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第一節 巨星落つ
陽が西の方、甲州の山並に没しようとして居る。藍(あい)色の空に輝く星はその数を増し、時折木から雪が落ちる以外、辺りからは何も聞こえて来ない。館内の庭にも雪が薄く積り、月の光を受けて所々輝いて居る。又、冷たい夜風が暫々(しばしば)吹き着けて来るが、その中でも寒さに負けず、一人の童子が夜空を見上げて居た。
縁側に腰掛けながら、寒風に髪を靡(なび)かせて居る童子は、歳の頃は未だ七歳程である。物憂(う)げな表情で見詰める東の彼方(かなた)には、取分け明るく輝く星が在った。昨夜までは斯様(かよう)な物は見られず、故に気に掛かって居た。やがて一層輝きを増した星は、一筋の光の線と成り、北の方へと消えて行った。
「東国への凶兆じゃ。」
童子はふと呟(つぶや)いた。
童子はその後も、暫(しばら)く夜空を眺め続けて居たが、やがて一人の男が慌てた様子で、童子の元へ向かって来た。未だ若いが、逞(たくま)しい体付きの武士である。
「千勝(ちかつ)様、一大事にござりまする。」
千勝という童子は縁側に座ったまま、若武者の方を振り向いて尋ねる。
「純利か、如何(どう)した?」
「良文公、御亡くなりになられ申した。」
「御祖父(じじ)様が、遂(つい)に。」
千勝は呆然(ぼうぜん)と成って、ゆっくりと祖父の部屋へ向かい、歩み始めた。後ろから、純利という武士も続いて行く。
時に天暦六年(952)十二月十八日。年の暮れも押し迫った、寒い日の夕刻であった。良文とは、相模、武蔵、下総、常陸の四ヶ国に所領を持ち、先年上総介(かずさのすけ)に任官して居た村岡平家の長者であり、坂東随一の勢力を誇(ほこ)って居た。治政の方針としては、悪質な搾取(さくしゅ)は行わず、又領内の開発に努めたので、豪族や領民からは多大な信望を得て居た。故に、近隣の強豪である下野の藤原秀郷や、常陸の平貞盛も、手を出せずに居た。良文は、任国の最高官職である常陸介(ひたちのすけ)、下総介(しもうさのすけ)を歴任し、更(さら)に勢力を拡大するべく、上総介の地位を得た。されど、今年の夏に体調を崩し、上総の治政は部下の上総掾(かずさのじょう)に任せ、療養する事にしたのである。そして本拠とする、相模国鎌倉郡村岡郷に戻って来たのであるが、この冬の初めに館内で倒れ、その後幾度か危篤に陥(おちい)って居た。
千勝は京の藤原式家当主、滋望(しげもち)の元で養育されていた。しかし祖父良文倒れるの報せを受け、母杈椏(またふり)御前に連れられ、家臣の村岡忠重と佐藤純利を伴い、十日程前に相模へ到着して居たのであった。
陽は完全に没し、館は闇夜に覆(おお)われた。月明かりを頼りに、千勝と純利が良文の寝所に着くと、千勝を先頭に一礼して、中へ入った。部屋の中央の床(とこ)には、依然良文が横たわって居るが、その顔には既(すで)に、白い布が被(かぶ)せられて在る。そして良文の枕元には、嫡男忠頼が憮然(ぶぜん)として座って居る。良文は享年六十七歳の大往生であったが、嗣子忠頼は未だ二十三歳の若さである。忠頼の横に並んで座る弟達は、皆父の死を悼(いた)み、噎(むせ)んで居る。忠頼の直ぐ隣に座る忠重は、良文の実子であるが、良文の宿老村岡重武の養子と成り、その後重武共々、千勝の家臣と成って居た。忠重の横には、更(さら)に二人の弟が居た。忠光は兄忠頼の元、即ち武蔵国大里郡村岡郷に屋敷を持ち、もう一人の忠通は、ここ良文の館に住んで居る。
