第十節 大乱の果て

 相馬軍の撤退と時を同じくして官軍に編入された藤原恒利(つねとし)は、久しく硬直して居た瀬戸内の戦況に大きな動きを与えた。恒利は昨年十月頃には既(すで)に、近藤家を通じて官軍に恭順の意向を伝えて居た。そして近藤忠宗は先の伊予の戦役において、官軍の恒利への信頼を高めた上で帰順させた。しかし忠宗の思惑では、恒利の持つ賊軍の機密を得た上で、相馬勢が伊予制圧の先陣を切る筈(はず)であった。されど総大将平忠政が重傷を負った為、相馬軍は播磨への撤退を余儀無くされた。

 小野好古は恒利を宮道忠用に預け、直ぐ様伊予へ侵攻した。恒利は賊軍の隠れ家、糧道を熟知した上で戦略を練ったので、一月下旬には、早くも大戦果を挙げるに至った。讃岐方面の指揮を執って居た賊将、前(さきの)山城掾(やましろのじょう)藤原三辰を捕えたのである。三辰は直ちに処刑され、都へ報告が成された。そして官軍は、瀬戸内東部の制海権を完全に掌握するに至り、二月には伊予の更(さら)に西部へと侵攻して行った。

 やがて官軍は海上の小島を残し、伊予のほぼ全土を奪還した。藤原純友は未だ、千艘を超える巨大な水軍を擁して居た。しかし、広大な陸地を失っては兵糧が確保出来ず、已(や)むなく伊予を放棄し、全船団を周防灘へ向けて出航させた。

 官軍はこの動きを察知し、水軍を以(もっ)て追撃を行った。純友軍の追撃を予測し、態(わざ)と海が時化(しけ)る時を選び、出航した。やがて北方からの北風が激しく吹き荒れ、船の行く手を遮(さえぎ)る。しかし、操舵の技術は純友水軍が遥かに優(まさ)り、官軍は次第に純友軍から離されて行った。やがて純友水軍の姿を完全に見失うと、官軍は追撃を諦め、伊予へ引き返して行った。

 その後、純友船団は関門海峡を抜け、筑前国博多津沖に姿を現した。博多津は大宰府から最も近い大規模な港で、大陸への玄関口としての役割を果して居た。純友水軍は、一万を超える大軍を以(もっ)てこの地を占拠し、今まで築いて来た海上貿易経路の、新たな拠点にしようと目論(もくろ)んだ。瀬戸内の制海権は完全に官軍に奪われ、当海域における交易路は完全に閉鎖された。しかし博多津を抑え得れば、九州、大陸への進出が可能と成る。そう成れば、純友方の経済的な問題は解決する筈(はず)であった。

 しかし、より深刻なのは食糧の問題であった。二万を数える人口を養うには、筑前一国に相当する領土を得なければ成らない。大陸からの交易にて購入し様にも、船便は天候に左右され、不確実である。又、大唐帝国が三十四年前に滅びて以降、華北では梁、唐、晋と王朝が次々と変わり、その周辺には漢族以外の諸民族が乱入し、新国家を築いて居た。晋国皇帝石敬瑭は華北こそ統治して居るが、未だ建国から五年程に過ぎず、随処に不安定な要素が残されている。一方、朝鮮半島では新羅(しらぎ)王朝が二世紀半に及ぶ支配を終え、六年前に王建が高麗を建国したばかりで、此方(こちら)も政治に安定さを欠いて居た。斯(か)かる海外情勢を鑑(かんが)みるに、純友が食料調達を輸入に頼る事は困難であった。

二万の人口は、純友軍の兵糧を著しく消耗させた。純友は早急に大量の食糧を確保せねば成らず、軍の進路を大宰府に向けた。大宰府は九州全土の行政の中心であり、且(か)つ外敵侵入を防ぐ本営でもある。故にその有する兵力は強大であったが、乾坤一擲(けんこんいってき)、純友軍は御笠(みかさ)郡ヘ向けて進発した。

 大宰府の抵抗は凄(すさ)まじかったが、歴戦で鍛えられた純友軍は徐々に官軍を押し戻し、五月の中旬には大宰府に達した。そして総攻撃を行い、十九日に大宰府を落し、多くの金品、軍事物資を獲得した。

 その直後、純友軍は東の彼方(かなた)に一軍を確認した。それは瀬戸内の平定を終え、豊前より陸路大宰府の救援に駆け付けて来た、小野好古の軍であった。大宰府は焼け落ちたばかりで、周囲の地の利を得ない純友軍は、早々に博多津への撤退を開始した。好古は到着したばかり故に追撃を控え、大宰府を視察した。そしてその惨状を書翰(しょかん)に認(したた)めて都へ送り、再び賊軍を追って、博多津への進軍を開始した。

翌日、純友本隊が待ち構える博多津に、好古の軍勢が到着した。又、海上には判官(ほうがん)藤原慶幸、主典(さかん)大蔵春実率いる水軍が展開し、水陸双方から純友軍を挟み込んだ。

 やがて博多津において、官軍と純友軍の主力同士が、初めて合戦に及んだ。大兵団の衝突は凄まじく、随所で怒号が谺(こだま)した。永きに渡る戦闘の末、今を機と見た主典(さかん)春実は自ら敵船に斬り込み、藤原恒利等がこれに続いて敵を崩した。ここに純友軍の陣形は乱れ、官軍は一気に純友本隊を瓦解(がかい)させた。純友は軍船二艘と共に響灘を東方へ離脱し、残った軍船も散り散りと成って、何処(いずこ)かへ去って行った。この日、官軍は遂(つい)に賊軍の主力を崩壊させ、乱終息の目処(めど)が立った。

 一方、都では大宰府焼討の報せを受け、朝廷に大きな動揺が広がって居た。朝議は征西大将軍の派遣を決定したが、久しく解決を得ない軍事的問題なだけに、誰もがその任に就く事を躊躇(ためら)った。唯一、参議藤原忠文だけが、先の東国の乱の失態を挽回すべく、太政大臣に志願する旨を伝えた。斯(か)くして藤原忠文は征西大将軍を拝命し、討伐軍の編成に着手した。一方で近藤忠宗に書翰(しょかん)を送り、独自に西国の情勢を掴(つか)もうと動き出した。

 播磨国は既(すで)に梅雨に入って居た。連日の雨を受けてか、草木の成長が著(いちじる)しい。時折梅雨(つゆ)冷えで、気温が一気に下がる時も有るが、盛夏を迎える前の、最後の涼みであろう。

 雨天の中、近藤忠宗の館では、人の出入りが頻繁である。食糧が傷(いた)み易い故に、買出しの者が幾度も往来する為であり、加えて、近藤純友の別動隊が隣国備前に進出したとの報告を受け、近隣に放った密偵等の出入りも有った。

 その館内にて、忠政は簾(すだれ)を上げ、居間の中から空を見上げて居る。不安定な大気は暫々(しばしば)閃光を発し、その後に轟音を響かせて居た。ふと廊下を渡り、近付いて来る足音が聞こえた。その方を見やると、近藤忠宗と村岡重武が向かって来るのを認めた。忠政は何か大事が出来(しゅったい)したと感じ、居間の奥へ入り、姿勢を正して待った。

 やがて二人は居間の前に達し、そこから忠政に向かって座礼を執った。そして先ず、重武が挨拶を述べる。
「若殿、御加減は如何(いかが)に御座りまするか?」
「うむ、もう熱も出ぬし、大分良く成った。」
忠政は微笑(ほほえ)んで返した。

 伊予の合戦で忠政が受けた傷は、久しく忠政の身体を蝕(むしば)み続けた。高熱は十日以上も続き、その後も中々微熱が引かなかった。一方で重傷を負った村岡忠重は、一月程で傷の具合も良く成り、逆に忠政の健康を気遣(きづか)う毎日である。そして、五月に入ってからは微熱も出なく成り、愈々(いよいよ)全快したと、忠政は感じ始めて居た。

