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克復十六丙午年
西暦2026年

序文

 平成23年2月10日に福島県で震度4の地震が有り、3月11日も、初めの1分弱は普通の地震でした。 築年数が古い木造家屋にいたので、念のために屋外に出た所、突然揺れが激しくなりました。 今まで経験した震度は5弱まで。 宮城県と岩手県の県境に在る栗駒山が崩れた、平成20年の大地震以来でした。 やがて本震がやって来ると、土の下から轟音が響き、池の水は波打ち、 自宅は模型のように揺れ、ロックをかけていた窓が振動によって全て開きました。 幸い家屋は倒壊せずに、本震が収まりました。 しかし、向かいの崖は崩れ落ちていました。 自分は事無きを得たので、近所の無事を確認した後、 もしかしたら大変な事が起きているかもと思い、情報収集をしようにも、 大きな余震がすぐに起り、なかなか家に入れませんでした。 勇気を出して、余震の合間を縫って2階に上がり、ラジオを持って急いで庭へ降りると、 大津波警報が発令されていました。 今まで津波は数メートルしか観測されたのを知らないので、 程なく沿岸部を数十メートルの大津波が襲っていたとは、テレビを見るまで知りませんでした。 幸い、自宅は内陸部の高台に在りました。 大津波警報が発令したまま、緊急地震速報も頻繁に出される中、 次に困ったのは、市内9割の水道管破損による断水でした。

 水道水が手に入る見通しが無く、近くのスーパー「マルト」で、 一人数量限定で普段より安く飲料水を販売していたので、ありがたく購入しました。 この12日、余震と断水に加え、食料、ガソリン、灯油、現金の入手が困難になり、 川の水が凍っているのに、ストーブの油を夜の氷点下に備えて、温存していました。 幸い、電気は通っていたので、テレビでニュースを見ていたら、大津波が空撮で報じられていました。 そこへ、福島第一原子力発電所で、12年前に東海村で発生した臨界事故を防ぐため、 水蒸気を外部へ放出するというニュースが入って来ました。 放射性物質を外部に漏らす事件は、度々県内ニュースで報じられ、その都度、 人体に影響は無い微量の物と報じられてきたので、その時の危機感は、 むしろ余震に対する方が大きかったです。 東京電力が冷却用の発電能力を失ったとは言っても、 すぐ側には同じ周波数の東北電力の送電線が走っているので、大丈夫だろうと思っていました。 ところが、1号機で水素爆発が発生し、県内には外出を控える通達が出されました。 いわき市は原発の南南西に位置するも、幸い、天気予報で風向きは西風、 つまり放射能は太平洋へ拡散するとの事でした。

 寒さは厚着でしのぎ、食料は「ヨークベニマル」で購入したバナナとセンベイをかじるも、 水の確保だけは必要であり、購入困難なガソリンを使って、 最も近い7km先の給水所まで、開いているスーパーを探しつつ、出かけました。 テレビでは 「無用な外出を控える」、 「帰ったら衣服をビニールに密封する」、 「シャワーを浴びる」 事を勧めていましたが、そんな事ができたら羨ましいと思う一方、 首都圏近辺は無事みたいだと感じました。

 いよいよ危機感が出て来たのは、3号機の水素爆破と共に、 小名浜港に停泊していた米国艦船が避難したと、噂が流れ始めた時でした。 持病の薬は、本震直後に1週間分だけ処方してもらう事ができた物の、 その後病院や薬局も休業したまま、薬も底をつき始めました。 そしてついに16日、自宅周辺の消防団が出動し、原発の風下になったので屋内退避を呼び掛け、 サイレンが鳴り響きました。 消防団の呼び掛けが聞こえなくなってから程なく、12時30分頃、 北北東から黒い雲がやってきて、風雪らしき物を降らせました。 その日は雪にしては比較的気温が高かったので、不思議な粒状の雪が吹雪き、 庭に霰(あられ)の様な形で落ちました。 この頃になってやっと、携帯電話のメールがどっさりと届きました。 とりあえず、両親に無事でいる事を伝えられました。