部屋の隅に座して居た村岡重武は、ふと千勝の姿を認めると、立ち上がって幼君の前へと進み、そして良文の枕元へと導いた。千勝は良文の脇に座り、無言のまま合掌する。千勝は物心付いた後、良文に会ったのは十日前が初めてである。しかもその時、良文は既(すで)に重篤の状態に在った為、一度も言葉を交した事は無かった。しかし京に居る間、千勝は良文の孫というだけで周囲から大事にされ、主君藤原滋望にも目を掛けて貰(もら)う事が出来た。生まれて間も無く父を亡くした千勝には、祖父良文だけが頼りである事が、周りの者の態度に因(よ)り察せられた。故(ゆえ)にその祖父を失った今、千勝の心の中は不安で埋め尽されそうに成って居た。
合掌を終えると、千勝は無言のまま正面の忠頼に一礼し、再び純利を伴って、母の待つ間へと戻って行った。外は風が強まり、時折粉雪が舞い込んで来る。ここから相模湾までは直ぐの距離である。二人は海風に身を震わせながら、冷たい廊下を渡って行った。
時代は成明(なりあきら)天皇、天暦(てんりゃく)の治の直中であった。親政の中核を担(にな)った人物は、右大臣藤原師輔(もろすけ)である。勅撰和歌集や正史の編纂(へんさん)といった文事の他、不穏な情勢の続く地方の統治にも力を注いで居た。貴族の中には、国守に任官しても任地に赴かず、家臣に任せる者が多かったので、これに罰則を設ける事とした。又、治安の悪化を受けて、本来文官の筈(はず)の受領(ずりょう)と郡司に、帯剣が許されるに至った。平忠頼は斯(か)かる時代に、坂東武士団を纏(まと)める重責を負った。父良文の元には五千騎に及ぶ大軍が集まったが、己の代ではそれを拡大させる所か、維持する事も能(あた)うか如何(どう)かと、忠頼は深く悩んで居た。
後日、平良文の葬儀は盛大に執り行われた。坂東各地より多数の豪族が村岡郷に集まり、生前の勇姿を偲(しの)んだ。一方で彼等は、喪主を務める忠頼を鋭い目付きで観察し、新たな宗主として仰(あお)ぐに足る人物か、確(しか)と見極めようとして居た。特に坂東中央部の豪族は、下州藤原秀郷や常州平貞盛の影響が強く、真剣な様子である。千勝は故人の孫として式に臨(のぞ)んで居たが、焼香の時等に、それ等のギラギラした眼指が己にも向けられて居るのを、幼ながらにも感じられた。
やがて初七日が過ぎ、仏事が粗方(あらかた)済むと、愈々(いよいよ)新春が近付きつつある事を、梅の開花等で感じる様に成った。しかし坂東の上空には依然、寒波が押し寄せては、時折平野部にも降雪を齎(もたら)して居た。千勝等が京へ戻るに当り、相模から駿河へ抜ける為には、足柄峠を越えねば成らない。しかし峠は雪に閉ざされ、越える事は容易では無い。忠頼の勧めも有り、正月は相模にて迎える事と成った。
天暦七年(953)の元旦は、穏やかな陽気の下に迎える事が出来た。相模村岡の館においては、先代の喪中の為に、新年祝賀の宴(うたげ)等は催されなかった。その為か、村岡家中には沈(しず)んだ空気が漂(ただよ)い、今一つ、新たな当主への団結の気運が見られなかった。
これまで良文が担って来た上総の国政は、生前良文が掾(じょう)に推挙した豪族が代行を務めて居る。新たに介が任命されるまでの暫定体制として、特に支障を来(きた)す事は無かった。その分忠頼は、家中の掌握に専念する事が出来た。
如月(きさらぎ)の頃に成ると、麓(ふもと)から雪は消え、峠の通行も可能に成り始める。日に日に暖かく成り、随所で桃の花が、その芳香を漂わせて居た。
