
忠重は表情を変えぬまま、政房にも聞こえる声で答える。
「両家が殿を推挙して下されたとしても、太政官が正式に認可をせねば、この話は無かったも同然。武士は一喜一憂するよりも、いざという時の為に、静かに己を律し続ける物じゃ。」
それを聞いて、純利は大人しく成ってしまったが、その脳裏(のうり)では、彼是(あれこれ)と考えを巡らせて居る様である。かつて忠重も宗弘も、先代忠政率いる相馬軍に加わり、重傷を負いながらも、大乱の平定に貢献した。そし主家に下された恩賞は、恩赦と六位の位だけにて、望みを抱いて居た下総旧領の回復は、夢語りに終ってしまった。それ以来二人は、太政官には余り期待を掛けぬ様にして居た。政房は家臣の様子を見て、やや気が抜けてしまった。
*
五日程過ぎて、政房は再び滋望に呼び出された。そして束帯(そくたい)を着せられ、身形(みなり)を整えると、共に宮中へ向かう事と成った。滋望は牛車(ぎっしゃ)に乗り込んだが、政房には馬が宛(あて)がわれた。更(さら)には十余名の御供が付き、列を成して内裏へと向かった。
禁闕(きんけつ)を潜(くぐ)って参内(さんだい)し、一室にて待機して居ると、間も無く現れたのは、権大納言藤原伊尹(これただ)であった。伊尹は先帝の御代に右大臣として国政の中心を担(にな)った、藤原師輔の嫡男である。他にも、二人の公卿が随行して来た。滋望と政房が平伏すると、伊尹は勅書を読み上げた。
「勅命である。平朝臣左衛門尉政房を、陸奥国押領使(おうりょうし)に任ずる。手勢を率(ひき)いて、安達、岩瀬二郡を荒らす賊共を、速やかに一掃せよ。」
「確(しか)と、承り申した。」
政房は厳粛に返事をする。そして権大納言より渡された任官書を、恭(うやうや)しく受け取る。その時、伊尹の左脇に控えて居た公卿が、政房を見据えて問い掛ける。
「政房殿に御尋ね致す。貴殿の手勢は、武蔵と播磨を併せて三百騎程と聞き及ぶ。しかるに、賊は数千に膨らんで居るとの事。貴殿は一体如何(いか)なる勝算が有って、斯(か)かる大命を拝するのか?」
この公卿は伊尹の弟で、藤原兼家といった。しかし斯様(かよう)な事は気に掛けず、政房は明朗に答える。
「当家の三百騎は弓馬に優れたる者が多く、蝦夷(えみし)を攪乱させた上で、各個撃破致しまする。」
政房は真顔にて答えたが、伊尹の右脇に控える公卿が、ぼそりと呟(つぶや)く。
「かつての相馬八千騎は、既(すで)に雲散した。昔日の力の一分でも有ればのう。」
その声の主は、藤原兼通であった。伊尹の弟であり、兼家の兄に当たる。何故、政房が将門の子孫である事を存じて居るのかは聞けなかったが、その言葉は、政房の心に暗い影を落して行った。
兼通、兼家兄弟は、政房の力量に疑問を述べはしたが、これに代わる人材が居る訳では無い。陸奥へ援軍を派遣しないよりは増しであり、時間稼ぎには成る程度の評価で、太政官は政房に出兵を許可したのであろうか。斯様(かよう)な事を、政房は案じて居た。一方で、同道して居た滋望から見れば、かつて相馬の名は時の太政大臣藤原忠平をも震撼せしめたのに対し、その孫達には侮(あなど)りの気配さえ有る。相馬家再興は思いの外容易(たやす)いのではないかと、滋望は考えた。
とにかく、陸奥の反乱の鎮圧には、押領使平政房が向かう事が宣告された。そして戦(いくさ)の仕度を整えるべく、政房は宮中を後にし、再び滋望の邸へと戻って行った。
*
邸に着くと、政房は直ちに家臣三名を自室に召集した。それを受けて、家臣達が次々と訪れ、政房の前方に並んで座す。皆が揃(そろ)うと、政房は三人を見渡した後、本題を話し始めた。 「先程、朝廷より陸奥押領使の職を拝命して参った。されど、下野の藤原千晴と対立する忠頼様が、白河に向かう我等に援軍を出す事は叶(かな)わぬ。よって、当家のみの力にて、兵を集めねば成らぬ。」 政房の言葉を受けて三人の家臣は、愈々(いよいよ)相馬家再興の好機到来と、喜び勇んで居る様子である。
先ず、村岡忠重が口を開いた。
「奥州は冬の到来が早く、戦(いくさ)が長引いては不利にござる。早々に陸奥に入れる様、某(それがし)は直ちに武州二百騎を整えるべく、下向致しとう存じまする。」
続いて、近藤宗弘も意見を述べる。
「某(それがし)の手勢は、播磨に百騎が控えて居りますれば、急ぎ取って返し、兵を都へ集めとうござりまする。」
両将の言葉に、政房は頼もしさを感じた。そして更(さら)に、佐藤純利も言上して来た。
「某(それがし)に手勢は有らねども、以前に解散せし相馬軍を再結成し、部隊の増強に努めとうござりまする。」