 重武は忠政の元気な様子に喜び、笑顔で話を始める。
「先程京より報せが参り申した。それに依れば六月中旬頃、征西大将軍藤原忠文卿がここに御到着され、官軍の指揮を執られるそうにござりまする。」
「おう、其(そ)は何より。これにて我が軍は、不利な処に回されずに済む。」
忠政は大いに安堵した。そして、重武の隣に座る忠宗が、仏頂面を為て言上する。
「畏(おそ)れながら、」
そう忠宗が言い掛けた所で、忠政は話を制し、廊下から居間に上がる様告げた。

 二人は部屋に上がると再び胡坐(あぐら)を構(か)き、忠宗が言い掛けて居た話を続けた。
「畏れながら申し上げまする。某(それがし)が今し方受けた報せに依りますれば、数日前に筑前響灘にて、藤原純友本隊が小野好古様の軍に因(よ)り、壊滅した由(よし)にござりまする。もし忠文様御到着の前に純友が討ち取られる様な事有らば、忠文様の威光は衰え、忠政様も恩賞に与(あずか)れぬ怖れが出て参り申した。」
それを聞いて、重武も深刻な表情と成った。そして、髭(ひげ)を撫(な)でながら述べる。
「確かに、聞く所に依れば、博多津が今戦役最大の戦(いくさ)であろう。そしてその戦に参加した者は、手柄も大きい。機を逃した我等が、今後挽回するには、賊将純友の捕縛を措(お)いて他には有りますまい。」
「されば早々に、瀬戸内へ出陣しようではないか?」
忠政はあっさりと言うも、他の二人は腕を組んで黙り込んだ。忠政が怪訝(けげん)そうな顔をするので、重武がその訳を告げる。
「忠文様は急な御出陣の為、軍勢の徴募が間に合わず、相馬軍一千騎は是非にも、忠文様の本隊に加わる様にとの御命令が下され申した。故に我等は忠文様の御到着まで、ここを出る事は許されませぬ。」
「何と、それでは我等が功を立てる機を逸(いっ)してしまう。」
忠政の声が大きいので、重武は慌てて制した。
「若殿、もし忠文様の怒りを買う様な事が有らば、朝廷より相馬家へ恩赦が下される見込みは無く成り、若殿の御命さえ危うく成り申す。何卒(なにとぞ)忠文様の御意(ぎょい)に背く事は成されませぬ様。」
それを聞いて、忠政ははっとした。軍功を立てて相馬家を再興し、母や兄妹を救う事ばかり考えて居たが、依然己(おのれ)の命すら危うい状況である事を、今改めて認識した。

 しかし重武と忠宗の二人も、このまま手を拱(こまね)いて居る場合では無い事は分かって居た。そして忠宗が、二人に申し出る。
「某(それがし)が西国の情勢を忠文様に御報せ致すと共に、忠政様の御出陣を御願いして見よう。」
重武も他に打つ手は無く、忠政も忠宗に任せるしか無かった。

 話が纏(まと)まると、二将は己の部署へと戻って行った。再び静寂が訪れた居間の中央に忠政は寝転がり、空を見詰めた。そして心に込み上げて来る物は、唯々(ただただ)己の無力を悟った事に因(よ)る、悲愴感であった。

 時は過ぎ、六月も下旬に差し掛かった。梅雨は疾(と)うに明け、連日炎天下の中、蝉(せみ)の鳴き声が響いて居る。しかし、征西大将軍は未だ、播磨に到着する気配を見せない。

 六月十八日、一大事を告げる使者が忠宗の元に到着した。その報を受けて忠宗は顔面蒼白と成り、急ぎ忠政以下、主たる将を広間に集めた。

 突然の召集を受け、諸将は広間に集まると彼是(あれこれ)と噂し(うわさ)、騒然と成って居た。しかし最後に忠宗が忠政と共に入室すると、諸将は話すのを止め、忠宗に注目する。

 場が静まり返り、両名が着座した後、忠宗は落ち着いた口調で話し始める。
「先程、伊予に放って置いた密偵より報せが参った。それに依れば六月二十日、即(すなわ)ち二日前、伊予に逃げ戻った藤原純友を、伊予国警固使橘遠保(たちばなのとおやす)が発見。新居浜に上陸した純友は騎馬にて逃走を図るも、遠保に射落され、捕縛された由(よし)。その後、同行して居た純友の子、重太丸共々処刑されたとの事。」
忠宗の話は終ったが、辺りは沈黙したままである。
「最早(もはや)手遅れか。」
重武がぼそりと呟(つぶや)き、溜息を吐(つ)く。
「いや、未だ打つ手は有る。」
忠宗が緊迫した表情で、重武の言を打ち消した。忠政は驚いた顔をして、忠宗に尋ねる。
「如何様(いかよう)な手か?」
「はっ。首魁純友は討たれたと雖(いえど)も、その重臣は未だ各地に潜伏して居りまする。それ等を討ち平らげれば、朝廷の評価も高まる事でござりましょう。」
忠宗の意見には、重武が難色を示した。
「確かにその必要は有ろう。されど、忠文様の命に背く訳には参らぬ。」
周囲の多くの者が、静かに頷(うなず)いて居た。しかし忠宗は、諸将を見渡して声を強くする。
「いや、純友誅滅の第一報が入った今であるからこそ、忠文様の命を待たずに出陣出来るのでござる。」
「其(そ)は如何(いか)なる訳か?」
忠政は訝(いぶか)し気な面持ちで尋ねた。
「忠文様は昨年東国の乱の折と同様、此度も戦場(いくさば)に赴く前に、賊の首魁が討たれる仕儀と相成り申した。故にこのままでは、忠文様の声望が失墜してしまい申す。そうさせぬ為には、相馬軍の早急なる出陣は不可欠にて、この点は某(それがし)から忠文様へ申し上げれば、御解り戴ける物と存じまする。後は忠政様の軍が賊の残党を成敗致さば、朝廷のみならず、忠文様の覚えも目出度(めでた)き物と成る事でござりましょう。」
諸将はその意見に得心し、賛同の意を示した。重武も満足気な様子を呈し、忠宗に話し掛ける。
「成程(なるほど)、それも道理じゃ。では早急に軍を編成致したく存ずるが、その構成は如何(どう)した物か?」
「既(すで)に賊軍は統率を失った由にて、その一団を発見出来得れば、さしたる兵力は無用かと存ずる。故に、村岡殿の手勢のみにて御出陣下され。海上の移動は、我が水軍の船と水夫(かこ)を御貸し致し申す」
「近藤殿、本当にそれで宜しいのか?」
「はい。当家は忠文様の分家筋。本家の兵力が不足して居る今、当家はその力に成りとう存ずる。」
「然様(さよう)でござるか。では当方のみで出陣させて戴く事と致す。」
「必ずや、軍功を挙げて下され。」
重武と忠宗は向かい合い、確(しっか)りと手を握り合った。そして諸将を見据え、今後の行動を細かく決めるべく、軍議を開いた。

 軍議を経て、近藤軍が情報収集と兵糧の確保、村岡軍が近藤家より軍船を借り、総勢五百騎にて伊予を目指す事と決した。全てを決め終えた時、既(すで)に空は朱色に染まりつつあった。忠宗は明日出陣する村岡軍の為に、細(ささ)やかな宴(うたげ)を用意した。

 宴の最中、当初はあれだけ警戒し合って居た村岡の者と近藤の者が、互いに歌に興じ、名残(なごり)を惜しみ合って居る。忠宗はその光景を見て、未だ幼い忠政に秘められた、類稀(たぐいまれ)なる統率力を感じた。よくよく考察すれば、殆(ほとん)どの決裁は忠宗と重武が行ったが、両者の利害が対立する事柄には、忠政がその都度、妥当な判断を下し続けて来た。加えて、自らが負傷してまでも、家臣を救う勇敢さも見せて居る。