斯(か)かる折、忠頼は千勝の家臣を広間に集め、相談事をして居た。上座に忠頼が座し、下座には村岡忠重、近藤宗弘、佐藤純利の三人が控えて居る。家臣の筆頭は忠重の義父、村岡重武であるが、この場にその姿は無い。重武は、永年苦楽を共にした旧主であり、又親友でもあった良文を失い、失意の底に沈んで居た。故に周囲の者は、重武にこれ以上気苦労を懸けぬ様、配慮して居たのである。村岡重武はかつて、村岡平家随一の弓取と、広く坂東にその名を馳(は)せて居た。故に、村岡平家を継いだばかりの忠頼に取っては、己の武力を誇示する為にも、重武には健在であって欲しかった。
忠頼の相談とは、千勝を暫(しばら)く坂東に留め置く事であった。それに対し、忠重が先ず意見を述べる。
「父上が亡くなられた今、村岡本家の武力を増強させ、一族を纏(まと)めたいと思う兄上の気持は、良う解り申す。されど、千勝殿を手放す側の藤原式家からは、意義が唱えられるのではありませぬか?滋望様も式家の威光を保つには、当家の武力を必要として居る筈(はず)。」
「確かに彼(か)の兵力は、式家興隆に必要たる物。されど滋望様も、忠文卿を失いし時の事を思い出せば、今の我が苦衷、察して下さるであろう。我が村岡平家が衰退すれば、当然藤原式家にも大きな不利益と成る。又、父上は千勝殿に、相馬家の再興を望んで居られた。されど千勝殿が生れし時、相馬平家は既(すで)に滅び、千勝殿はその往時を存ぜぬ。儂(わし)等がこの坂東の地で教育致し、相馬武士の精神を伝えねば成るまい。」
一同は静かに頷(うなず)いた。確かに都の貴族社会のみを見て居ては、坂東武士団の棟梁として望まれる器量を備える事は、難しいかも知れない。そこで宗弘が意見を提示した。
「我等は相馬軍五百騎を再建したといえども、式家の藤原忠衡(ただひら)様が甲斐介(かいのすけ)として赴任なされた御蔭にて、甲斐国国府軍として養って貰(もら)えて居るに過ぎませぬ。今年、その後釜として養って下さる御方がおわさず、伴類(ばんるい)は悉(ことごと)く、帰農させざるを得ませぬ。その後も今までの如く忠誠心を維持させるには、御当主千勝様に、坂東にて御留まり願う他は有りませぬ。その旨、滋望様に申し上げて見る事と致しては?」
この時代、常時武士として主君に仕えし者を従類(じゅうるい)と呼び、戦時に農家から徴集された兵を伴類(ばんるい)と呼んだ。宗弘はかつて平将門に仕えし従類百騎に加え、総勢千騎に近い兵を集め、村岡兵として国府軍等に加えて居た。将来大乱が起きた時、千勝を大将に軍功を挙げ、相馬家を再興させるという悲願が有った故である。一同は宗弘の提案を容れ、千勝を忠頼の元に置く事とした。
談義を終えると、忠頼と宗弘は各々の立場から、千勝を坂東に留める請願書を滋望に認(したた)め、一方で忠重と純利は、杈椏(またふり)御前の元へと向かった。二人が御前の居間に上がると、千勝もそこに居る事に気付いた。二人は御前と千勝の前で座礼を執ると、今までの談義の結論を伝えた。話を全て聞き終えた後、御前は穏やかに二人に告げる。 「それが良いのやも知れませぬ。全ては御家中の方に御任せ致しまする。」 二人は御前の言葉を受け、畏(かしこ)まって平伏した。そして、御前の脇に座って居た千勝は俄(にわか)に立ち上がり、任せたと言って、小走りに部屋を出て行った。
幼心にも、千勝の不安は増して行く。己の大きな後ろ楯であった祖父を失い、今度は会って間も無い、伯父の元で暮らさねば成らぬという。坂東に下って二月程が経ち、次第に都が恋しく成って居た。早く帰りたくとも、伯父と家臣が決めた事に逆らう術(すべ)は、今の千勝には無かった。
