第一節 相馬の落人(おちうど)

 暗夜は次第に藍色へと近付きつつあった。道端を覆(おお)う雪の色は月の光の支配を解かれ、東方の木々の隙間から溢(こぼ)れ始めた陽光を撥(は)ね返し、その輝きを増していた。道の両脇の、木の根元は既(すで)に雪が溶け、蕗(ふき)の薹(とう)の蕾(つぼみ)が春の訪れを待ち侘びている。季節は如月(きさらぎ)の半(なか)ばから下旬に向かう頃であった。周りの植物の様子を見ると、如月の意が草木の更生を意味する「生更ぎ」である事が頷(うなず)ける。

 その道を、十人程の一行が足早に進んで行く。しかし、幼子を伴って居る為、その速度は幾分遅々として感じられる。先頭を行くのは、甲冑(かっちゅう)を身に纏(まと)い、身分の有る武者の姿であった。続いて、よく見れば止事(やんごと)無き様相の女性が十歳前後の少年に支えられ、歩いて居る。この少年は未だ元服を済ませて居らず、帯刀はしているが、甲冑に身を包んでは居ない。続いて腰元が二人、片方は七歳前後の少女を背負い、他方は三歳程の幼女を胸に抱いている。そして最後尾には、護衛の武士が二名従って居た。誰も口を利(き)く者は居ない。少女二人は眠りに着いて居る。普段、長距離を歩く事が無い女性達には、疲労の様子が色濃く窺(うかが)えた。音と言えば、八名の履(は)き物が地面を蹴る音だけであったが、それが辺りの静寂さを、より一層深めて居た。

 時に天慶(てんぎょう)三年(940)、所は武蔵国(むさしのくに)足立郡であった。先年の師走(しわす)、ここ関東平野では平将門が坂東一円を制圧し、新皇を名告り、独立国家を築いていた。しかし、将門と長年に渡り対立を続けて来た平貞盛は、下野国押領使(おうりょうし)である藤原秀郷と連合し、この月の初めに下野国(しもつけのくに)において、将門と合戦に及んだ。将門の軍は田畑の準備に追われ始めた農民の為に、殆(ほとん)どの農民の兵役を解いていた。それ故に兵は一千騎程しか整えられず、四、五千の軍勢を迎え討つ仕儀と成った。

 敵方は藤原秀郷、平貞盛の軍に、さらに常陸の藤原為憲の手勢が加わった。将門は自軍を二手に分け、後軍を指揮する副将には、藤原玄茂(くろしげ)を任じた。

 そもそも、将門が関東一円において朝廷に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)す発端(ほったん)と成った事件は、昨年常陸国で起きた。天慶の乱の前、常陸介には藤原維幾(これちか)が任官し、所領に重い年貢を掛け、豪族領民から搾取(さくしゅ)を続けて居た。やがて豪族の一人、藤原玄明(くろあき)が年貢の取立てに逆らい、常陸国府所有の米を奪って逃亡し、仁政で聞こえる相馬の将門を頼った。又、玄明は常陸介藤原維幾の子為憲(ためのり)が、将門と対立を続ける平貞盛と共に、将門打倒の兵を集めている事を告げた。間も無く、常陸介より将門の許(もと)へ、一通の書状が届いた。内容は、藤原玄明引渡しの要求と、さもなくば一戦も辞さずという、脅迫の意が込められていた。これに対し、将門は玄明の赦免を頼む書状を返した。しかし、藤原維幾、平貞盛は将門に対し兵を挙げた。将門も直(ただ)ちに兵を整え、これを迎撃し、常陸へ押し戻した。将門は尚(なお)も追撃の手を緩(ゆる)めず、遂(つい)には常陸国府に至った。ここにおいて、平貞盛は捕り逃がしたが、藤原維幾を捕縛した。しかし、将門の軍は国府を攻め落した形と成り、最早(もはや)朝廷の許しは得られないと覚悟した将門は、関八州の制圧に乗り出した。そして、貴族の腐敗した政(まつりごと)から解放された、新たな独立国家を築く事を決意する。

