第二節 村岡軍帰還

 陽が西の山並みに掛かり、林も川面も橙(だいだい)色へ変わりつつあった。辺りは一面の深雪(みゆき)である。一筋、雪に覆われていない処が在る。南北に走る北上の川であった。ここは陸奥国胆沢(いさわ)郡である。関東では梅の蕾(つぼみ)が大分膨(ふく)らみ始めていたが、奥州は依然厳冬の直中(ただなか)に在った。川は凍結し、夕陽は反射し、輝いている。

 川の西岸には、大規模な城塞が聳(そび)えている。一万程の大軍も収容出来ると思われるそれは、百四十年前に坂上田村麻呂が築いた、胆沢鎮守府である。その昔、奥州の軍事的拠点である鎮守府は国府多賀城に置かれて居たが、胆沢城の落成に因(よ)りここに移された。

 街道は雪に埋(うも)れ、その機能を著(いちじる)しく喪失していたが、雪原の中、雪を掻(か)き分け城に向かう者が居た。毛皮を纏(まと)い、武士の身形(みなり)をして居る。やがて城の近くまで来ると、除雪がなされていたので、武士は歩いて城門に近寄った。門番二人がその者を呼び止める。
「某(それがし)は平忠頼様が家臣、児玉頼経と申しまする。主命に因り、鎮守将軍良文様に御伝えすべき事、これ有り。御取り次ぎの程を。」
武士は三十歳前後の男である。長旅のせいか髭(ひげ)が伸び、髪が乱れ、毛皮には雪が付着して真っ白であった。やがて門番の一人が、その武士を城内へ導いて行く。

 当時、鎮守府を守る鎮守将軍に任官して居たのは、相模国鎌倉郡を拠点とする平良文であった。十七年前、平良文は醍醐天皇より、関東に出没する賊の討伐を命ぜられ、見事その任を全(まっと)うした。その時から、良文は鎌倉郡村岡郷に本拠を置いた。良文の武名は上がり、仍(よっ)て此度(こたび)勃発した出羽の反乱の鎮圧に、白羽の矢が立てられた。その頃、坂東では将門が乱を起し、関八州の国府が制圧される非常事態と成っていたが、良文は勅命に因り奥州へ出兵しなければ成らなかった。胆沢鎮守府には二千騎が駐屯して居るが、冬の戦(いくさ)の困難さを考え、手勢二千騎を坂東で集めた後に北上した。奥州は既(すで)に雪国と成っていたが、良文は晴れた日を狙って三千騎を伴い奥羽山脈を突破し、秋田城に到着した。昨年十二月から二月に架けて出羽権守と共に反乱軍と戦い、漸(ようや)く鎮圧に成功した。三月に入ると、反乱が完全に鎮定された事が確認され、再び晴れた日を狙って奥羽山脈を越え、胆沢に戻って来た。一人の武士が胆沢に現れたのは、その十日程後の事であった。

 鎮守府政庁の一室では、二人の男が話をして居る。共に頭に白髪の混じる老体である。上座に座って居るのが鎮守将軍平良文であり、当年五十四歳であった。又、下座に座るのが良文の重臣村岡重武で、六十を超える老将である。二人は先の出羽の戦に就(つ)いて話していた。
「出羽において、鎮守府は如何程(いかほど)の兵力を消耗したのか?」
「はっ、軽傷の者がそろそろ軍旅に復帰して来て居りますれば、現在凡(およ)そ五百の損失にござりまする。」
「うむ、やはりそれだけ失って居ったか。」
良文は、頭を掻きながら、表情を翳(かげ)らせて居た。重武は主君を気遣う様に申し上げる。
「まあ致し方ござりますまい。出羽に出陣する以上、勝つ為に必要な兵力を伴わねば成らず、戦乱に在る坂東の所領を手薄にするからには、早期決戦を挑(いど)まねば成りませぬ。しかも、雪国にござりますれば。」
良文は些(いささ)か表情の翳りが失(う)せ、話を続ける。
「あの時、秋田城から冬の装備を借りられたは、救いであった。我等が陸奥より身に付けて参った物は、殆(ほとん)どを山脈越えで湿(しめ)らせてしまった故(ゆえ)な。」
「御蔭で、凍傷に掛かる兵が少なくて済み申した。しかし、出羽権守殿は何故(なにゆえ)我等が鎮圧を急ぐのか、不思議そうな顔をして居りましたな。」
その時、良文は深刻な面持ちと成って、重武に尋ねた。 「御主は、太政大臣家を如何(どう)思う?」
「はっ?」
重武は一瞬きょとんとした様子であったが、直ぐに緊張した表情に成り、口を開いた。
「太政大臣家は出羽の反乱勢力が拡大し、相馬家と結ぶのを恐れて居られる物と存じまする。されども、当家が相馬家と結ぶを恐れる事はござりますまい。」
「貞盛辺りが、不気味な中立を取る当家を恐れ、止事(やんどと)無い方面に讒訴(ざんそ)をして居るのやも知れぬ。杞憂(きゆう)であれば良いのだが。」
重武は前々から気に掛かって居た、良文の心底の不安が解った様な気がした。重武は軽く笑みを浮かべて申し上げる。
「取り敢(あ)えずも、当家は朝命に従い、短期間で反乱を鎮圧し申した。仮に讒訴が有ったとしても、当家の忠義は行動に示されてござりまする。」
しかし、良文の表情は再び曇(くも)って居た。
「当分は太政大臣家も、当家に難癖(なんくせ)を付ける事は出来まい。されど、関白家や近隣の豪族に、当家を恐れる心が生じたならば、何(いず)れ災難が降り懸(かか)るであろう。」
二人は沈黙した。眉間(みけん)には皺(しわ)が深く刻まれて居る。

 そこへ、郎党が部屋の入口に現れ、礼を執って告げた。
「申し上げまする。忠頼様よりの使者が参ってござりまする。」
良文は思考に区切りを付け、穏やかな声で部屋に通す様に命じた。