南面の廊下は陽が当たり、殊(こと)の他暖かい。千勝は気分を良くし、早足で進んで行く。やがて角を曲がろうとした所で、不意に人と鉢合わせた。小柄な千勝は、その衝撃で後ろに転倒したが、相手は一回り大きな体格をして居り、僅(わず)かに蹌踉(よろ)めく程度で済んだ。千勝が頭を押えながら相手を見ると、己より五つ程年長の、若い武士であった。若武者は、千勝の意識がはっきりして居る事を認めると、助け起して、笑顔を見せた。
「これは失礼致し申した。御怪我はござりませぬか?」
千勝が無言で頷(うなず)くと、若武者は一礼して去って行く。その武士に心地好い物を感じ、千勝の口が不意に開いた。
「私は平良文の孫、千勝と申しまする。御名を御聞かせ下さりませぬか?」
若武者は振り返って千勝に正対すると、畏(かしこ)まって答えた。
「これは、良文様の御孫様にござりましたか。某(それがし)は常陸国より参りました。信田将国(しだのまさくに)が子にて、昨年元服の折、良文様より文国(ふみくに)の名を頂戴致しました。」
そう告げると、若武者は再び礼を執り、館の奥へと消えて行った。そして千勝も又、信田文国と名乗る武士の事を考えながら、再び廊下を渡って行った。
*
半月程が過ぎると、坂東では山桜が咲き誇る候と成る。鶯(うぐいす)が飛来してはその歌声を聞かせ、春の野山に興を添える。
その頃相模村岡の館には、二千騎の武者が集結して居た。忠頼が武蔵より率いて来た五百騎に加え、葬儀の警固の為、平忠通も相模兵を五百騎程集めて居たのである。それ等の他、相馬軍が国府の軍役を終え、相模に帰陣したばかりであった。これ等の軍旅が、館の内外に無数の旗を棚引かせる光景は、如何(いか)にも威容である。それを眺める忠頼は、村岡軍団の健在振りに安堵を覚えて居た。
一方で、相馬軍一千騎を率いる近藤宗弘も、目を細めて同じ光景を見て居た。相馬の馬紋旗が、村岡の五枚笹紋旗に匹敵する数を誇って居る。しかし農繁期に入りつつある今、これ等の内九割は帰農させねば成らない。その前に、彼等に相馬家再興の望みが有る事を知らしめるべく、千勝を坂東へ留めたのであった。
千勝が大規模な兵団を眼にしたのは、この時が初めてであった。又相模に居る間、村岡家の五枚笹紋は幾度も見掛けた事が有るが、馬紋の旗を見るのは初めてであった。館内の庭に控えて居た千勝は、塀(へい)の外に見える旗が気に掛かり、隣に立つ忠重に尋ねた。
「彼所(あそこ)に見ゆる馬紋旗、見るのも初めてなれど、物凄(すご)き威容じゃ。一体何処(いずこ)の軍の旗か?」
忠重は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、重々しい口調で答える。
「あの旗を興したのは、亡き良文公の兄君にして相馬家の祖、良将公でござる。良将公は自ら鍬(くわ)を取り、先頭を切って下総三郡の開発に尽力なされた。そしてその子将門公は、あの旗の下に八千騎を率い、関八州の領民を、腐敗した貴族の苛政(かせい)より救い給(たも)うた。されど、朝廷より逆賊の汚名を被(かぶ)せられ、その一族郎党は、一人の御子を残して悉(ことごと)く討たれてしまい、相馬家は滅亡したのでござる。しかし、時の参議藤原忠文卿と、常陸介平良文公の尽力に因(よ)り救われた御子は、後に西国にて起りし大乱の平定に加わり、朝廷より恩赦を賜る事が出来申した。そして忠文卿と良文公はその御子を立て、相馬家再興の為、相馬軍結成に御尽力下されたのでござる。」