 忠宗は賑(にぎ)わう宴の中、一人黙々と考えに耽(ふけ)って居た。そして何かを決意すると、俄(にわか)に立ち上がり、近くで村岡家の将と酒を酌(く)み交す弟宗弘を呼び止め、二人で館の奥へと消えて行った。

 忠宗は宗弘を自室に入れると、対面して座り、胡坐(あぐら)を構(か)いた。宗弘は程好く酒が回り、穏やかな表情である。
「楽しく飲んで居る所を、何事でござりまする?」
「其方(そなた)に尋ねたき事が有る。」
忠宗は真剣な眼差しで、宗弘を見据える。その眼光を受け、宗弘も真顔に成った。
「何でござりましょう?」
「其方(そなた)、此度の参陣にて、平忠政という人物を、如何様(いかよう)に評す?」
「さて。未だ少年故、この後何(ど)の様に成長なされるかは測り兼ねまするが、あの歳にしては、随分と判断力が備わって居る物と存じまする。又、時折大人をも承服させ得る弁や態度。流石(さすが)は将門殿の御子と御見受け致した次第。」
「そうか。」
忠宗は頭を下げると、小さく息を吐(つ)いた。そして再び頭を擡(もた)げ、真顔で弟に告げる。
「儂(わし)も忠政殿を高く評価して居る。そこでじゃ。其方(そなた)、相馬家へ行く気は無いか?」
「何と?」
宗弘は驚駭(きょうがい)し、微酔(びすい)も一気に醒めた。そして何かを言おうとするのを忠宗は制し、話を続ける。
「儂が思うに、忠文様が此度栄進する事は考え難い。さも成れば、其方(そなた)は近藤家の支流で在る以上、躍進する事は有るまい。しかし相馬家を見ればじゃ、忠政殿には計り知れぬ未来が有る。そして今、御家再興の為に人材を必要として居る。もし今から相馬家に仕え、功績を挙げれば、行く行くは郡司位には成れるやも知れぬ。そう成れば、忠文様の次の時代も、近藤家は栄える事が出来よう。」
「成程。某(それがし)に取っても、近藤家に取っても、又相馬家に取っても、悪い話ではござりませぬな。」
「では行ってくれるか?」
「はい。」
宗弘が承諾したのを聞くと、忠宗は腰に帯びて居た脇差を掴(つか)み、宗弘の方へ差し出した。
「本来なれば太刀を遣(つか)わす所であるが、この脇差は当家の祖、百川(ももかわ)公より伝わり、父上より授かりし物。其方(そなた)の家の宝と致すが良い。」
宗弘はそれを厳粛に押し戴いた。そして忠宗は、漸(ようや)く笑顔を見せた。
「この事は、儂から忠政殿と重武殿に伝えて置く故、今宵(こよい)は村岡家の者と、宴(うたげ)の続きを楽しむが良い。」
兄の言葉に、弟の眼からは涙が溢(あふ)れて居た。
「兄上、某(それがし)への御配慮。感謝の言葉もござりませぬ。」
忠宗は首を振り、弟を抱き起こして、再び宴の間へと戻って行った。そして忠宗は、上座に座る忠政と重武の元へ進み、弟の事を両人に頼んだ。

 重武は、宗弘が相馬家に仕える意志が有る事を聞き、大いに喜んだ。忠政も伊予の合戦以来、宗弘に信頼を寄せて居た。故に己に仕えてくれると聞き、涙が出る程嬉しかった。忠宗は二人の承諾を得ると、立ち上がって、大声で皆に告げた。宴(うたげ)は忠宗の声が響くと、俄(にわか)に中断された。
「皆の者、ここで一つ告げて置く事が有る。我が弟宗弘は、今より相馬家の臣と相成った。よって弟の手勢百騎も、弟と共に相馬軍の直属と成る。これにて相馬家、近藤家の縁は、更に深まった。前途を祝して、両軍勝鬨(かちどき)を上げようではないか。」
忠宗の言葉に、その場に居た物は挙(こぞ)って歓声を上げた。その後、勝鬨を上げる声が夜空に谺(こだま)し続けた。連日どんよりとした夜が続いて居たが、この日は満ち始めた月が、辺りを明るく照らして居た。

 翌朝は再び曇天(どんてん)と成ったが、雨に降られなかった事は幸いであった。しかし空気中の水分は多く、霧と成って周囲の視界を閉ざして居た。

 その中、近藤家の館では、多くの者が正門前に集まって居る。相馬軍の出陣を見送る為であった。既(すで)に村岡勢五百名は整列を終えて居たが、近藤宗弘の手勢は未だ、家族との別れを惜しんで居る。宗弘の配下は皆、将来に期待と不安を抱いて居た。此度の乱平定後の論功行賞次第で、未来が大きく変わるからである。恩賞に与(あずか)れなかった場合は、当然ここに戻って、今まで通り暮らす事に成る。一方で所領を与えられた場合には、未知の土地へ移らねば成らない。そして、その土地が住み易いか否(いな)かも分からない。

 宗弘の元には、当主忠宗を始め、近藤一族が集って居た。
「其方(そなた)の浮沈は、其方自身の手に掛かって居る。確(しっか)りと励めよ。」
忠宗が、弟に別れの言葉を手向けて居る。そして忠宗の長女も又、宗弘に餞(はなむけ)を贈って居た。
「叔父様、これは今春当館内に咲いた躑躅(つつじ)を、押し葉にした物です。御気に入りの書に挿(はさ)み、時折御覧になって、ここを思い出して下さりませ。」
「お嚢(のう)、此(こ)は有難し。中々風流な贈物、大切に致そう。」
そして忠宗の子等は、次々と宗弘に別れの言葉を掛けた。

 その光景を遠目に眺めて居た忠政は、ふと五ヶ月前の事を思い出した。忠宗の長女は、高熱を発して居た己を優しく介抱してくれたが、病(やまい)が移るからと言って、遠ざけけたままであった。思わず、忠政は嚢姫の元へ駆け寄って居た。嚢姫は忠政に気付くと、笑顔を見せる。
「御快復なされたのですね。良かった。」
嚢姫が心底安心した表情を見せたので、忠政はこの上無く嬉しく感じ、一方で、今まで御礼の言葉も伝えて居なかった己を恥じた。
「貴女(あなた)の御蔭と存じ申す。出発の前に御礼を言いたかった。」
嚢姫はそれを聞いて恥ずかし気な風(ふう)であったが、やがて懐より小さな包みを取り出し、忠政に差し出した。
「これは武運の護符にござりまする。忠政様に御会い出来たら御渡ししたいと、用意致して居りました。忠政様が再び不幸な目に遭(あ)われませぬ様。そして叔父様も、御無事で居られます様に。」
「有難く頂戴致す。大丈夫、宗弘殿は強き武者。そして私の大事な家臣じゃ。」
そう告げて忠政は振り返り、重武の元へ戻って行った。

 忠政が重武と共に騎乗すると、宗弘の手勢も急ぎ、村岡勢の後方に整列する。宗弘も騎乗して近藤勢の前に立つと、忠宗は家臣に命じ、出陣太鼓を叩かせた。やがて正門が開かれ、軍勢は整然と前進を始めた。

 忠政は馬上より、近藤家の者を眺める。己を支え、共に戦った近藤忠宗。優しき少女嚢姫。二人の事は忠政の胸に、深く刻み込まれた。軍勢は館の正門を潜(くぐ)ると、静かに霧の立ち籠(こ)める中へ消えて行った。

 相馬軍は伊予に到着すると、警固使橘遠保の下、残党狩りに加わった。そして純友が捕えられた新居浜の西方、和気郡より西を目指して捜索を開始した。見通しの良い海岸線に潜(ひそ)んで居る可能性は低いと断じ、軍勢の大半を内陸部へ送る一方、残る一部の兵は船に乗り込み、近くの小島を捜索した。忠政自身は、新たに配下に加わった近藤勢を率い、小島の探索に当たった。