 間も無く、児玉頼経と名乗った武士が現れた。入口で座札を執る頼経に、良文が部屋の中に入る様勧める。重武は部屋の端に下がり、頼経が部屋の中央へ進み出て、再び座札を執った。
「忠頼様が郎党、児玉頼経にござりまする。此度、伝令として罷(まか)り越しました。」
良文は頼経の眼を見詰めながら頷(うまず)いた。それを見て、頼経は話を続ける。
「去る二月十四日、下総国猿島(さしま)郡北山において平将門殿、平貞盛と藤原秀郷の連合軍と戦い、討死された由(よし)にござりまする。」
「何と。」
咄嗟(とっさ)に重武が叫(さけ)んだ。良文も愕然(がくぜん)とした様子であった。重武が尋(たず)ねる。
「八千騎を従える相馬家を、僅(わず)かな日数で討ち破るとは、俄(にわか)には信じられぬ。貞盛殿、秀郷殿等は如何(いか)にして、将門殿の大軍を破ったのか。」
頼経は落ち着いた態度を保ちつつ、答える。
「はい。将門殿は春の農作業の準備の為、一千騎を残して軍役を解いて居り申した。そして下野の合戦で兵力を消耗するも、貞盛方が流した征東大将軍下向の噂(うわさ)の為に兵の補充が叶(かな)わず。猿島に迫った敵を小勢ながら迎え討ち、頭蓋に矢を浴びて絶命した由にござりまする。」
それを聞いて良文は、暫(しばら)く天を仰(あお)いで言葉が出なかったが、やがて口を開いた。
「最期まで民の楽土を目指されて居ったのか。関東の豪族共も、苛政(かせい)から解放してくれた将門殿を見殺しにするとは、何とも腑甲斐(ふがい)無き者共よ。」
良文は頭を伏せ、合掌をした。眼には涙が浮かんで居る様に見える。ふと、山岡重武が頼経に尋ねた。
「京より征東大将軍の軍勢は、本当に派遣されて居るのか。」
「はい。一月十九日に太政大臣藤原忠平公は、参議藤原忠文卿を征東大将軍に任じ、将門殿追討を命ぜられ申した。しかし、関東に達する前に将門殿が討たれ、乱が終束していた為、関東到着後は相馬家の本拠、猿島郡に拠点を置き、残党の殲滅(せんめつ)に移って居る模様にござりまする。既(すで)に、御厨(みくりや)三郎将頼殿以下、多くの御一族が討たれた由。」
重武が顔を顰める。
「何とも御労(いたわ)しい事じゃ。良将公が興された相馬家が滅びようとは。所で、征東大将軍は如何程(いかほど)の軍勢を率いて居なさるのか。」
「藤原忠文卿が畿内で集めた兵が凡(およ)そ五千。将門殿を討ち破った平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲等の連合軍も五千。併せて一万の軍勢が、関東八州の鎮圧に当たって居りまする。」
「一万か。」
重武は、最早(もはや)相馬家の再興は絶望的であると考え、一時存在した坂東の楽土を偲(しの)んだ。

良文は沈思黙考したまま、二人の話を聞いて居たが、ふと呟(つぶや)いた。
「藤原忠文卿か。」
その声を聞いて、二人は良文を見た。良文は頼経に尋ねる。
「相馬家の者で、当家に落ち延びた者は居らなんだか。」
頼経の表情に、つと緊張感が加わった。
「畏(おそ)れながら、その儀に就きましては、御人払いを御願い致しまする。」
良文は身体を前にのめらせ、頼経に告げる。
「この村岡重武は我が腹心の友故(ゆえ)、何を聞かれても障(さわ)りは無い。ただ、二人共もそっと近う。」
重武と頼経は良文の側へ躙(にじ)り寄り、再び腰を下ろした。
「それで良い。では頼経、申して見よ。」
頼経は厳粛な面持ちで良文に座礼を執った後、口を開いた。
「では申し上げまする。二月十七日の深更、将門殿の奥方が、嫡男小太郎殿と姫君二人、侍女一人と郎党三人を伴い、大里郡の忠頼様館を頼られました。三日程館に置き、御子等の体力も回復した様でござりましたので、深夜、人目に付かぬ様、館外の忠重様の屋敷に、母子四人を移しましてござりまする。現在は、忠重様の屋敷奥に匿(かくま)って居りまする。」
「忠重の元に居るのか?」
平忠重は良文の子で、忠頼の弟に当たる。
「忠重の屋敷は忠頼の館に近いが、近くに点在する豪族の屋敷と比べて目立たず、匿うには最も適して居るやも知れぬな。ただ、貞盛方の密偵が大里郡にも潜伏して居る怖れも有る。呉々も油断無き様。」
「はっ、畏(かしこ)まってござりまする。」
村岡重武が左手で頭を掻きながら、良文に言上する。
「殿はやはり、相馬家を御救いする手を、既に打たれておわしましたな。」
良文は、重武から目を背(そむ)けて答える。
「石井館は大軍を迎え討つには適さぬ砦(とりで)。故に将門殿が猿島で合戦に及ぶ際には、妻子を避難させねば成らぬ。三年前の様に、敵の手に落ちるは忍びなかった故な。」
重武はそれを聞いて苦笑した。良文は重武を横目にすっと立ち上がり、頼経に向かって命ずる。
「その方は大里に立ち返り、忠頼に伝えよ。相馬家母子の事、呉々も貞盛方に知られては成らぬ。忠重も行動は慎重に執る事。又、家臣達には一切秘密に致す事。」
「承りましてござりまする。」
児玉頼経は静かに一礼し、部屋を後にした。

