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序
遥かな昔、日本列島に弥生(やよい)時代が訪れると、各地に村社会が出現した。村長(むらおさ)という責任者が置かれ、掟(おきて)という規則が定められると、次第(しだい)に人間社会の規模は拡大して、階層ができ上がり、複雑化し始めた。
やがて村は、肥沃(ひよく)な土地と奴隷(どれい)を求めて戦争を起し、勝ち残って巨大化した村は国となった。村長連合をまとめる者として王が誕生し、中には朝鮮半島の三韓や大陸の漢王朝に使節を遣(つか)わし、勢力を伸ばす者も現れ始めた。
古代の文書に倭(わ)と記された日本の小国集合体は、やがて畿内に大国が興り、大王(おおきみ)が君臨するに至る。その組織は大和朝廷と称され、九州の隼人(はやと)、東国の蝦夷(えみし)を、徐々に支配下へと組み込み、日本に統一王朝を築いて行った。
しかしその王朝内部では、富(とみ)の他に権力という物を巡って、王族や有力豪族が陰謀を用いるようになった。内部抗争を起しながらも、突出した軍事力を擁する大和朝廷は拡大を続け、ついには九州、関東全土を服属させるに至った。
広大な土地を治めるべく朝廷は国、郡、郷という行政区域を設け、また全国を統(す)べる中央組織にも、様々な官職を置く必要が生じてきた。持統朝の三年(689)、唐令を模した「浄御原令」(きよみはらりょう)が施行され、日本にも古来に誕生した掟や習慣とは異なる、全国規模の成文法が作成されるに至った。やがて、文武朝の大宝元年(701)に補完がなされて「大宝律令」(たいほうりつりょう)が成立し、元正朝の養老二年(718)には改定が行われ、「養老律令」(ようろうりつりょう)となった。それから百年以上の時を経て、「令義解」(りょうのぎげ)という律令解釈を統一する注釈書が、勅命により作成された。
法治国家として体制の成熟を推し進める中で、民人(たみびと)は法の下で与えられた公地を耕し、規定の税を納める義務が課せられた。いわゆる「班田収授法」(はんでんしゅうじゅのほう)である。
しかし法を定めども、それを巧みに利用して権勢を伸ばしたり、権力で法を踏みにじり、私腹を肥やす貴族が次第に増え始めた。違法な徴税は、民を塗炭(とたん)の苦しみへと追いやる。民の中には、公地を捨てて浮(う)かれ人(びと)となる者、己(おのれ)が耕す公地を有力貴族に寄進し、国守のあくどい徴税より逃れる者が現れ始めた。後者の寄進地を荘園(しょうえん)という。
法が廃(すた)れた地方において、民人は自力で己の生活を守らねばならなくなった。兵を率いて、強引に略奪を行う国守に対しては、民人は豪族の下に団結し、武力を以(もっ)て追い返す組織を築いていった。武士の興(おこ)りである。
武士の目的は、己(おの)が所領を守り抜く事である。次第に、土地所有権の問題からも、戦争が起るようになった。そして天慶二年(939)、天下を驚愕(きょうがく)させる大事件が、東国において勃発した。
桓武天皇の末裔である平将門が兵を挙げ、関東八州の国府を悉(ことごと)く制圧した。長年悪徳国司の下で苦しんで来た小豪族や民はこれを歓迎し、八千騎が将門の軍に馳(は)せ参じた。将門は律令体制の昔に世を直すべく、自身を新皇(しんのう)と称し、一族や重臣を公卿(くぎょう)や国司に任命した。
関東には中央の平安京とは別の、独立した朝廷が誕生し、中央の支配から外れる事態へと発展するに至った。平安京において律令を頽廃(たいはい)させ、自己の栄華のみを追い求めて来た貴族達は、地方武士が予想以上に力を付けていた事を悟る。そして慄然(りつぜん)と背筋が寒くなるのを覚えつつも、事の対処に知恵を巡らすのであった。
常磐地方、かつて海道と呼ばれた地に伝わる伝説は、このような戦乱の時代から始まる。
→第一節