往時、坂東に集結せし相馬兵五百騎。精強なる斯の軍団が味方に加われば、己や純利にも手勢を分配出来、将の均衡も取れる様に成る。政房は純利の意見を容(い)れ、各々兵を集めさせる事とした。朝廷より賜りし、一時的な軍資金と兵糧を分配すると、三人は翌日、朝霧の中を出発して行った。最終的な合流地点は、上野国府である。彼(か)の地で纏(まと)まった軍と成り、又征夷の官符を携(たずさ)えて居れば、平忠頼傘下に在る政房が、敵対勢力である藤原千晴の領内を進軍しても、手を出しては来るまいと考えたのである。
政房自身は、僅(わず)かな護衛と人足を雇い、武具兵糧を仕入れさせて、出陣の準備を着々と行った。しかして明日には出発の目処(めど)が立った日の夕刻、政房は母の見舞に足を運んだ。数日前、急に冷え込んだ日に、体調を崩したと聞いて居たからである。
母の寝室からは、こんこんと咳(せ)き込む音が聞こえて来た。政房は、寝所の側にて一礼する。母の傍らにて看病をする侍女はそれを見て、そっと政房の来訪を告げた。母は顔を横に向けて政房の姿を認めると、力無く微笑(ほほえ)んだ。それを受けて政房も笑顔を返す。母御前の調子が良い様であったので、侍女は母子の邪魔に成らぬ様、部屋を辞して行った。
母の臥(ふ)す脇に腰を下ろした政房の顔を見て、母御前の表情は綻(ほころ)んだ。
「何か、良い事でもござりましたか?」
「はい。この度、陸奥押領使(おうりょうし)を拝命致しました。」
その言葉から、二人の顔の笑みが、次第に消えて行く。政房は更(さら)に言葉を接ぐ。
「陸奥国において、大規模な反乱が勃発致しました。某(それがし)は乱を早急に鎮定するべく、明日には奥州に向かいまする。」
「そうですか。身体を大事にし、良く家臣の助言を聞くのですよ。」
母は病(やまい)の為か、心細い表情をして居た。されど政房は、出来得るだけ母を安心させ様と、明るい笑顔で「はい」と答えた。母御前はそれを聞いて安堵したのか、咳(せ)き込みながらも、幾分は穏やかな顔に成った。そして、部屋の隅に鎮座する地蔵菩薩を指し示す。
「あの菩薩様は、相馬氏の後胤に御加護を齎(もたら)して下さる事でしょう。是非とも初陣の折には、御携えなされ。」
「御配慮、有難く存じまする。政房、必ずや賊将を討ち取って凱旋致しまする。そして祖先の拓いた所領を回復し、母上に安住の地を捧(ささ)げとうござりまする。」
青色い顔の母に元気に成って貰(もら)おうと、政房は努めて話した。しかし、母は子を見据えて告げる。
「安住の地を得る為には、民心を掴(つか)まねば成りませぬ。さもなくば、その地は騒乱の地獄と化して行く事でしょう。そうせぬ為にも、政房殿は治国という物を学ばねば成りませぬ。」
母の顔が、俄(にわか)に険しく成った。政房はそれに気押(けお)されつつ答える。
「治国、にござりまするか。」
「そうです。政房殿の念願が、相馬家の再興に有るのであらば、所領の獲得だけでは、未だ不十分なのです。かつて良将公も将門公も、産業開発に力を入れ、且(か)つ不当に税を徴収しなかった為に、民の信望を得る事が出来ました。疲弊せず、充実した生活を送る事が出来た民人(たみびと)だからこそ、精強なる相馬武士団と成って行ったのです。」
政房は黙ったまま、唯(ただ)母の話に聞き入って居た。そして話が終ると、今度は政房が母に決意を述べる。
「一郡の領主が備えるべき心構え、確(しか)と承りました。この後私は官軍の将として、多くの民を戦火に捲(ま)き込む事と相成りましょう。されど斯(か)かる折は、今の母上の言葉を忘れず、将として、民を導く術(すべ)を考えて行きとうござりまする。」
その言葉で、母御前は漸(ようや)く安心し、穏やかな表情を取り戻した。
「それで良い。更(さら)に解らぬ事が有らば、村岡平家を手本としなされ。かつて村岡平家の御先代良文公は、相馬家祖良将公の方策を手本と成されました。そして今では、それを忠頼殿が受け継いで居られまする。その治政は必ずや、政房殿に取って学ぶ処有りと信じまする。」
「はっ、必ずや父祖の昔に還(かえ)り、母上を御迎え致しまする。」
政房は母に一礼し、出立の準備に出ようとしたが、母御前は今一度政房を呼び止め、部屋の隅に置かれた地蔵菩薩を、力無く指差した。
「あの地蔵様も相馬の所縁(ゆかり)。必ずや政房殿と相馬の御家を御護り下さる事でござりましょう。忘れずに御持ちあれ。」
政房は歩み寄って地蔵菩薩を手に取ると、丁寧に厨子に納めて蓋(ふた)を閉めた後、厳かに押し戴いた。そして胸に抱いて部屋を出る時、政房は母の方を振り返って、再度一礼する。
「無事の御帰還を。」
床(とこ)に臥したままの、精気の無い母の声が聞こえた。政房はそのまま母の元を辞して行った。その心の底では、母の為にも此度こそ、家の再興に漕(こ)ぎ着ける事を誓って居た。