 その後一瞬、静寂が訪れた。村岡重武は黙ったまま、正面を向いて座って居る。良文は重武の脇に歩み寄り、静かに口を開いた。
「これより至急軍議を開く。重臣達を政庁に集めよ。」
重武はゆっくりと立ち上がると、良文に正対して尋ねる。その表情は暗かった。
「殿にお尋ね致しまする。殿はこの先も、相馬家の母子を匿い続ける御所存にござりましょうや?将門殿亡き後、相馬家に恩を売っても、当家の利に成るとは思えませぬ。」
重武の口調は、些(いささ)か厳しい物であったが、目は冷静に良文に向けられて居る。良文は穏やかに答えた。
「御主は我が兄、平良将を存じて居るか。」
不意に故人の名を挙げられ、重武は当惑したが、直ぐに沈着して返した。
「未だ若い時分、噂に聞いた事はござりまする。豊田、猿島、相馬の下総三郡を所領とし、武勇に優(すぐ)れ、領民の先頭に立って荒野を切り拓いた人物と聞き及んで居りまする。」
良文は、重武の周りをゆっくりと歩いている。その表情は、大分穏やかに成っていた。
「良将公は領民を国司の苛政(かせい)から護(まも)り、坂東の地に民の楽土を築こうとなされた。惜しくも早うして亡くなられたが、遺児将門殿がその遺志を受け継いで居った。されど、此度の乱でその将門殿も討たれてしもうた。」
良文はそう述べると、天を仰いだ。重武も他国の凄惨(せいさん)な支配実態を見て来た故に、将門の善政を快く思う所が有った。顧(かえり)みれば此度の出羽の乱も、厳しい支配政策が原因であった。

 大和朝廷成立期において、九州と東北地方には未だ朝廷の支配が及んでいなかった。朝廷は九州の民を隼人(はやと)と呼び、東北の民を蝦夷(えみし)と呼んだ。九州は中国大陸への玄関口であり、その地理的重要性から、隼人の支配は慎重に行われた。他方、関東の民は東夷(あずまえびす)と蔑称(べっしょう)が付けられた。そして、特に支配が遅れた東北の民蝦夷は俘囚(ふしゅう)と蔑(さげす)まれ、最も厳しい差別を受けて居る。それ故に、東北地方では大規模な反乱が勃発する様に成る。それに対し朝廷は、中央で討伐軍を編成し、大軍を東北に派遣する事は有っても、隼人に対する様な懐柔策は殆(ほとん)ど執られなかった。特に阿倍比羅夫(あべのひらふ)や坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、大規模な遠征軍を指揮した事は有名である。坂上田村麻呂遠征の折には、善戦して居た蝦夷の首領阿弖流為(あてるい)を、和平の使者として上洛させる事に成功するも、河内国で処刑される結果と成った。蝦夷の不信は増幅され、紛争が再発した。そして焼石岳の東側、北上川の辺(ほとり)に在る胆沢の地が蝦夷軍の拠点と成って居たのに対し、坂上田村麻呂は当地に進出して、城を築いて睨(にら)みを利かせ、鎮守府を移して陸奥の軍事拠点を拡大して行った。

 羽州や関東においても、反乱には至らなくとも、国府と豪族の紛争は度々(たびたび)起きた。朝廷の差別政策の他、国家の体制にも問題が有った。朝廷ではかつての桓武天皇や嵯峨天皇の様に、天皇が中心と成って政(まつりごと)を行う体制が衰(おとろ)え、勢力争いに勝利して来た藤原氏の力が強まって居た。一時、宇多天皇が菅原道真(すがわらのみちざね)を起用して藤原氏の専制を抑えようとしたが、宇多天皇の譲位後、幼帝を擁した藤原時平に陥(おとしい)れられ、その後藤原氏の力は、益々(ますます)巨大な物に成って行った。貴族は昇進の為に藤原氏等の有力貴族に貢物(みつぎもの)をし、国司等の官職を得た。貢物を続ける為には、任地国府の役人を使い、過重の税を徴収した。故に民衆は、常に困窮(こんきゅう)を強(し)いられ続けて居たのである。

 平良文も村岡重武も、惻隠(そくいん)の情を有する故に、現今の体制を嘆(なげ)いて居た。良将や将門の存在は一縷(いちる)の光明であったが、両名共に最早、この世には居ない。

 良文は悲しい目で重武に告げる。
「儂(わし)も民の楽土を目指して居った。儂に多大な影響を与えてくれた良将公。同じ志を持ち、共に協力して参った将門殿。彼等の如き同志を失った今、儂の意気も消沈しつつ在る。されど、儂として坂東武者の端くれ。同胞たる武士や領民を苦しめる、公家国司の言い成りになる積(つも)りは無い。」
良文の言は些(いささ)か荒く成って居たが、重武の緊迫した顔に気付き、幾分冷静に戻って話を続けた。
「相馬家の遺児小太郎殿。あれが父や祖父の遺志を継ぎ、儂の良き協力者と成ってくれれば斯様(かよう)に心強き事は無い。儂はこの後小太郎殿の人物を見分し、相馬家への協力姿勢を決める所存じゃ。」
然う言い終えると、良文は重武の顔を見た。重武は眼を見開き、良文を見据えながら答えを返した。
「承知仕(つかまつ)り申した。殿の深き思(おぼ)し召し、確(しか)と解りましてござりまする。」
重武は平伏した。良文は漸(ようや)く、心底穏和に成って告げる。
「ではこれより軍議を開く。政庁に重臣達を集めてくれ。」
「はっ。」
重武は良文に一礼し、部屋を後にした。良文の視線は、暫(しばら)く村岡重武に向けられ続けて居た。

 半時の後、胆沢鎮守府の政庁には村岡平家の重臣が集まって居た。やがて良文の登庁が告げられ、重臣達が平伏する中、良文は上段に着いた。

 先ず、良文の口から関東の近況が伝えられた。重臣一同は、精強な相馬軍団が僅か数日で壊滅した事実に驚き、政庁内に響動(どよ)めきが走った。関東一円を制圧していた時点では、将門を脅威であると感じて居た者も多かった様であった。されど、討死を遂げた今と成っては、将門に同情を寄せる者が、大半を占めて居る雰囲気である。

 次に、今後の方針に就いて話し合われた。鎮守将軍の職務を全(まっと)うすべく、秋田の反乱を鎮圧した今も、暫(しば)しは周囲の警戒を続ける。そして、街道の通行が容易に成る雪解けの四月下旬辺りに上洛して、朝廷に反乱鎮撫の報告を行うべく、胆沢を発つ事と決めた。又、途中多賀城で国司に出国の挨拶を行い、関東では近隣の動向を探(さぐ)る一方、可能であれば藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲、征東大将軍藤原忠文に面会して置く事等が決められた。

 四月に入ると雪も降らなく成り、野山に積った雪も徐々に溶け始めた。街道の雪は除去され、交通は格段に容易と成った。されど、日陰の場所には依然一間程の深雪が残り、童(わらべ)達が雪合戦に興じて居る。