千勝は忠重の説明を聞き、納得した顔をする。
「成程(なるほど)。かつての朝敵、平将門が御子の軍であったか。」
すっきりした様子で頷(うなず)く千勝に対し、忠重は首を横に振る。
「さに非(あら)ず。将門公の御子は、六年も前に亡くなられ申した。」
訝(いぶか)し気な表情の千勝を前に、忠重は話を続ける。
「将門公の御子こそが千勝殿の父君、忠政公にござる。故に千勝殿は相馬家の当主にして、向こうに居並ぶ相馬軍一千騎の、存亡を担(にな)いし御方なのでござる。これよりはその事を胸に留め、軍勢の前に臨(のぞ)んで戴きとうござりまする。」
「何と、我が出自には、斯様(かよう)な謂(いわ)れが有ったのか。」
千勝は己の命運の重さに呆然(ぼうぜん)と成った。又、周りの者が今まで、己の亡父の事を教えてくれなかった事に、得心が行った様な気がした。
相馬軍が隊列を整えると、宗弘が千勝を呼びに来た。千勝は忠重の言葉を噛み締めながら、ゆっくりと頷(うなず)き、館外に布陣する相馬軍の処へ向かった。千勝の胸中には、相馬の再興に期待して集いし者達が、幼く力を持たない己を見て、失望しないかという不安が有った。しかし、出来る事をする他は無しと、表情を引き締め、堂々と歩んで行った。
流石(さすが)に一千もの軍勢を目(ま)の当たりにすると、壮観である。特に前方に居並ぶ兵達は、かつては将門の下で連戦連勝を重ねし剛の者にて、鋭い眼指をして居る。千勝が軍勢の前に立つと、それ等の視線は一斉に千勝に向けられたが、辛うじて、千勝は怯(ひる)まずに居る事が出来た。兵達の厳しい視線は、己への期待の意をも包含し、狼狽(ろうばい)は彼等への裏切りに成ると思い、意を強くして臨(のぞ)んだ。
相馬家一同が揃(そろ)うと、宗弘が当主千勝を紹介し、続いて相馬軍の一時解散が告げられた。普通伴類の者は、野良仕事が忙しく成る季節に軍役を解かれると、喜ぶ物である。しかし、この時は様子が違って居た。皆が不安の色を示し、騒(ざわ)つき始めたのである。やがて後方から、一人の若き僧兵が前に出て、千勝を見据えて声を上げた。
「畏(おそ)れながら、御尋ね致したき儀がござりまする。」
「何か?」
宗弘が鋭い声で返す。僧兵は宗弘を睨(にら)み、皆の意見を代弁する様に述べ始めた。
「我等相馬家旧臣は、主家が再興されたと聞き及び、馬紋旗の下に再び終結致したのでござりまする。それがここにて解散の由(よし)。真(まこと)に主家は再興されたのでござりましょうや?なれば、我等は何処(いずこ)の地へ戻れば良いのでありましょうや?」
宗弘は溜息を吐(つ)き、皆を諭(さと)す様な口調で答える。
「残念ながら、相馬家には未だ所領が無い。新たな役目を戴けるまでは、皆を養ってやれぬ。故にそれまで、軍を解く仕儀と相成った。皆にはその時まで、各自堪(た)え忍んで貰いたい。」
宗弘の言葉を受け、相馬軍は騒然と成った。再び僧兵が皆を代表し、意見をする。
「天慶(てんぎょう)の大乱の後、相馬軍に加わり落ち延びた者に、生業(なりわい)に必要な田畑はござりませぬ。皆山野に伏すか寺に入り、細々と生き延びて来たのでござる。軍役を解かれるとあらば、我等には再び、凄惨(せいさん)な暮しが待って居るのみにござりまする。」
僧兵はわなわなと震えて居り、後方の兵からは噎(むせ)び声も聞こえて来る。これには宗弘も言葉に窮し、顔を顰(しか)める他無かった。その時、幼き主君は僧兵の前に歩み寄り、脇に差した小太刀を手に掴(つか)み、僧兵の方へ伸ばして見せた。