 近藤水軍は燧灘から来島海峡を抜け、斎灘に至った。ここに来るまでの間、賊の足跡は微塵(みじん)も見られなかった。所が、伊与郡沖を航行中、兵の一人が大きな木片を波間に発見した。よく見れば、船の残骸の一部である。海の時化(しけ)に遭(あ)って難破した物であろうが、戦(いくさ)に敗れた賊船の物である可能性も否(いな)めない。忠政は宗弘に、近くの島へ上陸する様に命じた。

 最寄りの島は、海岸線の殆(ほとん)どが絶壁であったが、一部砂浜が有ったので、そこに接岸した。島に漁村は無く、人影は見当らない。されど、島の大部分が起伏に富む岩場で、加えて木々が生い茂って居るので、海賊が潜(ひそ)むには絶好の場所とも思える。上陸した砂浜とて、周囲の小島に阻(はば)まれ、伊予本土から望む事は出来ない。

 然程(さほど)大きな島では無いが、賊が多数潜(ひど)んで居る可能性も否めない。故に百名全員を上陸させた。空は梅雨の曇天(どんてん)である。木が茂る辺りは陽が届かず、昼間だというのに暗い。兵達は刀で草を薙(な)ぎながら、慎重に進んで行った。

 忠政は瀬戸内海の景色に見入って居た。内陸の下総や山城で育った所為(せい)か、潮の匂(にお)いを嗅(か)ぎながら青い海原を眺めると、何とも言い様の無い心地好さを覚えた。上陸した砂浜から、西側の海岸沿いに岩を攀(よ)じ上ると、眼前に伊予灘が広がる。潮風を受けながら、慎重に岩場を上り下りする内に、気が付けば周囲には、味方の姿が見えなく成って居た。心細く成ったので戻ろうかとも思ったが、耳を澄ませば何処(どこ)からか、味方の声が聞こえて来る。折角(せっかく)独りの時間が持てたのだから、もう少し散策して見ようという気持に成り、忠政は海岸沿いに、狭い岩場を進んで行った。

 ふと、前方の岩の隙間に、洞窟を発見した。中に入ると、眼が慣れるまでは真っ暗闇であったが、次第に視認出来る様に成って来た。

 突然、忠政は心臓が止まる程に驚いた。洞窟の中に人が二人、倒れて居るのを発見したのである。よく見ると一人は武者で、深傷(ふかで)を負って居るのか、呼吸が荒い。そしてもう一人は、未だ童(わらべ)の様であった。

 忠政が恐る恐る近付くと、その鎧(よろい)の擦(こす)れる音に武者が気付いた。
「誰だ?」
(すで)に大声は出せなく成って居る様だが、突然の声に忠政は再び驚いた。しかし、何処(どこ)かで聞いた声でもある。
「私は平忠政。官軍の下、賊の掃討に当たって居る。其方(そなた)の方こそ何者か?」
忠政は抜刀して身構えた。他にも敵が居れば、己の身が危ない。逃げようかとも思ったが、既に足が竦(すく)んで居る。

 武者は声を震わせながら、呻(うめ)く様に答えた。
「おお、あの時の童(わらし)。今春の伊予の戦以来か。儂(わし)は豊田利光。覚えて御出でか?」
忠政ははっとした。よく見れば、伊予の合戦の折に自陣を切り崩し、忠重に重傷を負わせた敵将である。憎い仇(かたき)の筈(はず)であるが、瀕死(ひんし)の姿を見ると、不思議と怒りが込み上げて来なかった。

 ふと、利光の横に伏して居た童(わらべ)が起き上った。背丈は忠政より一回りも小さい。そして忠政に気付くと戦慄(せんりつ)した様子で、歯を震わせながら、じっと忠政を見詰めた。
「この子供は?」
忠政が尋ねると、利光は深い溜息を吐(つ)き、掠(かす)れた声で話し始めた。
「その子には何の罪も無し。一言加えれば、貴殿と同じ境遇と成りし子供でござる。某(それがし)の首は差し上げる。されどその子の命ばかりは、何卒(なにとぞ)御助け下され。」
忠政は震える童子の服を掴(つか)んだ。そして外からの光が当たる所まで連れて行くと、童子の服に藤の紋が刺繍されて在るのに気付いた。又、襟の内側には「藤原純友子重太丸」と書かれて在る。重太丸は、父純友と共に新居浜にて捕縛された筈である。それを問い質(ただ)そうと利光の方へ振り返った時、利光は最後の力を振り絞って短刀を喉(のど)へ刺し、自害して居た。

 呆気(あっけ)に取られて立ち竦(すく)む忠政の耳に、己を探す味方の兵の声が聞こえて来た。忠政は慌てて洞窟の中を探し、汚れて傷(いた)んだ童子の服を見付けた。そして童子の服を脱がせて己の鎧(よろい)へ仕舞い、代りにその粗末な服を童子に着せた。
「南無阿弥陀仏。」
念仏を唱えてから利光の首を落すと、右手にその首級を持ち、左手で童子を引いて、洞窟を出た。

 近くに居た三人の兵が、忽(たちま)ち忠政の姿を発見した。そして、急ぎ忠政の元に駆け寄って来る。
「殿、御姿が見えなく成り、心配致し申した。おや、その首と童(わらべ)は?」
「賊将豊田利光と、捕われて居った漁民の子よ。」
忠政は脳裏は混乱しながも、何とか誤魔化す言葉を探し得た。忠政が童子に着せた服は、陽の下で見ると本当に汚れが酷(ひど)く、兵達を信じさせるのに充分であった。それよりも兵達の眼は、かつて仲間の多くを殺した敵将、豊田利光の首に向けられて居る。そして、見事仇(かたき)を討ってくれた忠政に、感謝と称賛の言葉を掛けた。

 忠政は、兵の一人に利光の首級を渡し、別の兵には帰路の案内を頼んだ。そして自ら童子の手を引き、岩場の悪路を戻って行った。

 途中、特に命令を受けて居ない兵が童子の面倒を申し出たが、忠政はそれを断った。その後、兵との距離が開いた時、童子にそっと告げた。
「御主は漁民の子。誰にも素姓(すじょう)を明かしては成らぬ。」
童子は黙って頷(うなず)いたが、その表情は戦(おのの)いて居る様子であった。

 忠政等が砂浜に戻ると、既(すで)に幾つかの小隊が担当領域の捜索を終え、宗弘に報告を行って居た。何(ど)の小隊も有力な手懸りを掴めず、意気消沈して居る所へ、忠政に随行して来た兵が利光の首級を掲(かか)げ、仇(かたき)を討った旨を大声で触れて回った。浜では喝采が起り、宗弘も驚いた様子で、後れて到着した忠政を見詰めて居た。忠政は宗弘の元に到着すると、笑顔を浮かべて告げる。
「西の崖に洞窟が在り、そこに賊将豊田利光が隠れて居った。配下を失い、大分衰弱して居ったので、私一人で討ち取る事が出来た。」
吉報を受け、宗弘は大いに喜んだ。
「流石(さすが)は殿。大手柄にござりまする。」
そして宗弘は、忠政が手を引く童子に気を留め、視線を移す。
「して、その童(わらべ)は如何(いかが)なされた?」
「うむ。洞窟の中で利光に捕われて居ったので、救出して参った。」
忠政はさり気無く答え、宗弘も特に疑念は抱かない様子である。

 申(さる)の刻に成ると、次第に西の彼方(かなた)が赤く染まり始めた。この島には、利光と童子の他に人影は見当らず、洞窟の中にも役に立ちそうな物は発見されなかった。近藤水軍が集結を果した浜からは、船が続々と伊予本土を目指して出航して行った。