 通行が容易に成った街道を、各地で数百の部隊が行軍して居る。皆、平良文が坂東から率いて来た軍勢であった。良文の上洛が近く成り、陸奥各地に配備されて居た軍が、胆沢鎮守府を目指して行軍して居る途中である。兵士達は長い雪国の生活に少々疲れた観も有ったが、間も無く暖かい故郷に帰る事が出来ると思うと、喜びに満ちて居る者が多数であった。

 四月の中旬には、胆沢鎮守府に良文の軍勢二千が集結した。数日を残務処理に費やし、その間兵士に充分な休息を与え、下旬に入った頃、手勢二千騎と共に平良文は南下を開始した。暫(しばら)くは、北上川を眺めながらの行軍である。二十里以上を歩き、漸(ようや)く石巻湾に到達した。その後は松島等を左手に見ながら多賀城に向かった。

 途中、良文の脇で駒を進める村岡重武が、良文に尋ねた。
「陸奥各地を一応巡邏(じゅんら)致しましたが、反乱軍の残党が雪解けの後に、再度蜂起する恐れはござりませぬかな。」
重武は些(いささ)か不安気な表情であったが、良文は平然と答える。
「さて、それは有るやも知れぬのう。」
重武は慌てて問う。
「もし、奥羽で反乱が再燃致さば、何とされる。太政大臣家や帝(みかど)の覚えも悪(あ)しゅう成りましょうぞ。」
重武は更に不安を募(つの)らせ、周りの重臣達もが心配をし始めた。それらを横目に、良文は説明する。
「確かに、奥羽の情勢は未だ不穏であり、再度乱が生じれば、朝廷より何か知らの御咎(とが)めが有る事も考え得る。されど我等が所領は坂東に在り。当地は大規模な乱が鎮圧されたばかりで、不安定な情勢である。よって、早急に坂東の有力豪族と接触せねば成らぬ。一方、奥羽の地で再び反乱が起きた場合だが、この二ヶ月で各砦の情報が集まり、守りが堅い砦に戦力を集中させ、他の砦は手薄にして在る。反乱が起きればそれら手薄の砦は落とされよう。されども取って返さば、守りの弱い砦故に、早々に落す事が出来る。さすれば、朝廷からの不興を買う事も有るまい。」
重臣達は得心した。彼等も先ずは、己の所領が心配だったのである。

 一行は行軍を続け、多賀城に到着した。多賀城は神亀元年(724)に按察使(あぜち)兼鎮守将軍大野朝臣東人によって築かれたと、「多賀城碑」に有る。陸奥国司が畿内や長門(ながと)と同様、その他の国と比べて一段高位の者が充(あ)てられた事は、古代王朝がこの地を重視した名残である。聖武天皇の時代、陸奥、常陸、下野との国境に在る八溝山で金が発見され、陸奥は倭(やまと)で唯一金が産出する地と成り、その重要性は一層増した。

 良文は一日軍を多賀城に置き、国司と会見した。多賀城はかつては鎮守府も置かれていた為、大軍を駐屯出来る要塞でもあった。良文は鎮守将軍在任中、万一胆沢が危機に陥った場合、国府の支援を得るか、若しくは国府に撤退する必要が生じる為、国司との連携を欠かす事は無かった。その為の、出国の挨拶でもあった。

 翌日には、良文の軍勢は多賀城を出立した。その後は浜街道を南下し、常陸を目指した。磐城郡に入ると風も大分暖い。奈古曽関(なこそのせき)を越えると、其処はもう懐かしい関東の地であった。関東に入った頃、暦も五月に入って居た。常陸を南下し、久慈川や那珂川を渡ると、愈々(いよいよ)戦乱が治まったばかりの地に入る。

 那珂川を渡った処で、良文は西に向かう様に命じた。内海(霞ケ浦)の西側を通って湾に出た方が、本拠の相州には早く着くので、重臣達は良文に訳を尋ねた。良文がこれに答える。
「相模の所領は勿論(もちろん)大事だが、武蔵の所領も大事である。故に、先により近くの、武蔵国大里郡に向かう。ここに到着すれば近隣の豪族共も、相模の所領を狙う事は出来まい。」
武蔵の家臣に取っては結構な話である。相模の家臣に取っても、飽く迄反対する事ではない。良文の命令通り、西へ進む事と成った。良文に取っては、大里郡に匿(かくま)って居る相馬家母子の問題を、出来るだけ早く対処して置きたかった。又、忠頼から関東の新しい情報も得て置きたかったのである。

 良文の軍勢は筑波山の北、加波山北麓を西進し、鬼怒川を渡って下野国に入った。その後渡良瀬川を南に渡り、上野国の東南端を通過して坂東太郎を渡ると、愈々(いよいよ)武蔵国に入る。

 五月の関東は、陸奥とは比ぶべくもない程暖かい。行軍の途中、幾度か雨に降られた。関東は既に雨季が到来しているのか、街道は大分泥濘(ぬかる)んでいる。将門の旧領を避けて来た所為(せい)か、道中戦乱の傷跡は特に見られなかった。良文は些(いささ)か、安堵した様子である。
(凄惨な戦と化して居らぬ所を見ると、相馬家は一方的に敗れたと見える。これなら相手には、然程(さほど)恨みは買って居るまい。救えるやも知れぬ。)
そう良文は思った。

 陽が秩父の山並みに掛かり始めた頃、良文は忠頼の館まで後一里という処に到達して居た。そこへ二十騎程の一団が現れた。先頭を駆けて居たのは、平忠重である。忠重は本隊に通され、馬を下りて良文の前へ歩み出た。片膝を突いて礼を執り、笑顔で口を開く。
「父上、此度羽州においての御戦勝、祝着至極に存じ奉(たてまつ)りまする。館では、兄上達も御待ちにござりまする。」
溌剌(はつらつ)とした迎えの使者に、良文も笑顔を返した。
「出迎え御苦労。其方(そなた)は兄を助け、怠(おこた)り無く鍛錬に励(はげ)んで居るか?」
良文の問いに忠重は、真顔と成って「はい」と答えた。良文は忠重等を本隊に加え、共に館へと向かった。