 天慶二年(939)師走、上野国大宝八幡において、将門は戦勝を祝う宴(うたげ)を催し、諸将の労を犒(ねぎら)った。その席で将門は新皇を名乗り、平安京の朝廷からの独立を宣言した。そして、朝廷に倣(なら)い文武百官を設(もう)け、新国家の建設に着手し始めた。

 翌天慶三年(940)睦月(一月)、常陸国那珂郡に平貞盛が潜伏しているとの報を受けた将門は、五千の兵を率いて捜索したが、見付け出す事は出来なかった。その頃、当の貞盛は下野国押領使、藤原秀郷の館を訪れて居た。秀郷は若い日の名を俵藤太(たわらのとうた)といい、山の様に大きな蜈蚣(むかで)を退治したという伝説が残る勇者である。当時、朝廷では征東大将軍の派遣が決議され、関東で将門に与(くみ)する豪族の心は揺れていた。秀郷は三千五百騎の軍勢を集め、貞盛と共に将門追討の兵を挙げた。

 斯(か)くして将門は、貞盛、秀郷連合軍と野州において会戦に及んだ。緒戦、将門軍後陣の藤原玄茂が敵の誘引の計に掛かり、谷間で包囲されて潰滅の危機に陥(おちい)った。しかし、これに気付いた将門本隊が駆け付け、玄茂勢を救出した。将門は傷付いた部隊を纏(まと)めて石井(いわい)の館に退(しりぞ)いたが、帰って来られた者は四百名に過ぎなかった。新たに兵を募(つの)ったが、豪族達は朝廷を怖れ、百騎しか集まらない。四、五千の敵を前に五百騎では、苦戦を強(し)いられる事は明白であった。やむなく将門は、女子供と老人を鵠戸沼(うぐいどのぬま)から舟で避難させ、二月十四日、北山に出陣して秀郷、貞盛の軍を迎え討った。

 以上に述べた様に、関八州は戦乱の只中に在った。その最中(さなか)に、幼女をも連れた一行が、夜を徹して歩いていた。夜が明けて間も無く、一行は道を外し、武者の一人が見付けて来た、林の中の、小さな古びた御堂の中に入って行った。

 御堂の壁は彼方此方(あちこち)(く)ちたり剥(は)がれたりしている。扉を閉めても、朝陽が所々を照らしている為、余り暗闇に置かれた感じはしなかった。身分の有る様に窺(うかが)える御前は、一番奥の中央に座り、又その侍女と思(おぼ)しき二人の女性は各々幼子を連れ、御前の左手に並んで座り、右手には少年が座った。武装した兵士三名は、入り口近くに腰を下ろした。皆、歩き続けて疲れが出ている様である。

 特に年長の少女の表情には、疲労の他に不安に因(よ)る翳(かげ)りが見て取れた。少女を抱いて居る侍女はそれに感付き、幾分荒かった呼吸を抑え、落ち着いた口調で話した。
「姫様には、初めての遠出でございますね。お疲れになられた事でしょう。」
少女は、侍女の袖(そで)を力を込めて掴(つか)み、不安気な眼指(まなざし)を向けて答えた。
「私達は、これから何処(いずこ)へ向かうのですか?父上は、御無事なの?」
侍女は微笑(ほほえ)んでこれに答えた。
「三年程前、良兼(よしかね)大伯父様の軍勢に豊田(とよだ)の館を落された事がござりましたが、新皇様は再び館を取り戻されました。此度(こたび)も、一時の凌(しの)ぎにござりまする。」
これに、少年が相槌(あいづち)を打つ。
「五月(さつき)、心配には及ばぬ。此度の相手は貞盛殿ではないか。父上の敵ではない。」

 平貞盛は平将門の従兄(いとこ)に当たる。両者の抗争は承平(じょうへい)六年(936)に始まった。その年、僅(わず)か百騎の将門軍は、数千の兵を擁する伯父平良兼、叔父平良正、平貞盛連合軍を下野において破り、又承平八年(938)には、将門を讒訴(ざんそ)するべく上洛の途次に在った貞盛勢を、信濃国(しなののくに)千曲河原で破っている。