 本土への帰途、忠政は童子を同じ船に乗せた。童子は夕闇の奥に消え様として居る小島を、何時(いつ)までも名残(なごり)惜しそうに見詰めて居る。その様子を気に掛けた忠政は、童子の肩にそっと手を置いた。驚いて振り返る童子の目からは涙が零(こぼ)れ落ち、俄(にわか)に嗚咽(おえつ)を始めた。忠政は童子に深い同情を覚え、顔を顰(しか)めたが、出来得るだけ穏やかな声で語り掛けた。
「これより其方(そなた)には、新しき暮しが始まる。そして其方が自身を護る為に、忠告して置く事が有る。それは人から素姓(すじょう)を尋ねられても、絶対に話しては成らぬという事。その為には、利光殿に捕えられ、その折に記憶を失ったという事にすれば良い。其方にそれが出来るかな?」
忠政が笑顔を向けると、童子は安心したのか、噎(むせ)びながらも素直に頷(うなず)いた。
「それなら良し。」
忠政は童子の肩を抱き寄せると、優しく頭を撫(な)でた。そして、思い出した様に呟(つぶや)く。
「そうじゃ。名が無くては不便であろう。名前を付けてやる。」
あれでも無い、これでも無いと考えて居る内に、一つの名が頭に浮かんだ。
「三郎は如何(どう)じゃ?私の名は小次郎というのだが、兄弟の様であろう?」
しかし、童子はきょとんと忠政を見上げるだけで、何も答えなかった。

 やがて日が暮れた。周囲が闇に閉ざされた頃、童子は忠政に倚(よ)り懸(かか)りながら、寝息を立て始めた。忠政はこの童子の境遇が、坂東の地で行方知れずと成って居る兄妹と、重なって感じられた。しかし、己の脇で眠る童子が純友の実子であり、それを豊田利光が匿(かくま)って居たという事は、充分に考えられる。もしそうであるならば、大変な危険を冒(おか)して居る事に成る。本土に戻ったら、重武に全てを話し、意見を求めるべきか。忠政は暫(しば)し葛藤し続けた。やがて、ある決意を固めた。重武に相談すれば、怖らくは慎重な行動を求められ、この童子を官軍に引き渡すであろう。しかし、忠政自身がかつて賊の首魁の子と非難されて居た時、大叔父平良文は危険を承知の上で、己を救ってくれた。それを思い出すと、今度は己がこの童子を救ってやらねば成らぬと思われた。

 加えて、西国の乱が収束に向かうに連れて、出陣の折に忠政の脳裏(のうり)に芽生(めば)えた懸念が、次第に大きく成って居た。それは、相馬軍の八割以上を、村岡勢が占(し)めて居るという現状である。このままでは、仮に朝廷より所領を賜り、相馬家が再興したにせよ、所詮は村岡氏の傀儡(かいらい)に過ぎず、忠政の理想とは程遠い物と成ってしまう。相馬家の中に己の確固たる地位を築く為には、多くの忠臣を得なければ成らず、その為にも、この童子三郎を己が護ってやらねば成らない。忠政はそう感じて居た。

 伊予郡の浜辺に近付くと、纏(まと)まった明かりが見える。打ち合わせた通り、先に捜索を終えた村岡勢の幕営が布(し)かれて居た。近藤勢は砂浜に船を揚げると、次々と上陸し、村岡勢と合流した。

 宗弘は家臣に幕営を命じると、忠政と共に重武の元へ向かった。忠政は三郎と名付けた童子を伴い、一応重武に会わせて置こうと考えた。

 村岡軍の本営に着くと、忠重が迎えに出て居るのが見えた。笑顔を見せつつも、心からの物ではない。陸の方では成果が無かったのかと感じながら、忠政も又笑みを返した。

 案の定、忠重も忠政が童子を連れて居るのを見て、怪訝(けげん)そうな顔をした。
「御帰りなされませ。殿、その子供は如何(いかが)なされた?」
「ああ、沖の島にて拾って参った。詳しくは後程(のちほど)話そう。取り敢(あ)えず重武も交えて、互いに成果を報告し合おうぞ。」
忠政の言葉に忠重は頷(うなず)き、陣所の中へと導いた。しかしその表情は、訝(いぶか)しんだままである。忠重の視線を受けた童子も、不安の色を濃くして居た。

 本陣の中では、重武以下村岡家家臣が居並び、忠政の姿を認めると、一斉に礼を執った。総大将の席が空いて居たので、忠政は童子を連れてその座に着いたが、前方の席は全て埋まって居た。已(や)むなく宗弘は後方の席に着いたが、忠政は床几(しょうぎ)を一つ持って来させ、童子を己の傍(そば)に座らせた。童子は諸将の注目を集め、緊張の余りに凍り付いてしまった。村岡家からは童子の素姓(すじょう)を尋ねる声が上がったが、忠政はそれを制して、先ず重武に報告を求めた。

 重武の報告では、安芸灘沿岸には賊徒の足跡は無く、何の手懸りも得られなかったとの事であった。未だ捜索の一回目なので、大きな動きは無いであろう。村岡家家中はそういう見方の様である。

 続いて忠政は、宗弘に水軍方の報告をする様命じた。宗弘は最後列に居たので、立ち上がると皆に聞こえる様、大声で話し始めた。そして、先の戦(いくさ)にて相馬軍に大打撃を与えた賊将、豊田利光を忠政自ら討ち取った事を告げると、村岡家の諸将は俄(にわか)に響動(どよ)めいた。宗弘の家臣がその首級を持参して示すと、響動(どよ)めきは喝采に変わり、忠政には畏敬の眼指が注がれた。
「流石(さすが)は将門殿の御子。人並成らぬ御武勇よ。」
真っ先に賛辞を送ったのは、重武であった。その顔は、忠政の成長を切に喜び、涙が溜って居る様である。そして、忠重が忠政の前に跪(ひざまず)き、嘻々(きき)とした表情で言上する。
「豊田利光は某(それがし)に瀕死の傷を負わせた憎き敵。殿には御礼の言葉もござりませぬ。」
村岡家は歓喜に沸いた。忠政は忠重を立たせて席に戻すと、自身もゆっくりと席に着いた。そして、一息吐(つ)くと諸将を鎮め、出来るだけ表情を消しながら、重武に話し始めた。
「その島でじゃ、この童子を拾って参った。利光に捕われて居った様でな。可哀想に、記憶も定かではない。」
忠政は重武に視線をやった。重武は依然として、笑顔を浮かべて居る。
「何とも御優しき御心かな。某(それがし)は若殿が仁君の道を歩もうと成される事、真に嬉しゅう存じまする。」
重武の言葉を聞き、忠政は一瞬安堵を覚えた。だが、重武の言葉には続きが有った。
「さればでござる。我等は朝命を拝し、当分は帰還の出来ぬ身。故にその童子は、近くの寺にでも預け申そう。」
これは予想される事であった。そして忠政は、今まで抱いて居た心意を、素直に述べる事が出来た。
「重武の申す事は、至極当然の事。それ故私も、当初はその様に考えて居た。されどじゃ。この童子は戦禍に因(よ)り孤独の身と成りし者。私がこの者に寄せる惻隠(そくいん)の情、皆なら理解出来るであろう?」
確かに父を失い、母や兄妹とも生き別れた忠政に、重武も宗弘も同情の念を抱いて居る。暫し一同に沈黙が続き、やがて重武が穏やかな表情で口を開いた。
「若殿は本日一番の功労者にござり申す。御心のままに成さりませ。」
それを聞いて忠政は漸(ようや)く、心底よりの笑顔を湛(たた)えた。
「では、私はこの童子を家臣として、傍に置く事とする。又、童子には三郎の名を与える。」
諸将が皆納得した様なので、忠政は己の衣服を三郎に与え、今着て居る襤褸(ぼろ)から着替えさせ、髪も綺麗に結い直させた。中々凛々(りり)しき姿に変わったのを見て、諸将は驚嘆の声を上げた。忠政もその姿を見て嬉しく思う反面、三郎が未だ心を開いて居ない様子に、一抹の不安を感じて居た。忠政は己の懐に手を当てた。その下には、三郎が着て居た衣服が忍ばせて在る。もしこれが露顕すれば、三郎のみならず、我が身をも危うくするやも知れぬ物である。忠政はそっと胴から手を離し、沸き上がる不安を必死に抑えた。気が付くと、軍議は明日の行動予定に移って居た。