空が朱色を失い、濃紺色の支配が深まる中、二千近くの軍勢は、平忠頼館の灯火が見える処まで到達した。更に距離を縮めると、正面に篝火(かがりび)が焚(た)かれ、大勢の出迎えが居る様子が窺(うかが)われた。

 良文を先頭とし、二列縦隊を組む隊列が館門に着くと、門前から一人の男が歩み寄り、礼を執った。篝火からは逆光と成ったが、月の光が辺りを明るく照らして居た為、忠頼である事が判(わか)った。良文は馬上で泰然と構え、犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。
「出迎え御苦労である。ここには数日滞在する事と成るが、万事宜しく頼む。」
「はっ。兵糧は十分に備蓄が有りまする故、御心配には及びませぬ。それより、奥州よりの御帰還、誠に御疲れ様でござり申した。館にて緩(ゆる)りと御休み下され。軍勢への手配は、当家の者で行って置きまする。」
「うむ、それは任せた。今宵は将兵をゆっくり休ませたい。又其方(そなた)には明日、話したき事が有る。」
「畏まり申した。では父上、休息の間まで御案内仕(つかまつ)る。」
忠頼の館は、かつて良文が本拠地として居た処であり、二千程の軍勢を収容する事が出来た。館は大軍勢到着の為、多くの火が焚かれて居り、普段に無い明るさを見せている。

 その明るさを横目に、良文と忠頼、忠重は館の奥へと向かって行く。そこへ忠頼の妻である相馬御前が現れ、座礼を執った。
「此度は奥州にての勝戦(かちいくさ)、誠に以て御目出度(おめだた)く存じまする。殿の御部屋にて、着替えの仕度が整ってござりまする。又、夕餉(ゆうげ)の膳も直(じき)に出来上がりましょう。」
畏まって話す御前に対し、良文は和(にこ)やかに返す。
「其方(そなた)の方こそ、御苦労であった。台所を纏(まと)めるは大変であったろうて。今宵は親子で膳を囲むとしようぞ。」
良文は笑って、己の部屋へ向かい歩き出した。

 其の日、良文は久し振りに一族だけで食事を取り、心の安らぎを得た。しかし床(とこ)に入り、眼を閉じると、相馬家母子の事が頭に浮かんだ。当家の存亡に関わる一大事故、暫(しばら)くは頭から離れなかったが。その内昼間の行軍の疲れが現れて、深い眠りに入って行った。

 翌朝、良文は夜明け前に眼を覚ました。精神が緊張して居る。今日、相馬家母子に面会する積りであったが、己の決断に些(いささ)か迷いが生じて居た。此度は重臣達に知られた場合、否応(いやおう)無しに母子を見捨てねば成らない。良文の肚(はら)は相馬家存続に傾いては居るが、多くの不安を抱えて居た。

陽が昇って来た。良文は床(とこ)に入ったまま、考え続けて居た。朝陽が簾(すだれ)を透過し、良文の顔を照らして居る。五十を幾分過ぎ、威厳と穏和さを兼ね備えて来た。されども、悩み続けて来た為か、顔の皺(しわ)は深く成り、髪の白さが増した様であった。やがて良文は、顔を洗いに床を立って行った。

 一方、相馬家の母子四人は朝餉(あさげ)を済ませた後、良文が本日午後に面会に来る事を、平忠重から告げられた。昨夜は遠く館の方角の夜空が、普段に無く明るかったので、良文が到着した事は考え及んで居た。しかし、翌日直ぐに面会に及ぶとは、思いも寄らぬ事であった。母御前は、久し振りに会う叔父の心底が掴(つか)めず、不安が募(つの)ったが、最悪対面が叶(かな)わない事態に比べたら遥かに良いと、己に言い聞かせた。小太郎は急に口を開かなく成った。やはり不安が生じているのであろう。一方で二人の妹は、大叔父との対面を喜んで居る様子である。

 母子四人は二ヵ月半も、忠重の屋敷の限られた領域から出て居ない。精神的にかなりの疲労が溜まって居た。

 辰(たつ)の刻、良文は朝餉を済ませると、直ぐに忠頼を部屋に呼んだ。半時後に開く評定の前に、新しい情報を得て置きたかったからである。又重臣達には明かせない、極秘の話も有った。

 部屋の外を見遣ると、雨季に在っては珍しい晴れ間であった。これは吉兆であるまいかと、良文の口元は微(かす)かに綻(ほころ)んだ。そこへ忠頼が、静かに部屋に入って来た。良文の前に座り、座礼を執る。話は良文から切り出した。
「其方(そなた)にこの所領を与えて久しいのう。近隣の豪族や国司とは、巧(うま)く行って居るのか?」
忠頼は畏(かしこ)まって答える。
「はっ。我等には手勢一千騎がござりますれば、近隣の豪族で問題を振り掛けて参る者は居りませぬ。ただ、国司からの貢進の催促には、辟易(へきえき)致しまする。まあ、適当に機嫌を取っては居りまするが。」
良文は、視線を忠頼に据えながら告げる。
「それで良い。公家には努々(ゆめゆめ)油断はするな。又、我々と存亡を共にするのは坂東武者であるが、公家と家臣の板挟みと成った時、其方なら如何(いか)に致す?」
良文は厳(いか)つい面持ちで問い掛けた。忠頼は当惑した様子であったが、直ぐ様冷静さを取り戻して答える。
「僅かな家臣の為に、多くの家臣を道連れには出来ませぬ。故に、家臣に犠牲を強(し)いるやも知れませぬ。」
それを聞き、良文の視線が些(いささ)か厳しく成った様に、忠頼は感じた。良文が口を開く。
「其方の言にも一理有る。国司と対立しては、相馬家の二の舞と成る怖れが有る。されど、国司は任期を終えれば、次の者に交代する。一時の係りだけの者の為に、村岡家の団結に綻(ほころ)びを入れる事は、如何(いか)にも惜しい。国司に一方的に従って居れば、徐々に我等の力は削(そ)がれてしまうであろう。其方は村岡家を継ぐ身なれば、充分に考慮してくれい。
「畏りましてござりまする。」
忠頼は深々と頭(こうべ)を垂れた。