 妹を元気付け様と、明るく励ます少年に対し、母御前の胸裏には一抹の不安が有った。此度は今までの身内同士の争いとは異なり、朝敵とされており、更に敵軍には、野州の豪傑藤原秀郷が加わっている。又、関東には征東大将軍下向の噂(うわさ)が流れ、先の下野(しもつけ)における敗戦後、将門の徴募に応じた武者は僅(わず)かであり、その事が最も大きな懸念であった。

 母御前は左隣の侍女に、ふと尋ねた。
「今日は幾日でありましたか?」
「然様(さよう)でござりまするね。鵠戸沼を出たのが十四日の早朝でござりました。江戸川を下って武蔵に入り、荒川、隅田川を渡り一泊。敵軍が近くまで来て居るのを知り、身を潜(ひそ)めながらこの御堂に辿(たど)り着いたのが今朝でござりました。もう一六日に成りまする。」
「あれから二日経ちましたか。この辺りにまで敵の手が及んで居るとすれば、新皇様とは容易(たやす)くは合流出来ますまい。されば、相模守殿の許へ参ろうと思うが。」
「それが最も安全でござりましょう。今宵(こよい)も長い道程(みちのり)を歩かねば成りませぬ。皆様方には、良くお休みになられまする様。」
「解りました。」
娘達は既にうとうとしていたが、直ぐに深い眠りに入ってしまった。少年も間も無く眠りに着いた。御堂の入口近辺では、三人の郎党が交代で見張りに就き、侍女は食糧の調達と情報の収集に出て行った。母御前は、今までに無い緊張や家臣への気遣いと、全身に満ちた極度の疲労の狭間で、浅い眠りに就(つ)いた。

 陽が多摩丘陵に没する頃、一行は再び歩き始めた。母御前が頼ろうとする相模守将文は、将門の実弟である。娘達が、昨日の疲れから来る足の痛みを、時折母に訴えて居たが、兄がそれを窘(たしな)め、渋々歩いて居た。

 関東平野は八州に跨(また)がる広大な平地である。その広さに、平安京から下向した幾多の国司は驚かされたと伝えられる。その為、身を隠せる所が木の陰や草叢(くさむら)しか無く、昨日敵兵の姿を発見した一行に取っては、殊(こと)に難儀な地形であった。

 人目に付かない道を選び、一行は多麻郡を南西方向に進んでいた。後(あと)二里程で多摩川の渡しに出る所で、郎党の一人が、武蔵府中の直ぐ近くに来ている事に気が付いた。国府に辿(たど)り着けば一先(ひとま)ず安心であると思い、郎党の道案内で国府に向かった。

 国府まで後半里に迫(せま)った時、郎党は念の為、先に様子を見に行った。一行は林の中に腰を下ろし、戻って来るのを待った。

 しかし、様子を見に行った郎党は、半時経っても戻って来ない。一行の間に疑念が広がって行ったが、間も無く郎党は戻って来た。郎党は息を切らしながら、慌てた様子で母御前に報告する。
「申し上げまする。武蔵国府、現在敵軍と対峙しており、南側、多摩川の川原にも小部隊が駐屯しておりまする。最早、武蔵国府に入るのも、相模へ向かう事も難しく成り申した。」
母御前は驚愕した。
「何と、ここにまで敵が。よもや新皇様は、既(すで)に敵の手に。」
動揺する母御前に対し、少年が語り掛けた。
「母上、未だ父上が敗けたと決まった訳ではござりませぬ。相模へ進めぬのであれば、村岡郷の大叔父を頼っては如何(いかが)にござりましょう。」
「叔父上に?」
母御前の動揺は収まったが、暫(しば)しの間、考え込んでしまった。

 村岡五郎こと平良文は将門の叔父に当たり、垣武平氏一族の長老格である。他の叔父とは異なり、若年であった将門の所領を狙わず、寧(むし)ろ将門には同情的であった。この度の戦乱の折には、鎮守将軍を拝命し、奥羽で起きた反乱の鎮圧に向かっていた。平良文自身は奥州に居る為不在だが、長女が良文の子、平忠頼の許に嫁いで居たので、村岡郷に居る筈(はず)である。