 その日、忠政は寝所に三郎を伴い、隣り合って横に成った。三郎は一切口を利かないが、視線を忠政に向け続けて居る。二人が入った幕舎は小さく、他に誰も居ない。辺りは静寂に包まれ、只篝火(かがりび)のパチパチ弾(はじ)ける音だけが聞こえて居る。
「明日は早い。其方(そなた)には暫(しばら)く私の傍に居て貰(もら)う故、良く休んで置く様。」
忠政が三郎にぼそりと告げたが、三郎の返事は無い。外から入る僅(わず)かな光が、三郎の眼をギラギラと輝かせて居る。忠政は溜息を一つ吐(つ)くと、寝返りを打って三郎に背を向けた。

 やがて忠政が眠りに落ち様とした時、ふと衣服の後ろを引っ張られる様な感じがした。驚いて振り返ると、三郎が相変わらず此方(こちら)を見詰めて居る。
「如何(いかが)致した?」
忠政は苦笑しながら、優しく尋ねた。すると三郎は、無表情のまま口を開いた。
「貴方は何者なのです?」
暗闇に慣れた眼でよく見ると、三郎の体が震えて居る。訳も解らずに連れ回され、余程不安であったのであろう。忠政はその不安を解いてやるべく、真剣な眼指しを三郎に向けて告げる。
「私の名は平小次郎忠政。昨年関東にて乱を起した、平将門の次男に生まれた。その後村岡平家良文様の養子と成り、一命を救われた。そして此度、実父の家を再興すべく、官軍に加わって居る。」
「では、私の敵なのでござりまするか?」
咄嗟(とっさ)に返された三郎の言葉に、忠政は強く心を痛めた。しかし表情は変えずに、三郎に優しく尋ねる。
「其方(そなた)は私が憎いか?」
「貴方は利光を殺しました。しかし私を助け様として下さりまする。今は未だ判(わか)りませぬ。」
「利光殿は其方の家臣か?」
「父の家臣にござりましたが、私を匿(かくま)ってくれました。そして、利光の子が私の身代りに捕まりました。」
「成程(なるほど)、利光殿は真の忠臣じゃ。そして其方は、一つ勘違いを致して居る。利光殿が自害されたのは、私が追い詰めた為ではない。私に其方を託し、その助けと成るべく自害されたのじゃ。其方と私は同じ運命を辿(たど)りし者。兄弟として、共に生きて行かぬか?」
忠政の言葉に、三郎は暫(しば)し考え込んだ。やがて忠政の優しい眼指に絆(ほだ)されたのか、大きく頷(うなず)いた。

 忠政は三郎を己の布団に入れ、懐に抱き締めた。やがて三郎の表情から緊張の色が消え去り、安心した顔で寝息を立て始める。忠政は三郎の心情に同情を覚える一方、漸(ようや)く三郎が弟と成ってくれた事が嬉しかった。

 やがて雲に切れ間が生じ、そこから月の光が煌々(こうこう)と降り注いだ。その光は忠政の幕営にも達し、二人の寝顔を照らす。そして、漸(ようや)く得られた安堵感と幸福感から、二人の目より溢(あふ)れ出し、頬(ほお)を伝う涙を輝かせて居た。

 その後、相馬軍が伊予灘周辺の捜索を続ける一方で、西国各地では残党の捕殺が相次いだ。八月七日には小野好古が凱旋入京し、都は戦勝に沸いた。八月十七日、賊将佐伯是基(さえきのこれもと)等が日向に襲来し、迎撃に出た官軍藤原貞包(さだかね)が翌日、これを捕虜にした。九月六日には賊将桑原生行(くわばらのたかゆき)が豊後国海部(あま)郡佐伯院に攻め入り、経基王がこれを撃破した。又同月十九日、賊六名が備前国邑久(おく)郡桑浜に漂着したとの報が入り、備前国司は隣国播磨、美作、備中に警戒を促(うなが)した。やがて二十二日には、賊が播磨へ逃亡したとの報せを受け、近藤忠宗も出動して捜索に加わった。そして赤穂(あこう)郡八野郷の石窟(せっくつ)にてこれを発見するも、賊将三善文公(みよしのふみきみ)一人を打ち取ったのみにて、残りは取り逃がしてしまった。その場を逃れた藤原文元(ふみもと)、文用(ふみもち)兄弟も、法師に扮(ふん)して但馬国朝来(あさご)郡朝来郷の旧友賀茂貞行(かものさだゆき)の元まで落ち延びたが、遂(つい)には貞行に因(よ)り殺害されてしまった。十月十九日の事である。そして二十三日に漸(ようや)く、山陽南海両道において警固使(けいごし)、押領使(おうりょうし)を停止するに至った。十一月に朝廷は、遂(つい)に西国の反乱が完全に平定された事を天下に公布し、太政大臣藤原忠平は寛明(ゆたあきら)天皇の摂政を辞し、関白に就任した。

 伊予に駐屯して居た相馬軍も、征西大将軍藤原忠文の命を受け、都へ引き返す事と成った。引揚げの船に乗り込み、出航の準備が整うと、忠政は全軍に播磨への帰還を命じた。軍船が続々と陸を離れる最中、忠政は三郎と並んで艫(とも)に立ち、今まで幾度も見て来た伊予灘を眺めて居た。
「伊予の海も、これにて見納めやも知れぬな。」
秋晴れの下、爽(さわ)やかな海風を受けながら、忠政は呟(つぶや)いた。傍らの三郎は黙ったまま、哀し気な顔をして居る。忠政に取っては武勲の地と成った伊予も、三郎に取っては悲劇の故国である。その心情は察するに余り有った。

 三郎は忠政の家臣と成った後、忠政の計らいで忠重や宗弘等と、少しは打ち解け始めた。素は朗(ほが)らかな性格である事が判(わか)ると、彼等も三郎を可愛(かわ)いがった。その後の三郎は、日々笑顔を絶やさなかったが、愈々(いよいよ)伊予を離れる時に成って再び、悲哀の色が浮かんで居た。

 忠政は三郎に同情を覚える一方、帰京後の恩賞に大きな関心を抱き始めて居た。相馬軍の功績は、伊予の陣にて追捕使小野好古を救った事、敵将藤原恒利を調略し、伊予攻略へ繋(つな)げた事、賊将豊田利光を打ち取りし事等である。又、大将忠政が負傷した事で、諸将の同情も得る事が出来た。父将門は反乱を起こす前、三郡の主であったが、此度の恩賞では一国を与えられる可能性も有るのでは、とも期待された。忠政は輝く海を眺め、希望に満ちたまま引き揚げる事が出来た。

 播磨に着くと、近藤家の者が熱く迎えてくれた。しかしそこには既(すで)に、当主忠宗の姿は無い。聞けば先に出発し、忠文に随行して京を目指したのだと言う。近藤家では一泊し、翌日京へ向かう事とした。その日の夜は戦勝の宴(うたげ)が催され、近藤家の者も村岡家の者も、戦場(いくさば)の憂(う)さを、大いに晴らして居た。歌や踊りを楽しむ者も居れば、武勇伝に花を咲かせる者も居た。

 忠政は中座し、再び嚢(のう)姫に会って話をしたかった。しかし近藤家の者が、以前と異なり引っ切り無しに話し掛けて来るので、中々その機会を得られない。近藤家の者も、今までは忠政が子供故に、飾りとして立てられた大将と考えて居た。しかし、宗弘の家臣が忠政の軍功を彼方此方(あちこち)に伝えて回ったので、すっかりと尊敬を集めてしまった様である。忠政は行軍の疲れも有り、何時(いつ)しか横たわって、眠りに就(つ)いて居た。

 翌日早朝、村岡勢は早々に出発の仕度を終え、整列して居た。本日より陸路を採るに当たり、天候に恵まれた事は幸いであった。上洛に当たり近藤家からは、宗弘と三名の近習のみが随行する事と成った。忠政が恩賞に与(あずか)るまでは扶持(ふち)を出せず、援助してくれて居る村岡平家に、余計な負担を懸けさせまいとする思案の末であった。