 続いて、最近の関東の情勢に話が移った。忠頼が良文に要点を説明する。良文は肘掛けに靠(もた)れながら、真顔で聞き入って居た。
「三月に入り、征東大将軍藤原忠文卿が関東に到着され、一時は相模国府に留まって居られましたが、間も無く相馬家の拠点であった猿島郡に、本営を移されました。」
良文は少々訝(いぶか)しがった。
(忠文卿は、普段であれば斯様(かよう)に平定を急ぐまい。成程、あれが為に焦って居られるのか。何(いず)れ協議せねば成らぬな。)
良文には思い当たる事が有り、直ぐに納得した。忠頼は報告を続ける。
「四月には相馬家の残党は粗方(あらかた)鎮圧され、組織的な抵抗は完全に潰(つい)えました。将門殿が任ぜられた国司も、悉(ことごと)く討たれて居り申す。藤原秀郷は乱の平定が一段落着いたと判断し、中旬には将門殿の首を携え、上洛した由にござりまする。」
「そうか。」
良文は額に手を当て、些(いささ)か俯(うつむ)いた恰好になった。同志であり甥(おい)でもある将門の首級が、反乱の首謀者として曝(さら)される事を想像すると、胸が痛んだ。

 その他、関東の平定を終えた征東大将軍も、近々都に凱旋するとの噂(うわさ)が有る事が告げられた。良文は、都から離れた関東に、藤原忠文が下向した事を好機と捉(とら)え、早急に会見する必要性を感じて居た。

 半時は瞬(またた)く間に過ぎ、評定の時刻と成った。良文と忠頼は共に、政庁が置かれて居る棟に移動した。

 評定を行う間は広い。戸は開け放たれ、外から陽が射し込んで来る。爽やかな五月晴れであった。奥州に従軍した土豪、凡(およ)そ二十余名が、既(すで)に待機している。そこへ、良文と忠頼が入って来た。重臣達が座礼を執る中、良文は上座に、忠頼は重臣筆頭の席に座った。

 先ず忠頼から、関東の近況が伝えられた。乱の鎮圧が粗(ほぼ)完了した事を聞き、重臣一同は安堵した様子である。次に、今後の方針に就いて話し合われた。問題は、上洛して奥羽鎮撫の報告を朝廷に行うに当たり、乱が沈静化したばかりの関東にどれだけ留まった後、出発するかである。自領の守りを確(しっか)りと固め、情報を各自で充分集めて置きたいが、ここで余り時を費やしては、出羽で多くの犠牲を出してまで、平定を急いだ詮が無くなってしまう。

 特に多くの兵を失った重臣からは、上洛を急ぐ声が強かったが、大半は長く留守にして居た所領が気に掛かる様である。平忠頼の報告では、藤原秀郷と平貞盛は、既(すで)に京に居るらしい。領土欲の強い貞盛が留守である事は、安心出来る要素の一つではあるが、藤原秀郷が不在で連合軍の纏(まとま)りが取れて居るかが気になる所であった。最終的には、関東に駐留して居る征東大将軍と会見して、情報を集める事。平行して、各所領の周囲を調べて置く事。機を失わぬ様、征東大将軍との会見終了後、問題が生じなければ速やかに、上洛の準備を完了させる事。農民を長く徴兵して居た為、農事に支障が出ており、その為多くの農民兵の兵役を解く事。故に上洛に伴わせる兵数は、二百騎に抑える事等が決定された。

 軍儀が終わった頃には、陽は南から西へ傾き始めていた。既に未(ひつじ)の刻に成って居た。良文は自室へ戻り、半時程休息した後に、忠頼を部屋に召した。やがて現れた忠頼は、父の前でゆっくり膝を突くと、口を開いた。
「そろそろ、忠重が屋敷へ参られまするか?」
「うむ。ここには長く居られそうもない故、早めに会うて置きたい。」
良文が腰を上げ様とした時、忠頼は右掌(てのひら)を前に伸ばして制止した。
「その前に、一つ御伝えしたき事が。」
忠頼が小声で話すので、良文は訝(いぶか)しがりながら腰を下ろした。
「申せ。」
言い難そうであったので、良文は視線を忠頼から逸(そ)らし、脇に在った肘掛けに靠(もた)れた。そして忠頼は、静かに口を開く。 「実を申さば、相馬家の方々は未だ、将門殿の事を御存知有りませぬ。」
「何と。あれから三月近くも経って居るではないか。」
良文は驚いて、やや声を荒げた。忠頼は俯(うつむ)きながら話を続ける。
「申し訳ござりませぬ。ただ、相馬家母子は長い逃避行の後に、忠重屋敷の一室に隠れ続け、精神的にかなり疲労が溜って居る様に見受けられました故、今まで話せずに居たのでござりまする。もし、話したが為に心の病に罹(かか)られては、匿(かくま)う事も難しく成りまする。」
良文は顎(あご)を手で撫(な)でながら、静かに聞いて居た。
「確かにのう。」
そう言うと、良文はゆっくりと腰を上げた。忠頼は父を見上げながら尋ねる。
「行かれまするか?」
良文は忠頼を見下ろして告げる。 
「うむ、時が無い故な。村岡重武も連れて参る。」
忠頼は驚いて聞き返した。
「重武を。極秘にござりまするが、大丈夫でござりましょうか?」
不安気な表情を見せる忠頼に、良文は落ち着いた笑みで答えた。
「重武は儂(わし)の生涯無二の友故、心配には及ばぬ。今後、頼みたき事もあるでな。」
「されば、承知致しました。」
忠頼は不安な気持ちを圧(お)し殺し、父と共に部屋を後にした。

 陽は未だ高い。後(あと)一月も経たぬ内に、夏至と成る。昨日今日こそ五月晴であったが、それ以前は雨季に入って居た故に、雨天が続いて居た。よって、道も多少泥濘(ぬかる)んでいる。そこを五人の武者が、馬に乗って進んで行く。平良文、忠頼に村岡重武、更(さら)に忠頼の腹心である児玉頼経と、那珂頼為の五名である。