 母御前は今までの村岡家との付合いから、貞盛方へ引き渡される可能性は低く、他の道と比べれば最も安全であると判断し、皆に告げた。
「今、小太郎が言った様に、妾(わらわ)も村岡家を頼るのが最善と思いまする。皆に異存は有りましょうや。」
暫しの沈黙が続いたが、やがて郎党の一人が尋ねた。
「良文公を頼られるとの御言葉にござりまするが、相模国への道を断たれた今、鎌倉郡へ向かうは、些(いささ)か無理が有ると思われまするが。」
「はい、確かに良文殿の館へは辿り着けますまい。されども、嫡子忠頼殿はここ武蔵国の北、大里郡に所領を持って居りまする。」
郎党は膝(ひざ)をパチリと叩(たた)き、笑顔を浮かべて返した。
「成程(なるほど)、大里郡であれば、相馬家の所領から遠ざかる分、敵も手薄となって居りましょうな。」
「では参りましょう。やがて新皇様が勢力を盛り返すまでの辛抱です。」
一行は黙ったまま立ち上がると、浅間山を掠(かす)めて北上し、夜陰に乗じて府中を脱出した。途中、末の娘が疲れを訴え、何処(いずこ)へ行くのかと憤(むずか)ったが、母御前が武蔵の義兄の許へ行くと諭(さと)した。郎党の一人が背負って上げると、憤りも収まり、無事、入間郡に入る事が出来た。やがて東の空が藍色に成り始めたので、一行は再び、人目に付かずに休める所を求めた。しかし、中々良い所は見付からず、竹林の中深く分け入り、笹の落葉の上で寝た。幸い落葉は良く乾き、風も殆ど吹かなかった。そして母御前は、末娘を確(しか)と抱き締め、体が冷えない様にしてやった。天を見上げると、竹で空が粗(ほぼ)覆われ、陽が昇った後も、異様に暗く感じられた。しかし春が近付いて居るせいか、昨日より幾分空気が暖かく感じられた事が幸いであった。

 母御前は名を良子(りょうし)といい、平良兼の娘である。将門や貞盛とは従兄妹(いとこ)に当たる。良兼はかつて定貞盛に与(くみ)し、将門の敵に回った。二年半前、良兼は弟の良正や甥(おい)の貞盛と連合し、常陸から将門の所領に攻め入って、子飼(こがい)の渡(わたし)にて対峙した。そして将門は敗れ、豊田館へ退却する。良兼軍が更(さら)に領内を荒らし始めた為、将門は堀越の渡へ出陣した。良兼軍と合戦に及んでから間も無く、将門は脚気(かっけ)を発症して指揮が執れなく成り、館を捨てて葦津江に潜伏した。やがて将門は妻子を広河江に避難させたが、良兼の手の者に見付かり、上総の実家、良兼の館へと連れ戻された。この時は敵将が実父であった為、子の命は助けられた。後に実弟の公連(きんつら)、公雅(きんまさ)が将門の許へ戻れる様に手を打ってくれた御蔭で、妻子は上総を脱出する事が出来た。間も無く将門も戦(いくさ)に勝利し、所領を回復した。母御前に取ってこの様な逃避行は、二度目の事であった。

 夕方に成り、一行は再び出発した。食糧は底を尽き、疲労も限界に近付いていた。村岡家が匿(かくま)ってくれなかった場合、最早何処(どこ)にも逃れる事は出来ない。母御前は覚悟を固めるべく努めた。

 一行は比企郡を無事抜け、遂(つい)に大里郡の村岡領内に入った。ここまで来れば、貞盛方の軍勢も現れない。問題は、村岡家が迎えてくれるか否(いな)かである。

 やがて一行は、村岡家の館まで後半里の処へ達した。郎党は一足先に行き、受け入れて貰(もら)えるか尋ねに行くと申し出たが、母御前はそれを制止した。
「此度は我等の命運に関る大事。村岡家からの信義に、僅(わず)かでも瑕疵(かし)が付いては成りませぬ。妾(わらわ)が直(じか)に御頼み致しましょう。」
そう言って、先頭を歩き始めた。

 遠くに館の灯が見え始めた。皆の緊張は一気に高まった。しかし、丑(うし)の刻にしては、少々松明(たいまつ)が多い様に感じられる。更(さら)に進むと、正門が開いて居り、十名程が立って居るのが確認された。よく見れば、中央に立って居るのは女婿の平忠頼であった。見た目はあどけない少年である。未だ十を過ぎたばかりであるが、良文が四十四で授かった男子であった為、早くも元服を済ませ、厳しく仕付けられていた。