 出発の時、共に戦った宗弘の家臣団は、大声で暫(しば)しの別れを告げてくれた。その中には、早く所領を賜り迎えに来て欲しい、との声も有った。忠政は馬上にて堂々と構え、出来るだけ頼もしそうに振舞う事で、その期待に応(こた)え様とした。やがて館の正門を潜(くぐ)ろうとした時、忠政は門の脇に立つ嚢(のう)姫の姿を認めた。急な事に掛ける言葉が見つからなかったが、これが最後の別れかも知れないと思うと、何かしらして上げたいと思う。しかし成した事は、笑顔を向けただけであった。それを受けて嚢姫も、笑顔を忠政に返す。そして次の瞬間、忠政は近藤館を後にした。

 相馬軍は山陽道に沿って東進し、摂津国経由で京を目指した。しかし出発から間も無く、忠政の傍(そば)を歩いて居た三郎が、早々に疲れてしまった。仕方無く忠政が、己の馬に乗せてやろうと軍を止めると、忠政より先に後ろに居た宗弘が、自分の馬に三郎を引き上げた。三郎も馬に乗れて安心した様子であったので、忠政は再び軍を進めた。この時忠政は、宗弘が三郎を助ける姿を見て、甚(いた)く安堵感を覚えた。相馬軍は今や九割九分が村岡兵である。もしここで村岡勢が抜ければ、忠政の率いる集団は一気に、軍とは呼べぬ小規模な物に成ってしまう。それ故に村岡氏が頼みと成る一方、もし忠政が郡司と成り得たとしても、郡政の権限は悉(ことごと)く村岡氏に握られてしまうであろう。そう成らない為にも、村岡氏に属さない勢力が家中に拡大し、手を結ぶ事が望まれる。宗弘と三郎の協力はその第一歩であると、忠政の目には映って居た。

 その日の夜、相馬軍は摂津国北東部、淀川の辺(ほとり)にて夜を明かし、翌日の昼に山城国へ入った。重武は京の南方一里の寺に軍を留め、二十騎ばかりを伴い、再び北上して羅生門を目指した。

 羅生門を過ぎると、一年振りの都である。左京の繁栄も、右京の荒廃も相変わらずであった。一行は先ず藤原忠文邸を目指す事とし、一方で重武が郎党の一人を遣(つか)わし、平良文邸へ入京を報せに行かせた。

 左京は人通りも多く、賑(にぎ)やかである。初めて都の風景を目にした三郎は、全てが珍しいらしく、辺りをきょろきょろと眺め続けて居た。そして宗弘と共に馬に乗って居る故に、うろちょろと歩き回る事が出来ず、歯痒(はがゆ)そうにして居る。

 やがて京の奥へ入って行く内に、忠政は道行く人々が、自分達に称讃の声を掛けてくれて居る事に気が付いた。京人は一昨年前の関東の大乱以来、常に世上の不安を感じ続けて来た。そして二年に渡る東西の反乱が鎮圧され、漸(ようや)く海内に平和が訪れた事を聞き、その喜びが未だ醒(さ)めやらぬ様である。武装した一軍を見掛けては、反乱の討伐に貢献した将兵と見て、賛辞の声を掛けて居るのであった。京では逆族の子と蔑(さげす)まれる苦い記憶が多いだけに、この様に迎えられると、凱旋とは至極(しごく)気持ちの良い物であると、忠政は感じた。そして気分を良くして、忠文邸へ向って行った。

 その日、畿内には寒気が押し寄せ、丹波方面より粉雪が舞って来た。先月までは風雅な錦(にしき)色を呈して居た木々も、今はその色の多くを落し、都においても厳寒の冬を迎えようとして居た。

 やがて忠政一行は忠文邸に到着した。正門を潜(くぐ)り、庭園を過ぎると母屋に達するが、その前で忠文や忠宗等が迎えに出て居た。忠政は忠文の前に出ると膝を突いて礼を執り、落ち着いた口調、表情で報告する。
「平忠政、只今戻りましてござりまする。」
「うむ、一年見ぬ内に其方(そち)も忠重も、見違える程に成長致した。今宵(こよい)は良文殿も招き、宴(うたげ)を開いてその労を犒(ねぎら)おうと思う。それまで、緩(ゆる)りと体を休めるが良かろう。」
忠文は至って上機嫌であった。此度西国の戦においても、昨年の東国の乱と同様、大将軍を拝命しながら、戦地に赴く前に首魁が討たれ、残党狩りにしか加われないという失態を犯して居た。しかし此度は、忠政が早くより忠文の命の下、追捕軍に加わって居た為に、何とか体面を保てる状況に在った。
「忠政殿、御久しゅうござる。あの後も、賊将を討ち取る軍功を挙げられたとか?」
続いて話し掛けて来たのは、忠文の傍に居る忠宗であった。互いに半年振りの再会を喜び、笑顔が溢(あふ)れる。
「いや、忠宗殿こそ播磨にて、賊の残党を掃討されたとの事。流石(さすが)にござる。」
やがて忠文の家人が忠政等を部屋へ案内すると言うので、その場を辞して各部屋へと向かった。

 忠政が案内された部屋は、出陣前とは比べ様も無い程広く、又調度品も上等な物が置かれて居た。忠政は呆気(あっけ)に取られ、余り広いのも落ち着かないと思い、三郎をここへ呼んだ。三郎も又、その部屋を見て驚いた様子である。
「流石(さすが)相馬家の御当主とも成りますれば、立派な御室が宛(あて)がわれるのでござりまするな。」
「私も驚いて居る。東国にて乱が起きた頃は、下男同様の生活であった故な。」
驚きや嬉しさの他、忠政は一抹の不安も覚えて居た。
(もしも朝廷からある程度の恩賞に与(あずか)れなければ、忠文卿はかつての様な、粗末な扱いに戻すのであろうか?)
彼是(あれこれ)と悩んだが、今宵(こよい)数少ない味方の一人、義父良文に会えると思うと、幾分心が安らいだ。

 その日の夜、忠文は宴(うたげ)の席にて、常陸介平良文と、忠文の弟相模権守(さがみごんのかみ)忠舒(ただのぶ)を両脇に座らせ、又忠政を良文の脇、忠宗を忠舒の脇に座らせた。一年振りに見(まみ)えた良文は、高齢ながらも依然として矍鑠(かくしゃく)たる容貌(ようぼう)を見せ、坂東に割拠する桓武平氏の長者たる威厳を漂(ただよ)わせて居た。忠政は己を救ってくれた良文を頼もしく思って居たが、この時は畏怖も感じた。

 宴(うたげ)の冒頭では、忠文が西国における官軍の勝利を謳(うた)い、又出陣した諸将を称(たた)えた。諸将も征西大将軍の任を全うした忠文を称え、和(なご)やかな雰囲気の中、宴は始められた。歌舞が催され、戦場(いくさば)では到底考えられなかった趣(おもむき)を感じさせる。

 ふと、良文が呼ぶ声が聞こえた。忠政が恐る恐る振り向くと、良文は先程と一変して、穏やかな顔を向けて居る。
「よう頑張った。その歳で敵将を討ち取るとは、もう立派な相馬武士じゃな。」
そして、良文は手に持つ盃を一気に飲み干した。
「いえ、百戦錬磨の重武殿と、地理や水軍に通じた忠宗殿が支えてくれた御蔭にて、如何(どう)にか戦う事が出来申した。」
忠政が謙遜して答えると、良文の目付きが俄(にわか)に鋭(するど)く成った。
「実を申さば、忠文様が其方(そなた)に近藤水軍を御貸しになられたと聞いた時、儂(わし)は斯様(かよう)に目覚しい戦果を挙げるとは、露(つゆ)程も思わなんだ。其方は弱冠十一歳。所属の異なる軍を纏(まと)める事等、並の者に出来得る物ではない。聞けば其方は、自ら負傷しつつも戦い、倅(せがれ)忠重も救ってくれたとか。その真摯(しんし)な行動が、村岡近藤両家の心を掴(つか)んだのであろうな。」
そう述べると、良文は再び己の盃に酒を注(そそ)ぐ。