 忠頼の館から忠重の屋敷までは凡(およ)そ五町程であり、五名は間も無く忠重の屋敷を確認した。庭の竹柵の内側には紫陽花(あじさい)の花が見事に咲き誇って居る。入口の近くで五人は馬を降り、忠頼が玄関へ向かった。
「誰ぞ在る。殿の御越しである。」
良く通る声で屋敷の奥に向かって言うと、やがて奥から忠重が、急ぎ足で歩いて来るのが見えた。忠重が玄関に着いた時、良文と重武も中へ入って来た。忠重は、笑顔で父達を迎えた。
「ようこそ御越し下さりました。さあ、御上がり下さりませ。掃除は行き届いて居りませぬが。」
忠重の笑顔を見て、良文は思った。
(反逆者の一族を匿って居るというに、神経が磨り減った素振りも見えぬ。鈍いだけなのか、将又(はたまた)胆の大きな奴なのか?)
忠重の案内の後ろに、良文、忠頼、重武が続く。児玉と那珂は五頭の馬を繋(つな)いだ後、庭の手入れを始めた。それは、外に怪しい者が居ないか、見張りの役を務める為であった。

 児玉頼経と那珂頼為は、忠頼に取っては兄の様であり、又腹心の友でもある。良文は、十歳過ぎの忠重には屋敷を与えただけで、家臣も所領も与えていなかった。妻を娶(めと)る歳にも至っていなかったので、忠頼は腹心二人を弟の屋敷に派遣し、学問や武芸を教えさせ、又、家事を手伝わせたりもした。屋敷奥に在る秘密を守る為である。

 屋敷の裏手は崖(がけ)が聳(そび)え立って居る。裏側に建つ倉には扉が閉められて居た。忠重は倉の前で片膝を突き、静かに扉の奥へ告げた。
「忠重にござりまする。父上が参られました。」
すると、扉の奥から女性の低い声が返って来た。
「御入り下さりませ。」
「では。」
忠重はゆっくりと扉を開けた。扉の前に立って居た良文の眼に飛び込んで来たのは、窶(やつ)れた女性と、その子三人の姿であった。良文は刹那、悲嘆の様な衝動が胸に込み上げて来たが、直ぐに温和な笑みを中の四人に向け、ゆっくりと倉の中へ足を踏み入れた。

 未だ陽が在るというのに、倉の奥は陽が陰っている為、随分と暗く感じられた。倉の中は程々の広さであったが、周囲を粗(ほぼ)密閉されたこの空間は、実際にはかなり窮屈(きゅうくつ)に感じられる。
(ここに三月も隠れ続けて来たとは。よくぞ堪えられた物よ。)
良文は笑顔の内で、酷(ひど)く心を痛めて居た。

 倉の中央では、母御前が平伏して居る。
「叔父上、御久しゅうござりまする。」
御前の低いが、厳とした声を聞き、良文は一瞬言葉を忘れた。が、二、三歩前に歩み出た後に言葉を掛けた。
「よくぞ参られた。其方(そなた)とは昔、兄良兼の館で会うた以来であったかの?」
「はい。早十年以上が過ぎましてござりまする。」
良文はうむと頷(うなず)くと、後ろに控える忠重に告げた。
「明かりを付けよ。外には見張りが居る故、心配は要るまい。」
忠重は返事をし、油皿を持って来て灯(とも)した。倉の中は急に明るく成った。今まで朧(おぼろ)げにした見えなかった母子四人の顔が、くっきりと浮かび上がった。末の娘が、久しく見る事の無かった明るい空間を目の当りにし、嬉しそうに微笑んだ。しかし子供にしては、その頬(ほお)は痩(や)せて居た。

 母御前は良文を上座に勧めたが、良文はそれには及ばぬと答え、入り口側に腰を下ろした。忠頼、忠重、重武も倉の内に入り、良文の後方に座した。三人の子供達は、やや母親に寄って座り直した。

 愈々(いよいよ)話を始めるに至り、周囲の緊張感は一気に増した。特に母御前は、相馬家興亡の分かれ目である事を覚悟し、膝の上に置いた手は強く握られて居る。そして先に口を開いた。
「此度、当家の危機に臨(のぞ)み、斯様(かよう)に我等を御救い戴(いただ)き、誠に御礼の申し様もござりませぬ。」
そう言って、深く頭を下げた。良文は静かに掌(てのひら)を前に出し、目を幾分細めて返す。
「いやいや、其方こそ、此度の災難は察するに余り有る。実に言い難き事ではあるのだが、新たな報せが入って参った。心して聞いて貰(もら)いたい。」
忠頼はその場を直視するのが辛(つら)く成った。今後起る事を想像すると、胸が痛むからである。母御前は静かに座って居るが、子供達はきょとんとした表情で、良文の顔を見詰めて居る。良文は一呼吸を置いた後に話し始めた。
「実は、去る四月二十五日、藤原秀郷が京に上り、将門殿の御首級(みしるし)を朝廷に献上したそうな。御厨三郎殿以下、御舎弟達も次々と討たれて居るらしい。」
そう言い終えると、良文は天を仰いだ。倉には沈黙が続いた。

 やがて、母御前は穏やかに返した。
「然様(さよう)でござりましたか。夫は既に。」
膝の上に乗せた手は、微(かす)かに震えて居る。小太郎は拳(こぶし)を床に当てて握り、俯(うつむ)いたまま全身を震わせて居た。次女の五月姫は、初めは良く解らない様であったが、兄の様子から父の死を悟り、泣き出した。
「父上には、もう会えないのですか?」
姉の声を聞いた三女春姫も、悲しさが込み上げて来て、わあわあ泣き出してしまった。忠頼と忠重は未だ年若く、この様な光景は見るに堪えられない物であった。そっと袖を目に当てて居る。良文と重武は目を細め、その場にじっと座って居た。

 暫(しばら)く倉の中には、姫二人の啜(すす)り泣く声が続いた。その間、良文の目は小太郎に向けられて居た。母御前や姫等を匿(かくま)った事が発覚しても、村岡家の大事には至らぬであろう。されど、朝敵将門の嫡男を匿った事が露見すれば、奥州での軍功も消失し、所領を失い流刑に処され兼ねない。救う以上は、兄良将や甥の将門の様に、財に貪欲(どんよく)な国司から、領民や家臣を護れる領主に成って貰(もら)いたい。忠重の話に依れば、小太郎の人格は多分に将門の影響を受けて居ると聞くが、父の死に臨んで何(ど)の様な態度を取るか、確(しか)と観察して置こうと、良文は考えた。