「此(こ)は我が祖父将門公より、父忠政に遺(のこ)されし太刀である。これに誓って、私はその方等を粗末には致さぬ。暮しに困らぬ様、忠頼様に新たな土地を宛(あて)がって戴くべく、頼んで見る事と致そう。」
千勝がそう言い残して、館に戻ろうとした時、後方より僧兵が強く呼び止めた。
「御待ち下さりませ。」
驚いて振り向く千勝に、僧兵は跪(ひざまず)いて言上する。
「平忠頼様は未だ、大黒柱で在られた良文公を失ったばかりにて、勢力回復に必死の時でありましょう。今、殿が所領を要求する様な事を成されれば、必ずや忠頼様の御不興を買い、これまでの様な庇護を受ける事も難しく成りましょう。斯(か)かる事を成されるには及びませぬ。」
そう言うと、僧兵は神妙に頭を下げた。千勝は、僧兵の態度に感心する一方で情けを覚え、困った様子で忠重を見た。忠重は頷(うなず)き、兵達に告げる。
「殿は忠臣を見捨てる様な事はなされぬ。行き場の無い者は村岡領内に移り、未開の地を拓かれよ。当方にて農具と種苗、半年分の食糧は支給致す。」
兵からは、おおと歓喜の声が上がった。一方で宗弘が、不安気に忠重に尋ねる。
「斯様(かよう)な事を約束されて、忠頼様の承認は得られましょうや?」
「彼等を放って置いては、相馬軍は瓦解致し申す。兄上も其(そ)は避けたき所でござろう。物資や食糧を一時的に施しても、それが村岡家の私田と成れば、後々は兄上の得にも成り申す。当家は再興の時まで軍を保つ事が叶(かな)い、両家の利と相成り申そう。」
「成程、道理じゃ。さすれば、忠重殿より忠頼様に、その旨御伝え願いたい。」
忠重は深く頷(うなず)き、館内へと戻って行った。
やがて僧兵が隊列の中へ戻ろうとして行くのを、宗弘が呼び止めた。
「先程は、見上げた忠義心であった。御名(おんな)を御聞かせ願えぬか?」
僧兵は立ち止り、再び宗弘に正対した。そして泰然と、出自を名乗る。
「某(それがし)は江沙弥(こうさみ)と申し、常陸国筑波郡松塚村は東福寺の僧にござりまする。かつて将門公の副将を務めし藤原玄茂(くろしげ)が甥(おい)にて、主家の滅亡後、幼少であった某(それがし)は寺に預けられ、生き延びる事が出来申した。」
「然様(さよう)で在られたのか。」
宗弘は意外な事を聞き、驚駭(きょうがい)の色を顕(あらわ)して居る。乱が平定された折に、将門の重臣とその一族が悉(ことごと)く討たれた事は知って居た。しかし、将門の下で常陸介を務めた者の一族が、生き残って居たとは初耳であったからである。宗弘は重ねて尋ねる。
「江沙弥殿は、これから如何(どう)される?還俗(げんぞく)して、村岡領に移られるか?」
「いえ、一先ず寺に戻りまする。松塚は筑波山の南麓に在る故、京の貞盛に代わって常陸を治める、弟繁盛の動きを探(さぐ)る事が出来申す。その方が相馬、村岡両家に取って、有用かと存じまする。」
「成程。其(そ)は有難き事にござる。流石(さすが)は玄茂公の甥(おい)御よ。」
宗弘の言葉を受け、江沙弥は一礼すると、再び隊の中へと戻って行った。
やがて忠重が、相馬兵移住の許可を、忠頼より得て戻って来ると、相馬軍は愈々(いよいよ)解散する運びと成った。他に行き場の有る者は、続々と村岡館を後にして行く。宗弘は再び軍を編成する時に備え、密かに連絡系統を作って置いた。しかし彼等にこの先、生活の糧(かて)が無くては、それは容易に瓦解する物であった。今、相馬旧臣の忠誠心を辛うじて維持したのは、当主千勝と、旧臣江沙弥である。宗弘は時を超えた主従の絆に、温かい感情を覚えて居た。