忠政は、政(まつりごと)という物は未だ解らない。故に、西国の大乱平定に多大な貢献を成したと思いつつも、本当に相馬家を、父の代の頃の様に再興出来るのか、暫々(しばしば)思い悩んで居た。ふと、拍子の音に紛(まぎ)れて、忠政の懸念に触れる言葉が聞こえて来た。声の主は良文の向こう側、忠文と忠舒(ただのぶ)兄弟であった。藤原忠舒は坂東の大乱の折、忠文の推挙に因(よ)って、経基王と共に征東副軍将軍を拝命し、坂東に下向した。この遠征は、到着前に藤原秀郷等に因って、粗方(あらかた)鎮圧されて居た為に、忠文は恩賞に与(あずか)る事が出来なかった。所が、副将軍の忠舒は従五位上に昇り、相模権守に任官した。故にこの不可解な人事を忠文は、政敵藤原実頼が太政大臣に働き掛けた物と断じ、怨みを増幅させて居たのである。

 忠舒(ただのぶ)は、兄に酒を注(つ)ぎながら話して居る。
「此度も、恩賞に与(あずか)るのは難しいのではありませぬか?兄上は既(すで)に祖父春津(はるつ)公、父枝良公よりも上の位に昇られ、式家の長者として北家も警戒して居りましょう。」
「忠平様も、北家が藤原氏の長者と成るのに、我が祖百川公の功績が有った事を御忘れじゃ。実の子とはいえ、実頼の讒訴(ざんそ)を鵜呑(うの)みに成されるとは。」
「しかし此度は、兄上も五ヶ月に及び西国に滞在なされ、朝廷も恩賞無しとは参りますまい。されど、実頼殿との対立が激しく成る以上、高望みは出来ませぬな。」
(すで)に東国の戦役にて昇進を果たした忠舒は、余裕の表情で語って居る。一方で曾祖父以来の三位を狙いつつも、中々果せずに居る忠文は、心中の焦燥(しょうそう)を掻(か)き消さんと、勢い良く盃を呷(あお)って居た。

 二人の会話を聞いて、忠政の不安は更(さら)に募(つの)った。その様子を顔に滲(にじ)ませて居るのを見た良文は、手に持つ盃をそっと置き、忠政の方へ体を向けた。それに気付いた忠政も、良文と向かい合う。良文は忠政を睨(にら)む様に見るので、忠政は些(いささ)かたじろいだ。一転、良文は口調を穏やかにして話し出す。
「実を申せば、其方(そなた)が此度、父の遺領である豊田、猿島、相馬の三郡、あるいはそれに相当する所領を賜る事は難しい。それ所か、僻地(へきち)の一郡すら得られぬやも知れぬ。」
胸中の不安を的確に突かれた忠政は、更に動揺の色を深めた。良文は話を続ける。
「何故(なぜ)かと申せば、其方(そなた)の父が起した大乱は、太政大臣までもが朝廷の転覆を案じた程の大事。一代で許してしまえば、再び同じ禍(わざわい)を招くやも知れぬ。故に、直ぐの御許しは得られまい。よって此度は其方が今後、将門殿の罪に因(よ)り不利を被(こうむ)らぬ様、恩赦を得られれば良しと考えよ。」
その言葉に、忠政は絶句した。これでは、己は何時(いつ)相馬家を再興し、生き別れた母兄妹と再会できるか分からない。忠政の表情から絶望の色を窺(うかが)い見た良文は、脳裏(のうり)に一つの考えが過(よぎ)った。そして、此度の戦役を立派に戦い抜いた忠政の成長を考慮し、良文は忠政に告げて置こうと断じた。良文は憮然(ぶぜん)とする忠政の耳に顔を近付け、小声で話す。
「其方の母御、兄小太郎殿、妹五月殿、春殿、皆常陸にて健やかに居られる。」
忠政は驚駭(きょうがい)し、良文を見詰めた。良文は更(さら)に小声で念を押す。
「しかしこの事は他言無用。勿論(もちろん)忠文卿にもじゃ。もし他に洩(も)れれば、彼等の身も危うく成ろう。」
真剣な顔付きのまま、忠政は黙って頷(うなず)いた。そして、その表情には希望が満ち溢(あふ)れて居た。

 忠政の表情を見て、良文も一瞬顔を綻(ほころ)ばせたが、直ぐに真顔に戻して話を接ぐ。
「所でじゃ、其方(そなた)はこれにて、海内の乱は完全に平定されたと思うか?」
急な問いに忠政は驚くも、少し考えた後に、思う所を述べる。
「此度東西の大乱を治めた事で、朝廷の権威は更(さら)に高まり申した。当分は国司に不満を抱く勢力が在ったとしても、蜂起には至らぬ物と存じまする。」
「うむ。確かに官軍の力は東西に示され、地方の豪族は更に朝廷を恐れる様に成った。ここ二十年は平和が続くであろう。しかし、其方(そなた)が軍功を立てて相馬家を再興する道が、完全に閉ざされた訳では無い。」
「其(そ)は何故にござりまする?」
忠政は、藁(わら)をも掴む気持ちで問い掛けた。良文は再び顔を寄せ、小声で話し始める。
「儂(わし)は昨年、鎮守将軍を拝命して、出羽の反乱鎮定に当たって居った。鎮守府の在る陸奥と、出陣した出羽は、倭(やまと)の東北の端に在り、其方(そなた)の故郷下総よりも遠い。我等坂東の者は、都人に東夷(あずまえびす)と罵(ののし)られる事も有るが、奥羽の者への差別は、それとは比較に成らぬ程酷(ひど)い。多くの民が搾取(さくしゅ)を受け、古代の如き貧しき暮しを強(し)いられて居る。故に、朝廷に対する憎悪は一方ならぬ。」
そう言うと、良文は忠政の両肩を確(しか)と掴み、鋭い眼光で見据えた。
「その蝦夷(えみし)も、当分は朝廷を恐れ、雌伏を強いられるであろう。その間、其方(そなた)は文武に励み、力を蓄えよ。やがて、蝦夷が此度の官軍の武勇を忘れた頃、依然国策が変わって居らねば、再び反乱を起すであろう。その時、儂(わし)は怖らく居らぬ。其方(そなた)は自力で相馬軍を編成し、軍功を挙げ、奥羽の地に所領を得よ。奥羽は反乱が起き易い故、他国よりも拝領し易い。そして祖父良将公、父将門公に倣(なら)い、民を苛政(かせい)より開放し、相馬家を再興致すが良い。」
良文が話を終えた後、忠政は暫し惚(ほう)けた様子であったが、やがて己の将来に就(つ)いて深い考えを示してくれた義父に、多大なる感謝の念を覚えて居た。
「必ずや。」
そう言って頭を深く下げる他、忠政に返す術(すべ)は見当たらなかった。

 その時、忠政は左肩に痛みを感じた。寒気が古傷を疼(うず)かせたのであろうか。その痛みは暫(しば)し消えなかった。義父の考えに納得したと思ったのだが、この痛みが戦場(いくさば)での数々の苦しき体験を思い出させ、それが忠政の心に葛藤を生じさせた。

 忠政の苦しみは、肩から心へと移って行った。一方で宴(うたげ)は興が乗り、彼方此方(あちこち)から歌声や笑い声が聞こえて来る。戦場(いくさば)に出た者は皆、今の平和を心底楽しんで居た。

 夜空には天狼星が燦然(さんぜん)と輝き、冬の到来を告げて居る。後一月も経てば、大乱の有った天慶四年(941)は暮れる。満天の星空は、来年への希望を抱く人々の心を映し出して居る様であり、その光は温かく、京の町を包んで居た。

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