小太郎は俯(うつむ)いたまま、肩を震わせて居た。良文が小太郎に話し掛ける。
「小太郎殿、父上の事は嘸(さぞ)かし無念でござろう。しかし、ここには二千の軍勢が居る。これだけ有れば、父上の仇は討てようか?」
母御前はそれを聞いて、震えて居た手が凍り付いた様に固まった。小太郎は直答する。
「遥々(はるばる)奥州より戻ったばかりの兵を、再び戦わせるは可哀相(かわいそう)にござりまする。又、恩の有る村岡家に迷惑は懸けられませぬ。某(それがし)は、故郷へ戻りとう存じまする。」
怒りに声は震え、目は真っ赤に成って居る。良文は、少々困った表情をして告げる。
「東へ向かい、下野の藤原秀郷や、常陸の平貞盛の館に討ち入られては困るのう。それにしても、父上と瓜(うり)二つの顔と声じゃ。」
若年にして、自身が窮地に陥(おちい)る中でも味方を気遣うこの少年に、良文は相馬家の精神を感じた。ここに良文は、相馬家を救う事を決断した。
「其方に万一の事有らば、儂は将門殿に顔向けが出来ぬ。其方には父上の志を受け継ぎ、領民の安寧の為に励んで貰(もら)いたいのじゃ。」
良文の言葉を聞いた母御前は、体の力が抜け、上体が前に倒れるのを、手を突いて支えた。叔父が味方に付いてくれた安堵感から、今までの緊張が一気に解かれ、大粒の涙が溢(あふ)れて来た。良文は、母御前と小太郎の前に進んで告げる。
「儂は間も無く上洛し、鎮守将軍として奥羽鎮撫の報告をして参る。もし拝領出来た所領に中に、身を潜めるのに適した処が有れば、小太郎殿に宛(あて)がおうと思う。それまで窮屈ではあるが、ここで我慢してくれぬか?」
小太郎は、怒りと悲しみと感謝の念が入り交じり、言葉が出なかった。母御前は息子の分も、幾度も涙を流しながら、叔父に感謝の礼を執った。

母御前の噎(むせ)びが落ち着くのを待って、良文は再び母御前に話し掛けた。
「今一つ報せが有る。現在、関東に征東大将軍が下向されて居る。何と、藤原忠文卿じゃ。」
良文が少々笑みを見せたのに対し、母御前は驚きの余り、表情を失った。そして、か細い声で尋ねる。
「昨年、学問の修行の為に小次郎を都に送った際、引き受けて下された御方が今、関東におわされるのでござりまするか?」
「然様(さよう)。御次男小太郎殿も、京で無事に過ごして居るか、後日聞いて見る所存じゃ。」
良文が話し終えると、今度は小太郎が、母より先に頭を下げた。
「大叔父上、弟の事、何卒(なにとぞ)宜しゅう御願い申し上げまする。」
その顔は、幾分平静さを取り戻していた。悲痛な母の姿を見て、気を強く持ち直したのであろう。良文は小太郎に笑みを向けて答える。
「承知した。儂が京から戻って来るまで、母者の事を頼んだぞ。」
小太郎は真顔で、「はい」と返事をした。

良文は立ち上がり、母御前に告げる。
「今後は儂が付いて居る故、余り悩み過ぎる事の無き様。後、雨季が明ければ暑う成る。御身体には注意されよ。では暫(しば)しの別れじゃ。」
そう言って良文は、倉を後にした。母御前と小太郎は、その背中に頭を下げた。娘達も、母や兄に倣(なら)って礼を執った。忠頼等三人も、続いて倉を出た。最後の忠重が明かりを消し、戸を閉めると、倉の中は再び、夕闇の如く暗く成った。しかし母御前の胸中には、真昼の陽光の様な輝きを得て居た。

 忠重は父達が館に戻るのを、玄関まで見送りに出た。良文が揃えて在る草履(ぞうり)を履(は)いて居る最中、忠頼が怪訝(けげん)そうに尋ねた。
「父上、相手に礼を執らせたまま席を立つは、如何(いかが)かと存じまするが。」
良文は草履を履き終えると、振り向いて忠頼を見詰め、答えた。
「良子殿は心が疲弊し切って居る。用件を話し終えた以上、儂に気を遣い過ぎる姿は、見るに堪えられなんだ。されども、遖(あっぱれ)な対応振りであった。忠重、今後も抜かり無き様、御世話を致せ。」
玄関に控えている忠重は、「はい」と答えて、父に笑顔を見せた。

 良文等三人が外へ出ると、児玉と那珂が庭仕事を続けて居た。二人は直ぐに三人の姿を捉え、良文の元へ駆け寄った。そして馬を用意し、児玉頼経だけが三人の護衛をして、四人で館へと戻って行った。

 陽は大分西へ傾いていたが、未だ暗く成って来たという程ではなかった。良文は、思った程時が経って居らぬなと感じた。

 帰途、村岡重武が良文に尋ねた。
「相馬小次郎とは、将門殿の御次男にござりまするか?」
「うむ。儂も数度しか会った事は無いが、四郎将平殿に似て、学問が好きな様じゃ。故に将門殿は、京へ修行に出るのを許したのであろう。」
平将平は将門の弟で、幼い頃より菅原道真の子、景行に師事して教えを受けた。小次郎も又、将来兄の小太郎を支えるべく、学問に励んで居たのである。しかし此度の大乱で、小次郎は朝敵の子とされてしまった。当然、小次郎も罪に問われる事は充分に考えられる。しかし、その師である藤原忠文が征東大将軍を拝命した事で、もしかすれば小次郎を救う手立てが有るのではないかと、良文は考え続けて居た。

 俄(にわか)に雷雲が遠くからやって来る様な空模様であった。良文は雨が降る前に館へ到着するべく、駒を走らせた。他の三人も、それに合わせて速度を上げる。四騎の姿はやがて、遠くの丘に消えて行った。そして迫って来るのは、雨季到来の咆哮(ほうこう)であった。

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