相馬の兵は半減し、残りは主君と共に、武蔵へ向かう事と成った。やがて宗主忠頼も出発の仕度が整い、相馬軍は村岡軍の後陣として進発した。忠頼は未だ若い弟忠通に、相模を任せるのが不安な様子であった。しかし後ろから、忠通が心配し過ぎぬ様に諭(さと)して居る。両軍は、併せて一千騎にも上る。沿道にてそれを見掛けた人々は、村岡家が未だ健在である事を感じる一方、再び斯(か)かる軍勢が、大乱の火種と成らぬ事を祈って居た。
その後、両軍は北上を続けた。道端の草木の勢いや、散り行く山桜に春の終りを感じ、穏やかな陽光を浴びながらの、心地好い旅程であった。多麻川の渡しを過ぎて、武蔵府中を掠(かす)めた時には、陽は既(すで)に頂点から傾き始めて居た。されど、日が伸びた御蔭で、日没までに大里郡村岡郷の館に到着する事が出来た。その日は館外に軍を留め、翌日軍役を解く事と決まった。千勝は叔父忠光に案内され、母と共に一室を与えられた。家臣は、その側の間に詰める事と成った。
その日は、伯父忠頼等一族が、揃(そろ)って夕餉(ゆうげ)を取った。未知の土地故に、千勝は不安を覚えて居たが、そこには千勝に優しく接してくれる女性が居た。平忠頼の正室、相馬御前である。相馬御前は、将門の長女であるが、乱の折には既(すで)に村岡家の室と成って居たので、朝廷も罰する事が出来なかった。千勝に取って、亡き父の姉に会う事が出来たのは、望外の喜びであった。夕餉の間中、千勝は笑顔が絶えず、杈椏(またふり)御前も安堵の表情を浮かべて居た。
夕餉(ゆうげ)を終えると、皆各々の部屋へ戻って行く。千勝も又母と共に、己の居間へと向かった。部屋に着くと、杈椏(またふり)御前は先ず千勝に、自分で床(とこ)の用意をさせた。今まで邸の者に用意させて居た千勝は、戸惑いを覚えたが、見様見真似で、何とか自力で敷く事が出来た。普段と違う母の様子に、千勝は不安な眼指を向けた。杈椏(またふり)御前は、千勝をじっと見据えて告げる。
「坂東に下り、千勝殿に課せられし宿命を、感ずる事が出来ましたか?」
千勝はたどたどしい足取りで母の前に座り、真顔と成って答える。
「はい。祖父将門公の代に滅亡せし相馬家が、私の代で再興する事を、家臣や村岡家の方々が望んで居られまする。」
「そうです。そしてそれは、京の滋望様も同じ。又、亡き父上の悲願でもありました。しかしその為には、千勝殿が家臣を纏(まと)める力を備えねば成りませぬ。頼みと成る家臣達は、千勝殿の存ぜぬ様な暮しをして居りまする。それを知らずば、大将として軍を纏(まと)める事は能(あた)いますまい。軍を纏められねば、軍功を挙げて所領を賜り、御家を再興する術(すべ)は絶たれまする。故に忠頼様は、千勝に武士の暮しを見せるべく、坂東に留め置かれたのです。御解りになりますか?」
「はい、母上。」
千勝が素直に返事をしたので、杈椏(またふり)御前は一瞬嬉しそうな表情を浮かべた。だがそれは直ぐに消え去り、話を続ける。
「では、明日より家臣達の部屋に移りなさい。家臣と寝食を共にする事は、戦場(いくさば)では当然の事。又、相馬武士の精神を育む事にも繋(つな)がりましょう。」
「はい。しからば、今宵(こよい)にも移りましょう。」
「善(よ)くぞ申された。されど、今宵は母が千勝殿に、最後の訓示を致しまする。」
千勝は、不安を募(つの)らせた顔をして尋ねる。
「最後とは、如何(いか)なる意味にござりまする?」