 震災直後、福島県内では鉄道が全線停止したままで、 公共バスが一部運行しているのみでした。 原発事故から県外避難を希望する人が相次ぐも、 唯一の公共交通機関である福島空港は、ロビー内寝泊まりでの順番待ちでした。 その時、親戚が常磐高速道路が通行可能である事を知らせてくれて、 また、両親の所に避難するので同乗させてもらい、17日に福島県を離れました。

 守谷サービスエリアでガソリンを入れて休憩すると、レストランが営業していました。 定食を食べられる幸せと、いくらでも水を飲める感動に浸りつつ、文化的な生活を喜びました。 外環から埼玉県で降りると、コンビニが営業している上に、棚に物が並んでいるのに驚きました。 衣類はリュックで持ち出した物のみでしたが、食料を普通に買えるという事は、当時はとても新鮮でした。

 もう一つ、原発から40kmと200kmでは、ニュースを見る緊張感が違いました。 また、福島を離れてみると、首都圏との温度差を感じました。 まず、福島原発は一度もトラブルを起こした事が無いと思われていた事。 福島県民であれば、平成14年の県による全機停止命令は有名です。 もう一つ、福島県民は全世帯が東京電力の恩恵を受けているので、 東京電力に文句が言えないという情報が流れていた事です。 少なくとも、我が家には何の恩恵も有りません。電気料金支払先は東北電力です。

 未曾有の天災が未曾有の人災を引き起し、福島県双葉郡の大半が依然、 一般人の立ち入りが制限されています。 原発が在る町は、いずれも安定して高収益を上げる産業が、少なかったのかも知れません。 江戸時代には北の相馬中村藩、南の磐城平藩の境に位置し、 大都市を形成する基盤が比較的乏しかったのは確かでしょう。 しかし、江戸以前に遡れば、双葉郡にも有意な歴史的伝承は、古文書の中に残されていたのです。 私は一県民として以前、双葉郡の歴史探訪をしていました。 昭和33年に「双葉郡の郷土史」という本が刊行されましたが、 その内容はほぼ大熊町以北の標葉(しめは)郡史に等しく、 富岡町以南の楢葉(ならは)郡史の部分が割愛されていました。 双方の歴史資料や伝承を集めた「双葉郡史」が有れば、 双葉郡は危険な産業に手を出す事無く、会津地方の様な歴史観光地区になれたかもと悔やまれます。

 双葉郡は今後、原子力産業に頼る事は、恐らく無いでしょう。 しかし町民が生活するには、他の産業が必要です。 元来、山海の幸に富む豊かな農水産業の土地でしたが、 惜しむらくは各産業が、より連携できていればと思います。 歴史観光地区であれば、観光業と地元特産品と組み合わせて、新たな産業を生み出せたかも知れません。

 日本の歴史地区と言えば、城下町か戦国時代の英雄を輩出した町、宿場町もしくは古都あたりでしょう。 確かに、双葉郡はどれにも該当しないと思います。 しかし、歴史を中世初期まで紐解き、福島県内広域と連携する事で、 壮大な物語の舞台となり得ると思います。 その一端として、私が避難の時に持ち出した、震災以前の県内を散策して書き上げた物語を紹介致します。 古文書では昔から津波の警戒を呼びかけていたにもかかわらず、 再び大惨禍を招いてしまった事は残念に思われます。 しかしこれから、何かしらの新しい着想を差し上げる事ができれば幸いです。

 ホームページのサブ・タイトルは「克復福島」ですが、「克」は勝ち取る事、そして「復」は取り戻す事です。 福島県全土を「克復」する事は、とても困難な事だと思います。 福島県の「克復」には、多くの方々の長年の努力が求められるでしょう。 そして世代を超えて、努力を続けねばならないと思います。 このホームページは、その一助となる事を目的としています。

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