 一行は静かに正門に達し、母御前を先頭に忠頼の前で止まった。母御前がゆっくりと頭を下げたのを見て、咄嗟(とっさ)に忠頼の口が開く。
「御待ち致して居りました、義母(はは)上。夕餉(ゆうげ)と寝所を用意して有りまする。中へ御入り下さりませ。」
鄭重なる出迎えに母御前は驚いたが、忠頼が笑顔を向けて居るのを見て、幾分か安堵を覚えた。

 一行は忠頼に導かれて館の中へ入った。そして、母御前と三人の子だけが奥の間へと通された。広く綺麗な客間へ案内されると、そこには布団(ふとん)と着替えが用意されてある。
「風呂も用意出来て居りまする。今宵と明日は緩(ゆる)りと御休み下さりませ。」
忠頼はそう言って、部屋を出て行った。とにかくその晩母子は、石井館を出て以来の、温かい布団で休む事が出来た。村岡家は本当に自分達を救ってくれるのか。幾度も胸に不安が過(よぎ)ったが、やがて母子は眠りの中へと落ちて行った。

 翌日、午前の間はゆっくり休む事が出来た。夕方、酉(とり)の刻に成ると、忠頼の部屋に来る様に言われ、母御前は子等(ら)を伴い、忠頼の部屋へ向かった。家人(けにん)に導かれて部屋へ通されると、忠頼に加え、母子の分の夕餉(ゆうげ)の仕度(したく)が成されていた。上座の忠頼が笑顔で呼ぶ。
「どうぞ、御入り下され。さあ、御子達も。」
母御前は部屋の入口で座礼を執り、目を伏せたまま話した。
「昨夜は鄭重な御持て成し、真に有難く存じまする。」
長子の小太郎も母を見倣い、座礼を執った。忠頼はそれを見て返す。
「いや、義母上方が頼られて来られた場合、確(しか)と保護する様に仰せ付けられたのは、父でござる。」
「叔父上が、それでは。」
御前の表情が、つと明るく成った。平良文が護(まも)ってくれるのであれば、これ程心強い事は無い。忠頼は更(さら)に言葉を続けた。
「昨夜、当地に来られた時の、義母上の覚悟は立派でござった。失礼ながら昨夜、義母上一行を郡境において発見致した物見から、義母上の言行の報告がござり申した。我等も義母上の信に応(こた)えるべく、些細(ささい)な持て成しをさせて戴(いただ)いた次第でござる。」
「然様(さよう)でござりましたか。それで私共が参った事を、御存知であられたのですね。」
「さあ、御座り下され。直(じき)に妻も参りまする。」
母子四人は膳の前に座り、忠頼と夕餉(ゆうげ)を取り始めた。

 間も無く、部屋に新しい碗が運ばれて来た。入口で女性が座礼を執り、口を開いた。
「山里故、大した持て成しも出来ませぬが、どうぞ御召し上がり下さりませ。」
その声を聞いた母子は、一斉に女性を見た。先程まで調理をしていたので、侍女の様な恰好(かっこう)に見えたが、紛(まぎ)れも無く、山岡平家に嫁いで居た長女であった。長女は顔を上げて申し上げる。
「よくぞ御無事で。」
その頬(ほお)には、涙が伝っていた。三女の春姫は未だ幼く、誰だか解らない様子であったが、次女の五月姫は姉の懐かしい顔を見て、駆け寄って抱き合い、再会を喜んだ。

 皆、暫(しば)しの間は言葉も出なかったが、忠頼が膳の位置を姉妹が並べる様に手配してくれたので、長女と次女は涙を拭(ぬぐ)って席に着いた。母御前も久しく会う事の無かった娘の姿を見て、目が幾分潤(うる)んでいる様である。

 夕餉を囲む雰囲気は、普段に無く明るい物と成った。小太郎は妹の前では気丈に振舞って居たが、姉と話す時は些(いささ)か、子供に戻った風(ふう)であった。

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