「明朝、母は館を出ます。夫に先立たれた以上、髪を下ろして冥福を祈らねば成りませぬ。今までは千勝殿の事が心配でしたが、そろそろ母の手を離れる時が参りました。」
「母上。」
千勝は母の膝に縋(すが)ろうとしたが、母の厳しい視線に遮(さえぎ)られた。母が急に遠い存在に成ってしまった気がして、心細さから千勝は噎(むせ)び始めた。しかし、かつて無い母の威厳に気圧(けお)され、嗚咽(おえつ)すらも封じられた。
杈椏(またふり)御前はその夜、我が子に相馬家の辿(たど)りし道程と、在りし日の父の姿を伝えた。幼き日を逆賊の子として虐(しいた)げられて来た父が、その短い生涯の間に、子孫への禍根を絶ち得た事を知り、千勝は初めて父の事を知ると共に、畏敬の念を覚えた。
「千勝殿も後五年もすれば、父上が元服、初陣なされた年齢に達しまする。思えばあの時の戦(いくさ)にて、当家は村岡殿、近藤殿、佐藤殿といった、屈強の家臣を得るに至りました。千勝殿も早う父上の様な強き武者と成り、父上の悲願であられた、相馬家再興を成し遂げて給(たも)れ。それが母の望みです。」
母御前の言葉に、千勝は深く頷(うなず)いた。今までは家臣が主君である己に対し、忠節を尽す事は当然の事であると思って来たが、その蔭には、亡き父の武勇が有った事を知り得た。
母は子に伝えるべき事は全て伝え、共に暮らす最後の夜を過ごした。話を終えると御前は、千勝に床(とこ)で休む様に告げ、千勝は名残(なごり)惜しそうな様子で、渋々床に入る。そして気の疲れから、千勝は直ぐに寝入ってしまった。御前は、もう暫(しばら)くは見る事が出来なく成る我が子の寝顔を見た時、遂(つい)に涙が頬(ほお)を伝い始めた。子を千尋の谷へ突き落した様な慙愧(ざんき)の念から、御前は静かに、千勝に向かい頭を下げた。
翌日、村岡、相馬両家の者が見送る中、杈椏(またふり)御前は出立の時を迎え様として居た。忠頼が既知の住持がおわす寺を紹介してくれ、又忠光とその郎党を護衛に付けてくれた。それ等の準備に時を費やし、陽は既(すで)に高く昇って居るが、青天で風も穏やかな、旅には適した天候である。
別れ際(ぎわ)、御前は毅然とした様子で、見送りに出た千勝に告げる。
「この先、最早(もはや)母を頼っては成りませぬ。頼るべきは、千勝殿の忠臣です。彼等は亡き父上の遺産。大事になされませ。」
そして御前は、僅(わず)かに目を細めて言葉を接ぐ。
「千勝殿が立派に成長されたと認められた時、忠頼様が元服の許しを下さりまする。その折、母の行方(ゆくえ)を知る事が出来ましょう。それまでは母の所在を探(さぐ)り、逃げて来る事は成りませぬ。」
「承知致しました。」
千勝は母の期待に応えるべく、神妙に返事をした。杈椏(またふり)御前は安堵の相を浮かべ、最後に千勝に優しい笑顔を見せる。そして館の者に深く頭を下げると、振り返って輿(こし)に乗り、館を後にして行った。
千勝は喉(のど)まで母を呼ぶ声が出掛かったが、辛うじて抑え得た。それが母の望まぬ事と感じたからである。代りに、千勝は母と共に行く忠光に、声を掛けた。
「叔父上、母の事、宜しく頼みまする。」
忠光は振り向き、笑顔で手を振って見せた。千勝は幾許(いくばく)かの安堵を覚えたが、母の姿が遠く見えなく成ると、堰(せき)を切った様に、不安が胸に押し寄せて来る。他の者が館に戻り始める中、千勝は母とは反対方向の、野に向かって駆け出した。心に溢(あふ)れる悲しみを吐き出すべく、千勝は疾駆しながら咆哮(ほうこう)した。その声は周囲の野山に谺(こだま)して居たが、やがて青天の中へと溶け込んで行った。